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徽宗

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
徽宗 ちょうただし
きたそう
だい8だい皇帝こうてい
王朝おうちょう きたそう
在位ざいい期間きかん もと3ねん1がつ12にち - せん7ねん12月23にち
1100ねん2がつ23にち - 1126ねん1がつ18にち
都城みやこのじょう 開封かいふう
せいいみな ちょうただし
諡号しごう からだ神合こうあいどう駿しゅんれつへりくだいさおせいぶん仁徳にんとくけん慈顕こう皇帝こうてい
びょうごう 徽宗
生年せいねん げんゆたか5ねん10がつ10日とおか
1082ねん11月2にち
没年ぼつねん 紹興しょうこう5ねん4がつ21にち[1][2]
1135ねん6月4にち
ちち かみはじめ
はは 欽慈皇后こうごうちんかみはじめ才人さいじん
后妃こうひ あらわきょう皇后こうごうおうあらわ皇后こうごうてい
陵墓りょうぼ ながかたりょうのちえいたすくりょう
年号ねんごう けんちゅう靖国やすくに : 1101ねん
たかしやすし : 1102ねん - 1106ねん
大観たいかん : 1107ねん - 1110ねん
政和まさかず : 1111ねん - 1118ねん
重和しげかず : 1118ねん - 1119ねん
せん : 1119ねん - 1125ねん
ちょう ちょう
ももばと

徽宗(きそう)は、きたそうだい8だい皇帝こうてい諡号しごうからだ神合こうあいどう駿しゅんれつへりくだいさおせいぶん仁徳にんとくけん慈顕こう皇帝こうてい退位たいいしたので「へりくだ」(ゆずる)という文字もじはいっている)。いみなただしだい6だい皇帝こうていかみはじめろくなんだい11)。

書画しょがざいすぐれ、きたそう最高さいこう芸術げいじゅつ一人ひとりわれる。一方いっぽう政治せいじてきには無能むのうで、かれ治世ちせいには人民じんみん悪政あくせいくるしみ、『みず滸伝』のモデルになったそうこうらんなど、地方ちほう反乱はんらん頻発ひんぱつした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

即位そくい治世ちせい[編集へんしゅう]

もと3ねん1100ねん)、あにあきらむね嗣子ししのないまま25さい崩御ほうぎょしたため、おとうとであるちょうただし皇帝こうてい即位そくいした。宰相さいしょうあきらあつし重臣じゅうしんちょうただし皇帝こうていとしての資質ししつ疑念ぎねんいていたため皇子おうじ(簡王ちょうなど)を皇帝こうていしたが、皇太后こうたいごうむかい意向いこうによりちょうただしまったとされている。

治世ちせい当初とうしょむかいたれすだれ聴政おこなったとされ、あきらあつし蔡卞あきらそう時代じだい急進きゅうしんてき新法しんぽう退しりぞけ、旧法きゅうほうかん忠彦ただひこ穏健おんけん新法しんぽう曾布起用きようかれらは新法しんぽう旧法きゅうほう両派りょうはから人材じんざい登用とうようして新法しんぽう旧法きゅうほうあらそおさめ、福祉ふくし政策せいさく充実じゅうじつさせるなど漸進ぜんしんてき改革かいかくすすめた(通説つうせつではこれらの政策せいさくむかいさくとされているが、徽宗自身じしん構想こうそうとする異説いせつもある[注釈ちゅうしゃく 1])。また、徽宗自身じしん芸術げいじゅつたましいともいえる絵筆えふでって政治せいじへの意欲いよくしめし、成人せいじんしている皇帝こうていがいるのにたれすだれ聴政がおこなわれるのはおかしいと批判ひはんされたむかいふとしきさきが7がつ政務せいむ一線いっせん退しりぞくと、みずか政務せいむかかわるようになった。だが、曾布ときよししん新法しんぽう同士どうし対立たいりつ旧法きゅうほう政情せいじょう急速きゅうそく不安定ふあんていしていく。こうした状況じょうきょうに徽宗は現状げんじょうのありかたらなくなっていく。そんなとき登場とうじょうしたのは急進きゅうしん新法しんぽう蔡京である。徽宗の即位そくいむかいふとしきさき信任しんにん背景はいけい中央ちゅうおう復帰ふっきしたかれ一旦いったんは徽宗やかん忠彦ただひこ・曾布の警戒けいかいけてふたた左遷させんされる。だが、中央ちゅうおう情勢じょうせい変化へんかじょうじて策動さくどうおこない、かん忠彦ただひこ・曾布を失脚しっきゃくさせて政権せいけん掌握しょうあくするにいたる。

