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しん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

しん(り しん、なま没年ぼつねんしょう)は、中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだい末期まっきはたこく将軍しょうぐんゆうなり[1]はた王政おうせい始皇帝しこうてい)につかえ、諸国しょこく統一とういつ貢献こうけんした。『史記しきしろおこりおう列伝れつでんおよび刺客しかく列伝れつでんにおいて、その事績じせきしるされている[2][3]

生涯しょうがい

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紀元前きげんぜん229ねん紀元前きげんぜん228ねんおうすうじゅうまんぐん指揮しきちょう対峙たいじしたときしんちょうふとしはらくもちゅう出征しゅっせいした[4]

紀元前きげんぜん226ねんおう翦とおうは、前年ぜんねんつばめ太子たいし主導しゅどうした荊軻によるはた王政おうせい始皇帝しこうてい暗殺あんさつ未遂みすい事件じけん報復ほうふくとして、つばめくにあざみ攻略こうりゃくし、つばめおう遼東りゃおとん敗走はいそうさせた[2][3]。このさいしんすうせんへい指揮しきり、つばめぐん追撃ついげきし、つばめぐんを衍水でやぶり、捕虜ほりょにした[2][ちゅう 1]

紀元前きげんぜん225ねんはた王政おうせいは、すわえ征服せいふくしたいとおもい、たいすわえせんにどれだけの部隊ぶたい必要ひつようかを諮問しもんした[2]しんは、「20まん」が必要ひつようだとかたった[2]一方いっぽうおう翦は、「60まん」が必要ひつようだとかたった[2]せいは、おう翦が耄碌もうろく(もうろく)したものととらえ、しんあん採用さいようして侵攻しんこうめいじた[2]

しんそうへいすう20まんふたつの部隊ぶたいけ、しんひら輿こし現在げんざい河南かなんしょうちゅううまてんひら輿こしけん)で、こうむおか現在げんざい安徽あんきしょう阜陽臨泉けん)ですわえぐん大勝たいしょうした[2]。さらに、しんこうむ恬は、すわえくに寿ことぶきはる現在げんざい安徽あんきしょう淮南ワイナン寿ことぶきけん周辺しゅうへんめ、ふたたすわえぐんやぶ[2]

しかし、しろちちしんこうむ恬が合流ごうりゅうしたところを、三日みっかさんばん追跡ついせきしてこうつばめ指揮しきすわえぐん奇襲きしゅうされ、2カ所かしょ塁壁るいへきやぶられ、7にん武将ぶしょううしな大敗たいはいきっした(しろちちたたか[2]。『史記しきしろおこりおう翦列でんによるとこのとき、昌平しょうへいくんはいされていた後方こうほうはたりょうきゅうすわえの郢陳(現在げんざい河南かなんしょうしゅうこう淮陽)でこうつばめ呼応こおうするかのよう反乱はんらんき、しん指揮しきしんぐんはこの鎮圧ちんあつため西にしかおうとしたところすわえぐん奇襲きしゅう壊滅かいめつしたとある[2]

翌年よくねんしん交代こうたいしたおう翦とこうむたけが60まんへい指揮しきすわえめ、すわえおう捕虜ほりょにし、すわえ滅亡めつぼうさせた[2]

紀元前きげんぜん222ねんおう賁とともつばめ遼東りゃおとんめ、つばめおう捕虜ほりょとし、これをほろぼした[2]

紀元前きげんぜん221ねんおう賁・こうむともひとしめ、これをほろぼした[2][5]

人物じんぶつ

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史記しきしろおこりおう翦列でんにおいて、しんは「としわかく、勇壮ゆうそうであった」としるされている[2]。また、たいすわえせん失敗しっぱい粛清しゅくせいされず、また子孫しそんのこっていることからも、はたおう嬴政よりしん信用しんようていたとかんがえられる。

現在げんざいでは司馬しばの『史記しき以外いがい史料しりょうはほぼ散逸さんいつして、しん事跡じせきには不明ふめいてんおおい。『史記しき』でしん個人こじん列伝れつでんてられていないが、しろおこりおう翦列でん刺客しかく列伝れつでんなどでその事跡じせきうかがうことができる。

しんとうしょ宗室そうしつけいひょうしん

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以下いか本節ほんぶしは『しんとうしょ宗室そうしつけいひょうじょう以下いか宗室そうしつけいひょうりゃくす)という史料しりょうもとづいて記述きじゅつする。宗室そうしつけいひょうとう皇帝こうてい一族いちぞくとされる隴西ぞくをもとにそうだい成立せいりつした記録きろくであり、その内容ないようにはとう宗室そうしつ出自しゅつじ家格かかく高貴こうきするための粉飾ふんしょくがあるとかんがえられている。

