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開封かいふう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
河南かなんしょう開封かいふう位置いち(1820ねん

開封かいふう(かいほうふ)は、中国ちゅうごくにかつて存在そんざいしただいじゅうこく時代じだいから中華民国ちゅうかみんこく初年しょねんにかけて、現在げんざい河南かなんしょう開封かいふう一帯いったい設置せっちされた。

概要がいよう[編集へんしゅう]

907ねん開平かいへい元年がんねん)、しゅちょんただしこうはりにより汴州が「開封かいふう」に昇格しょうかくし、こうはり東都とうととされた[1]。はじめ開封かいふう開封かいふう浚儀ちんとめ雍丘ふうおかじょうの6けん管轄かんかつした。ていしゅうちゅうたけしなめらしゅうさんなつめちょうかきもとしゅう扶溝鄢陵そうしゅうじょう曹州戴邑ひねしゅうふとやすしの9けん開封かいふう編入へんにゅうされた[2]

923ねんどうひかり元年がんねん)、こうとうこうはりほろぼすと、開封かいふうは「汴州」に降格こうかくし、せんぐん節度せつど使管轄かんかつにもどされた[3]

938ねん天福てんぷく3ねん)、こうすすむにより「汴州」は東京とうきょう昇格しょうかくし、「開封かいふう」がかれた[4]

きたそうのとき、開封かいふうは、「東京とうきょう開封かいふう」となった。東京とうきょう開封かいふう京畿けいきぞくし、開封かいふうさちちんとめ・雍丘・ふうおかじょうちゅう牟・たけしのべちょうかき東明とうめい・扶溝・鄢陵・こうじょうふとしやすし咸平の16けん管轄かんかつした[5]

きむのとき、開封かいふう南京なんきんぞくし、開封かいふうさちたけしつうもとふとしやすしちゅう牟・・鄢陵・じょう・扶溝・ちんとめのべ洧川ちょうかきふうおかの15けんのべよしみひねきょう八角はっかくかくきょうちぇきょう・圃田・たけしまんしょうしろすな・圉城・うまらんきょうしゅきょくそうろうたてつよしてん管轄かんかつした[6]

1214ねん貞祐ていゆう2ねん)、モンゴル帝国ていこく圧迫あっぱくけて、きむは「南京なんきん開封かいふう」に遷都せんとした[7]

1288ねんいたりもと25ねん)、もとにより南京なんきんが「汴梁改称かいしょうされた。汴梁河南かなん江北こうほくとうしょゆき中書ちゅうしょしょうぞくし、ろくごと開封かいふうさちちゅう牟・原武はらたけ・鄢陵・滎沢ふうおか・扶溝・たけし・杞・のべらんつうもとじょうふとしやすし・洧川・ちんとめの17けんていしゅうぞくするかんじょう滎陽汜水河陰かいんの4けんもとしゅうぞくするちょうしゃちょうかずら郾城じょうじょう臨潁の5けんひねしゅうぞくするあておかしょうすい西にしはなみなみとみこうじょうの5けんひとししゅうぞくするしんていひそかの3けん睢州ぞくするじょう邑・こうじょうふう柘城の4けんわせて1つかさ17けん5しゅうしゅうりょう21けん管轄かんかつした[8]

1368ねんひろしたけ元年がんねん)、あきらにより汴梁は「開封かいふう」とあらためられた。開封かいふう河南かなんしょうぞくし、さちちんとめ・杞・つうもとふとしやすしじょう・洧川・鄢陵・扶溝・ちゅう牟・たけしはらたけしふうおかのべあららぎふうしんていの17けんひねしゅうぞくするしょうすい西にしはなこうじょう沈丘の4けんもとしゅうぞくする・臨潁・じょうじょう・郾城・ちょうかずらの4けん禹州ぞくするみつけんていしゅうぞくする滎陽・滎沢・河陰かいん・汜水の4けんわせて4しゅう30けん管轄かんかつした[9]

きよしのとき、開封かいふう河南かなんしょうぞくし、さちちんとめ・杞・つうもとじょう・洧川・鄢陵・ちゅう牟・らんふうしんていひそか・禹州の1しゅう11けん管轄かんかつした[10]

1913ねん中華民国ちゅうかみんこくにより開封かいふう廃止はいしされた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ きゅうだいはりしょふとしさん
  2. ^ きゅうだいぐんけんこころざし
  3. ^ きゅうだいとうしょそうそうおさむよん
  4. ^ きゅうだいすすむしょ高祖こうそおさむ
  5. ^ そうふみ地理ちりこころざしいち
  6. ^ きむふみ地理ちりこころざしちゅう
  7. ^ きむふみせんそうおさむじょう
  8. ^ もと地理ちりこころざし
  9. ^ あかり地理ちりこころざしさん
  10. ^ 清史きよし稿こう地理ちりこころざしきゅう

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]