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開封かいふう攻囲こういせん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
開封かいふう攻囲こういせん
モンゴル帝国ていこくかねあさ征服せいふくなか
戦争せんそうだいたいきん戦争せんそう
年月日ねんがっぴふとしむね4ねん/てんきょう元年がんねん3月16にち - ふとしむね5ねん/てんきょう2ねん4がつ19にち1232ねん4がつ8にち - 1233ねん5月29にち
場所ばしょ南京なんきん開封かいふう現在げんざい河南かなんしょう開封かいふう
結果けっかモンゴル帝国ていこく勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
モンゴル帝国ていこく かねあさ
指導しどうしゃ指揮しきかん
オゴデイ
トルイ
スブタイ
テムデイ
タガチャル
あいむね
かんがおおもえれつ
たけせん
ちぇだて
戦力せんりょく
しょう 10まんにん以上いじょう
損害そんがい
しょう しょう

開封かいふう攻囲こういせん(かいほうこういせん)は、1232ねんから1233ねんにかけておこなわれたモンゴル帝国ていこくによるかねあさ首都しゅと開封かいふう包囲ほういせん

包囲ほういせんのさなかにきむちょう最後さいご皇帝こうていあいむね一部いちぶ側近そっきんとともにしろがいし、その城内きうちクーデターによって実権じっけんにぎったちぇだてかねあさ皇族こうぞくらえて投降とうこうしたことにより開封かいふう陥落かんらくした。

背景はいけい

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1229ねん正大せいだい6ねん/おのれうし)にあらたに即位そくいしたオゴデイは、カリスマたるチンギス・カン死後しごもモンゴル帝国ていこく健在けんざいであることをしめすため、即位そくい最初さいしょだい事業じぎょうとしてきむちょう完全かんぜん征服せいふくかかげた。一方いっぽうかねあさ弱体じゃくたいしていたとはいえ、領地りょうち減少げんしょうしたことによりかえって強固きょうこ防衛ぼうえいもう黄河こうが南岸なんがんきずきこれをむかたんとした。

1232ねんてんきょう元年がんねん/みずのえたつはるぜんぐんを3ぐんけたモンゴルぐんは、オゴデイみずかひきいる中央ちゅうおうぐん黄河こうが北岸ほくがんかねぐん主力しゅりょくけているあいだに、右翼うよくぐんひきいるトルイみなみそうりょう経由けいゆして南方なんぽうから開封かいふうせまった。あわてたかねあさ主力しゅりょくぐん南方なんぽうかわせたが、三峰山みうねやまにおける決戦けっせん完敗かんぱいきっした。三峰山みうねやまにおける敗戦はいせんによってかねあさはもはや野戦やせんでモンゴルぐん対抗たいこうするじゅつをもたず、首都しゅと開封かいふうはモンゴルぐん包囲ほういけるにいたった。

包囲ほういせん

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かねぐん主力しゅりょくやぶったトルイぐんとオゴデイぐんていしゅうあたりで合流ごうりゅうしたが、大勢おおぜいけっしていたためにオゴデイとトルイは残留ざんりゅう部隊ぶたいのこしてモンゴル高原こうげん帰還きかんすることがめられた[1][2]。このとき開封かいふう包囲ほういのためにえらばれたのはスブタイ・バアトル、グユク・バアトル、テムデイ・コルチタガチャル・コルチら4めい将軍しょうぐんで、このうちスブタイとグユクらがトルイぐんぞくする将軍しょうぐん、テムデイとタガチャルらがオゴデイぐんぞくする将軍しょうぐんであったとみられる[3]。スブタイはチンギス・カン時代じだいにホラズム国王こくおうってルーシまでいたった実戦じっせん経験けいけん豊富ほうふ名将めいしょうであり、この遠征えんせいぐん全体ぜんたい指揮しきったようである。テムデイとタガチャルはそれぞれジャライルフーシン出身しゅっしんで、チンギス時代じだい左翼さよくまんにん隊長たいちょうムカリ(ジャライル)と右翼うよくふくまんにん隊長たいちょうボロクル(フーシン)を念頭ねんとういた任命にんめいであったようである[4]

