罪 己 詔
概要 [編集 ]
中国 史 における罪 己 詔 [編集 ]
(ただし、「
日本 史 における罪 己 詔 [編集 ]
冒頭 に聖 天子 の政道 を叙 し、政事 の不行届 に由 って天譴 の下 る次第 を説 き、這般 の震災 は上 一 人 の責任 であつて、下 兆 庶には何 等 の罪科 が無 い筈 なのに、其 の天譴 を負 うに至 ったのは実 に気 の毒 である。宜 しく使 を遣 わし、国 吏 と議 して、免租 ・賑恤 等 のことを行 え。 —今村 明恒 、「地震 及 び火山 噴火 に關 する思想 の愛 遷」『地震 』第 16巻 第 6號 、1944
なお、
なお、
また、
中国 歴代 の主 な罪 己 詔 [編集 ]
漢 代 [編集 ]
漢 の文 帝 の後 元 元年 (紀元前 163年 )の詔書 、「近年 の不作 ・洪水 ・旱魃 ・疫病 が非常 に心配 だ。朕 は愚 かで原因 が分 からない。なのに非難 もされていない。自分 の政 に落 ち度 があるのだろうか?……役人 の給料 が高 すぎて無駄 がありすぎたのだろうか?なぜ民 の食料 が不足 しているのか」[13]漢 の武 帝 は征 和 4年 (紀元前 89年 )、輪 台 罪 己 詔 (中国 語 : 轮台诏)を出 した[14]。これは中国 歴史 上 で最 も内容 が豊富 で保存 状態 が良 い罪 己 詔 である。漢 の明 帝 の永 平 8年 (65年 )10月 壬 寅 に日食 が起 こり、詔書 が出 された。「……長 く責任 の所在 を考 えたが、君主 である私 一人 に責任 がある。職 事 を学 び修 めた郡司 が率直 に物 を言 うことを止 めることはしない。」[15]
唐 代 [編集 ]
- 「
罪 己 詔 」に類似 する例 として、唐 の太 宗 李 世 民 は貞 観 二 年 (西暦 628年 )に蝗 害 が発生 したとき、「天 よ、罪 のない民衆 の作物 を食 うぐらいなら、責任 者 である朕 の体 を食 え!」と言 い、群臣 の制止 をふりきってイナゴを生 きたまま飲 み込 んでしまったという。「神 の心 を動 かした帝王 の行 い(四 )」看 中国 、2024年 2月 12日 閲覧 唐 の憲 宗 は、元和 3年 (808年 )冬 、大 旱魃 が起 きたため、「罪 己 詔 」を発 して雨 を求 めた。
宋 代 [編集 ]
淳 化 5年 (994年 )9月 丁 丑 、蜀 の反乱 をほぼ平定 すると、太 宗 は「罪 己 詔 」を下 した[16]。宣 和 7年 (1125年 )12月己 未 、徽宗は「罪 己 詔 」を下 した[17]。建 炎 3年 (1129年 )2月 壬 戌 、晋 寧 軍 を金 に攻 め落 とされたことから、この月 の癸 亥 に高 宗 は「罪 己 詔 」を下 し、直言 を求 めた[18]。隆 興 元年 (1163年 )5月 甲 寅 、北 伐 に乗 り出 した宋 軍 が符 離 で金 に大敗 すると、6月 癸 酉 に孝 宗 は「罪 己 詔 」を下 した[19]。嘉 泰 4年 (1204年 )3月 丁 卯 、臨安での大火 により太 廟 が焼失 すると、この月 の甲 戌 に寧 宗 は「罪 己 詔 」を下 した[20]。開 禧3年 (1207年 )7月 乙 酉 、災 変 に対 する反省 から、寧 宗 は「罪 己 詔 」を下 した[20]。嘉 定 6年 (1213年 )閏 9月 乙未 、大 きな雷 があったため、この月 の丙 申 に寧 宗 は雷 が落 ちたのは私 の責任 だとして「罪 己 詔 」を下 した[21]。端 平 3年 (1236年 )4月 癸 丑 、襄 陽 がモンゴル軍 により陥落 すると、理 宗 は「罪 己 詔 」を下 した[22]。嘉 熙4年 (1240年 )1月 辛 未 、彗星 が営室に出現 したことから、この月 の庚 辰 に理 宗 は星 変 (天文 の異変 )を理由 として「罪 己 詔 」を下 した[22]。徳 祐 元年 (1275年 )3月 丙 子 、モンゴル軍 の攻勢 による国難 に際 し、恭 帝 は「罪 己 詔 」を下 した[23]。なお、この「罪 己 詔 」の後 、南 宋 は元 に降伏 した。
