モンゴル・金 きむ 戦争 せんそう モンゴル帝国 ていこく の征服 せいふく 事業 じぎょう (英語 えいご 版 ばん ) 中 なか 1211年 ねん の野 の 狐 きつね 嶺 みね の戦 たたか い でのモンゴル・金 きむ 両 りょう 軍 ぐん (『集 しゅう 史 し 』)時 とき 1211年 ねん -1234年 ねん 場所 ばしょ 華北 かほく ・満 まん 洲 しゅう 結果 けっか
蒙 こうむ 宋 そう 連合 れんごう の勝利 しょうり 、金 きむ 朝 ちょう の滅亡 めつぼう 、モンゴル帝国 ていこく の華北 かほく 領有 りょうゆう
衝突 しょうとつ した勢力 せいりょく
指揮 しき 官 かん
戦力 せんりょく
約 やく 90,000~120,000の
騎兵 きへい
漢人 かんど 兵 へい 4万 まん 人 にん
契 ちぎり 丹 に 兵 へい 3万 まん 人 にん
南 みなみ 宋 そう 兵 へい 2万 まん 人 にん [注釈 ちゅうしゃく 1]
30,000~50,000 (1212年 ねん 、野 の 狐 きつね 嶺 みね の戦 たたか い[2] ) 200,000 (1231) 100,000 (1233)金 きむ 帝国 ていこく 全体 ぜんたい の軍事 ぐんじ 力 りょく は、万里 ばんり の長城 ちょうじょう 全体 ぜんたい に広 ひろ がる800,000の歩兵 ほへい と150,000の高度 こうど に訓練 くんれん された騎兵 きへい であった[2] 。 被害 ひがい 者 しゃ 数 すう
不明 ふめい
不明 ふめい
モンゴル・金 きむ 戦争 せんそう
モンゴル・金 きむ 戦争 せんそう (もんごる・きんせんそう、1211年 ねん - 1234年 ねん )は、13世紀 せいき 前半 ぜんはん 、チンギス・カン 率 ひき いるモンゴル帝国 ていこく が華北 かほく 、中国 ちゅうごく 東北 とうほく 部 ぶ (満 まん 洲 しゅう )、ロシア 極東 きょくとう (外 そと 満 まん 洲 しゅう )に勢力 せいりょく を張 は っていた金 かね 朝 あさ を滅 ほろ ぼした一連 いちれん の戦争 せんそう 。
この戦争 せんそう は23年間 ねんかん に渡 わた って行 おこな われたが、初代 しょだい 皇帝 こうてい チンギス・カンの時代 じだい に行 おこな われた第 だい 一 いち 次 じ 侵攻 しんこう (1211年 ねん 8月 がつ -1216年 ねん )、チンギス・カンの配下 はいか のムカリ による断続 だんぞく 的 てき な経略 けいりゃく (1217年 ねん -1224年 ねん -1227年 ねん )、第 だい 2代 だい 皇帝 こうてい オゴデイ 時代 じだい の第 だい 二 に 次 じ 侵攻 しんこう (1227年 ねん -1234年 ねん 3月 がつ 9日 にち )の3時期 じき に大 おお きく分 わ けられる。
チンギス・カン時代 じだい の第 だい 一 いち 次 じ 侵攻 しんこう ではまだ金 かね 朝 あさ の征服 せいふく を目的 もくてき としていなかったが、金 きむ 朝 ちょう 側 がわ の失策 しっさく もあってモンゴル側 がわ は中 なか 都 と (大 だい 興 おき 府 ふ )一帯 いったい まで制圧 せいあつ するに至 いた った。その後 ご 、金 かね 朝 あさ は河南 かなん に逼塞 ひっそく して黄河 こうが 以北 いほく は事実 じじつ 上 じょう 無 む 政府 せいふ 状態 じょうたい に陥 おちい ったが、チンギス・カンより東方 とうほう 計略 けいりゃく を委 ゆだ ねられたムカリの努力 どりょく により、モンゴル帝国 ていこく は河北 かわきた において現地 げんち の漢人 かんど 有力 ゆうりょく 者 しゃ (後 ご の漢 かん 人世 じんせい 侯 こう )を通 つう じた間接 かんせつ 支配 しはい 体制 たいせい を確立 かくりつ した。そして第 だい 2代 だい 皇帝 こうてい オゴデイが新 あら たに即位 そくい すると、即位 そくい 後 ご 最初 さいしょ の大 だい 事業 じぎょう として河南 かなん の金 かね 朝 あさ への第 だい 二 に 次 じ 侵攻 しんこう が行 おこな われ、この侵攻 しんこう によって金 かね 朝 あさ は滅 ほろ ぼされるに至 いた った。
