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はたおう
はたちょう
だい3だい君主くんしゅ
王朝おうちょう はたちょう
在位ざいい期間きかん ぜん207ねん
都城みやこのじょう 咸陽
せいいみな 嬴子嬰
生年せいねん はじめすめらぎ8ねんぜん239ねんごろ?
没年ぼつねん 高祖こうそ元年がんねんぜん206ねん)1がつ
ちち しょう諸説しょせつあり)

(しえい)は、中国ちゅうごくはた最後さいご君主くんしゅ在位ざいい紀元前きげんぜん207ねん)。史料しりょうでは、はた王子おうじまたははたさんせいとも呼称こしょうされる。

はた皇族こうぞくであったが、はたせいであるえびす自殺じさつんだちょうだか擁立ようりつされ、しんおうとして即位そくいした。そのちょうだか殺害さつがいし、劉邦りゅうほう降伏ごうぶくしてはたほろんだ。のち項羽こううにより、一族いちぞくとともにころされた[1][2]

生涯しょうがい

[編集へんしゅう]

史記しき』「列伝れつでん」では始皇帝しこうていおとうととされているが、『史記しき』「はたはじめすめらぎ本紀ほんぎ」では「えびすあに」とされており、「あに」がだれことなのかは記録きろくされていない。また、『史記しき』「ろくこく年表ねんぴょうだいさん」では、「えびすあに」とされる。

はじめすめらぎ37ねん紀元前きげんぜん210ねん)7がつ巡幸じゅんこうなか始皇帝しこうてい死去しきょする。

始皇帝しこうてい巡幸じゅんこうをともにしていたえびすちょうだか斯が共謀きょうぼうして始皇帝しこうていみことのりいつわり、えびす始皇帝しこうてい太子たいし名乗なのり、上郡かみごおりにいた始皇帝しこうてい長子ちょうしであった扶蘇自害じがいさせられ、うちとしてはたぐんひきいていたこうむらえられ、しゅうごくにつながれた[3]

その咸陽かえったえびすせい皇帝こうてい即位そくいする。

えびす側近そっきんとして信任しんにんされていたちょうだか日夜にちやこうむ恬とそのおとうとであるこうむあつし中傷ちゅうしょうして、その罪過ざいかさがし、弾劾だんがいしていた。嬰はそのことにかんして、えびすを諫めた[4]。「いけません。かつて、ちょうおう遷(かそけ繆王)はりょうしょうまきころしてかおもちい、つばめおう荊軻計略けいりゃくもちいてはたとの盟約めいやくそむき、ひとしおうけんけん)は代々だいだい忠臣ちゅうしんころしてきさきしょう意見いけんもちいました。このさんにん君主くんしゅは、みな古来こらいのやりかたえて、くにうしない、わざわいはそのまでおよんだのです。こうむこうむ恬・こうむあつし)ははた大臣だいじんでありはかりごとであります。それなのに、あるじえびす)が一朝いっちょうにしてかれらをろうとのぞんでおられるのであれば、わたしはよろしくないとかんがえております。わたしは、『思慮しりょりないものはくにおさめることができず、ひとりよがりなものは君主くんしゅたもつことができない』という言葉ことばいております。忠臣ちゅうしん誅殺ちゅうさつすれば、節操せっそう人物じんぶつちょうだかのこと)をてれば、朝廷ちょうていのうちでは群臣ぐんしんたちがおたがいをしんじることができなくなり、外地がいちでは戦士せんしたちのしんはた王朝おうちょうからはなれてしまいます。わたしはよろしくないとかんがえています」。しかし、えびす嬰の言葉ことばをききいれず、使者ししゃおくり、こうむ恬・こうむあつし兄弟きょうだい自害じがいめいじた。こうむあつしころされ、こうむ恬は自決じけつした[3]