スブタイらのひきいるモンゴルぐん開封かいふう包囲ほういすると、それまでの戦闘せんとう多数たすう避難ひなんみん流入りゅうにゅうしていた開封かいふう城内じょうないはたちまち食糧しょくりょう不足ふそくおちいり、400まんから500まんわれるしろみんひとにくしょう悲惨ひさん状況じょうきょうおちいった[2]一方いっぽう、モンゴルがわ武力ぶりょくによる征服せいふくのみをもとめていたわけではなく、同年どうねん3がつにオゴデイはていしゅうから使者ししゃ派遣はけんして降伏ごうぶくけており、投降とうこう条件じょうけんとして孔子こうし子孫しそんなどの政治せいじてき利用りよう価値かちのある人物じんぶつ皇族こうぞくしつわたとう要求ようきゅうされた[5]かねあさ数日すうじつ一部いちぶ条件じょうけんれて曹王なまりあいむねあにの荊王ばん)を人質ひとじちとしてしたため、これによって両国りょうこく一時いちじてき停戦ていせん状態じょうたいはいり、スブタイは3まんへいひきいてそのまま河南かなん駐屯ちゅうとんした[6][7]。しかしモンゴルがかねあさ要求ようきゅうした降伏ごうぶく条件じょうけんうち皇帝こうていごうはいするという条件じょうけんはなかなかれられず、同年どうねん7がつにオゴデイはあらためて使者ししゃからけい派遣はけんした[7]。ところが、きむちょう皇帝こうていみかどごうはいするようきびしくせまったからけいはそのよるかねあさ廷臣ていしんによって殺害さつがいされてしまい、さらにその8がつにはあいむねから援軍えんぐん要請ようせいけた参政さんせいかんがおおもえれつ・桓山公武こうぶせんらが20まんへいひきいて開封かいふうせまったが、ていしゅう西にし合戦かっせんやぶれた[8][9]

きむちょうがわ度重たびかさなる背信はいしんいきどおったスブタイはふたた開封かいふう包囲ほういせんとしたが、それよりさきあいむね開封かいふうにおける抗戦こうせん見切みきりをつけ、12月12にち皇后こうごうすらともなわず身近みぢかものとともに開封かいふうからした[9]開封かいふう城内じょうないにはかんがおやつさると習捏おもねというめい宰相さいしょうとしてのこっていたが、皇帝こうていったことで城内きうち恐慌きょうこう状態じょうたいおちいった。1233ねんてんきょう2ねん/癸巳きし正月しょうがつ22にち開封かいふう西部せいぶ守備しゅび指揮しきかんであったちぇりつ混迷こんめいきわめる城内きうちてクーデターをこし、かんがおやつさる・習捏おもね殺害さつがいしてふとしきさき皇族こうぞくかこみ、くに全権ぜんけん掌握しょうあくした[10]。もっとも、開封かいふうがモンゴルにめられている状況じょうきょうわりはなく、同年どうねん4がつ18にちちぇりつかねあさ皇族こうぞく500めいあまりをらえてスブタイひきいるモンゴルぐん献上けんじょう[11]、ここに開封かいふう陥落かんらくした[12]あいむねとともに開封かいふうじょうたのはすうひゃくまんかぞえた開封かいふう城内じょうない人口じんこうかられば微微びびたるかずであり、最後さいごまでかねあさつかえた官吏かんりたちのだい多数たすうにとっては開封かいふう陥落かんらくこそが実質じっしつてき亡国ぼうこくであった[13]

このとき開封かいふう城内じょうないにいて籠城ろうじょうせん体験たいけんした文人ぶんじんもとこうとい包囲ほういせんにかかる多数たすう著作ちょさくのこしているが、とくに「みずのえたつじゅう二月車駕東狩後即事五首」はあいむね開封かいふう脱出だっしゅつ(=くるまひがしかり)から開封かいふう陥落かんらくいたるまでを技巧ぎこうくしてうたっており、もとこうとい代表だいひょうさくひとつとして名高なだか[14]

逸話いつわ

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この包囲ほういせんにはもとこうとい文人ぶんじんとして著名ちょめいになるかねあさ遺臣いしんおおまれており、おおくの逸話いつわのこされている。

耶律ぜんざい自殺じさつ

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ちゅう陥落かんらくよりモンゴルにつかえるようになった耶律すわえざいあに耶律ぜんざいは耶律すわえざいとは親子おやこほどの年齢ねんれいひらきがあり、かねあさ長年ながねんつかえて高官こうかんいたっていた[15]。 この戦役せんえきでオゴデイのそばちかくにつかえていた耶律すわえざい開封かいふう包囲ほういせんにはくわわらなかったものの、使者ししゃ派遣はけんして耶律ぜんざい・耶律弁才べんさい兄弟きょうだいによってひきいられるみずからの一族いちぞくすくそうとした[16]

