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しろおこり

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しろおこり
白起(明人絵)
しろおこり明人あきと
はた
武安たけやすくん
出生しゅっしょう しょう
死去しきょ あきらじょうおう50ねん紀元前きげんぜん257ねん)11月
もり
拼音 Bái Qǐ
別名べつめい 公孫こうそんおこり
官位かんい ひだり庶長ひだりさらだい良造りょうぞう
主君しゅくん あきらじょうおう
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しろ おこり(はく き、? - 紀元前きげんぜん257ねん11月)は、中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだい末期まっきはた武将ぶしょう公孫こうそんおこり[1]とも表記ひょうきされる。しんこくひとあきらじょうおうつかえ、各地かくち転戦てんせんしてちょうたかしすわえなどのぐん数々かずかず勝利しょうりおさめ、はた領土りょうど拡大かくだい貢献こうけんした。おうれんまきなら戦国せんごくよんだい名将めいしょう一人ひとり

経歴けいれき[編集へんしゅう]

以下いかは『史記しきしろおこりおう翦列でんによる。

あきらじょうおう13ねん紀元前きげんぜん294ねん)、ひだり庶長にんぜられ、かん新城しんじょうめた。

あきらじょうおう14ねん紀元前きげんぜん293ねん)、ひだりさらにすすみ、かんたかしめ、闕のたたかで24まん斬首ざんしゅした。また、しょう公孫こうそんとらえ、5しろとした。

あきらじょうおう15ねん紀元前きげんぜん292ねん)、だい良造りょうぞうにんじられめ、大小だいしょう61しろとした。

あきらじょうおう29ねん紀元前きげんぜん278ねん)、すわえめ、すわえ首都しゅととした(鄢・郢のたたか)。このため、すわえひね遷都せんとした。同年どうねん武安たけやすくんしょうたまわっている。

あきらじょうおう34ねん紀元前きげんぜん273ねん)、華陽かようめ、かんたかしちょう将軍しょうぐんとらえ、13まん斬首ざんしゅした(華陽かようたたか)。また、ちょうすすむ賈偃たたかい、士卒しそつ2まん黄河こうがしずめた。

あきらじょうおう43ねん紀元前きげんぜん264ねん)、かん陘城め、5しろとし、5まん斬首ざんしゅした(陘城のたたか)。

あきらじょうおう47ねん紀元前きげんぜん260ねん)、長平ながだいたたかでは、たくみな用兵ようへいちょうくくひきいるちょうぐん兵糧ひょうろうめに大勝たいしょうした。このとき20まんあまりにおよ捕虜ほりょ兵糧ひょうろうまかなえず、反乱はんらんおそれがあるとして少年しょうねんへい240にんのぞすべてをめにした[2][3]。しかし、本国ほんごくにあった宰相さいしょう范雎が、長平ながだいたたかいでのしろおこり活躍かつやくみずからの地位ちいおびやかすものであるとして警戒けいかいし、さらにちょう首都しゅと邯鄲かんたんもうとするしろおこりしとどめ、わずかな条件じょうけんちょう和議わぎむすんだ。

あきらじょうおう48ねん紀元前きげんぜん259ねん)、はたおうりょう起用きようして邯鄲かんたん包囲ほういし、あきらじょうおう49ねん紀元前きげんぜん258ねん)には増派ぞうはもして、さらに指揮しきかんおう交代こうたいさせたが、ちょう援軍えんぐんとしてあらわれたしんりょうくんすわえはるさるくんだい敗北はいぼくきっした。この危機きき打開だかいするためにしろおこり出兵しゅっぺいするよう命令めいれいくだるが、しろおこり一連いちれんの范雎の行動こうどう不信ふしんかんいだき、やまいしょうして出仕しゅっしこばんだ。『戦国せんごくさく』によれば、このときあわてた范雎とあきらじょうおうみずか指揮しきうも、しろおこりちょう国力こくりょく回復かいふくしてがたいとしてこたえなかったうえ、おう齕の敗戦はいせんを「だからわぬことではない」と批判ひはんしたという。

これがさらに立場たちばわるくし、あきらじょうおう50ねん紀元前きげんぜん257ねん)、ついにあきらじょうおうによってたまものけた。自害じがい直前ちょくぜんしろおこりはこのように自問じもんした。「なんざいあるか。なぜ自害じがいせねばならぬのか」と。しばらくかんがえて、「もとよりぬべきだ。長平ながだいたたかいにおいて降伏ごうぶくへいすうじゅうまんあまりを一夜いちやめにした。それでもつみにならないのか。てんたいつみおかしたのだ」と嘆息たんそくした。はた民衆みんしゅうかれあわれみ、各地かくちびょうててまつったという。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

司馬しばは、『史記しき』において、しろおこりを「りょうてきあいへん無窮むきゅうこえふるえ天下でんかてき能力のうりょくはかって作戦さくせんえ、奇策きさく無限むげんした。かれ勢威せいい天下てんかふるわせた)」とひょうしている。一方いっぽうで、そのつて末尾まつびに「非常ひじょう有能ゆうのう将軍しょうぐんであったが、(身内みうちであるはずの)范雎のわずらいからのがれることができなかった」としるし、おうともすぐれた人物じんぶつでありながら、欠点けってんもあった人物じんぶつであったと評価ひょうかする。のち、三国みくにたかし将軍しょうぐん鄧艾讒言ざんげんをうけてころされるまえに、みずからをしろおこりになぞらえて危機ききさとったとの記述きじゅつが『三国志さんごくし』にある。

しろおこり題材だいざいとした作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 戦国せんごくさく』「ちょうさく」のまきじゅうはちちょうはじめまきじゅうちょうさんによる。
  2. ^ 史記しき』の捕虜ほりょめにかんする記述きじゅつ誇大こだいなものであると長年ながねんかんがえられてきたが、1995ねん5月の長平ながだい古戦場こせんじょうにおける発掘はっくつ調査ちょうさでそれとおもわれる人骨じんこつ大量たいりょう出土しゅつどし、おおくの研究けんきゅうしゃおどろかせた。
  3. ^ えいろくだいいちしかばねこつあな発掘はっくつレポートによれば発掘はっくつずみだいいちあな屍体したいすうは130にん程度ていど、ほかに18あな発見はっけん調査ちょうさちゅうであるえいろくだいいちしかばねこつあなのレポート