せい元年がんねん紀元前きげんぜん209ねん)7がつしんへのだい規模きぼ反乱はんらんであるちんまさるひろらんこる。

せい2ねん紀元前きげんぜん208ねん)11月、はたしょうであるあきらひねにおいてちんまさるやぶる。

同年どうねん12がつ敗走はいそうしたちんまさる部下ぶか裏切うらぎられ、しろちちにてころされた。

しかし、その反乱はんらんまず、斯はえびすに、阿房宮あぼうきゅう工事こうじ中止ちゅうしして、兵役へいえき輸送ゆそう労役ろうえきらすように諫めたが、らえられる。このとき嬰はまたしてもえびすを諫めた[5]。「いけません。やりかた法令ほうれいえて、忠臣ちゅうしん誅殺ちゅうさつしたうえに、節操せっそうひとちょうだかのこと)をてて、ほう勝手かってにつかさどらせて、不義ふぎ天下てんか人々ひとびと行使こうししたなら、後々あとあと、そのむくいをけることになります。わたしはそれをおそれます。大臣だいじん外地がいちかって様々さまざまはかり、みん内地ないちで(為政者いせいしゃを)うらんでおります。いま将軍しょうぐんあきら邯は外地がいちにいて、兵士へいしたちは労苦ろうくしていますが、物資ぶっし補給ほきゅうしていません。外地がいちにはてきはいませんが、はた内部ないぶ臣下しんかたちのたがいにあらそ意思いしられます。それゆえ、あやうい状況じょうきょうなのです」。しかし、嬰の諫めは、えびすかれず、斯は処刑しょけいされた[6][7]

せい3ねん紀元前きげんぜん207ねん)12月、はた反乱はんらんこしたすわえぐん指揮しき項羽こううちょう救援きゅうえんし、鉅鹿をかこしんぐん大破たいはされ、しんぐん包囲ほういかれた。たかしちょうひとしつばめ諸侯しょこうぐん項羽こううぞくすることになり、戦況せんきょう反乱はんらんがわ優位ゆういおおいにかたむき、しんがわ形勢けいせい一気いっき不利ふりとなった(鉅鹿のたたか)。

同年どうねん7がつしんぐん主力しゅりょく指揮しきあきら邯が、項羽こうう指揮しきすわえぐん降伏ごうぶくする。

同年どうねん8がつはこたにせきよりひがし土地とち民衆みんしゅうは、はたたいして反乱はんらんこし、諸侯しょこう呼応こおうした。さらに反乱はんらんぐんが、はた首都しゅとである咸陽へかってきていることもつたわってきた。

また、反乱はんらんぐんすわえぞくした劉邦りゅうほうすうまんにんひきいて、はたの咸陽をまもたけせきめて、やぶった。劉邦りゅうほう使者ししゃ派遣はけんして、ちょうだかとひそかにつうわせてきた。

えびすから処刑しょけいされることをおそれた丞相じょうしょうちょうだかは、むすめ婿むこで咸陽れいとなっていた閻楽おとうとちょうしげる謀議ぼうぎした。「陛下へいかえびす)は諫言をかず、この事態じたい急変きゅうへん責任せきにん我々われわれ一族いちぞくわせようとしている。わたしはおかみえ、後継こうけい公子こうしであるてたい。嬰はじんあつあり、ひかえめな人柄ひとがらで、みんみなそのげんをいただいている」。そこで、ちょうだかは閻楽にめいじて、クーデターをこして、えびす自殺じさつむ(もちえびすみやへん)。

ちょうだかは、閻楽からの復命ふくめいいて、はたしょ大臣だいじん公子こうしすべして、えびす誅殺ちゅうさつしたことをげてった。「はた元々もともと王国おうこくであった。はじめすめらぎきみ始皇帝しこうてい)が天下てんか統一とういつしたため、みかどしょうしたのだ。現在げんざいろくこく自立じりつしており、はた土地とちはますますちいさくなっている。それで、みかど名乗なのってもだけのむなしいものとなる。そこで、かつてのようにおう名乗なのるのがよい」。

同年どうねん9がつちょうだか嬰をしんおうとして擁立ようりつする。

嬰は斎戒さいかいおこない、先祖せんぞ宗廟そうびょうにまみえてから、たま璽をけることとなった。嬰は、斎戒さいかいをして5にちってから、宦者[8]かんだん[9] およ嬰の二人ふたりはかってった。「丞相じょうしょうちょうだかは、せい皇帝こうていえびす)をもちえびすみやにおいて殺害さつがいしたが、群臣ぐんしんから誅されることをおそれて、いつわっててたふりをして、わたし擁立ようりつしたのだ。わたしは、ちょうだかすわえ劉邦りゅうほう)と約束やくそくして、はた宗室そうしつほろぼしてせきちゅうおうになろうとしている、といた。いまわたし斎戒さいかいおこなわせ、先祖せんぞ宗廟そうびょうにまみえさせようとしているのは、宗廟そうびょうなかわたし殺害さつがいしようとかんがえているのだ。わたし病気びょうきしょうしてかなければ、丞相じょうしょうちょうだか)はかならるだろう。ときちょうだか殺害さつがいしよう」。