蔡京が政権せいけんにぎると、旧法きゅうほうはもちろんのこと、曾布や実弟じっていの蔡卞ら自分じぶん批判ひはんした新法しんぽう人々ひとびとにもはげしい弾圧だんあつくわえられた。これには徽宗も後悔こうかいし、りょうとの外交がいこう政策せいさく対立たいりつなどを理由りゆうに蔡京をなん追放ついほうしている。だが、宮廷きゅうてい主要しゅよう官職かんしょくはほとんどが蔡京の手下てしためられていたこと、なによりも徽宗と蔡京の芸術げいじゅつてき嗜好しこうちかいことによる親近しんきんかんから、すぐに蔡京を復帰ふっきさせた。

文人ぶんじんじんとしての徽宗はその才能さいのうたか評価ひょうかされ、そうだい代表だいひょうする人物じんぶつ一人ひとりとされる。やせきんからだ(「やせきん」は徽宗のごう)としょうされる独特どくとく書体しょたい創出そうしゅつし、絵画かいがでは写実しゃじつてきいんからだ完成かんせい、「風流ふうりゅう天子てんし」としょうされた。現在げんざい、徽宗の真筆しんぴつきわめて貴重きちょう文化財ぶんかざいとなっており、日本にっぽんにある『ももばと』は国宝こくほう指定していされている。

皇帝こうていとしての徽宗はみずからの芸術げいじゅつかてとするために、庭園ていえん造営ぞうえいもちいる大岩おおいわとお南方なんぽうより運河うんが使つかってはこばせた(花石はないしつな)。また芸術げいじゅつ活動かつどう資金しきんづくりのために、あきらだい小説しょうせつみず滸伝』における悪役あくやくとして著名ちょめいな蔡京や宦官かんがんわらわぬきらを登用とうようして民衆みんしゅう重税じゅうぜいした。かみはじめあきらむね新法しんぽうはあくまで国家こっか財政ざいせい健全けんぜんのためであったが、徽宗はそれをみずからのおごしゃのためにもちいるにいたったのである。この悪政あくせい一環いっかんとしては、土地とち測量そくりょうするさい正規せいきしゃくより8パーセントあまりみじかい、本来ほんらい楽器がっき測定そくていもちいるらくじゃくといわれるしゃくもちい、発生はっせいした余剰よじょう田地でんち強制きょうせいてき国庫こっこ編入へんにゅうしたり、売買ばいばい契約けいやくしょ曖昧あいまい土地とち収用しゅうようするなどの強引ごういん手段しゅだんもとっている。

さらに徽宗は芸術げいじゅつ没頭ぼっとうする一方いっぽうで、みずからの権力けんりょく強化きょうかつとめた。特徴とくちょうてきであったのはふでしゅみことのりふで)の発行はっこうである。ふでしゅみことのり制度せいど萌芽ほうがかみはじめさかのぼるが、徽宗はことあるごとにみずかみことのりいてかく役所やくしょなどに直接ちょくせつ命令めいれいし、三省みつよし枢密院すうみついん異議いぎはさむことをみとめず、その実施じっし遅滞ちたい厳罰げんばつをもってしょしたのである。蔡京は徽宗の側近そっきんであった息子むすこ蔡攸などをかいしてふでしゅみことのり掌握しょうあくつとめようとしたが、かえってみことのりしるす徽宗の意向いこうまわされることになり、結果けっかてきには徽宗の行動こうどう抑止よくしできないかれ政治せいじてき影響えいきょうりょく減退げんたいまねくこととなり、政和まさかず6ねん1116ねん)のふうぜん中止ちゅうし問題もんだいに、蔡京の宰相さいしょうとしての立場たちば名目めいもくてきなものとしていった。反対はんたいせん年間ねんかん以降いこうは、徽宗とそれを近臣きんしん宦官かんがんや蔡攸に代表だいひょうされる側近そっきん)による専制せんせい成立せいりつすることになり、宰相さいしょう執政しっせいちからうしなわれることになった。