第 だい 一 いち 次 じ 侵攻 しんこう [ 編集 へんしゅう ]
チンギス・カンによる第 だい 一 いち 次 じ 金 きん 朝 あさ 侵攻 しんこう は、モンゴル側 がわ が「羊 ひつじ の年 とし 」と呼 よ ぶ1211年 ねん に始 はじ まった。ゴビ砂漠 ごびさばく を渡 わた ったモンゴル軍 ぐん は現在 げんざい シリンゴル草原 そうげん と呼 よ ばれる一帯 いったい に広 ひろ がる金 かね 朝 あさ 国営 こくえい 牧場 ぼくじょう と、大量 たいりょう の契 ちぎり 丹 に 人 じん 集団 しゅうだん を迅速 じんそく に制圧 せいあつ した[3] 。金 きむ 朝 ちょう 側 がわ からの反抗 はんこう をほとんど受 う けずにこの一帯 いったい の制圧 せいあつ を成功 せいこう させたのは、モンゴル帝国 ていこく 成立 せいりつ 以前 いぜん からチンギス・カンに仕 つか える耶律阿 おもね 海 うみ ・耶律禿 かぶろ 花 はな 兄弟 きょうだい の働 はたら きが大 おお きかったと評 ひょう されている[4] 。更 さら に南下 なんか したモンゴル軍 ぐん は金側 きんがわ の切 き り札 ふだ たる主力 しゅりょく 部隊 ぶたい と野 の 狐 きつね 嶺 みね で激突 げきとつ し、3日 にち に渡 わた る激戦 げきせん の末 すえ にこれを打 う ち破 やぶ った(野 の 狐 きつね 嶺 みね の戦 たたか い )。一連 いちれん の戦闘 せんとう によって金 かね 朝 あさ は機動 きどう 部隊 ぶたい を失 うしな ってモンゴルの精強 せいきょう な騎兵 きへい 部隊 ぶたい に対抗 たいこう する術 じゅつ を失 うしな い、この時点 じてん で両国 りょうこく の勝敗 しょうはい は事実 じじつ 上 じょう 決 けっ していたと評 ひょう される(モンゴル軍 ぐん の第 だい 一 いち 次 じ 作戦 さくせん )[5] 。
野 の 狐 きつね 嶺 みね の戦 たたか いにおけるモンゴル側 がわ の損害 そんがい も大 おお きかったために1212年 ねん 中 なか の戦線 せんせん は膠着 こうちゃく したが、1213年 ねん に入 はい るとモンゴル軍 ぐん は再 ふたた び全 ぜん 軍 ぐん を挙 あ げて南下 なんか を開始 かいし した。中 ちゅう 都 と を守 まも る居 きょ 庸 いさお 関 せき の守 まも りが堅固 けんご なことを見 み ると、モンゴル軍 ぐん はこれを避 さ けて紫 むらさき 荊関を攻 せ め、ここからモンゴル軍 ぐん は華北 かほく 平野 へいや に降 お り立 た った。華北 かほく 平野 へいや に展開 てんかい したモンゴル軍 ぐん は全 ぜん 軍 ぐん を右翼 うよく ・中央 ちゅうおう 左翼 さよく の3軍 ぐん に分 わ け、各地 かくち を侵略 しんりゃく しつつ中 ちゅう 都 と の包囲 ほうい を始 はじ めた。この作戦 さくせん は当初 とうしょ から占領 せんりょう 地 ち を増 ふ やすことを目的 もくてき としておらず、モンゴル軍 ぐん は各地 かくち で略奪 りゃくだつ と金 かね 軍 ぐん の打破 だは のみを行 おこな い、金 かね 朝 あさ を徹底的 てっていてき に弱体 じゃくたい 化 か させた。1214年 ねん に入 はい ると全 ぜん 軍 ぐん は当初 とうしょ の予定 よてい 通 どお り中 ちゅう 都城 みやこのじょう 下 か に集結 しゅうけつ し、モンゴル軍 ぐん の威圧 いあつ の下 しも 両国 りょうこく の間 あいだ に和議 わぎ が結 むす ばれた[6] 。恐 おそ らく、チンギス・カンとしてはここまでが当初 とうしょ の計画 けいかく 通 どお りの戦闘 せんとう であった(モンゴル軍 ぐん の第 だい 二 に 次 じ 作戦 さくせん )[7] 。
