(Translated by https://www.hiragana.jp/)
章獻明肅皇后 - 維基大典 とべいたり內容

あきらけんじあきら皇后こうごう

ぶん維基大典たいてん

りゅう皇后こうごうもの,其先ふとしはらこう徙益しゅうため華陽かようじんのべけいざいすすむかんあいだためみぎ驍衛大將軍だいしょうぐんちちどおりとらとし指揮しき使よしみしゅう刺史しししたがえせいふとはらみちそつきさきつうだい二女じじょ也。

はつはは龐夢がついれなつけやめ而有娠,とげなまきさききさきざい繈褓而孤,きく於外ぜん播鞀。しょくじん龔美しゃ,以鍛ぎんためぎょう,摧之いれ京師けいしきさきねんじゅうにゅうじょうていおう乳母うばはた國夫くにお人性じんせいいむせいよしためふとしむねげんれいおう斥去。おうとくやめおけ王宮おうきゅうゆび使ちょう耆家。ふとしそうくずし真宗しんしゅう即位そくいにゅうため美人びじん。以其宗族そうぞく,乃更以美ため兄弟きょうだい改姓かいせいりゅう大中おおなかさちちゅうためおさむ進德しんとく

あきらきよしくずし真宗しんしゅうほっりつため皇后こうごう大臣だいじん以為不可ふかみかどそつりつ宸妃せいじんむねきさき以為おのれあずか楊淑なでれい甚至。きさきせい警悟,あかつきしょ,聞朝廷事,のう其本まつ真宗しんしゅう退すさあさ,閱天ふうそういたりちゅうよるきさきみなあずか聞。みやかこえごとゆうとえ,輒傅引故實こじつ以對。

てんよんねんみかどひさしやましきょ宮中きゅうちゅうことけつ於后。宰相さいしょうじょう寇凖密議みつぎ奏請そうせい皇太子こうたいしかんこく,以謀泄罷しょうようちょういいだいこれすんで而,にゅう內都しゅうふところせいはかりごとはいきさきころせいいふくよう凖以輔太きゃくしょう使楊崇くん、內殿うけたまわせい楊懷きちまいいいつげいいよるじょう犢車,はさみたかしくんふところ吉造きちぞうくるる密使みっし利用りようはかりごと明日あした,誅懷せい,貶准衡州司馬しば。於是みことのり皇太子こうたいしひらきぜんどう,引大臣だいじんけつ天下でんかごときさきさいせい於內。

真宗しんしゅうくずれのこみことのりみこときさきため皇太后こうたいごう軍國ぐんこくじゅうことけん處分しょぶんいいとう請太きさき別殿べつでんふとしきさきちょうけいむねかみなりまこときょうさとし曰:「皇帝こうていごととう朝夕ちょうせきざいがわなに須別いち殿どの?」於是請帝與太よたきさきにちいちうけたまわあきら殿どの帝位ていいひだりふとしきさきみぎたれすだれけつごとやめじょうふとしきさきゆるがせ手書しゅしょだいよく禁中きんちゅう閱章そうぐう大事だいじそく召對輔臣。其謀於丁いいふとしきさき也。いいすんで貶,馮拯とうさん上奏じょうそう,請如はつみかどまた以為ごと,於是はじめどううけたまわあきら殿どの百官ひゃっかんひょうふとしきさきあい慟。有司ゆうし請制れいしょうわれ」,以生ためちょうやすしぶし出入でいり大安たいあん輦,むちさむらいまもる如乘輿こしれい天下てんか避太きさきちちいみな群臣ぐんしんじょう尊號そんごう曰「おうもとたかしとくじんことぶき慈聖ふとしきさき」,文德ふみのり殿どの受冊。

てんひじりねんただしだんふとしきさきかいけい殿どの群臣ぐんしんちぎり使者ししゃはん廷中,みかどさい拜跪はいき上壽じょうじゅとし郊祀まえ手書しゅしょさとし百官ひゃっかん,毋請尊號そんごうれいなりみかどりつ百官恭謝如元日。ななねん冬至とうじ天子てんしまたりつ百官ひゃっかん上壽じょうじゅ范仲淹ちからげん其非,聽。九月くがつみことのりちょうやすしぶし百官ひゃっかんたまものころもてん下賜かしえんみな如乾もとふし

明道みょうどう元年がんねん冬至とうじふく文德ふみのり殿どの有司ゆうしひね麾仗,しつらえみやとうまい明年みょうねんみかどおやこうせきふとしきさきまた謁太びょうじょうだま輅,ふく禕衣、きゅうりゅうはな釵冠,とき於廟。しつあきらふく袞衣,じゅうしょうげんそうつねけんかんむりただしてん前後ぜんごたれたまみどりじゅう旒。こもけんじななしつすめらぎたいけんじ皇后こうごうおわりけんじじょう尊號そんごう曰「おうてんひとしせいあらわこうたかしとく慈仁ことぶきふとしきさき」。

