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モンゴル・きむ戦争せんそう

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モンゴル・きむ戦争せんそう
モンゴル帝国ていこく征服せいふく事業じぎょう英語えいごばんなか

1211ねんきつねみねたたかでのモンゴル・きむりょうぐん(『しゅう』)
とき1211ねん-1234ねん
場所ばしょ華北かほくまんしゅう
結果けっか こうむそう連合れんごう勝利しょうりきむちょう滅亡めつぼう、モンゴル帝国ていこく華北かほく領有りょうゆう
衝突しょうとつした勢力せいりょく
指揮しきかん
戦力せんりょく
やく90,000~120,000の騎兵きへい
  • 漢人かんどへい4まんにん
  • ちぎりへい3まんにん
  • みなみそうへい2まんにん[注釈ちゅうしゃく 1]
30,000~50,000 (1212ねんきつねみねたたか[2])
200,000 (1231)
100,000 (1233)
きむ帝国ていこく全体ぜんたい軍事ぐんじりょくは、万里ばんり長城ちょうじょう全体ぜんたいひろがる800,000の歩兵ほへいと150,000の高度こうど訓練くんれんされた騎兵きへいであった[2]
被害ひがいしゃすう
不明ふめい 不明ふめい
モンゴル・きむ戦争せんそう

モンゴル・きむ戦争せんそう(もんごる・きんせんそう、1211ねん - 1234ねん)は、13世紀せいき前半ぜんはんチンギス・カンひきいるモンゴル帝国ていこく華北かほく中国ちゅうごく東北とうほくまんしゅう)、ロシア極東きょくとうそとまんしゅう)に勢力せいりょくっていたかねあさほろぼした一連いちれん戦争せんそう

この戦争せんそうは23年間ねんかんわたっておこなわれたが、初代しょだい皇帝こうていチンギス・カンの時代じだいおこなわれただいいち侵攻しんこう(1211ねん8がつ-1216ねん)、チンギス・カンの配下はいかムカリによる断続だんぞくてき経略けいりゃく(1217ねん-1224ねん-1227ねん)、だい2だい皇帝こうていオゴデイ時代じだいだい侵攻しんこう(1227ねん-1234ねん3がつ9にち)の3時期じきおおきくけられる。

チンギス・カン時代じだいだいいち侵攻しんこうではまだかねあさ征服せいふく目的もくてきとしていなかったが、きむちょうがわ失策しっさくもあってモンゴルがわなかだいおき一帯いったいまで制圧せいあつするにいたった。そのかねあさ河南かなん逼塞ひっそくして黄河こうが以北いほく事実じじつじょう政府せいふ状態じょうたいおちいったが、チンギス・カンより東方とうほう計略けいりゃくゆだねられたムカリの努力どりょくにより、モンゴル帝国ていこく河北かわきたにおいて現地げんち漢人かんど有力ゆうりょくしゃかん人世じんせいこう)をつうじた間接かんせつ支配しはい体制たいせい確立かくりつした。そしてだい2だい皇帝こうていオゴデイがあらたに即位そくいすると、即位そくい最初さいしょだい事業じぎょうとして河南かなんかねあさへのだい侵攻しんこうおこなわれ、この侵攻しんこうによってかねあさほろぼされるにいたった。

だいいち侵攻しんこう[編集へんしゅう]

チンギス・カンによるだいいちきんあさ侵攻しんこうは、モンゴルがわが「ひつじとし」とぶ1211ねんはじまった。ゴビ砂漠ごびさばくわたったモンゴルぐん現在げんざいシリンゴル草原そうげんばれる一帯いったいひろがるかねあさ国営こくえい牧場ぼくじょうと、大量たいりょうちぎりじん集団しゅうだん迅速じんそく制圧せいあつした[3]きむちょうがわからの反抗はんこうをほとんどけずにこの一帯いったい制圧せいあつ成功せいこうさせたのは、モンゴル帝国ていこく成立せいりつ以前いぜんからチンギス・カンにつかえる耶律おもねうみ耶律禿かぶろはな兄弟きょうだいはたらきがおおきかったとひょうされている[4]さら南下なんかしたモンゴルぐん金側きんがわふだたる主力しゅりょく部隊ぶたいきつねみね激突げきとつし、3にちわた激戦げきせんすえにこれをやぶった(きつねみねたたか)。一連いちれん戦闘せんとうによってかねあさ機動きどう部隊ぶたいうしなってモンゴルの精強せいきょう騎兵きへい部隊ぶたい対抗たいこうするじゅつうしない、この時点じてん両国りょうこく勝敗しょうはい事実じじつじょうけっしていたとひょうされる(モンゴルぐんだいいち作戦さくせん[5]