明代 [編集 ]
建 文 帝 は、燕 王 (後 の成 祖 )の軍 が城下 に迫 った時 に罪 己 詔 を出 した。その文書 は現存 していない。明 の成 祖 は新設 した北京 の紫 禁城 が雷 に打 たれて大 火事 になった時 、宗廟 に入 り自身 を省 みて罪 己 詔 を出 した。正統 8年 (1443年 )、奉天 殿 の鴟 吻が雷 に打 たれ、英 宗 はまた罪 己 詔 を出 した。「まさに祁鎮(英 宗 )自 らの不徳 の致 すところで、祁鎮は心底 に怯 え恐 れております。自 らの行 いを戒 め謹 み、反省 して怠 けないように努 めます」と誓 っている。景 泰 2年 (1451年 )10月 、代 宗 は罪 己 詔 を出 した。「君主 は徳 を失 い、臣下 は職 を失 った。」正徳 9年 (1514年 )正月 16日 、乾 清宮 の大火 で、武 宗 が罪 己 詔 を出 し、あわせて群臣 にも同 じく自 ら反省 することを命 じた[24]。嘉 靖 36年 (1557年 )4月 、三 大殿 の大火 で、世 宗 が罪 己 詔 を出 した。「ただ仁愛 をもってしても全 て朕 自 らの咎 は重 い。私 は罪 己 の文 を下 し、臣民 全 てにこれを示 す。」万 暦 24年 (1596年 )、乾 清 宮 と坤 寧 宮 の両 宮 の大火 で、神 宗 は罪 己 詔 を出 した。「長 く非難 を受 ける理由 は朕 の不徳 の致 すところです。朕 は自責 の念 で身 が引 き裂 かれる思 いであり、体 も震 え乱 れ安 らかではありません。痛 みを伴 って悔 い改 め、郊外 の廟 で祈 りを捧 げ、国内外 に喜 びを与 え、改革 に努 めることとする。私 は罪 己 の言 を下 し、共 に正 しく戒 めを受 けるつもりである。あらゆる場所 に苦 しみがあり、朕 自 らにもあり、咎 やあやまちは君主 一 人 の責任 であり、民 は謹 んで諭 すのが適切 であり、天 の戒 めを承 り、禊 を成 して嘆 きを分 かち、大法 小 廉 で全 ての臣下 が忠義 を持 ち善良 であり、公務 の精神 を持 つことが大切 である。国内 は安 らかに国外 は静謐 にすることが国 の統治 に期 す。」[25]王 恭 廠 大 爆発 災害 の時 (1626年 )に、明朝 はちょうど内外 の政情 が混迷 し、不安定 になっており、国家 政治 は腐敗 し、宦官 が専権 をふるい、善悪 不 分 だった。災害 の一報 は迅速 に全国 に伝 わり、朝廷 内外 を動揺 させ、国内外 も震撼 させ、人心 に不安 を与 えた。多 くの大臣 が、この大 爆発 は天 から皇帝 への警告 であると考 え、次々 と上書 し、天啓 帝 に時弊 を匡正 し国 の規律 を正 せと要求 した。皇帝 は罪 己 詔 を出 さざるを得 なくなり、厳 しく反省 することを表明 し、大小 の臣下 らに対 しても「洗 心 し仕事 に尽 くすことに務 め、厳 しく反省 すること」と戒 め、大明 国家 国土 の長治 久安 を願 い、万事 災害 がなくなるよう務 め、且 つ国庫 のすべての黄金 を災害 救援 に使 うよう詔 を発 付 した。李 自 成 らの民衆 反乱 や清 のヌルハチらの騎馬 民族 の侵攻 に苦 しんだ明 の思 宗 は6回 罪 己 詔 を出 している。『明 史 』陳 子 壮 伝 によれば、臣下 の陳 子 壮 が「反乱 軍 を抑 えるためには人心 を収拾 せねばなりません。陛下 、罪 己 詔 を下 して忠義 の士 を募 るべきでございます」と進言 したためであるという。しかし、これらの詔 の効果 はなく、明 は李 自 成 軍 に敗 れてしまい、紫 禁城 も落 とされてしまった。自 ら首 を括 る前 に自 らの着衣 の襟 に「罪 己 」の詔 を下 した。「朕 は徳 もなく、体 も弱 かったのに皇帝 の地位 に就 いた。朕 は天罰 を受 けてしまった。これはみな臣下 が朕 を誤 らせたのだ。朕 は冥土 で先祖 に合 わせる顔 がない。朕 は恥 ずかしいので冕冠を脱 いで髪 で顔 を隠 す。逆賊 に体 を引 き裂 かれてもいい。どうか民 はただの一人 も殺傷 しないでほしい」と。殉死 した家臣 は僅 かに数 十 名 であった。[26]