このような悪政あくせいによって民衆みんしゅううらみはたかまり、ほう臘のらんはじめとした民衆みんしゅう反乱はんらん続発ぞくはつした。こうした反乱はんらん指導しどうしゃなか山東さんとう活動かつどうしたそうこうというものがおり、これをモデルにした講談こうだんから発展はってんして誕生たんじょうしたのが『みず滸伝』である。

きたそう滅亡めつぼう[編集へんしゅう]

当時とうじそう北方ほっぽう脅威きょういであったりょうは、皇帝こうてい側近そっきん頽廃たいはいにより国勢こくせいおとろえてきていた。さらにりょう背後はいごたる満州まんしゅうではおんなしんぞくかんがおおもねほね中心ちゅうしんとして急激きゅうげき台頭たいとうし、きむてていた。かね協力きょうりょくしてりょう挟撃きょうげきすれば、建国けんこく以来いらい悲願ひがんであるつばめくもじゅうろくしゅう奪還だっかん可能かのうであるととらえたきたそう朝廷ちょうていは、きむたいして使者ししゃおくり、盟約めいやくむすんだ(海上かいじょうめい)。

徽宗ひつ芙蓉ふよう錦鶏きんけい』(北京ぺきんみや博物はくぶついん所蔵しょぞう)。わき詩文しぶん文字もじやせきんからだかれている。

せん3ねん1121ねん)、きむ盟約めいやくしたがりょう攻撃こうげきしたが、きたそうかた臘のらん鎮定ちんていのために江南こうなん出兵しゅっぺいちゅうであり、徽宗自身じしん決断けつだんりょく欠如けつじょもあって、りょうへの出兵しゅっぺいおくれた。翌年よくねん、ようやくきたそう北方ほっぽう出兵しゅっぺいし、りょうてん祚帝のいるつばめきょう攻撃こうげきした。そうぐん攻撃こうげき失敗しっぱいかさね、成果せいかげられないことを理由りゆう誅殺ちゅうさつされることをおそれたそうぐん指揮しきかんわらわぬきは、かね援軍えんぐん要請ようせいした。海上かいじょうめいではかね長城ちょうじょう以南いなん出兵しゅっぺいしないめであったが、かねぐんはこの要請ようせいこたえ、たちまちつばめきょう陥落かんらくさせた。この結果けっか盟約めいやくどおりにつばめくもじゅうろくしゅうのうちつばめきょう以下いかみなみろくしゅうそう割譲かつじょうされたが、かねぐんによって略奪りゃくだつおこなわれていたうえ住民じゅうみん移住いじゅうさせられていたため、このからの税収ぜいしゅう当分とうぶん見込みこめない状態じょうたいであった。さらにかねつばめきょう攻撃こうげき代償だいしょうとしてぎん20まんりょうきぬ30まんひきぜに100まんかんぐんかて20まんせき要求ようきゅうしたが、きたそうはこれを受諾じゅだくせざるをなかった。

徽宗直筆じきひつたかしやすし通宝つうほう

せん7ねん1125ねん)、このようにつばめくもじゅうろくしゅう一部いちぶ奪還だっかん成功せいこうした宋朝そうちょうは、かね占領せんりょうされたのこりのしゅう奪還だっかん計画けいかくし、こんどはりょう敗残はいざんぐんひそかにむすんでかねへの攻撃こうげき画策かくさくした。しかしこの陰謀いんぼうかね露見ろけんし、おもねほねのちいだふとしむね逆鱗げきりんそうたいして出兵しゅっぺいする事態じたいまねく。12月23にち西暦せいれきで1126ねん1がつ25にち)、あわてた徽宗は蔡攸やつなさとしらとはかって「つみおのれみことのりおのれつみするみことのり」をすと退位たいい[注釈ちゅうしゃく 2]し、長男ちょうなんちょう桓(欽宗)に譲位じょういしてふとし上皇じょうこうとなった。徽宗はさらにかねぐんからのがれるべく、蔡攸やわずかな宦官かんがんだけをれて開封かいふう脱出だっしゅつした。ところが、鎮江いた徽宗は、かねぐん一時いちじ撤退てったいしたのち帰国きこく気配けはいせず、自立じりつうごきすらあった。そのため、欽宗・さとしらの画策かくさく開封かいふうもどされて幽閉ゆうへいされ、蔡京父子ふしわらわぬきらは配流はいるされ、のちに蔡京ら病死びょうししゃのぞいて処刑しょけいされた。

