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あきらけんじあきら皇后こうごう

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りゅう皇后こうごう
きたそう皇后こうごう
そう真宗しんしゅうきさき坐像ざぞう
在位ざいい 大中おおなかさち5ねん12月24にち - いぬいきょう元年がんねん2がつ19にち
1013ねん2がつ7にち - 1022ねん3月23にち

別称べっしょう あきらけんじあきら皇后こうごう
出生しゅっしょう ひらきたから元年がんねん1がつ8にち
968ねん2がつ9にち
えきしゅう華陽かようけん
死去しきょ 明道みょうどう2ねん3月29にち
1033ねん4がつ30にち
開封かいふう文徳ふみのり殿どの
埋葬まいそう えいじょうりょう
配偶はいぐうしゃ 龔美(りゅうよし
  真宗しんしゅう
父親ちちおや りゅうとおる
母親ははおや じょこく太夫たゆうじん龐氏
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あきらけんじあきら皇后こうごう(しょうけんめいしゅくこうごう)は、きたそうだい3だい皇帝こうてい真宗しんしゅう2人ふたり皇后こうごうじんむね嫡母ちゃくぼせいりゅういみなしょう[1]りゅうふとしきさきともしょうされる。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

えきしゅう華陽かようけんひと出身しゅっしん身分みぶんちにかんする記録きろくのこっていない。しょく職人しょくにんの龔美と結婚けっこんし、一緒いっしょ京師けいしはいった。容姿ようしうつくしく、聡明そうめいさをそなえていた。じょうおうちょうもとただし真宗しんしゅう)がりゅう一目惚ひとめぼれし、ひそかに側室そくしつとしてむかえたが、ちょうもとただし乳母うば[2]密告みっこくしてちちみかどいかりをい、りゅうされた。

真宗しんしゅう即位そくいするとふたたむかえられ、美人びじんとなった。龔美はりゅうよし改姓かいせいされ、死去しきょした指揮しき使りゅうどおりりゅうあに自称じしょうした。侍女じじょ宸妃)がちょうただしじんむね)をむと、真宗しんしゅう許可きょかりゅうはこのうばって自分じぶんということにした。后妃こうひんだ5にん男子だんしはみな早世そうせいしていたため、この太子たいしんだ「功績こうせき」により、大中おおなかさち5ねん12月(西暦せいれき1013ねん)に皇后こうごうてられた[3]

いぬいきょう元年がんねん1022ねん)に真宗しんしゅうくずれじると、ようみかどであったひとしむねようして政治せいじ掌握しょうあくした。たれすだれ聴政たれすだれせい)のもとで、ついには皇帝こうていふく着用ちゃくようしてふとしびょうおもむいた。てんきよし2ねん1024ねん)、「おうもとたかしとくじん寿ことぶき慈聖」の徽号がおくられた。

明道みょうどう2ねん1033ねん)にくずれじ、「そうけんじあきら粛」とおくりなされた。けいれき4ねん1044ねん)11月、おっとおくりなかさねて「あきらけんじあきら粛」とあらためおくりなされた。

逸話いつわ[編集へんしゅう]

  • てんひじり2ねん(1024ねん)に后妃こうひ選定せんてい面接めんせつおこなわれたときひとしむね候補こうほ一人ひとりおう美貌びぼう魅了みりょうされ、ふうじたいとのぞんだ。しかし、皇太后こうたいごうりゅうが「あのような妖艶ようえん美貌びぼうおっと誘惑ゆうわくして堕落だらくさせる」とって反対はんたいした。結局けっきょくおうりゅうよし結婚けっこんさせた。

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

テレビドラマ

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 一説いっせつ(が)とされるが、信頼しんらいできる史料しりょうじょうにはられない。
  2. ^ りゅう。のちのはた国延くにのぶ寿ひさしせい夫人ふじん
  3. ^ そうまき8, 真宗しんしゅうきの 大中おおなかさちねんじゅうがつちょうじょうによる。

伝記でんき資料しりょう[編集へんしゅう]