ちょうだか使者ししゃ派遣はけんして、嬰に宗廟そうびょうにまみえることをすうにわたってうたが、嬰はかなかった。たして、ちょうだかみずか嬰のところにかい「宗廟そうびょうにまみえるのは重大じゅうだいことです。おうはどうしてかないのですか?」と嬰にただしたが、その直後ちょくご嬰は斎戒さいかいおこなうための宮中きゅうちゅうにおいて、ちょうだか刺殺しさつちょうだかつらなるさんぞくをもほろぼし、咸陽において公表こうひょうした。

このときすわえしょうである劉邦りゅうほうしんぐんやぶって、たけせき突破とっぱしていた。嬰はへい派遣はけんし、劉邦りゅうほう軍勢ぐんぜい嶢関においてはばんだ。劉邦りゅうほう参謀さんぼうであるちょうりょう劉邦りゅうほう進言しんげんした。「はたへいはいまだつよく、かるくみるべきではありません。はたのぼり諸々もろもろやまうえりめぐらせて、うたぐへいけいをなしてください。そのうえで、酈食其に高価こうかたからたせてはたしょうあたえてください」。劉邦りゅうほうちょうりょう進言しんげんしたがうと、はたしょうたして(はたそむいて)劉邦りゅうほう連合れんごうして、一緒いっしょ西にしの咸陽にかうことをのぞんだ。劉邦りゅうほうはこのねがいをききいれようとしたが、ちょうりょうがまた進言しんげんした。「いまはただひとり、はたしょうはたそむことのぞんでいるだけです。おそらく士卒しそつたちしたがわないでしょう。したがわないときはかなら危機ききおちいります。かれらの油断ゆだんにつけこみ、攻撃こうげきするのがいいでしょう」。そこで、劉邦りゅうほうしんぐん攻撃こうげきした。これにより、しんぐん大破たいはされた[10]

劉邦りゅうほうはさらに、はたしも嶢と藍田あいだめ、ちょうりょうさくにより、たたかわずに降伏ごうぶくさせた。

高祖こうそ元年がんねん紀元前きげんぜん206ねん)10がつ劉邦りゅうほうぐんじょうにまでせまった。劉邦りゅうほうは、使者ししゃおくって嬰に降伏ごうぶくをうながした。嬰は、くびひもをかけて、服喪ふくもにつかうしろうま簡素かんそ馬車ばしゃり、天子てんしたまほうじて、軹道という土地とちにおいて、劉邦りゅうほう降伏ごうぶくした。嬰が即位そくいしてから、たった46にちであった。

劉邦りゅうほう配下はいかしょしょうには、嬰の処刑しょけい主張しゅちょうするものもいたが、劉邦りゅうほうは「降伏ごうぶくしているものを殺害さつがいすることは不肖ふしょうである」として、嬰を役人やくにんにまかせて一族いちぞくともども安全あんぜん保証ほしょうし、はた宮室きゅうしつふうじたうえで、ぐんかえしてじょう駐屯ちゅうとんした[11]

同年どうねん11がつ劉邦りゅうほうじょう各地かくち父老ふろう豪族ごうぞくせて、「わたしが(せきちゅうとしたことによる功績こうせきをあげたため、さきすわえふところおうと)諸侯しょこうとの約束やくそくにより、せきちゅうおうとなるであろう。せきちゅうおうになったのちは、ほうさんしょうのみ(ひところすものは死罪しざいひときずつけるものとひとのものをぬすんだものはばっする)とする。それ以外いがいはたほうのぞくであろう」ことを約束やくそくした。劉邦りゅうほうは、使者ししゃはた役人やくにんとともにはた土地とちであったさとや邑におくり、このことを宣言せんげんさせた。はた人々ひとびとおおいによろこんで、劉邦りゅうほうはたおうになれないことをおそれた[11]