しかし、長年ながねんきんあさつかえてきた耶律ぜんざいはこれを見限みかぎってモンゴルにるようなことはできず、あいむね拝謁はいえつするとこのまま開封かいふうとどまってにたいと言上ごんじょうした[17]。しかし、これをけてあいむねはモンゴルとの講和こうわ交渉こうしょう使者ししゃに耶律ぜんざいふくめるつもりであることをかし、あんに耶律ぜんざい無事ぶじしろがいられるよう配慮はいりょしめした[18]。このようなあつ配慮はいりょけた耶律ぜんざいはただだまってなみだながし、あいむねもまたこれをけてなみだをこぼしたという[19]

これからしばらくして、耶律ぜんざい内城うちじろしろほりとうじて自殺じさつした[20]みずからの立場たちば理解りかいしめしたあいむねもっちゅうしめしたものであり、また耶律ぜんざいきむちょうないでの立場たちば考慮こうりょせず一方いっぽうてき助命じょめいしようとした耶律すわえざいへの拒絶きょぜつであったともひょうされる[21]

ちぇたてだて事件じけん

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1233ねん正月しょうがつにクーデターをこして実権じっけんにぎったちぇりつは、城内きうちおうわかきょもとこうとい著名ちょめい文人ぶんじんめいじてみずからをたたえる功徳くどく作成さくせいさせようとしていた[22][23]。しかしおうわかきょもとこうといらは簒奪さんだつしゃにおもねったとの後世こうせい批判ひはんおそれてこれを忌避きひし、最終さいしゅうてきふとし学生がくせいとしてられていたりゅうあさかわ撰文せんぶんおこなうことになった[22]。この撰文せんぶんにはもとこうあいだ序文じょぶんくわえられたうえで、きたそう徽宗時代じだいてられた「甘露かんろいしぶみ」をけずってこくせきされることになっていたが、この直後ちょくごにモンゴルぐん入城にゅうじょうしたためにその帰趨きすうあきらかになっていない[24]

開封かいふう開城かいじょう各地かくち転々てんてんとしたうえ故郷こきょうもどり『かえりせんこころざし』を執筆しっぴつしたりゅう祁は、そのなかみずからにちぇりつ功徳くどく撰文せんぶんしつけたとしておうわかきょもとこうとい痛烈つうれつ批判ひはんする[25]一方いっぽう、これをけてもとこうといほん事件じけんかんする文書ぶんしょをしたためており、みずからが功徳くどくりつかかわったことをみとめつつも、これを他人たにんいのちまもるための自己じこ犠牲ぎせいであったと弁明べんめいする[26]。そのうえで、直接ちょくせつめいげないもののりゅう祁を「撰文せんぶんによって恩賞おんしょうをもらいながら、撰文せんぶんつみわたしもとこうとい)にせた」としてあん批判ひはんし、「どちらがただしいかはやがてあきらかになるだろう」とする[27]。いずれにせよ、この事件じけんかかわった文人ぶんじんたちは後世こうせい糾弾きゅうだんもっとおそれて自己じこ弁護べんごつとめた結果けっか、それぞれににが体験たいけんのこことになったとえる。

モンゴル研究けんきゅうしゃ杉山すぎやま正明まさあきもとこうとい弟子でし郝経による「つはひとつみするなかれ、もとのこやまのこやまもとこうといごう)」という引用いんようしたうえで、「きむちょう滅亡めつぼう泥沼どろぬまのさなかでは、だれもがこころならずも苦衷くちゅう選択せんたくをせざるをえず、またときに、おもいがけない運命うんめい背負しょわされた」とひょうしている[28]

あなもと措らの助命じょめい

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1233ねん4がつ19にちちぇりつがモンゴルに開封かいふうわたしたわずさんにち、4がつ22にちもとこうといは耶律すわえざいたいして書状しょじょうをしたため、あなもと措(孔子こうし子孫しそん)をはじめとする開封かいふう城内じょうないのこ文人ぶんじん助命じょめい嘆願たんがんした[13]。これよりさき、1232ねん3がつに耶律すわえざいはオゴデイにはたらきかけてきむちょう朝廷ちょうてい使者ししゃ派遣はけんさせ、あなもと措以27めい文人ぶんじんわたすよう要求ようきゅうしており、この要求ようきゅう念頭ねんとういての助命じょめい嘆願たんがんであったとられる[29]

