じょうこう (はた)

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じょうおおやけ
はた
初代しょだいこう
王朝おうちょう はた
在位ざいい期間きかん ぜん777ねん - ぜん766ねん
都城みやこのじょう いぬおか
諡号しごう じょうおおやけ
生年せいねん しょう
没年ぼつねん ぜん766ねん
ちち そうこう
陵墓りょうぼ 西にしたれ

じょうおおやけ(じょうこう、? - 紀元前きげんぜん766ねん)は、はた初代しょだいこうそうこう

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

じょうおおやけはた太子たいしであったあにちち中国語ちゅうごくごばん(せほ)から太子たいしゆずられ、はた太子たいしとなった。

そうこう44ねんぜん778ねん)、そうこう卒去そっきょしたため、じょうこういだ。

じょうおおやけ元年がんねんぜん777ねん)、じょうおおやけいもうとの繆嬴をゆたかおう[1]つまとした。

じょうおおやけ2ねんぜん776ねん)、えびすいぬおか包囲ほういした。あにちちはこれをってえびす捕虜ほりょとなったが、1ねんあまりして釈放しゃくほうされた。

じょうおおやけ7ねんぜん771ねんはるしゅうかそけおう褒姒(ほうじ)を寵愛ちょうあいし、太子たいしはいして褒姒の嫡子ちゃくしとした。また、しばしば諸侯しょこうあざむいたので、諸侯しょこうかそけおうに叛き、西戎せいじゅういぬえびすさるこうとともにしゅうち、かそけおう驪山ふもところした。このときじょうおおやけへいひきいてしゅうすくうためにたたかい、しゅうらく[2]ひがし徙でもしゅうひらおう護衛ごえいしたため、たいらおうから諸侯しょこうふうじられ、岐山きざん以西いせいたまわり、伯爵はくしゃくとなった。ここにおいてじょうおおやけしんこく創始そうしし、諸侯しょこうと聘享のれい[3]つうじた。じょうおおやけは騮駒(りゅうく)[4]黄牛あめうし・羝羊(ていよう)[5]かく3ひきそなえ、西にし畤(せいじ)[6]つくって上帝じょうていほこらった。

じょうおおやけ12ねんぜん766ねん)、じょうおおやけえびすって岐山きざんふもと薨去こうきょし、ぶんこうってはたくんとなった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 太子たいしひめはくふく中国語ちゅうごくごばん
  2. ^ 現在げんざい河南かなんしょう洛陽らくよう
  3. ^ 聘問・とおるえんれい
  4. ^ たてがみのくろ赤身あかみうま
  5. ^ おす(おす)のひつじ
  6. ^ 西方せいほう祭壇さいだん

参考さんこう資料しりょう[編集へんしゅう]

  • 史記しき』(はた本紀ほんぎだい