やすしやすし元年がんねん1126ねん)、かねぐん開封かいふう陥落かんらくさせ、徽宗は欽宗らとともかね連行れんこうされた(やすしやすしへん)。紹興しょうこう5ねん1135ねん)、徽宗はこくじょう現在げんざい黒竜江こくりゅうこうしょうあららぎけん)にて54さい死去しきょした。またこのときともに徽宗の韋氏、欽宗の皇后こうごうしゅなど、そう宮廷きゅうてい皇女おうじょ、あらゆる宗室そうしつ女性じょせい女官にょかんみやおんなたちが、かねぐん慰安いあんようきた連行れんこうされ、後宮こうきゅうれられたのちてんかい5ねん1128ねん)6がつにはかね官設かんせつ妓楼ぎろうであるあらいころもいんくだされて、かね皇族こうぞく貴族きぞくきゃくとする娼婦しょうふになることをいられた[注釈ちゅうしゃく 3]みなみそうてたこうはじめ生母せいぼであった韋妃は老齢ろうれいたっするまでこの境遇きょうぐうしのび、みなみそうこうむねむかえられて長寿ちょうじゅまっとうしたが、しゅ皇后こうごうはその境遇きょうぐうえかねて投身とうしん自殺じさつしている[3][4]

編著へんちょ[編集へんしゅう]

しゅうあや』にもとづいた古代こだいれいせい復活ふっかつはかるべく『政和せいわれいしん』を編纂へんさんし、みずからも執筆しっぴつくわわっている。また、『せん和書わしょ』『せん』『せん和博かずひろ図録ずろく』といった書画しょが骨董こっとう図録ずろく勅撰ちょくせんしている[5]。そのほか、ちゃしょの『大観たいかんちゃろん』をあらわしている。

道教どうきょうとの関係かんけい[編集へんしゅう]

徽宗は道教どうきょう信仰しんこうし、道士どうしはやしれいもと重用じゅうようした。はやしれいもとは「先生せんせい」のごうさづけられ、道学どうがく設置せっちされた。徽宗自身じしんは「みちくん皇帝こうてい」としょうし、『老子ろうし』や『そう』に注釈ちゅうしゃくおこなった。その矛先ほこさき仏教ぶっきょうたいする抑圧よくあつ政策せいさくにもあらわれ、ふつ如来にょらい)を「大覚だいかくきむせん」、僧侶そうりょを「とく」などと改名かいめいさせて、僧侶そうりょには道服どうふく着用ちゃくよう強制きょうせいした。ただし、これは1年間ねんかん撤回てっかいされた。

在位ざいいちゅう宰相さいしょう[編集へんしゅう]

妻妾さいしょう[編集へんしゅう]

以上いじょう、『そう』『きむふみ』『そうかいよう輯稿』『三朝みささきためいかいへん』にもとづく。

皇子おうじ[編集へんしゅう]

  1. ちょう桓 - 皇太子こうたいし欽宗はは皇后こうごうおう
  2. ちょう檉 - 兗王、生後せいごあいだもなく夭折ようせつ
  3. ちょう - 鄆王。ははおう
  4. ちょうかじ - 荊王、夭折ようせつ
  5. ちょうくるる - 粛王
  6. ちょう杞 - けいおう
  7. ちょう - すみおうははたかし
  8. ちょう棫 - えきおう
  9. ちょう構 - かんおうみなみそうこうはじめははは韋賢
  10. ちょうざい - 邠王、早世そうせい
  11. ちょう - 祁王
  12. ちょうしょく - 莘王。ははは懿粛おう
  13. ちょうほお - おう早世そうせい
  14. ちょう棣 - じょおう
  15. ちょう - 沂王。ははけんおう。1132ねんかね誣告罪ぶこくざいわれ、処刑しょけいされた。
  16. ちょう栱 - 鄆王、夭折ようせつ
  17. ちょう - おうははおさむよう楊氏。1128ねんかね異母いぼけいちょう㮙にころされた。
  18. ちょうはしばみ - しんおう
  19. ちょう椿つばき - かんおう夭折ようせつ
  20. ちょう楃 - 安康あんこうぐんおう
  21. ちょう楗 - こう平郡へごおりおう
  22. ちょう - ひねこくおおやけ夭折ようせつ
  23. ちょう - 相国しょうこくこうははおう
  24. ちょう - 瀛国こうかねこくじょう自殺じさつ
  25. ちょう - たてやすしぐんおうははあかりぶし皇后こうごうりゅうやすしやすしへんころ死去しきょ
  26. ちょう - よしみこくこうははあかりぶし皇后こうごうりゅう。12さいかねこくじょう早世そうせい
  27. ちょうとう - ゆたかこくおおやけ
  28. ちょう楒 - 英国えいこくこうははあかりぶし皇后こうごうりゅう
  29. ちょうきり - こくおおやけ
  30. ちょう - あきらこくおおやけ
  31. ちょうもみ - じゅんこくおおやけ
  32. ちょうしょう - 韓国かんこくこうははは婕妤おう大王だいおう婕妤)。
  33. ちょうきょく - かねへの連行れんこう途中とちゅうまれた。ははは婕妤おうしょうおう婕妤)。
  34. ちょうはしら - かねこくじょうまれた。ははは婉容(嬪)閻宝瑟。
  35. ちょうまゆみ - かねこくじょうまれた。ははあきらひめ(嬪)ていこびむすめ