従来じゅうらいもとこうとい嘆願たんがんけた耶律すわえざいあなもと措らおおくの文人ぶんじんすくったとして賛美さんび対象たいしょうとされてきたが、近年きんねん研究けんきゅうでは実態じったいはやや複雑ふくざつであったことが指摘してきされている[30]。「耶律すわえざいによってすくわれた」とされるあなもと措はみずかてた碑石ひせきなかで「耶律すわえざいそう稟をこうむった」としつつ、開封かいふう陥落かんらくもとこうといらと同様どうようはくしゅう連行れんこうされており、その実際じっさいみずからを保護ほごしたのは山東さんとう地方ちほうだい軍閥ぐんばつたるいむみのるであったとかた[31]。そもそも、モンゴル帝国ていこくはある土地とち征服せいふくしたさいにはまず人口じんこう調査ちょうさおこない、その調査ちょうさ結果けっかもとづいて遠征えんせい功績こうせきのあった諸王しょおう功臣こうしん征服せいふくみん分配ぶんぱいすることを原則げんそくとしていた(投下とうか制度せいど)。あなもと措・もとこうとい開封かいふうでの投降とうこうみんはくしゅう連行れんこうされたのも人口じんこう調査ちょうさ分配ぶんぱいのためであり、あなもと措ら大夫たいふにとってむしろ重要じゅうようであったのはモンゴル諸侯しょこう分配ぶんぱいされて一般いっぱんおなじように課税かぜい対象たいしょうとなることであった[32]