清 代 [編集 ]
清 の順治 帝 は生前 6回 [28]罪 己 詔 を出 し、臨終 の際 には14条 の罪状 を挙 げ己 を有罪 とした。康 熙18年 (1679年 )7月 、三河 ・平谷 地震 により罪 己 詔 が出 された。康 熙20年 (1681年 )12月、罪 己 詔 が下 された。嘉 慶 18年 (1813年 )9月 、嘉 慶 23年 (1818年 )4月 、罪 己 詔 が出 た。光 緒 26年 (1900年 )12月、庚 子 事変 により罪 己 詔 が下 された。宣 統 3年 (1911年 )9月 、辛 亥 革命 の際 に、摂政 王 、愛 新 覚 羅 載 灃が罪 己 を詔 した。
注釈 [編集 ]
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今村 明恒 「地震 及 び火山 噴火 に關 する思想 の愛 遷」『地震 』第 16巻 第 6號 、1944 - ^
高田 理 夫 「自然 災害 雑考 」京大 地震 研究所 、1985 - ^
今村 1944 - ^
高田 理 夫 1985 - ^
原文 はウィキソースの『断 句 十 三 経 経文 』本 を元 とし、訳文 は竹内 照夫 『春秋 左 氏 伝 』平凡社 中国 古典 文学 大系 2を参考 にした - ^ 顧頡
剛 口述 『中国 史学 入門 』p171研 文 出版 、1987。ただし、『漢書 』翟方進 伝 によれば原因 は日食 ではなく「火星 が心 宿 (アンタレス)に入 った」ためであり、天体 現象 は口実 で、皇帝 は「こういう不吉 な現象 が起 こったのはお前 の悪政 のせいだ」と翟の飢餓 ・民衆 反乱 などの失政 を厳 しく詰問 し、翟は即日 自害 したとあり、顧頡剛 の説 と異 なる。 - ^ 顧1987,p171
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今村 1944 - ^
高田 1985 - ^
高田 1985 - ^
今村 1944、高田 1985 - ^
高田 1985 - ^ 『
漢書 』文 帝 紀 - ^ 『
漢書 』西域 伝 下 - ^ 『
後 漢書 』顕宗 紀 - ^ 『
宋 史 』太 宗 紀 二 - ^ 『
宋 史 』徽宗紀 四 - ^ 『
宋 史 』高 宗 紀 二 - ^ 『
宋 史 』孝 宗 紀一 - ^ a b 『
宋 史 』寧 宗 紀 二 - ^ 『
宋 史 』寧 宗 紀 三 - ^ a b 『
宋 史 』理 宗 紀 二 - ^ 『
宋 史 』瀛国公 紀 - ^ 《
明 書 ・巻 五 十 四 》傅 維麟纂,華 正 書 局 ,民 63,頁 1044 - ^
傅 維麟編纂 『明 書 』巻 五 十 五 。華 正 書 局 ,民 63,頁 1070 - ^ 『
明 史 』明 史 卷 二 十 四 ・本紀 第 二 十 四 ・荘 烈 帝二 、原文 は「御 書 衣 襟 曰:『朕 涼 德 藐躬,上 干天 咎 ,然 皆 諸 臣 誤 朕 。朕 死 無 面目 見 祖宗 ,自 去 冠 冕,以髮覆面 。任 賊 分裂 ,無傷 百姓 一 人 。』 - ^ 《
明 史 ・本紀 巻 二 十 四 荘 烈 帝 一 》許 嘉 璐編,漢語 大 辭典 出版 社 ,民 93,頁 251 - ^
順治 十 年 閏 六 月 、順治 十 一 年 六 月 、順治 十 三 年 三 月 、順治 十 四 年 九 月 、順治 十 七 年 正月 、順治 十 八 年 正月