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こうつばめ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
こうつばめ
すわえ
大将軍だいしょうぐん
出生しゅっしょう しょう
死去しきょ 5ねんぜん223ねん
主君しゅくん →(昌平しょうへいくん
こうはりこうはく
テンプレートを表示ひょうじ

こう つばめ(こう えん、Xiàng Yān、生年せいねんしょう - 紀元前きげんぜん223ねん)は、中国ちゅうごく戦国せんごく時代じだい末期まっきすわえ大将軍だいしょうぐん下相おりあい現在げんざい江蘇ちぁんすーしょう宿やど遷市宿やどぐすく)のひとすわえ将軍しょうぐんこうあきら西にしすわえ覇王はおう項羽こううとそのいとここうそう祖父そふにして、こうはりこうはくちちはた武将ぶしょうしん大破たいはしたが、まもなくはたすわえほろぼした戦争せんそうなかへいやぶれ、戦死せんしまたは自決じけつした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

史記しき項羽こうう本紀ほんぎ記載きさいによると、こう代々だいだいすわえ武将ぶしょうとしてはたらき、こうという邑にふうぜられた。これがこうせい祖先そせんである[1]

3ねん紀元前きげんぜん225ねん)、はたしんが20まん大軍たいぐんひきいてすわえ進攻しんこうしたが、こうつばめはこれをやぶり、しんぐんはほとんどぜんぐん覆没ふくぼつした[2]

芻4ねん紀元前きげんぜん224ねん)、はたおう今度こんどは60まん大軍たいぐんひきいてすわえ進攻しんこうおう翦は堅守けんしゅ不出ふしゅつ戦術せんじゅつさとって採用さいようし、こうつばめ防備ぼうびすきができるように仕向しむけたのちこうつばめぐん奇襲きしゅうしてすわえぐん大破たいはすわえおう芻は俘虜ふりょとなったが、こうつばめ淮水以南いなん芻の異母いぼ兄弟きょうだいであるすわえ公子こうし昌平しょうへいくんしんりょ韋の補佐ほさをしていた)をすわえおうとして擁立ようりつして反抗はんこうした[3]

芻5ねん紀元前きげんぜん223ねん)、おう翦はすわえぐん追撃ついげきし、昌平しょうへいくんこうつばめともども戦死せんしし、ついにすわえ滅亡めつぼうした(『史記しきはたはじめすめらぎ本紀ほんぎによる[4]。『史記しきすわえではこうつばめ死後しご芻が捕虜ほりょとなっている[5])。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ウィキソース出典 司馬しば遷『史記しき項羽こうう本紀ほんぎ』。ウィキソースより閲覧えつらん。"こう世世せぜためすわえはたふう於項,せいこう。"。 
  2. ^ ウィキソース出典 司馬しば遷『史記しきしろおこりおう翦列でん』。ウィキソースより閲覧えつらん。"とげ使しん及蒙恬將じゅう萬南伐荊。おう翦言不用ふよういんしゃびょうろう於頻しんおさむひらめあずかこうむ恬攻大破たいは荊軍。しんじまたおさむ鄢郢,やぶこれ,於是引兵而西,あずかこうむ恬會じょうちち。荊人いんずい三日みっかさんとみしゃ大破たいはしんぐんにゅうりょうかべころせななじょうしんぐんはし。"。 
  3. ^ ウィキソース出典 司馬しば遷『史記しきはたはじめすめらぎ本紀ほんぎ』。ウィキソースより閲覧えつらん。"じゅうさんねんはたおうふく召王翦,つよしおこり使つかいはたげき荊。ひね以南いなんいたりひら輿こしとりこ荊王。はたおうゆういたり郢陳。荊將こうつばめりつ昌平しょうへいくんため荊王,はんしん於淮みなみ。"。 
  4. ^ ウィキソース出典 司馬しば遷『史記しきはたはじめすめらぎ本紀ほんぎ』。ウィキソースより閲覧えつらん。"じゅうよんねんおう翦、こうむたけおさむ荊,やぶ荊軍,昌平しょうへいくんこうつばめとげ自殺じさつ。"。 
  5. ^ ウィキソース出典 司馬しば遷『史記しきすわえ』。ウィキソースより閲覧えつらん。"(おう芻)よんねんはたすすむおう翦破ぐん於蘄,而殺將軍しょうぐんこうつばめねんはたすすむおう翦、こうむとげやぶすわえこくとりこすわえおう芻,めつすわえめいためすわえぐんうん。"。 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]