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桓公(かんこう)は、秦の第12代公。共公の子。
共公5年(前604年)春、共公が薨去したため、子の栄が立って秦公となる。
桓公3年(前601年)6月、晋が白狄とともに秦を攻撃してきた。このとき晋が秦の間者を捕えて都の絳(こう)で処刑したところ、6日後に蘇生したという。
桓公10年(前594年)、楚の荘王は鄭を従え、北の晋軍を黄河のほとりで破った。この時、楚は覇者となり、諸侯を会する盟主となった。
桓公15年(前589年)11月、魯・楚・秦・宋・陳・衛・鄭・斉・曹・邾・薛・鄫の12カ国が蜀の地(現在の四川省)で会合し、秦からは右大夫の説がこれに出席した。
桓公22年(前582年)11月、秦は白狄とともに晋を攻撃した。
桓公24年(前580年)冬、晋の厲公が立ち、桓公と黄河をはさんで互いに盟を結んだが、帰国するなり桓公はこれを反古にした。
桓公26年(前578年)5月、晋が諸侯を率いて秦を攻撃し、秦は敗走した。
桓公27年(前577年)冬、薨去し、子の景公が立って秦公となった。
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