劉邦りゅうほうは、あきら邯が項羽こうう降伏ごうぶくして、雍王にふうじられたとき、項羽こううしょしょうせきちゅうれば、せきちゅうおうになれないこととかんがえて、はこたにせきへいまもって項羽こううふせぐことにした。しかし、はこたにせき到着とうちゃくした項羽こううは、はこたにせきじられているとり、えいぬの各国かっこくしょしょうとともにはこたにせきやぶった[11]

同年どうねん12がつ項羽こううひきいるしょしょうぐん40まんはこたにせき突破とっぱして、おどけ到達とうたつした。劉邦りゅうほうひだり司馬しばであった曹無きず使者ししゃ項羽こううのもとにおくり、「沛公(劉邦りゅうほう)はせきちゅうおうになろうとのぞみ、嬰をそうにして、珍宝ちんぽうすべしゅにいれました」とげさせた。項羽こうう劉邦りゅうほうたたかおうとしたが、おじのこうはくからの説得せっとくにより、劉邦りゅうほう項羽こうう釈明しゃくめいし、項羽こううはこれをみとめた(おおとりもんかい)。項羽こうう西進せいしんして、咸陽へと進軍しんぐんした[11]

同年どうねん1がつ項羽こううは咸陽にはいると、したがえちょう諸侯しょこう合従がっしょう連合れんごうぐん盟主めいしゅ)として、嬰とはたしょ公子こうし宗族そうぞくすべ処刑しょけいした。さらに、項羽こううは咸陽を略奪りゃくだつして、はた宮室きゅうしつはらい、子女しじょとりこにしたうえで、珍宝ちんぽう財貨ざいかうばり、咸陽を略奪りゃくだつした諸侯しょこうけた。項羽こううはた後裔こうえいとなるものをすべほろぼし、はた土地とちみっつにけて、雍王(あきら邯がおうとなる)、ふさがおう司馬しば欣がおうとなる)、翟王(ただしかげおうとなる)がおうふうじられ、さんはた名付なづけられた。これで、はた王朝おうちょうほろんでしまった。

評価ひょうか

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司馬しばに『史記しき』において引用いんようされた、前漢ぜんかん政治せいじである賈誼によってあらわされた『しんろん』において、嬰はつぎのように評価ひょうかされている。

「(えびす死後しご嬰が即位そくいしたが、(各地かくちはたたいする反乱はんらんき、鎮圧ちんあつできない理由りゆうを)さとることはなかった。もし、嬰になみ君主くんしゅとしての才能さいのうがあり、ちゅう程度ていど人物じんぶつ補佐ほさていれば、山東さんとう戦乱せんらんになったといっても、はた土地とちまっとうしてたもつことができ、宗廟そうびょうまつりは(賈誼のきていた時代じだいまでも)いまだ、えることはなかったであろう。嬰は孤立こりつして、したしい人物じんぶつもおらず、あやうくてよわく、補佐ほさするものもなかった。さんぬし始皇帝しこうていえびす嬰)まどいながら、終身しゅうしん、(おのれあやまちを)さとることがなかった。はたほろびたのは当然とうぜんなことである」

また、こうかん歴史れきしであるはんかたは、嬰のことを「嬰は順次じゅんじにより、王位おういいだ。嬰が小人こどもだとしたら、つくべきである地位ちいにつくとよろこびのあまりに自分じぶんまもるべきぶんわすれ、日々ひび安逸あんいつごすであろうに、ふかくおもんばかり、とともに権謀けんぼうをなして、狡猾こうかつ大臣だいじんでありながらえびす弑逆しいぎゃくしたぞくでもあるちょうだか討伐とうばつし、誅殺ちゅうさつしたのだ。しかし、ちょうだかってからわずかな時間じかんあたえられずに、すわえ劉邦りゅうほう)のへいせきちゅうんできて、じょうにまでいたった。嬰は、みかどしゃのちかん高祖こうそとなる劉邦りゅうほうす)に降伏ごうぶくした。はたかさねられた衰退すいたいにより、天下てんか瓦解がかいしていたのだ。しゅうこうだんのような人材じんざいですらどうにもならなかったであろう。それを、わずかなあいだ王位おういについただけの孤立こりつ無援むえんであった嬰を(賈誼や司馬しば遷が)めるのはあやまりではないか。俗説ぞくせつに、『始皇帝しこうてい罪悪ざいあくこし、えびすがそれを極限きょくげんにまでひろげた』とつたえているのが、にかなっている。また、しょう嬰)をめて、『はたまっとうすることができたであろう』とするのは、時勢じせい変化へんかつうじないもののかんがえである。わたしはんかた)は、はたおさむんで嬰がちょうだかくるまきにしたことを(記述きじゅつしている部分ぶぶんを)ときに、嬰の決断けつだん壮健そうけんなものとかんじたし、嬰のこころざしあわれにかんじている。嬰の行動こうどうは、いかにき、いかにぬべきかという意義いぎそなわっているのだ」と、評価ひょうかしている[12]

