(Translated by https://www.hiragana.jp/)
郢 - Wikipedia コンテンツにスキップ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

(えい、拼音: Yǐng)は、春秋しゅんじゅう戦国せんごく時代じだいすわえ首都しゅとである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

湖北こほくしょう荊州荊州にその跡地あとち存在そんざいし、現在げんざいでは紀南きなんじょう遺跡いせきとして、全国ぜんこく重点じゅうてん文物ぶんぶつ保護ほご単位たんい指定していされている。ただし、すわえ遷都せんとするたびに都城みやこのじょうを郢とづけており、したがって春秋しゅんじゅう戦国せんごく、ここ以外いがいにも郢とばれた都市とし存在そんざいする。

紀南きなんじょう遺跡いせき[編集へんしゅう]

おおくの学説がくせつによれば、すくなくとも春秋しゅんじゅう時代じだい後半こうはんから紀元前きげんぜん3世紀せいきころまでは、すわえはこの都市としを郢とんで首都しゅととしていたとされている。また、春秋しゅんじゅうひだりでんには、ぶんこう14ねんぜん613ねん)とあきらおおやけ23ねんぜん519ねん)にそれぞれ「しろ(郢にしろく)」とあることから、すくなくともこのころまでには、すわえはこの遺跡いせき首都しゅととして城壁じょうへき造営ぞうえい工事こうじおこなったとされており、考古学こうこがくてき裏付うらづけもされている。

ただし、この遺跡いせき一部いちぶには、春秋しゅんじゅう中期ちゅうきのものとられる遺構いこうもあることから、それ以前いぜんからすわえがこのを郢とび、首都しゅといていた可能かのうせい指摘してきされる。この遺跡いせきは、現在げんざい荊州行政ぎょうせい区画くかくないにあり、その城壁じょうへきはおしなべて方形ほうけいで、きた3547m、西にし3751m、ひがし3706m、みなみ4502m、付近ふきんはちみねさんやまには当時とうじすわえ王族おうぞくはか散見さんけんされる。

ころじょうおう21ねんぜん278ねん)、しろおこりひきいるはたぐんにより郢は陥落かんらくし、すわえ王室おうしつおおやけぞくひね遷都せんとした。郢のきゅうにははたみなみぐん設置せっちされた。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]