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負芻(ふすう、生没年不詳)は、中国戦国時代の楚の最後の王(在位:紀元前228年 - 紀元前223年)。考烈王(名は『史記』「楚世家」では元で、「春申君伝」では完と記される)の庶子[1]。姓は羋、氏は熊。『史記』楚世家によれば哀王猶の庶兄である。
幽王10年(紀元前228年)、負芻を支持する楚の国人が王宮を襲撃して哀王を殺害し、負芻は自ら楚王に即位した。だが、負芻は主体性の欠けた君主で、この頃の楚は既に往年の強大国の面影は喪失していた。
楚王負芻4年(紀元前224年)、楚の大将軍の項燕(項羽の祖父)が秦の老将軍王翦に蘄で敗れた[2][3]。
楚王負芻5年(紀元前223年)、王翦と蒙武が楚を攻め、負芻は捕虜となった[2][4]。
負芻が捕虜とされた後、項燕は公子の昌平君を擁立して秦に抵抗したが、王翦の猛攻で両者は戦死し、春秋時代から続いた楚はついに滅亡した[5]。
- ^ 劉向の『列女伝』孽嬖伝によると、考烈王の弟とする。
- ^ a b 『史記』楚世家
- ^ 『史記』楚世家では、項燕はこのときに王翦の軍勢に討ち取られたと記されている。
- ^ 『史記』秦始皇本紀では、負芻は前年に捕虜となったと記されている。
- ^ 『史記』秦始皇本紀
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