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なりおう (しゅう)

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なりおう ひめ
西にしあまね
だい2だいおう
王朝おうちょう 西にしあまね
在位ざいい期間きかん ぜん1042ねん - ぜん1021ねん
都城みやこのじょう 鎬京
せいいみな ひめ
生年せいねん しょう
没年ぼつねん ぜん1021ねん
ちち たけおう
はは 邑姜
后妃こうひ おう
一説いっせつでは少子しょうし年少ねんしょう)とされる
なりおう (しゅう)

なりおう(せいおう)は、しゅうちょうだい2だいおうたけおう。「なりおう」とは諡号しごうではなく、生前せいぜんからの称号しょうごうである。

同母どうぼおとうとすすむ開祖かいそから叔虞[1]邘叔おうこうかんこうらの兄弟きょうだいがいた[2]

概要がいよう[編集へんしゅう]

易姓革命えきせいかくめい、わずか2ねん崩御ほうぎょしてしまったちちおうのちいで即位そくいする。

当時とうじはまだしゅう政治せいじ体制たいせい安定あんていしておらず、いんみかどからし(紂王)のたけかのえろくちち)やなりおう叔父おじたけおうおとうとかん叔鮮蔡叔)たちの謀反ぼうほんさんかんらん)などが相次あいつぎ、国情こくじょうきわめて不安定ふあんていであった。

なりおう誦は即位そくいしたときはまだ幼少ようしょうであったので、実際じっさい政務せいむはは邑姜叔父おじしゅうこうだん開祖かいそ)、太公望たいこうぼうりょひさしひとし開祖かいそ)、召公奭つばめ開祖かいそ)らが後見こうけんした。おとうと叔虞とうすすむ)に、べつおとうとかんふうじたほか、『史記しきすわえによるとみかど一人ひとり顓頊子孫しそんすわえふうじたという。

なりおう成長せいちょうすると、みずか政務せいむるも、『史記しきしゅう本紀ほんぎによると、わかくして崩御ほうぎょしたとしるされている。

史記しきふうぜんしょによると、おう即位そくい天地てんちらせて天下てんか泰平たいへい感謝かんしゃするふうぜん儀式ぎしきおこなったという。ひとし桓公かんこうつかえたかんなか記憶きおくするかぎり、ふうぜんおこなった最後さいごおうであった。

ひめ釗(かんおう)がこういだ。かれだいまでがしゅう確立かくりつであった(成康なりやす)。

倭人わじんとの関係かんけい[編集へんしゅう]

こうかんおうたかし著書ちょしょろん』によると、なりおう時代じだいえつこしつねともう。中国ちゅうごく南方なんぽうにいた民族みんぞくられる)がしろ雉(しろいキジ)をけんじ、倭人わじんとおるくさ薬草やくそう)をけんじた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 史記しきすすむより
  2. ^ 春秋しゅんじゅうひだりでん』僖公24ねん