これさいくずしねんろくじゅうおくりなあきらけんじあきらそう於永じょうりょう西北せいほく舊制きゅうせい皇后こうごうみなおくりなしょうせい四諡自后始。追贈ついぞうさんせいみないたりたい尚書しょうしょれいけん中書ちゅうしょれいちちふうおう

はつひとしむね即位そくいなおしょうふとしきさきしょうせい,雖政みや闈,而號れいいむあきら恩威おんい天下でんか左右さゆう近習きんじゅまたしょうところ假借かしゃくみやわきあいだ嘗妄改作かいさく。內外たまものあずかゆうふししば公主こうしゅいれなおふく髲鬀。ふとしきさき曰:「しゅうとろう矣。」いのち左右さゆうたまもの以珠璣帕くびときじゅんおうもと份婦安國やすくに夫人ふじんおいかみ且落,ぶときさきまた請帕くびふとしきさき曰:「大長おおちょう公主こうしゅふとしそう皇帝こうていおんな先帝せんていしょいもうと也;わかちょう家老がろうやすし耶?」きゅうたまもの大臣だいじんちゃゆうりゅうおおとりかざりふとしきさき曰:「此豈人臣じんしんとく?」いのち有司ゆうしべつせいいれきょうてい以賜たまものぞくじんしょく,必易以釦,曰:「ひさしかた勿使にゅうわれ也。」つねふく絁繻ねり裙,侍者じしゃじんむね左右さゆうかんざし珥珍うららよくこうふとしきさき戒曰:「かれ皇帝こうてい嬪御かざり也,なんじやすとくがく。」

さきしょうしんかたなかゆみ上書うわがき,請依たけきさき故事こじたてりゅうびょう,而程琳亦けんじたけきさき臨朝》,きさき擲其しょ於地曰:「われ不作ふさく此負祖宗そそうごと。」ゆうこげしんりゅう綽者,きょう西にしかえげんざい庾有あまかてせんあまり斛,乞付さんきさきとい曰:「きょう識王曾、ちょうともしろりょえびす簡、魯宗どう乎?此四人豈因獻羨餘進哉!」

きさきしょうせいじゅういちねんじんむね即位そくい,乃諭輔臣曰:「皇帝こうてい聽斷ひませんみことのりめい講習こうしゅうけい,以輔其德。」於是しつらえ幄崇まさし殿どの西にし廡,而日いのち近臣きんしんさむらい講讀こうどくちょういい、曹利用りようすんで以侮けん貶竄,而天惕然かしここればんややすすむがいにん內宮たかしくんこう德明のりあきとうおとずれ外事がいじたかし勳等くんとう以此ぜいかたぶけ中外ちゅうがい兄子せこしたがえとく姻戚いんせき門人もんじん、廝役はいかんしゃすうじゅうにん曹脩いにしえ、楊偕、かくすすむだんしょうれんろんかなでふとしきさき悉逐

ふとしきさき保護ほごみかどすんで盡力じんりょく,而仁むねしょ以奉ふとしきさきまた甚備。うえ春秋しゅんじゅうちょうなお不知ふちため宸妃所出しょしゅつおわりふとしきさき毫髮間隙かんげき焉。及不みかどため大赦たいしゃ,悉召天下でんか醫者いしゃはせでんまい京師けいししょ嘗為ふとしきさき謫者みな內徙,死者ししゃふく其宮。其后げんしゃつい詆太きさき時事じじ,范仲淹以ためごとうえ曰:「此朕しょにん聞也。」しもみことのり戒中がい毋輒ごと

於是たい甯軍節度せつど使ぜにおもんみえんじ請以あきらけんじあきら懿與あきらきよしなみ祔真宗室そうしつみことのり三省與禮院議,みな以謂あきらきよし皇后こうごうたかしちゅうつぼやめ祔真宗廟そうびょうしつ自協じきょう一帝一后之文;しょうけんじあきら肅處ひつじさる元之もとゆきみことしょう懿感とうと功德くどく莫與ためいいむべたかしけんしんびょうどう殿しんがりことしつさいこもきょう,一用太廟之儀,仍別りつびょうめい,以崇とおる翰林かんりん學士がくし馮元とう請以奉慈為めいみことのりけいれきねんれいいんげんあきらけんじあきらきさき,請遵こくあさ懿德、明德めいとくもととく三后同祔太宗廟室故事,遷祔宗廟そうびょうみことのりりょうせい翰林かんりん學士がくしおう堯臣とう,請遷きさき祔,じょ于章きよしこれしたがえこれ