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やわらぶくみかどひめ

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やわらぶくみかどひめ(じゅうふくていき、1111ねん - 1141ねん?)は、きたそう徽宗だい20皇女おうじょ夭逝ようせいのぞいてだい10皇女おうじょ)。いみな嬛嬛、あるいはとみ

経歴けいれき[編集へんしゅう]

懿粛とうとおうさんじょとしてまれた。ちょうしょく恵淑へいすくみかどひめかんよしみかどひめ同母どうぼいもうとちょう金児かねこけんぶくみかどひめ)・ちょう同母どうぼあねである。

やわらぶく公主こうしゅさづけられ、のちやわらぶくみかどひめあらため授された。

やすしやすしへんきむ連行れんこうされ、凌辱りょうじょくけて妊娠にんしんし、流産りゅうざんした[1]かねてんかい5ねん1127ねん)6がつ7にちけん韋氏(あらわじん皇后こうごうこうはじめはは)などの女性じょせいたちとともあらいころもいんくだされた。そのじょかえというおとこ結婚けっこんした。1141ねん病死びょうししたという。

にせみかどひめ出現しゅつげんおよび病死びょうしせつたいする異説いせつ[編集へんしゅう]

けんえん4ねんかねてんかい8ねん1130ねん)、みなみそう一人ひとりおんな突然とつぜんあらわれ、やわらぶくみかどひめ自称じしょうした。おんな容貌ようぼうがよくていて、宮中きゅうちゅうきゅうこともよくおぼえており、あらいころもいんから逃亡とうぼうしたともしょうした。こうはじめぶく国長くにおさ公主こうしゅさづけられ、のち高世たかせさかえ降嫁こうかした。

12ねんみなみそう紹興しょうこう12ねんかね皇統こうとう2ねん1142ねん)、かねみなみそうあいだ紹興しょうこう和議わぎ成立せいりつし、こうはじめははの韋氏がこうむねもとかえされた。韋氏が「やわらぶくみかどひめくなった」とかしたことから、ぶく国長くにおさ公主こうしゅ拷問ごうもんけたすえ自分じぶんしずかぜんという尼僧にそうであることを自供じきょうし、処刑しょけいされた。病死びょうししたという(本物ほんものの)やわらぶくみかどひめには、和国わこくちょう公主こうしゅくらい追贈ついぞうされた。

しかしそのみなみそうでは様々さまざまうわさえなかった。一説いっせつに、かねじょかえつまになったのがしずかぜんで、ぶく国長くにおさ公主こうしゅ本物ほんものやわらぶくみかどひめであったという。また一説いっせつに、韋氏はやわぶくみかどひめともあらいころもいんはい娼婦しょうふとなったのちともかね宗室そうしつかんがおそうけん側室そくしつとされ、そのさいやわらぶくみかどひめうらみをいだくようになり、殺害さつがいしたという。

また、このぶく国長くにおさ公主こうしゅ奴婢ぬひ殺害さつがい数多かずおおおこない、屋敷やしきめた。その屋敷やしききょうたくになった。

井上いのうえ祐美子ゆみこ短編たんぺん小説しょうせつ公主こうしゅ帰還きかん」は、この事件じけん題材だいざいとしている。

伝記でんき資料しりょう[編集へんしゅう]

  • やすしかん稗史はいし箋證』
  • やわらぶく公主こうしゅとくあらためふうやわらぶくみかどひめせい
  • そうかいよう輯稿』
  • けんえん以来いらい朝野ちょうや雑記ざっき

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 同時どうじに、ちょうとみきんこうはじめ正妃せいひ邢秉懿、鄆王ちょうしゅおおとりすぐるらも流産りゅうざんしている。『やすしかん稗史はいし箋證』「じゅうきゅうにち、邢朱、二帝姫以墜馬損胎、不能ふのう騎行きこう。」