きつねみねたたかいにおけるモンゴルがわ損害そんがいおおきかったために1212ねんなか戦線せんせん膠着こうちゃくしたが、1213ねんはいるとモンゴルぐんふたたぜんぐんげて南下なんか開始かいしした。ちゅうまもきょいさおせきまもりが堅固けんごなことをると、モンゴルぐんはこれをけてむらさき荊関をめ、ここからモンゴルぐん華北かほく平野へいやった。華北かほく平野へいや展開てんかいしたモンゴルぐんぜんぐん右翼うよく中央ちゅうおう 左翼さよくの3ぐんけ、各地かくち侵略しんりゃくしつつちゅう包囲ほういはじめた。この作戦さくせん当初とうしょから占領せんりょうやすことを目的もくてきとしておらず、モンゴルぐん各地かくち略奪りゃくだつかねぐん打破だはのみをおこない、かねあさ徹底的てっていてき弱体じゃくたいさせた。1214ねんはいるとぜんぐん当初とうしょ予定よていどおちゅう都城みやこのじょう集結しゅうけつし、モンゴルぐん威圧いあつしも両国りょうこくあいだ和議わぎむすばれた[6]おそらく、チンギス・カンとしてはここまでが当初とうしょ計画けいかくどおりの戦闘せんとうであった(モンゴルぐんだい作戦さくせん[7]

ところが、モンゴルぐん過度かどおそれたきむちょう朝廷ちょうてい河南かなん開封かいふうへの遷都せんと断行だんこうし(貞祐ていゆうみなみ[8]、この遠征えんせいあらたにモンゴル帝国ていこくくわわったちぎりじん将軍しょうぐんたちはこのやく違反いはんめてさい出兵しゅっぺいすべきであると主張しゅちょうした。チンギス・カンはこれをれて再度さいどきんあさ出兵しゅっぺいし、いし抹明やすらの攻囲こういによってついちゅう陥落かんらくした(ちゅうたたか)。以後いごちゅうあらたつばめきょうはモンゴル帝国ていこく華北かほく支配しはい拠点きょてんとなる(モンゴルぐんだいさん作戦さくせん[5]

ムカリによる経略けいりゃく[編集へんしゅう]

はやくから西方せいほうのホラズム遠征えんせい計画けいかくしていたチンギス・カンは1218ねんきむちょう侵攻しんこう見切みきりをつけ、ウルウトひきいるケフテイマングトひきいるモンケ・カルジャ、コンギラトひきいるアルチ・ノヤン、イキレスひきいるブトゥ・キュレゲン、しょ部族ぶぞく混合こんごうへいひきいるクシャウルとジュスク現地げんち徴発ちょうはつちぎりおんなしん漢人かんどへいひきいるウヤル左翼さよくぞくする軍団ぐんだん左翼さよくまんにん隊長たいちょうのムカリにさづけ、みずからが不在ふざいあいだ東方とうほう計略けいりゃくゆだねた[9]。こののちのチンギス・カンの西にしせいちゅう、ムカリは東方とうほうチンギス・カンの代理人だいりにんとしてい、ふとし国王こくおうけん皇帝こうていかり皇帝こうてい)の称号しょうごうられた[10]

一方いっぽうきむちょうりょう華北かほくではモンゴルぐんによる略奪りゃくだつ貞祐ていゆうみなみ遷にともな統治とうち体制たいせい崩壊ほうかいによって極度きょくど治安ちあん悪化あっかし、これを憂慮ゆうりょした現地げんちみんによる自衛じえい組織そしき各地かくち組織そしきされていった[11]きむちょう朝廷ちょうていがわではこのような集団しゅうだんを「義軍ぎぐん」とんで河北かわきた回復かいふく足掛あしがかりにしようとしたが、これらの集団しゅうだんはやがて次々つぎつぎとモンゴルにりやがて「かん人世じんせいこう」とばれる軍閥ぐんばつ形成けいせいするようになっていく[12]かん人世じんせいこうなかでもとく強大きょうだいなことでられたふみてんさわ(サムカ・バアトル)・ちょうやわら(ジャン・バアトル)・ちょうさかえ(サイン・バアトル)らは「バアトル」の称号しょうごうあたえられてじゅんモンゴルじんなされ、とくにてんさわ家系かけい子孫しそんいたるまでじゅんモンゴルじんとしてぐうされている[13]