ところが、モンゴル軍 ぐん を過度 かど に恐 おそ れた金 きむ 朝 ちょう 朝廷 ちょうてい は河南 かなん の開封 かいふう への遷都 せんと を断行 だんこう し(貞祐 ていゆう の南 みなみ 遷 )[8] 、この遠征 えんせい で新 あら たにモンゴル帝国 ていこく に加 くわ わった契 ちぎり 丹 に 人 じん 将軍 しょうぐん たちはこの和 わ 約 やく 違反 いはん を責 せ めて再 さい 出兵 しゅっぺい すべきであると主張 しゅちょう した。チンギス・カンはこれを受 う け容 い れて再度 さいど 金 きん 朝 あさ に出兵 しゅっぺい し、石 いし 抹明安 やす らの攻囲 こうい によって遂 つい に中 ちゅう 都 と は陥落 かんらく した(中 ちゅう 都 と の戦 たたか い )。以後 いご 、中 ちゅう 都 と 改 あらた め燕 つばめ 京 きょう はモンゴル帝国 ていこく の華北 かほく 支配 しはい の拠点 きょてん となる(モンゴル軍 ぐん の第 だい 三 さん 次 じ 作戦 さくせん )[5] 。
ムカリによる経略 けいりゃく [ 編集 へんしゅう ]
早 はや くから西方 せいほう のホラズム遠征 えんせい を計画 けいかく していたチンギス・カンは1218年 ねん に金 きむ 朝 ちょう 侵攻 しんこう に見切 みき りをつけ、ウルウト 部 ぶ を率 ひき いるケフテイ 、マングト 部 ぶ を率 ひき いるモンケ・カルジャ 、コンギラト部 ぶ を率 ひき いるアルチ・ノヤン 、イキレス部 ぶ を率 ひき いるブトゥ・キュレゲン、諸 しょ 部族 ぶぞく 混合 こんごう 兵 へい を率 ひき いるクシャウルとジュスク 、現地 げんち 徴発 ちょうはつ の契 ちぎり 丹 に ・女 おんな 真 しん ・漢人 かんど 兵 へい を率 ひき いるウヤル ら左翼 さよく に属 ぞく する軍団 ぐんだん を左翼 さよく 万 まん 人 にん 隊長 たいちょう のムカリに授 さづ け、自 みずか らが不在 ふざい の間 あいだ の東方 とうほう 計略 けいりゃく を委 ゆだ ねた[9] 。この後 のち のチンギス・カンの西 にし 征 せい 中 ちゅう 、ムカリは東方 とうほう チンギス・カンの代理人 だいりにん として振 ふ る舞 ま い、太 ふとし 師 し 国王 こくおう ・権 けん 皇帝 こうてい (仮 かり の皇帝 こうてい )の称号 しょうごう で知 し られた[10] 。
一方 いっぽう 、金 きむ 朝 ちょう 領 りょう 華北 かほく ではモンゴル軍 ぐん による略奪 りゃくだつ と貞祐 ていゆう の南 みなみ 遷に伴 ともな う統治 とうち 体制 たいせい の崩壊 ほうかい によって極度 きょくど に治安 ちあん が悪化 あっか し、これを憂慮 ゆうりょ した現地 げんち 民 みん による自衛 じえい 組織 そしき が各地 かくち で組織 そしき されていった[11] 。金 きむ 朝 ちょう 朝廷 ちょうてい 側 がわ ではこのような集団 しゅうだん を「義軍 ぎぐん 」と呼 よ んで河北 かわきた 回復 かいふく の足掛 あしが かりにしようとしたが、これらの集団 しゅうだん はやがて次々 つぎつぎ とモンゴルに降 お りやがて「漢 かん 人世 じんせい 侯 こう 」と呼 よ ばれる軍閥 ぐんばつ を形成 けいせい するようになっていく[12] 。