(Translated by https://www.hiragana.jp/)
李牧 - Wikipedia コンテンツにスキップ

まき

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
まき
李牧(清人絵)
まき清人きよひと
ちょう
武安たけやすくん大将軍だいしょうぐん
出生しゅっしょう しょう
死去しきょ 紀元前きげんぜん229ねん
邯鄲かんたん
拼音 Lǐ M
まき
ちち
汨・ひろし
テンプレートを表示ひょうじ

まき(り ぼく、生年せいねんしょう - 紀元前きげんぜん229ねん)は、中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだいちょう武将ぶしょう(さつ)[1]まき[2]しろおこりおうれんなら戦国せんごくよんだい名将めいしょう一人ひとり。『史記しき』「れんしょう列伝れつでん」において、司馬しばまきを「もりせん名将めいしょう」と位置いちづけている。

まきだいぐんかりかどぐん駐屯ちゅうとんした期間きかんぐんひきいて匈奴きょうど大敗たいはいさせた。また、こえたたかばんわれたたかはた大敗たいはいさせ、武安たけやすくんに受封された。だが、最終さいしゅうてきには讒言ざんげんしんじたかそけ繆王によって殺害さつがいされた。まき死後しごちょう首都しゅと邯鄲かんたん現在げんざい河北かほくしょう邯鄲かんたん)はしんぐんによって陥落かんらくし、かそけ繆王は捕虜ほりょとなり、ちょうほろんだ。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

北方ほっぽう長官ちょうかん[編集へんしゅう]

元々もともとちょう北方ほっぽうだいぐんかりかどぐん駐屯ちゅうとんする国境こっきょうぐん長官ちょうかんで、国境こっきょう防衛ぼうえいのために独自どくじ地方ちほう軍政ぐんせいゆるされ、匈奴きょうどたいしてそなえるにんについていた[3]警戒けいかいみつにして、烽火ほうかだいおおもうけ、間諜かんちょうおおはなつなどし、士卒しそつ厚遇こうぐうしていた[3]匈奴きょうど執拗しつよう攻撃こうげきたいしては徹底的てっていてき防衛ぼうえい籠城ろうじょう戦法せんぽうることで、おおきな損害そんがいけずに安定あんていてき国境こっきょう守備しゅびしていた[3]へいたちには「匈奴きょうど略奪りゃくだつはいったら、すぐに籠城ろうじょうして安全あんぜん確保かくほすること。あえてってもの斬首ざんしゅしょす」と厳命げんめいしていたからである[3]

だが、そのやりかた匈奴きょうどだけでなく、ちょうへいにさえも臆病者おくびょうものであるとおもわれてしまうこととなる[3]ちょうおうまきのやりかた不満ふまんおもめたが、まきはこれをあらためなかったので、にんかれた[3]

まき後任こうにんしゃ勇敢ゆうかんにも匈奴きょうど侵攻しんこうたいしてってたが、かえって被害ひがい増大ぞうだいし、国境こっきょうおかされた[3]。そのため、ちょうおうあやまちに気付きづき、まきにんうたが、まきもんじてそとず、やまいしょうして固辞こじした[3]。それでも将軍しょうぐん起用きようされたので、まきは「おうがどうしてもわたし将軍しょうぐんにしたければ、まえ方針ほうしんえないようにさせてください」とい、これをゆるされた[3]。そして、まき元通もとどおり、国境こっきょう防衛ぼうえいにん復帰ふっきすることになった[3]

ある匈奴きょうど小隊しょうたい偵察ていさつときまきすうせんにんりにして偽装ぎそう敗退はいたいおこない、わざと家畜かちく略奪りゃくだつさせた[3]。これにあじをしめた匈奴きょうどたん大軍たいぐん指揮しきってやってきたが、まき伏兵ふくへいき、左右さゆうゆうげき部隊ぶたいたくみに挟撃きょうげきして匈奴きょうどぐんった[3]結果けっか匈奴きょうどじゅうあまりまん騎兵きへいうしなうというだい敗北はいぼくわった[3]。そのまきはさらに襜襤(せんらん)をほろぼし、ひがしえびすやぶり、はやしえびすくだしたため、たん于は敗走はいそうし、匈奴きょうどはそのじゅうねんちょう北方ほっぽう越境えっきょうしてなくなった[3]

紀元前きげんぜん243ねん悼襄おういのちつばめち、たけとげ方城ほうじょうなどに侵攻しんこうした[3]

斜陽しゃようちょうまも[編集へんしゅう]