華北かほく各地かくち転戦てんせんしたムカリぐん1218ねんにはじょう拠点きょてんとするちょうやわら1220ねんにはじょう拠点きょてんとするたけせん東平とうへい拠点きょてんとするいむみのるといった強大きょうだい軍閥ぐんばつ投降とうこうさせ、モンゴルの勢力せいりょくけんさらひろがった[14]1222ねんにはかねぐん急襲きゅうしゅうによって河中かわなか陥落かんらくし、てきちゅう孤立こりつしたムカリぐん危機ききてき状況じょうきょうおちいったが、別働隊べつどうたいひきいていたアルチャル活躍かつやくによって河中かわなかさい奪取だっしゅされムカリは危機ききだっしている。この翌年よくねん1223ねん、ムカリは心労しんろうがたたったためかチンギス・カンに先立さきだって死去しきょしたが、息子むすこボオルあといで華北かほく計略けいりゃくつづけられた。

また、1225ねんにはたけせんじょう叛乱はんらんこしてモンゴルに忠実ちゅうじつ漢人かんど武将ぶしょうであったふみてん殺害さつがいしたために一時いちじ情勢じょうせい緊迫きんぱくしたが、ふみてん倪のおとうとふみてんさわかたきつべくみずか軍勢ぐんぜいあつめてこれを討伐とうばつしたため、たけせんのモンゴルからの離反りはんはこれ以上いじょう周囲しゅうい波及はきゅうすることなく終息しゅうそくした。

ムカリの経略けいりゃく漢人かんど軍閥ぐんばつ努力どりょくによって河北かわきた乱立らんりつしたしょ勢力せいりょく次第しだい統合とうごうされてゆき、じょうていちょうすみみなみちょう東平とうへいいむといった広大こうだい領域りょういき支配しはいするかん人世じんせいこうによって分割ぶんかつ支配しはいされる体制たいせい河北かほくでは確立かくりつした[15][16]一方いっぽうぎゃくかねあさかん人世じんせいこうによる支配しはい体制たいせい確立かくりつによって河北かほくでの支配しはいけん完全かんぜんうしない、河南かなんのみを支配しはいする地方ちほう政権せいけん転落てんらくした[17]

だい侵攻しんこう[編集へんしゅう]

1229ねんあらたに即位そくいしたオゴデイは即位そくい最初さいしょだい事業じぎょうとしてきむちょう完全かんぜん征服せいふく宣言せんげんした[18]かねあさ弱体じゃくたいしていたとはいえ、統治とうち範囲はんいせばまったことでかえって兵力へいりょく集中しゅうちゅう容易よういとなっており、モンゴルぐんにとっても一種いっしゅけともいえる侵攻しんこうであった[19][20]。モンゴルぐん伝統でんとうの3ぐん体制たいせいり、右翼うよくトルイが、左翼さよくテムゲ・オッチギンが、中央ちゅうおうぐん皇帝こうていオゴデイみずからがひきいる遠征えんせいぐん編成へんせいされた。なお、オゴデイのあにチャガタイはモンゴル高原こうげん残留ざんりゅうして本土ほんど防衛ぼうえいになったが、チャガタイとかくぐん指揮しきかんてられた任務にんむはこのころのモンゴル政権せいけん内部ないぶでの位置いち反映はんえいしたものであった[21]

左翼さよくぐんひきいるテムゲ・オッチギンは不可解ふかかいえるほどのゆっくりさで右翼うよく中央ちゅうおうぐんおくれて山東さんとう方面ほうめん進軍しんぐんし、ほとんど実戦じっせんまじえることなくこの遠征えんせいえた[22]。テムゲ・オッチギンの任務にんむは、えて河北かわきたみん恐慌きょうこうあおることで河南かなんへの人口じんこう流入りゅうにゅうこし、きむちょう領内りょうないでの食料しょくりょう不足ふそくこすことにあったとみられる[23]中央ちゅうおうぐんひきいるオゴデイは1230ねん8がつ西京にしぎょうだい同府どうふ)に到着とうちゃくし、そこから山西さんせい地方ちほう南下なんかして黄河こうが北岸ほくがんいたったが、12月に河中かわなか陥落かんらくさせたのち正面しょうめんからかねぐんたたかおうとせず、なかなか黄河こうがわたらなかった[22]中央ちゅうおうぐん目的もくてきかねぐん主力しゅりょく黄河こうが南岸なんがんけておとりになることにあったようである[24]