皇女おうじょ[編集へんしゅう]

  1. 嘉徳かとくみかどひめちょうたまばん - ははあらわ皇后こうごうていそうで曾夤に降嫁こうかし、かねかんがおそういわお再嫁さいかした。その、熙宗の後宮こうきゅうはい夫人ふじんとなった。
  2. さかえとくみかどひめちょうきんやつ - ははあらわきょう皇后こうごうおう。欽宗の同母どうぼいもうとそうで曹晟に降嫁こうかし、かねかんがおあきらかんがおみつる)に再嫁さいかし、また習古国王こくおう再嫁さいかした。その、熙宗の後宮こうきゅうはい夫人ふじんとなった。
  3. じゅんよしみかどひめ - 夭折ようせつははけん楊氏。
  4. 安徳あんとくみかどひめちょう金羅きんら - ははあらわ皇后こうごうていそうそう邦光くにみつ降嫁こうかし、かねかんがお闍母再嫁さいかしてもなく死去しきょした。
  5. 茂徳しげのりみかどひめちょうぶくきん - はは明達めいたつ皇后こうごうりゅうそうで蔡鞗(蔡京なん)に降嫁こうかし、かねかんがおそうのぞむ再嫁さいかした。
  6. 寿ことぶきよしみかどひめ - 夭折ようせつははあらわ皇后こうごうてい
  7. 恵淑へいすくみかどひめ - 夭折ようせつははは懿粛おう[6]
  8. あんよしみかどひめ - 夭折ようせつはは明達めいたつ皇后こうごうりゅう[7]
  9. たかしとくみかどひめ - ははおう。曹湜に降嫁こうかした。そうくなった。
  10. かんよしみかどひめ - 夭折ようせつははは懿粛おう[8]
  11. さかえよしみかどひめ - 夭折ようせつははあらわ皇后こうごうてい
  12. よしみかどひめ - 夭折ようせつははおう
  13. 成徳しげのりみかどひめちょう瑚児 - ははあらわ皇后こうごうてい
  14. まこととくみかどひめちょうとみきん - はは明達めいたつ皇后こうごうりゅうそう丕に降嫁こうかし、かねかんがおしつらえかんがお宗翰むねもと長男ちょうなん)に再嫁さいかした。
  15. 徽福みかどひめちょうきむせん - ははよしちぇ早世そうせい
  16. 顕徳けんとくみかどひめちょうたくみくも - はは才人さいじんたかしそうりゅう文彦ふみひこ降嫁こうかし、かねあらいころもいんれられた。
  17. 熙淑みかどひめ - ははおう
  18. あつしよしみかどひめちょうさんきん - 夭折ようせつははよしちぇ
  19. 順徳じゅんとくみかどひめちょうえいからま
  20. やわらぶくみかどひめちょうとみちょう嬛嬛) - ははは懿粛おう
  21. さるぶくみかどひめ - ははけんおう
  22. めぐみぶくみかどひめちょうたまたま - ははは婉容おうかねかんがおはすかんがお宗翰むねもと次男じなん)にした。
  23. ぶくみかどひめちょうせんろう - ははおさむようかんやすしやすしへんころ死去しきょ
  24. けんぶくみかどひめちょう金児かねこ - ははは懿粛おうやすしやすしへんころ死去しきょ
  25. やすしぶくみかどひめちょうくしたま - ははよしちぇかねかんがおむねした。
  26. じんぶくみかどひめちょうかおりくも - ははよしちぇやすしやすしへんころ死去しきょ
  27. かずぶくみかどひめちょうきんたま - ははあかりぶし皇后こうごうりゅうかねあらいころもいんれられた。
  28. 永福えいふくみかどひめちょうふつ - ははよしちぇかねあらいころもいんれられた。
  29. れいぶくみかどひめちょうきんしるし - かねの熙宗の後宮こうきゅうはいとなった。
  30. はなぶくみかどひめちょうさいがつ - かねの熙宗の後宮こうきゅうはいとなった。
  31. 慶福けいふくみかどひめちょうきんしゅうと - かねの熙宗の後宮こうきゅうはいとなった。
  32. ぶくみかどひめちょうえんたま - かねかんがおむねした。
  33. じゅんぶくみかどひめちょうきむりん - かねおうしげる棣にした。
  34. きょうぶくみかどひめちょう小金こがね - みなみそう早世そうせいした。
  35. ぜんぶくみかどひめ - かねまれた。西にしなつあつしふくした。