血縁けつえん関係かんけい

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小説しょうせつなどでは、はた最後さいご君主くんしゅである嬰は扶蘇のであるといわれることがあるが、『史記しき』などの史書ししょ裏付うらづけがあるはなしではない。扶蘇と嬰の父子ふし関係かんけい肯定こうていするならば、ちょうだか誅殺ちゅうさつくわわった嬰の二人ふたりは扶蘇のまごで、始皇帝しこうてい曾孫そうそんとなる。

史記しき』「斯列でんしゅうかいじょひろせつでは、「一本いっぽん曰『召始すめらぎ弟子でし嬰,授之璽』」と記述きじゅつされ、始皇帝しこうていおとうとの(嬴)嬰とするせつがある。就実大学だいがく人文じんぶん科学かがくもと教授きょうじゅひらくもとはこのせつ支持しじし、嬴嬰を始皇帝しこうていおとうとである嬴成蟜であるとせつ発表はっぴょうしている[13]。この場合ばあい嬰は始皇帝しこうていおい、扶蘇とえびす従兄弟いとこになる。また、ひらくもとなり蟜がちょうめのさいはたに叛いたさいなり蟜のらん)、ちょうまれたのが嬰であると[14]。これが事実じじつであれば、嬰の生年せいねん紀元前きげんぜん239ねんはた王政おうせい8ねん)となり、紀元前きげんぜん206ねん項羽こううによって処刑しょけいされたさい年齢ねんれいは34さいごろおもわれる。

史記しき』「ろくこく年表ねんぴょうだいさん」では、「ちょうだかはんせい自殺じさつこうだてせい兄子せこ嬰」と記述きじゅつされ、嬰はえびすせい皇帝こうてい)のあにであるとしている。

中井なかいつもるとくは、嬰が始皇帝しこうていまごなら「公孫こうそん」としょうし、公子こうししょうすことができないことから、「兄子せこ」の「」の伝写でんしゃするものがあやまってやしたのではとかんがえ、さらに、嬰の子供こどもたちとちょうだか謀殺ぼうさつ共謀きょうぼうすることは年齢ねんれいてき無理むりがあることから、嬰を「けだし(おもうに)せいえびす)のあになり」として、扶蘇とえびすあいだ始皇帝しこうてい公子こうし一人ひとり、扶蘇のおとうとで、えびすあにとみなしている[15]

ただし、『新釈しんしゃく漢文かんぶん大系たいけい史記しきいち本紀ほんぎ)」』の注釈ちゅうしゃくにおいては、嬰(公子こうし嬰)を「せいえびすあに扶蘇の」としている[16]

