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穆公 (秦) - Wikipedia コンテンツにスキップ

きよしこう (はた)

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きよしおおやけ 嬴任このみ
はた
だい9だいおおやけ
王朝おうちょう はた
在位ざいい期間きかん ぜん659ねん - ぜん621ねん
都城みやこのじょう 雍城
せいいみな 嬴任このみ
生年せいねん しょう
没年ぼつねん きよしおおやけ39ねんぜん621ねん
ちち とくこう
后妃こうひ きよしひめすすむけんじこうむすめ
陵墓りょうぼ

きよしおおやけ(ぼくこう)は、中国ちゅうごく春秋しゅんじゅう時代じだいはただい9だいこう。繆公とも記述きじゅつされる[1][2][3]

生涯しょうがい

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とくこうだい6だい)のなりこうだい8だい)のおとうと兄弟きょうだい相続そうぞくによりはたこうとなる。隣国りんごくすすむけんじこうむすめめとり、そのとき侍臣じしんとして百里ひゃくりいてきた。きよしおおやけひゃくさと奚を召抱めしかかえ、以後いごひゃくさと奚に国政こくせいまかせるようになった。

きよしおおやけ9ねん紀元前きげんぜん651ねん)、すすむけんじこうぬと、後継こうけいあらそいですすむ国内こくない騒乱そうらん状態じょうたいとなった。すすむ公子こうしえびすわれすすむおおやけくためにきよしおおやけ援助えんじょ要請ようせいした。きよしおおやけえびすわれあにじゅうみみほう人格じんかくてきこのんでいたが、じゅうみみ辞退じたいしたことと、英邁えいまいほまたかじゅうみみくらべると出来できわるえびすわれすすむおおやけせばなにかと自分じぶん有利ゆうりになるとんで、えびすわれすすむれてめぐみおおやけとした。このときめぐみおおやけきよしおおやけれいとして領土りょうど割譲かつじょう約束やくそくしていた。しかしすすむはいっためぐみおおやけ約束やくそくやぶり、すすむ国内こくない悪政あくせいおこなった。

きよしおおやけ13ねん紀元前きげんぜん647ねん)、すすむ不作ふさくになり、食糧しょくりょう不足ふそくしたためにしん援助えんじょ要請ようせいした。家臣かしんたちは領土りょうど割譲かつじょう約束やくそくやぶっためぐみおおやけなん食糧しょくりょうおくってやる必要ひつようがあるかと反対はんたいしたが、きよしおおやけは「めぐみおおやけことにくんでいるが、みんつみい」とい、すすむ大量たいりょう食糧しょくりょうおくった。その翌年よくねん今度こんどはた不作ふさくとなった。きよしおおやけすすむ援助えんじょ要請ようせいした。しかしめぐみおおやけ食糧しょくりょうおくらず、ぎゃく好機こうきととらえてはたんできた。これにさすがのきよしおおやけ激怒げきどし、翌年よくねん出兵しゅっぺいしてすすむぐんかんばら激突げきとつし(かんげんたたか)、大勝たいしょうしてめぐみおおやけ捕虜ほりょとした。凱旋がいせんしてかえってきたきよしおおやけめぐみおおやけ祭壇さいだん生贄いけにえにしようとおもっていたが、夫人ふじんきよしひめめられた。そこでめぐみおおやけ太子たいし人質ひとじちにして、めぐみおおやけ帰国きこくゆるした。

きよしおおやけ20ねん紀元前きげんぜん641ねん)、度重たびかさなる土木どぼく工事こうじ増築ぞうちくして、国家こっか自体じたい疲弊ひへいした同族どうぞくりょうほろぼした。

きよしおおやけ22ねん紀元前きげんぜん638ねん)、すすむめぐみおおやけ重病じゅうびょうとなると圉はすすむかえった。度々どど背信はいしんおこったきよしおおやけすわえにいたじゅうみみむかれて、ともへいしてじゅうみみぶんこうとした。

きよしおおやけ36ねん紀元前きげんぜん624ねん)、ぶんおおやけぼつすすむってこれをおおいにやぶり、西戎せいじゅうって西戎せいじゅう覇者はしゃみとめられた。

きよしおおやけ39ねん紀元前きげんぜん621ねん)、薨去こうきょ。このとき家臣かしん177めい殉死じゅんしした。主立おもだった家臣かしんたちが数多かずおお殉死じゅんししたことにより、はた国力こくりょくおおきく低下ていかし、一時期いちじきおもて舞台ぶたいからとおざかることとなる。『詩経しきょう』・国風くにぶりしんふうにある「黄鳥こうちょう」のしゃ奄息(えんそく)・しゃなかこうしゃ鍼虎(かんこ)のさん兄弟きょうだいきよしおおやけのため殉死じゅんしさせられたことをうたったという。