もっと困難こんなんみちくことになったのがトルイひきいる右翼うよくぐんで、右翼うよくぐんぜんぐんなか陝西せんせい方面ほうめんからただいちきんあさりょう奥深おくふかくに侵攻しんこうした[25]。1230ねんちゅうには陝西せんせい地方ちほう中心ちゅうしんであるきょうちょうとし、河南かなん方面ほうめんまもりがかたいのをるとみなみそうりょう経由けいゆするだい迂回うかいおこない、陝西せんせい四川しせん河南かなんにまたがる山岳さんがく地帯ちたいすすんで南方なんぽうから河南かなん一帯いったいはいった[24]。トルイぐん接近せっきんほうあせったかねぐんかんがおごうたちひきいる主力しゅりょくぐん南下なんかさせたが、1232ねん正月しょうがつにはこれを好機こうきたオゴデイぐんつい一斉いっせい黄河こうがわたり、かねぐん危機ききてき状況じょうきょうおちいった[26]。そして旧暦きゅうれき正月しょうがつ16にち三峰山みうねやまたたかにおいてトルイひきいる軍団ぐんだんきむちょう主力しゅりょくぐん壊滅かいめつさせたことでかねあさ野戦やせんでモンゴルぐん対抗たいこうするじゅつうしない、首都しゅと開封かいふうはだかじょうとなってモンゴルぐん包囲ほういされることになった[27]

同年どうねん3がつ、オゴデイぐんとトルイぐん合流ごうりゅうするとスブタイ・バアトル、グユク・バアトル、テムデイ・コルチタガチャル・コルチら4はたひきいる部隊ぶたいのこして本隊ほんたいきたかえはじめ、この4しょうによって開封かいふう包囲ほういはじめられた(開封かいふう攻囲こういせん[28]すで大量たいりょう避難ひなんみんんでいた開封かいふうでは食糧しょくりょう不足ふそく疫病えきびょうによって悲惨ひさん状態じょうたいおちいり、かねあさ皇族こうぞくの曹王なまりあいむねあにの荊王ばん)を人質ひとじちとしてすことで一時いちじモンゴルぐん停戦ていせんむすんだ。しかし同年どうねん7がつにはあいむね投降とうこう条件じょうけんとして皇帝こうていごうることをせまった使者ししゃからけいころされ、開封かいふう救援きゅうえんこころざした地方ちほうしょぐんやぶれたこともあり、あいむね1233ねん正月しょうがつ23にち一部いちぶ側近そっきんとともに開封かいふうててかえりとくのがれた。

開封かいふうではのこされた宰相さいしょうによってモンゴルへの抗戦こうせんつづけられたが、ちぇだて城内きうちクーデターをこして城内じょうない指揮しき掌握しょうあくし、同年どうねん4がつにスブタイに投降とうこうしたことにより開封かいふう陥落かんらくした。一方いっぽうあいむねは6がつとくみなみそうとの国境こっきょうちか蔡州のがれたが、タガチャル・コルチひきいる別働隊べつどうたいがこれを包囲ほういした(蔡州のたたか[29]同月どうげつ10にちかねあさ投降とうこうもうたもののもはやモンゴルぐんがこれにおうじることはなく、11月にはさらはじめひきいるみなみそうぐん包囲ほういくわわった[28]。 1234ねん正月しょうがつ、モンゴルぐん攻囲こういせばまるなかあいむね皇族こうぞくよびあつし説得せっとくして皇帝こうていゆずった(かねすえみかど)が、まさにすえみかど即位そくいしきおこなわれていた最中さいちゅうにモンゴルぐん城内じょうない雪崩なだみ、あいむねすえみかどがともにころされたことによって名実めいじつどもかねあさ滅亡めつぼうした[30]