漢 かん 人世 じんせい 侯 こう の中 なか でも特 とく に強大 きょうだい なことで知 し られた史 ふみ 天 てん 沢 さわ (サムカ・バアトル)・張 ちょう 柔 やわら (ジャン・バアトル)・張 ちょう 栄 さかえ (サイン・バアトル)らは「バアトル 」の称号 しょうごう を与 あた えられて準 じゅん モンゴル人 じん と見 み なされ、とくに史 し 天 てん 沢 さわ の家系 かけい は子孫 しそん に至 いた るまで準 じゅん モンゴル人 じん として遇 ぐう されている[13] 。
華北 かほく 各地 かくち を転戦 てんせん したムカリ軍 ぐん は1218年 ねん には保 ほ 定 じょう を拠点 きょてん とする張 ちょう 柔 やわら 、1220年 ねん には真 ま 定 じょう を拠点 きょてん とする武 たけ 仙 せん と東平 とうへい を拠点 きょてん とする厳 いむ 実 みのる といった強大 きょうだい な軍閥 ぐんばつ を投降 とうこう させ、モンゴルの勢力 せいりょく 圏 けん は更 さら に広 ひろ がった[14] 。1222年 ねん には金 かね 軍 ぐん の急襲 きゅうしゅう によって河中 かわなか 府 ふ が陥落 かんらく し、敵 てき 中 ちゅう で孤立 こりつ したムカリ軍 ぐん は危機 きき 的 てき 状況 じょうきょう に陥 おちい ったが、別働隊 べつどうたい を率 ひき いていたアルチャル の活躍 かつやく によって河中 かわなか 府 ふ は再 さい 奪取 だっしゅ されムカリは危機 きき を脱 だっ している。この翌年 よくねん の1223年 ねん 、ムカリは心労 しんろう がたたったためかチンギス・カンに先立 さきだ って死去 しきょ したが、息子 むすこ のボオル が跡 あと を継 つ いで華北 かほく の計略 けいりゃく は続 つづ けられた。
また、1225年 ねん には武 たけ 仙 せん が真 ま 定 じょう で叛乱 はんらん を起 お こしてモンゴルに忠実 ちゅうじつ な漢人 かんど 武将 ぶしょう であった史 ふみ 天 てん 倪 を殺害 さつがい したために一時 いちじ 情勢 じょうせい は緊迫 きんぱく したが、史 ふみ 天 てん 倪の弟 おとうと の史 ふみ 天 てん 沢 さわ が仇 かたき を討 う つべく自 みずか ら軍勢 ぐんぜい を集 あつ めてこれを討伐 とうばつ したため、武 たけ 仙 せん のモンゴルからの離反 りはん はこれ以上 いじょう 周囲 しゅうい に波及 はきゅう することなく終息 しゅうそく した。
ムカリの経略 けいりゃく と漢人 かんど 軍閥 ぐんばつ の努力 どりょく によって河北 かわきた に乱立 らんりつ した諸 しょ 勢力 せいりょく は次第 しだい に統合 とうごう されてゆき、真 ま 定 じょう 史 し 氏 し ・保 ほ 定 てい 張 ちょう 氏 し ・済 すみ 南 みなみ 張 ちょう 氏 し ・東平 とうへい 厳 いむ 氏 し といった広大 こうだい な領域 りょういき を支配 しはい する漢 かん 人世 じんせい 侯 こう によって分割 ぶんかつ 支配 しはい される体制 たいせい が河北 かほく では確立 かくりつ した[15] [16] 。一方 いっぽう 、逆 ぎゃく に金 かね 朝 あさ は漢 かん 人世 じんせい 侯 こう による支配 しはい 体制 たいせい の確立 かくりつ によって河北 かほく での支配 しはい 権 けん を完全 かんぜん に失 うしな い、河南 かなん のみを支配 しはい する地方 ちほう 政権 せいけん に転落 てんらく した[17] 。
第 だい 二 に 次 じ 侵攻 しんこう [ 編集 へんしゅう ]
