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章献明粛皇后(しょうけんめいしゅくこうごう)は、北宋の第3代皇帝真宗の2人目の皇后。仁宗の嫡母。姓は劉氏。諱は不詳[1]。劉太后とも称される。
益州華陽県の人。出身身分や生い立ちに関する記録は残っていない。蜀の職人の龔美と結婚し、一緒に京師に入った。容姿が美しく、聡明さを備えていた。襄王趙元侃(後の真宗)が劉氏に一目惚れし、密かに側室として迎えたが、趙元侃の乳母[2]が密告して父帝の怒りを買い、劉氏は追い出された。
真宗が即位すると再び迎えられ、美人となった。龔美は劉美と改姓され、死去した指揮使劉通の子、劉氏の兄を自称した。侍女の李氏(後の李宸妃)が趙禎(後の仁宗)を産むと、真宗の許可で劉氏はこの子を奪って自分の子ということにした。他の后妃が産んだ5人の男子はみな早世していたため、この太子を生んだ「功績」により、大中祥符5年12月(西暦で1013年)に皇后に立てられた[3]。
乾興元年(1022年)に真宗が崩じると、幼帝であった仁宗を擁して政治を掌握した。垂簾聴政(垂簾の政)の下で、ついには皇帝の服を着用して太廟へ赴いた。天聖2年(1024年)、「応元崇徳仁寿慈聖」の徽号が贈られた。
明道2年(1033年)に崩じ、「荘献明粛」と諡された。慶暦4年(1044年)11月、夫の諡を重ねて「章献明粛」と改諡された。
- 天聖2年(1024年)に后妃選定の面接が行われた時、仁宗は候補の一人、王氏の美貌に魅了され、妃に封じたいと望んだ。しかし、皇太后劉氏が「あのような妖艶な美貌は夫を誘惑して堕落させる」と言って反対した。結局、王氏は劉美の子と結婚させた。
登場作品[編集]
- テレビドラマ
- ^ 一説に娥(が)とされるが、信頼できる史料上には見られない。
- ^ 劉氏。のちの秦国延寿保聖夫人。
- ^ 『宋史』巻8, 真宗紀 大中祥符五年十二月丁亥条による。