モンゴルの侵入しんにゅう経路けいろ[編集へんしゅう]

モンゴル帝国ていこくかねこく侵入しんにゅう(1211 - 1215)
モンゴル帝国ていこくかねこく侵入しんにゅう(1230 - 1234)
モンゴル帝国ていこく華北かほく占領せんりょう

重要じゅうよう戦役せんえき[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 1233ねんの蔡州包囲ほういせんさいみなみそうはモンゴルに兵力へいりょく2まんにんべい30まんせき支援しえんした。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Haywood, John; Jotischky, Andrew; McGlynn, Sean (1998). Historical Atlas of the Medieval World, AD 600–1492. Barnes & Noble. pp. 3.21. ISBN 978-0-7607-1976-3. https://books.google.com/books?id=YQMUNgAACAAJ 
  2. ^ a b Sverdrup, Carl (2010). “Numbers in Mongol Warfare”. Journal of Medieval Military History (Boydell Press) 8: 109–17 [p. 116]. ISBN 978-1-84383-596-7. 
  3. ^ 愛宕あたご/寺田てらだ2008,50-51ぺーじ
  4. ^ 愛宕あたご/寺田てらだ2008,54ぺーじ
  5. ^ a b 杉山すぎやま2014,45ぺーじ
  6. ^ 愛宕あたご/寺田てらだ2008,55ぺーじ
  7. ^ 杉山すぎやま2014,46ぺーじ
  8. ^ 愛宕あたご/寺田てらだ2008,55-56ぺーじ
  9. ^ 愛宕あたご/寺田てらだ2008,56ぺーじ
  10. ^ 杉山すぎやま2014,47ぺーじ
  11. ^ 愛宕あたご/寺田てらだ2008,65-67ぺーじ
  12. ^ 愛宕あたご/寺田てらだ2008,68ぺーじ
  13. ^ 愛宕あたご/寺田てらだ2008,205ぺーじ
  14. ^ 愛宕あたご/寺田てらだ2008,66-67ぺーじ
  15. ^ 愛宕あたご/寺田てらだ2008,68-70ぺーじ
  16. ^ 杉山すぎやま2014,74ぺーじ
  17. ^ 愛宕あたご/寺田てらだ2008,56-57ぺーじ
  18. ^ 杉山すぎやま2014,58ぺーじ
  19. ^ 杉山すぎやま1996,331ぺーじ
  20. ^ 杉山すぎやま2014,59ぺーじ
  21. ^ 杉山すぎやま2014,62-63ぺーじ
  22. ^ a b 杉山すぎやま2014,60ぺーじ
  23. ^ 杉山すぎやま1996,328-329ぺーじ
  24. ^ a b 杉山すぎやま1996,328ぺーじ
  25. ^ 杉山すぎやま2014,59-60ぺーじ
  26. ^ 杉山すぎやま1996,332-333ぺーじ
  27. ^ 杉山すぎやま2014,61ぺーじ
  28. ^ a b 杉山すぎやま1996,334ぺーじ
  29. ^ 愛宕あたご/寺田てらだ2008,58ぺーじ
  30. ^ 杉山すぎやま2014,62ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 愛宕あたご松男まつお世界せかい歴史れきし〈11〉アジアの征服せいふく王朝おうちょう河出かわで文庫ぶんこ河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2004ねん初版しょはん1989ねん
  • 愛宕あたご松男まつお/寺田てらだ隆信たかのぶ『モンゴルと大明だいめい帝国ていこく講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ講談社こうだんしゃ、2008ねん初版しょはん1998ねん
  • 杉山すぎやま正明まさあき『耶律すわえざいとその時代じだいしろみかどしゃ、1996ねん
  • 杉山すぎやま正明まさあき『モンゴル帝国ていこく興亡こうぼううえ軍事ぐんじ拡大かくだい時代じだい講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ講談社こうだんしゃ、2014ねん初版しょはん1996ねん
  • 杉山すぎやま正明まさあき/北川きたがわ誠一せいいち世界せかい歴史れきし〈9〉だいモンゴルの時代じだい中公ちゅうこう文庫ぶんこ中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2008ねん初版しょはん1998ねん
  • 古松こまつ崇志たかし草原そうげん制覇せいは:だいモンゴルまで』岩波いわなみ新書しんしょ岩波書店いわなみしょてん、2020ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]