そこであなもと措はモンゴルの華北かほく支配しはい中心ちゅうしんたるつばめきょうみずかあしはこび、つばめ京大きょうだいだんごとかん・耶律田山たやまはたらきかけて孔子こうしかお孟子もうこ一族いちぞく免税めんぜい対象たいしょうふくめさせることに成功せいこうした[33]あなもと措の記録きろく興味深きょうみぶかいのは耶律すわえざいなん言及げんきゅうしながらすわえざい具体ぐたいてきなにおこなったかはべないてんであり、最終さいしゅうてき孔子こうし一族いちぞく免税めんぜい対象たいしょうふくめることを認可にんかした耶律田山たやま耶律おもねうみ一族いちぞくとみられる)のほう現実げんじつてき権力けんりょくゆうしていたことを示唆しさする[34]。また、耶律すわえざい絶賛ぜっさんする伝記でんきなかでもこのときすわえざいすくったのは「めい儒数やから」としかしるされず、開封かいふう城内じょうない文人ぶんじん保護ほごすわえざいたした役割やくわりはさほどおおきくなかったようである[35]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ひじりたけししんせいろく』,「さんがつうえいたる南京なんきんごうゆるがせしょうゆるがせおさむこれうえ与太よた上皇じょうこうきた渡河とか避暑ひしょ于官さんはや歹抜しょう・忒木あか貴由たかよし抜相・とう察児とうてきあずかかねせん
  2. ^ a b 高橋たかはし2021,84ぺーじ
  3. ^ 松田まつだ1987,62ぺーじ
  4. ^ 松田まつだ1996,166ぺーじ
  5. ^ 海老沢えびさわ1998,208ぺーじ
  6. ^ ひじりたけししんせいろく』,「かねあに之子ゆきこ曹王入質にゅうしちわがぐんとげ退ずさとめそくたい抜相以兵さんまん鎮守ちんじゅ河南かなん
  7. ^ a b 海老沢えびさわ1998,210ぺーじ
  8. ^ ひじりたけししんせいろく』,「あきなながつうえからけい使きん促降、いんころせはちがつ金之かねゆき参政さんせいかんがおおもえれつ・桓山公武こうぶせん将兵しょうへいじゅうまんかい南京なんきんいたりていしゅう西にし合戦かっせん
  9. ^ a b 高橋たかはし2021,113ぺーじ
  10. ^ ちぇりつのクーデターを間近まぢかたりにしたりゅう祁は『かえりせんこころざし』のなかでクーデターにいた経緯けいい生々なまなましく描写びょうしゃしている。りゅう祁によると、ちゅうのこめい執政しっせいかん徹底てってい抗戦こうせん主張しゅちょうするだけで無策むさくであり、城内きうち長老ちょうろう無意味むいみ発言はつげんかえすだけで閉塞へいそくした空気くうきおおわれていたなかちぇりつ軍勢ぐんぜい突如とつじょとして城内きうちはしまわった。しろみんはこれを当初とうしょモンゴルぐん侵攻しんこうであると勘違かんちがいしていたという(高橋たかはし2021,90ぺーじ
  11. ^ 高橋たかはし2021,127ぺーじ
  12. ^ ひじりたけししんせいろく』,「癸巳きしはる正月しょうがつじゅうさんにち金主きんしゅ南京なんきんにゅうとくかねじんちぇたてとげころせ留守るす南京なんきん参政さんせいにん開門かいもんまいはやたい抜都くだよんがつはやたい抜都いたりあおじょうちぇたてまたはた金主きんしゅ母后ぼこう太子たいし二人曁諸族人来献、とげにゅう南京なんきん六月ろくがつ金主きんしゅかえりとくにゅう蔡。とう察児あかすべ大軍たいぐんかこえもり
  13. ^ a b 高橋たかはし2021,150ぺーじ
  14. ^ 高橋たかはし2021,112-113ぺーじ
  15. ^ 杉山すぎやま1996,142ぺーじ
  16. ^ 杉山すぎやま1996,339-340ぺーじ
  17. ^ 杉山すぎやま1996,340ぺーじ
  18. ^ 杉山すぎやま1996,340-341ぺーじ
  19. ^ 杉山すぎやま1996,343-344ぺーじ
  20. ^ のこやま先生せんせい文集ぶんしゅうまき26龍虎りゅうこまもるじょう将軍しょうぐん耶律こう墓誌ぼしめいじ,「みずのえたつがつおおやけおとうと今中いまなかしょれいすわえざいたてまつむねさくこうきた、召見隆徳たかのり殿どのおおやけ再拝さいはい、乞留汴梁。あいそうみゆき和議わぎなりおくきむぬさかたこれ君臣くんしんしょう泣下。竟以ぼうがつじゅうゆうななにちとう於内東城とうじょうほりちゅうみず而没、どきねんろくじゅうゆういち上聞じょうぶんふるえ悼、おくこう尚書しょうしょ龍虎りゅうこまもるじょう将軍しょうぐん
  21. ^ 杉山すぎやま1996,344-345ぺーじ
  22. ^ a b 杉山すぎやま1996,221ぺーじ
  23. ^ 高橋たかはし2021,85ぺーじ
  24. ^ 高橋たかはし2021,88-89ぺーじ
  25. ^ 高橋たかはし2021,89-90ぺーじ
  26. ^ 高橋たかはし2021,91-92ぺーじ
  27. ^ 高橋たかはし2021,92-93ぺーじ
  28. ^ 杉山すぎやま1996,222ぺーじ
  29. ^ なお、耶律すわえざい伝記でんきはこの耶律すわえざいはたらきかけによってあなもと措はすぐに開封かいふう城内じょうないからたすされたかのようにしるすが、実際じっさいにはもとこうとい助命じょめい嘆願たんがんられるように1233ねん開封かいふう開城かいじょうまであなもと措は開封かいふう城内じょうないとどまったままであった(高橋たかはし2021,158-159ぺーじ)。
  30. ^ 高橋たかはし2021,155-156ぺーじ
  31. ^ 高橋たかはし2021,160-161ぺーじ
  32. ^ 高橋たかはし2021,165-166ぺーじ
  33. ^ 高橋たかはし2021,166-167ぺーじ
  34. ^ 高橋たかはし2021,167-168ぺーじ
  35. ^ 杉山すぎやま1996,85/ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 海老沢えびさわ哲雄てつお「モンゴルのたいきんあさ外交がいこう」『駒澤こまざわ史学しがく』52ごう、1998ねん
  • 杉山すぎやま正明まさあき『耶律すわえざいとその時代じだいしろみかどしゃ、1996ねん
  • 杉山すぎやま正明まさあき『モンゴル帝国ていこく大元おおもとウルス』京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい、2004ねん
  • 杉山すぎやま正明まさあき『モンゴル帝国ていこく興亡こうぼううえ軍事ぐんじ拡大かくだい時代じだい講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ講談社こうだんしゃ、2014ねん初版しょはん1996ねん
  • 高橋たかはし文治ぶんじもとこうといとその時代じだい大阪大学おおさかだいがく出版しゅっぱんかい、2021ねん
  • 松田まつだ孝一こういち河南かなん淮北こうむぐんまんこう」『東洋とうようがくほう』68ごう、1987ねん
  • 松田まつだ孝一こういちそうもと軍制ぐんせい史上しじょうさがせあか(タンマチ)問題もんだい 」『そうもと時代じだい基本きほん問題もんだい』汲古書院しょいん、1996ねん