閼与のたたかはたやぶった名将めいしょうちょうおごくし、政治せいじ外交がいこうはた対抗たいこうしょう如がやまいせていたちょうは、紀元前きげんぜん260ねん長平ながだいたたかはた大敗たいはいし、そののちしょう如も衰亡すいぼう一途いっとをたどっていた。また、紀元前きげんぜん245ねんかど頗がらくじょうあらそ出奔しゅっぽんしたことから、はた侵攻しんこうはげしくなり、紀元前きげんぜん236ねんはたうばわれ[4]紀元前きげんぜん234ねんにはちょうすすむ扈輒指揮しき軍勢ぐんぜいひらやぶれて、10まんにん犠牲ぎせいになった(ひらたたか[3]。そのため、かそけ繆王はまきぐんまかせて、反撃はんげきてんじることにした。

紀元前きげんぜん233ねん北辺ほくへんこうみとめられたまきかそけ繆王のいのちにより、中央ちゅうおう召還しょうかんされ、大将軍だいしょうぐんにんじられた[3][5]

同年どうねんはたちょうあかうららおよびむべやすめたが、まきはこれをやぶ退しりぞけた[5]。そのさいむべやすめたはたすすむ桓齮こえたたかっている(あるいは敗走はいそうさせた)[3][6]。この功績こうせきにより、まき武安たけやすくんふうじられた[5]

紀元前きげんぜん232ねんはたちょうばんわれめたが、まきしんぐんふたた撃破げきはした(ばんわれたたか[5]。さらに、まきはたからかんたかし国境こっきょうまで領土りょうど奪還だっかんし、その勢力せいりょくみなみかえした[3]当時とうじはた攻撃こうげき一時いちじてきにでも退しりぞけた武将ぶしょうまきすわえこうつばめのみである。

最期さいご[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん229ねんはた王政おうせい始皇帝しこうてい)はちょう攻略こうりゃくのため、今度こんどおうしょうとし、羌瘣楊端とともに大軍たいぐんちょう侵攻しんこうさせた[7]。そのため、ちょうまき司馬しばしょう司馬しばちち)に応戦おうせんさせた。苦戦くせんしたはたまき排除はいじょするため、奸臣かんしんかくひらく賄賂わいろおくり、かそけ繆王とまきとの離間りかん画策かくさくした[3]かくひらくかそけ繆王に「まき司馬しばしょう謀反むほんくわだてている」と讒言ざんげんした[3]。また、おうはは悼倡きさきはたから賄賂わいろり、かそけ繆王に讒言ざんげんをした[8]

ちょう軍事ぐんじ掌握しょうあく功名こうみょうたかまき内心ないしんおそれていたかそけ繆王はこれをうたがい、讒言ざんげんをききいれ、まき更迭こうてつしようとした[6]。だが、まき王命おうめいこばんだため、かそけ繆王によってひそかにらえられて誅殺ちゅうさつされ、司馬しばしょう解任かいにん更迭こうてつされた[3][5][6]戦国せんごくさくつかさ空馬からうまかんする記述きじゅつではかんくらという奸臣かんしん讒言ざんげんにより解任かいにんされたうえしたとされている[9]

まき死後しごちょうぐんちょうねぎひとしはたかお指揮しきることになったが、3かげつ(あるいは5かげつ[9])にかれらはおう翦に大敗たいはいし、大勢おおぜいちょうへい殺害さつがいされた[5][6]邯鄲かんたんしんぐんによって陥落かんらくかそけ繆王もらえられ、ちょうはついに滅亡めつぼうした(紀元前きげんぜん228ねん[10]

家族かぞく[編集へんしゅう]

まき祖父そふくもりちち璣。あにくもおとうと霽。また、汨・ひろし鮮、まご汨の)にりょうひだりしゃなかしゃがいる[11]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 戦国せんごくさく』姚宏ぞくちゅう:繓、まきめい
  2. ^ しゃ宇主へん (2006.09). 中国ちゅうごく歴史れきしさんせい影響えいきょうてき帝王ていおうでん はたはじめすめらぎでん. 中国ちゅうごく国際こくさいこう播音ぞう出版しゅっぱんしゃ. pp. 94-95. ISBN 7-89993-186-X 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v れん頗藺しょう如列でんだいじゅういち
  4. ^ 史記しき』「ろくこく年表ねんぴょう
  5. ^ a b c d e f ちょうだいじゅうさん
  6. ^ a b c d 戦国せんごくさく まきじゅういち ちょうさくよん
  7. ^ はたはじめすめらぎ本紀ほんぎだいろく
  8. ^ れつおんなでん』孽嬖でんちょう悼倡きさき
  9. ^ a b ウィキソース出典 戰國せんごくさくまきなな しん ぶんしんじこう出走しゅっそう (中国ちゅうごく), 戰國せんごくさく丕烈さつ/はた/#文信ふみのぶこう出走しゅっそう, ウィキソースより閲覧えつらん 
  10. ^ ろくこく年表ねんぴょうだいさん
  11. ^ しんとうしょ宰相さいしょうけいひょうじょう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]