以上いじょう、『そう』『きむふみ』『そうかいよう輯稿』『やすしかん稗史はいし箋證』『三朝みささきためいかいへん』にもとづく。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 藤本ふじもとたけしかん忠彦ただひこ宰相さいしょう就任しゅうにんもと3ねん2がつ)はむかいふとしきさき意向いこうであるが、曾布の宰相さいしょう就任しゅうにんもと3ねん10がつ)はそれよりも8かげつおそく、ふとしきさき政務せいむ一線いっせん退しりぞいていたことから徽宗自身じしんあんとする。
  2. ^ 三朝みささきためいかいへん』によれば、かねぐん南下なんかたいする善後ぜんごさく協議きょうぎしている途中とちゅう突然とつぜんたおれて半身不随はんしんふずいとなり、譲位じょうい意思いししめすとさとしめいじてみことのり作成さくせいさせたという。だが、『長編ちょうへん記事きじ本末ほんまつ』などによれば、これは蔡攸・つなさとしらとわせたうえでの仮病けびょうであった。実際じっさいにそれからもなく開封かいふう脱出だっしゅつしており、うごける状態じょうたいであったことをしめしている。
  3. ^ やすしかん稗史はいし箋證』

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ そうまき28, こうそうおさむ 紹興しょうこうねんよんがつ甲子きのえねじょうによる。
  2. ^ きむふみまき4, 熙宗 てんかいじゅうさんねんよんがつへいとらじょうには、昏徳こうちょうただしが薨逝すると使者ししゃおくとむらい、扶助ふじょつたえたと記録きろくされている。
  3. ^ やすしかん稗史はいし箋證』まき6「呻吟しんぎんしゅきさきだい縊,よみがえ,仍投すい薨。
  4. ^ やすしかん稗史はいし箋證』まき6「つばめじん麈」よるしょうきさきしゅ縊、すくいまぬかれ、仍死于水。
  5. ^ 岡村おかむら秀典ひでのりかがみ研究けんきゅういちせんねん : 中國ちゅうごく考古學こうこがくのパラダイム」『東洋とうよう研究けんきゅうだい69ごう東洋とうよう研究けんきゅうかい、2011ねんhttps://doi.org/10.14989/188395 5ぺーじ
  6. ^ おく鄧国公主こうしゅついふう
  7. ^ しょくこく公主こうしゅついふう
  8. ^ しょうこく公主こうしゅついふう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 藤本ふじもとたけし風流ふうりゅう天子てんしと「君主くんしゅ独裁どくさいせい」-きたそう徽宗あさ政治せいじ研究けんきゅう』(京都きょうと大学だいがく学術がくじゅつ出版しゅっぱんかい、2014ねんISBN 978-4-87698-474-9
  • 熊倉くまくら功夫いさおほどけいひつじさるへん『徽宗『大観たいかんちゃろん』の研究けんきゅう』(みやたい出版しゅっぱんしゃ、2017ねんISBN 978-4-8016-0063-8

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]