鶴間つるま和幸かずゆきは、「嬰はせい皇帝こうていえびす)のあにであるとはたはじめすめらぎ本紀ほんぎはいい、斯列でんでは始皇帝しこうていおとうととする。『史記しき』のなかではこのような矛盾むじゅんはいくらでもある。前者ぜんしゃせつえびすあに)のほう無難ぶなんである」であるとべている[17]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 以下いかとく注釈ちゅうしゃくがない部分ぶぶんは、『史記しきはたはじめすめらぎ本紀ほんぎろくこく年表ねんぴょうだいさんはたすわえさい月表げっぴょうだいよんによる。
  2. ^ 年号ねんごうは『史記しきろくこく年表ねんぴょうだいさんはたすわえさい月表げっぴょうだいよんによる。西暦せいれきでもあらわしているが、このときこよみは10がつとしはじめにしているため、注意ちゅういようする。まだ、しんだいでは正月しょうがつはしがつとする。
  3. ^ a b 史記しきこうむ恬列でん
  4. ^ ちょうただししょ
  5. ^ ちょうただししょ
  6. ^ 工藤くどう卓司たくし北京ぺきん大学だいがくぞう西にし漢竹からたけしょちょうただししょ』における「はた叙述じょじゅつ』195ぺーじ
  7. ^ 斯の刑死けいしは、『史記しき斯列でんでは、せいねん紀元前きげんぜん208ねん)7がつ事件じけんとするが、『史記しきはたすわえさい月表げっぴょうだいよつでは同年どうねん8がつゆかり戦死せんししており、『史記しき斯列でんではその事件じけんとする。また、『史記しきろくこく年表ねんぴょうだいさんでは、せいねん紀元前きげんぜん208ねん)の事件じけんとするが、『史記しきはじめすめらぎ本紀ほんぎでは、せいさんねん紀元前きげんぜん207ねん)のはやくても11月の項羽こううによる鉅鹿救援きゅうえんふゆ(10~12がつ)に斯が刑死けいしされたとする。
  8. ^ 宦者は、「宦官かんがん」と翻訳ほんやくされるが、鶴間つるま和幸かずゆきは、「皇帝こうてい側近そっきんとしてつかえる官吏かんりは、一般いっぱん官吏かんりとは一線いっせんかれていた。宦者とばれて宦籍に登録とうろくされていたのである。皇帝こうていに宦(つか)えることに、本来ほんらい去勢きょせいされた男子だんし意味いみはない。こうかん以降いこう、宦者にはいわゆる去勢きょせいされた男子だんしがもっぱらあてられたが、始皇帝しこうてい時代じだい一般いっぱん男子だんし皇帝こうてい側近そっきんであれば宦者とわれた。」としている。鶴間つるま和幸かずゆき人間にんげん始皇帝しこうてい』203ぺーじ
  9. ^ 史記しき斯列でん
  10. ^ かん高祖こうそ皇帝こうていだいいち
  11. ^ a b c d 史記しき高祖こうそ本紀ほんぎ
  12. ^ 史記しきはじめすめらぎ本紀ほんぎされたはんかたこうかんあかりみかどほうじたぶん記載きさい
  13. ^ ひらくもと (2006ねん7がつ16にち). “はた王子おうじ嬰為はじめすめらぎおとうとなり蟜子せつ——史記しきはたおう嬰列でん” (中国ちゅうごく). 象牙ぞうげとう网络. 2020ねん7がつ25にち閲覧えつらん[リンク]
  14. ^ 史記しき』「斯列でんしゅうかいじょひろせつでは、「一本いっぽん曰『召始すめらぎ弟子でし嬰,授之璽』」と記述きじゅつされ、始皇帝しこうていおとうとの(嬴)嬰とするせつがある。就実大学だいがく人文じんぶん科学かがくもと教授きょうじゅひらくもとはこのせつ支持しじし、嬴嬰を始皇帝しこうていおとうとである嬴成蟜のであるとせつ発表はっぴょうしているひらくもと (2006ねん7がつ16にち). “はた王子おうじ嬰為はじめすめらぎおとうとなり蟜子せつ——史記しきはたおう嬰列でん” (中国ちゅうごく). 象牙ぞうげとう网络. 2020ねん7がつ25にち閲覧えつらん[リンク]
  15. ^ 吉田よしだけんこう、『新釈しんしゃく漢文かんぶん大系たいけい史記しきいち本紀ほんぎ)」』387ぺーじ水沢みずさわ利忠としただ、『新釈しんしゃく漢文かんぶん大系たいけい史記しききゅう列伝れつでん)」』514ぺーじ
  16. ^ 吉田よしだけんこう、『新釈しんしゃく漢文かんぶん大系たいけい史記しきいち本紀ほんぎ)」』387ぺーじ
  17. ^ 鶴間つるま和幸かずゆき人間にんげん始皇帝しこうてい』212・213ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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参考さんこう論文ろんぶん

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  • 工藤くどう卓司たくし北京ぺきん大学だいがくぞう西にし漢竹からたけしょちょうただししょ』における「はた叙述じょじゅつ」『中国ちゅうごく研究けんきゅうしゅうかんだい63ごう大阪大学おおさかだいがく中国ちゅうごく学会がっかい、2017ねん6がつ、188-212ぺーじdoi:10.18910/70152ISSN 0916-2232NAID 120006498351