宗室そうしつけいひょうによると、隴西は嬴姓の出自しゅつじであり、顓頊だかよう子孫しそんとされている。しん祖先そせんには、みみ老子ろうし)のがみられる。しん祖父そふたかしは、はくゆうといい、はた隴西こおりまもるみなみていこうとなった。しんちちようは、うちとくといい、はたみなみぐんこおりまもる・狄道こうとなった。しんゆうなりといい、はた大将軍だいしょうぐん・隴西こうとなった。しんちょうは、またのを伉ともいい、じんだかといい、かん大将軍だいしょうぐんりょう太守たいしゅとなった。ちょうにはふたりの男子だんしがあって、長男ちょうなんもと曠といい、かんさむらいちゅうとなった。ちょう次男じなんなかしょうといい、かん河東かわとう太守たいしゅせい西にし将軍しょうぐんとなり、反乱はんらんこしたもとあきら討伐とうばつして戦没せんぼつした。なかしょうふとしじょう追贈ついぞうされ、隴西ぐん狄道けん東川ひがしがわほうむられたことから、はここにいえをかまえた。なかしょうはくこうかんの隴西河東かとうぐん太守たいしゅとなった。はくこうしょうが、かん成紀しげのり県令けんれいとなり、このため成紀しげのりけん居住きょじゅうした。しょうが、かんぜん将軍しょうぐんひろであるとされる。ひろ以下いか子孫しそん記録きろくは、えびすじゅうろくこく時代じだい西にしすずかへとつづき、とう高祖こうそふかしにいたる。また宗室そうしつけいひょう以外いがいでは李白りはく前述ぜんじゅつ暠のきゅうせい子孫しそんしるされている[1]

かんひろ祖先そせんしんであることは、『史記しき将軍しょうぐん列伝れつでんにもられるが、宗室そうしつけいひょうえるそのあいだの4だいについてはまったふる史料しりょううらづけがない。しん自身じしんについても、官爵かんしゃくのことはられない。しん父祖ふそについても同様どうようである[6]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 史記しき刺客しかく列伝れつでんではちちつばめおうだいおうよしみからすすめられて衍水にいた使者ししゃおくって殺害さつがいしたとしるされており、『史記しきはたはじめすめらぎ本紀ほんぎではつばめくにあざみ陥落かんらくしたときたれたとしるされている。
  1. ^ a b ウィキソース出典 しんとうしょ まきななじゅう ひょうだいじゅうじょう 宗室そうしつけいじょう じょこう (中国ちゅうごく), しんとうしょ/まき070じょう#じょ, ウィキソースより閲覧えつらん 
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 史記しきしろおこりおう翦列でん
  3. ^ a b 史記しき刺客しかく列伝れつでん
  4. ^ 戦国せんごくさくまきさんじゅういち つばめさん
  5. ^ 史記しきこうむ恬列でん
  6. ^ ウィキソース出典 史記しき 將軍しょうぐん列傳れつでんだいよんじゅうきゅう ひろこう (中国ちゅうごく), 史記しき/まき109#ひろ, ウィキソースより閲覧えつらん 

関連かんれん項目こうもく

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史料しりょう

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漫画まんが

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  • ていといあずまあまね英雄えいゆうでん』『はじめすめらぎ』- はた始皇帝しこうていつかえるろくとらしょう一人ひとりとしてしんが『はじめすめらぎ』に登場とうじょう。『あずまあまね英雄えいゆうでん』では19むさぼざい将軍しょうぐん」にてすわえ侵攻しんこう前後ぜんこうおう翦とのやりりがえがかれている。
  • 横山よこやま光輝みつてる史記しき』- はた王政おうせいつかえる将軍しょうぐんとして、すわえ侵攻しんこうたりこうむ恬と将軍しょうぐんにんじられこうつばめやぶれ、そのおう賁とつばめほろぼすまでがえがかれている。
  • はら泰久やすひさキングダム』 - 公式こうしきガイドブックの『キングダム英傑えいけつれつ』には、主人公しゅじんこう少年しょうねんしんしんであることが明記めいきされている。しん下僕げぼく少年しょうねんからこうかさね、天下てんか大将軍だいしょうぐん目指めざすというストーリー。将軍しょうぐんしんが「しん」を名乗なのるようになったのは、46~60かんの鄴攻略こうりゃくせんでの大功たいこうしん将軍しょうぐん昇進しょうしんするさいに、しんおう嬴政から、将軍しょうぐんになるのにせいがないのはこまるからせいあたえるとわれたからである。「せいをつけたのは、しんのかつての親友しんゆうが嬴政の影武者かげむしゃになるさいに「」というせいあたえられ「」になっていたことをいたからである。