うら骨髄こつづいとお

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きよしおおやけ

きよしこうすすむじょうおおやけぶんこう)とたたかって大敗たいはいし、派遣はけんしたはたさん将軍しょうぐん捕虜ほりょになってしまった。すすむじょうおおやけさん将軍しょうぐんろうとしたが、そのはは、つまりぶんこう夫人ふじんはたきよしおおやけむすめであった。そのため命乞いのちごいをした。「きよしおおやけさんにんうらむこと骨髄こつづいてっしています。どうかさんにんはたかえし、はたきみおも存分ぞんぶんころさせてください」というはは言葉ことばしたがい、じょうおおやけさん将軍しょうぐんはたかえした。さんにんかえるときよしおおやけ郊外こうがい出迎でむかえ、「老臣ろうしんたちの忠言ちゅうげんかずに出兵しゅっぺいしたわたしがわるかった」といてあやまり、さんにんゆるした。この故事こじがもとになり、徹底的てっていてきひとうらむことを「うら骨髄こつづいとおす(またははいる)」というまれた。 [4]

評価ひょうか

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春秋しゅんじゅう一人ひとりかぞえられることもある。

また、百里ひゃくり奚やよしあまり中国語ちゅうごくごばんあしなえ中国語ちゅうごくごばん丕豹公孫こうそんえだ中国語ちゅうごくごばんひとし異邦いほう異才いさい登用とうようして国力こくりょく増強ぞうきょうさせたことは、はるかしょうちょうただし范雎ひとし異国いこく異才いさいたちによるはた天下てんか統一とういつへの道筋みちすじ先鞭せんべんともなった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ りゅうむかい (西にしかんまえ77ねんまえ6ねん). “せつえんふくおん”. 2020ねん5がつ11にち閲覧えつらんはた繆公嘗出,而亡其駿往求。”
  2. ^ 風俗ふうぞく通義みちよし巻一けんいち孔子こうししょうみんいた于今受其たまもの”。また曰:“ひとし桓正而不譎,すすむぶん譎而不正ふせい。”いたり于三こくすんで嘆誉一言ひとこと;而繆こう受鄭甘言かんげんおけ戍而たがえかみけい,而遇殽之はいころせけんしんひゃくさと奚,以子しゃため殉,黄鳥こうちょう所為しょいさくおくりな曰繆。
  3. ^ おう利器りき風俗ふうぞく通義みちよしこうちゅう巻一けんいちしゅうしょおくりなほうへん:“めいあずかじつ爽曰謬。”どおりさく繆,蔡邕独断どくだん:“名実めいじつ相反あいはんため繆。”史記しきこうむ恬伝:“こうむあつし曰:はたきよしおおやけころせ三良而死罪百里奚,而非其罪,だてごう曰繆。”ろん衡福きょへん:“且近なん以秦きよしおおやけすすむぶんこう,曰:おっとおくりなしゃぎょうあと也,あとせいぎょう以為おくりなきよししゃあやまらんめい文者もんじゃ徳恵とくえこれひょう。”かわきゅうかわぶんやぶはたきよしおくりな繆論うん:“すすむめぐみこう在位ざいいさく宗廟そうびょう蠹蠍,ため社稷しゃしょく稂莠,いちだてじゅうねん,其為がい也大矣。いま学者がくしゃ,以秦きよしため繆,なおうたぐ其諡,とく斯人也,以諡繆為じょう。”よりどころ此諸せつのり繆為繆戻繆,きゅうゆうせつ;而呉曾辨あやまろくなおいい後世こうせいたたえきよし而不しょう繆”,しゃはじめ淛文うみ披沙なおきょ以与魯繆、せきたけしすずしょう一十而不知二五也。ぜにだい昕十駕斎養新録四曰:“古書こしょあきらきよしきよしあずかおくりなほう繆,しょうらんれい大伝だいでんじょ以昭繆。ちゅう:繆読ためきよしこえあやま也。ぼうこうころせ繆侯而竊其夫じんしゃくあや:繆音きよしおおやけひつじでんそうそう繆公。しゃくあや:繆音きよし,凡此倣此。史記しきこうむ恬伝:むかししゃはたきよしおおやけころせ三良而死罪百里奚,而非其罪也,だてごう曰繆。しかのりしん繆公おくりなとう読如繆,所謂いわゆるめいあずかじつ爽曰繆也。こうむあつししんじん,其言必有矣。”
  4. ^ 司馬しば遷『史記しき』1 はた本紀ほんぎ 小竹こだけ文夫ふみお武夫たけおやく ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ p.114/井波いなみ律子りつこ故事こじ成句せいくでたどるたのしい中国ちゅうごく岩波ジュニア新書いわなみじゅにあしんしょ 2004 p.38>