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めぐみぶんおう (はた)

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めぐみぶんおう 嬴駟
はた
初代しょだいおう
王朝おうちょう はた
在位ざいい期間きかん ぜん337ねん - ぜん311ねん
都城みやこのじょう 咸陽
せいいみな 嬴駟(えいし)
生年せいねん こうこう6ねんぜん356ねん
没年ぼつねん めぐみぶんおう14ねんぜん311ねん
ちち こうこう嫡子ちゃくし
后妃こうひ めぐみぶんきさき夫人ふじん
はち
陵墓りょうぼ おおやけりょう

めぐみぶんおう(けいぶんおう)は、中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだいはたの26だい君主くんしゅせい(えい)、いみな(し)。『はた駰玉ばん』によると、いみな(いん)。ちちこうこう方針ほうしんぎ、しょくおよびともえ中国語ちゅうごくごばん征服せいふくしてはた国勢こくせいさらたかめた。在世ざいせいはたとしてははじめておうごうとなえたので、おうごう採用さいよう以前いぜんめぐみぶんくん称号しょうごうでもばれる。

生涯しょうがい

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出自しゅつじ

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異母弟いぼていぶなさとやまし(ちょりしつ)。たけおうとろけ(とう)・あきらじょうおうきび(しょく)・庶子しょし庶長公子こうしたけし(そう)・公子こうし(よう)・公子こうし中国語ちゅうごくごばん高陵こうりょうきみ中国語ちゅうごくごばん涇陽くん中国語ちゅうごくごばん公子こうしらなど。始皇帝しこうてい高祖父こうそふにあたる。

しょう粛清しゅくせい

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太子たいし時代じだいしょうほうれて、そのばちとしてでんやく(もりやく)の公子こうしけん中国語ちゅうごくごばん教育きょういくがかり公孫こうそん中国語ちゅうごくごばんがそれぞれはなぎ)と刺青しせいけいにされ、もう一人ひとり太子たいし侍従じじゅうしゅく処刑しょけいされた過去かこがあった。太子たいしはそのことうらみ、こうこう死後しごしょう鞅につみかぶせてり、その死体したいくるまきのけいしょした。しかししょう鞅の新法しんぽうはそのまま使用しようし、基本きほんてき国政こくせい方針ほうしんこうこう時代じだいよりえていない。

ちょうただし登用とうよう

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はたしょう鞅の改革かいかくにより、大幅おおはば国力こくりょく増強ぞうきょうしており、周辺しゅうへん諸国しょこくはこれをおそれ、本来ほんらいなら主筋しゅうすじであるはずのしゅうからおくものおくられるほどであった。あらたな官職かんしょくとしてあいくに(のちの相国しょうこく[1]設立せつりつし、樛斿をその地位ちいけた。

この国力こくりょくもと謀略ぼうりゃくであるちょうただし登用とうようして樛斿のつぎ相国しょうこくあいくに)ににん[2]度々どどたかしひとしすわえなどをち(きしもんやく中国語ちゅうごくごばんりゅう賈のやく中国語ちゅうごくごばん)、 めぐみぶんくん14ねん紀元前きげんぜん324ねん)におうごうとなえた。

めぐみぶんおう3ねん紀元前きげんぜん322ねん)、ちょうただしはた連衡れんこうしてかんともめるため、めぐみおう遊説ゆうぜい宰相さいしょう地位ちいいた。

めぐみぶんおう6ねん紀元前きげんぜん319ねん)、ちょうただし罷免ひめんされ追放ついほうされたのち、めぐみぶんおう8ねん紀元前きげんぜん317ねん)にはたもど相国しょうこく地位ちい再度さいどくまではちゅう山国やまぐにらくはた相国しょうこくつとめた[3]

はたおそれた諸国しょこくめぐみぶんおう7ねん紀元前きげんぜん318ねん)にかんちょうたかしつばめすわえカ国かこく連合れんごうぐんつくり、はたんできたが、めぐみぶんおうおとうとぶなさとやましめいじてこれをやぶり、その兵士へいし8まんくびった(はこたにせきたたか)。

ともえしょく併合へいごう

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めぐみぶんおう9ねん紀元前きげんぜん316ねん)、はた領域りょういきであるせきなかうしろにおおきくひろがるともえしょく中国語ちゅうごくごばん併合へいごうする(はためつともえしょくたたか中国語ちゅうごくごばん)。この地域ちいきには三星みつぼしうずたか文化ぶんかもととした独自どくじ文化ぶんかったくにさかえており、しゅうたいして服属ふくぞくしていた。せいしょくまえちょうただし司馬しばたいしてしょくるべきかどうかを諮問しもんしたところ、ちょうただしはこれに反対はんたいしてくに中央ちゅうおうであるしゅうるべきと主張しゅちょうし、司馬しば錯はしょくって後背こうはいるべきだと主張しゅちょうした。めぐみぶんおう司馬しば錯の意見いけん採用さいようしてしょくり、このことで、はたおおきな穀倉こくそう地帯ちたいさら長江ちょうこう下流かりゅうにあるすわえたいしてかわ使つかった進軍しんぐん輸送ゆそう可能かのうになり、圧倒的あっとうてき有利ゆうり立場たちばった。

すわえ討伐とうばつかんちゅうぐん設置せっち

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めぐみぶんおう13ねん紀元前きげんぜん312ねん)、すわえちょうただし策謀さくぼうはまってはたんでときには丹陽たんよう現在げんざい河南かなんしょう南陽なんよう淅川けん)でかえちにし、ぎゃくすわえかんちゅう地方ちほうり、そのかんちゅうぐん設置せっちする。そのすわえふたた侵攻しんこうしてさいには、咸陽ちか藍田あいだ現在げんざい陝西せんせいしょう西安しーあん藍田あいだけん)の撃破げきはして、すわえ衰亡すいぼう端緒たんしょつくす(藍田あいだたたか)。

めぐみぶんおう14ねん紀元前きげんぜん311ねん)、薨去こうきょしょう鞅をにくみながらもそのほう保持ほじしたことは、おなじく国政こくせい改革かいかく旗手きしゅであったおこり殺害さつがいしたすわえおこり改革かいかく成果せいか破棄はきしたことくらべてたか評価ひょうかがある。またともえしょくかんちゅう併合へいごうしたことは、はた最強さいきょうこくとなった要因よういんひとつと評価ひょうかされる。

りょう

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史記しき』によればおおやけりょうほうむられた。『史記しき正義まさよし』は、『くくこころざし』にいわくとして、その位置いち雍州咸陽けん西北せいほくじゅうよんしるす。現在げんざい咸陽うちの2カ所かしょ墳丘ふんきゅうがあり、そのいずれかと推定すいていされる[4]

登場とうじょう作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ かん成立せいりつ高祖こうそ劉邦りゅうほういみな相国しょうこく改名かいめい、ここでは一旦いったんあいくに使用しようする。
  2. ^ 紀元前きげんぜん322ねんちょうただしはた宰相さいしょうとなったさいにはふたたび樛斿が相国しょうこく地位ちいき、紀元前きげんぜん318ねんらくにその交代こうたいしている。
  3. ^ 史記しきまきはた本紀ほんぎだいななねんらくしょうしん。……はちねんちょうただしふくしょうしん
  4. ^ 飯島いいじま武次たけつぐ春秋しゅんじゅう戦国せんごく時代じだいしんおうりょう被葬ひそうしゃ変遷へんせん」、192ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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