1229年 ねん に新 あら たに即位 そくい したオゴデイは即位 そくい 後 ご 最初 さいしょ の大 だい 事業 じぎょう として金 きむ 朝 ちょう の完全 かんぜん 征服 せいふく を宣言 せんげん した[18] 。金 かね 朝 あさ は弱体 じゃくたい 化 か していたとはいえ、統治 とうち 範囲 はんい が狭 せば まったことでかえって兵力 へいりょく の集中 しゅうちゅう が容易 ようい となっており、モンゴル軍 ぐん にとっても一種 いっしゅ の賭 か けともいえる侵攻 しんこう であった[19] [20] 。モンゴル軍 ぐん は伝統 でんとう の3軍 ぐん 体制 たいせい を取 と り、右翼 うよく をトルイ が、左翼 さよく をテムゲ・オッチギン が、中央 ちゅうおう 軍 ぐん を皇帝 こうてい オゴデイ自 みずか らが率 ひき いる遠征 えんせい 軍 ぐん が編成 へんせい された。なお、オゴデイの兄 あに のチャガタイ はモンゴル高原 こうげん に残留 ざんりゅう して本土 ほんど 防衛 ぼうえい を担 にな ったが、チャガタイと各 かく 軍 ぐん の指揮 しき 官 かん に割 わ り当 あ てられた任務 にんむ はこの頃 ころ のモンゴル政権 せいけん 内部 ないぶ での立 た ち位置 いち を反映 はんえい したものであった[21] 。
左翼 さよく 軍 ぐん を率 ひき いるテムゲ・オッチギンは不可解 ふかかい と言 い えるほどのゆっくりさで右翼 うよく ・中央 ちゅうおう 軍 ぐん に遅 おく れて山東 さんとう 方面 ほうめん を進軍 しんぐん し、ほとんど実戦 じっせん を交 まじ えることなくこの遠征 えんせい を終 お えた[22] 。テムゲ・オッチギンの任務 にんむ は、敢 あ えて河北 かわきた の民 みん の恐慌 きょうこう を煽 あお ることで河南 かなん への人口 じんこう 流入 りゅうにゅう を引 ひ き起 お こし、金 きむ 朝 ちょう 領内 りょうない での食料 しょくりょう 不足 ふそく を引 ひ き起 お こすことにあったとみられる[23] 。中央 ちゅうおう 軍 ぐん を率 ひき いるオゴデイは1230年 ねん 8月 がつ に西京 にしぎょう (大 だい 同府 どうふ )に到着 とうちゃく し、そこから山西 さんせい 地方 ちほう を南下 なんか して黄河 こうが 北岸 ほくがん に至 いた ったが、12月に河中 かわなか 府 ふ を陥落 かんらく させた後 のち は正面 しょうめん から金 かね 軍 ぐん と戦 たたか おうとせず、なかなか黄河 こうが を渡 わた らなかった[22] 。中央 ちゅうおう 軍 ぐん の目的 もくてき は金 かね 軍 ぐん 主力 しゅりょく を黄河 こうが 南岸 なんがん に引 ひ き付 つ けて囮 おとり になることにあったようである[24] 。
最 もっと も困難 こんなん な道 みち を行 い くことになったのがトルイ率 ひき いる右翼 うよく 軍 ぐん で、右翼 うよく 軍 ぐん は全 ぜん 軍 ぐん の中 なか で陝西 せんせい 方面 ほうめん から唯 ただ 一 いち 金 きん 朝 あさ 領 りょう 奥深 おくふか くに侵攻 しんこう した[25] 。1230年 ねん 中 ちゅう には陝西 せんせい 地方 ちほう の中心 ちゅうしん 地 ち である京 きょう 兆 ちょう を攻 せ め落 お とし、河南 かなん 方面 ほうめん の守 まも りが堅 かた いのを見 み ると南 みなみ 宋 そう 領 りょう を経由 けいゆ する大 だい 迂回 うかい を行 おこな い、陝西 せんせい ・四川 しせん ・河南 かなん にまたがる山岳 さんがく 地帯 ちたい を進 すす んで南方 なんぽう から河南 かなん 一帯 いったい に入 はい った[24] 。トルイ軍 ぐん 接近 せっきん の報 ほう に焦 あせ った金 かね 軍 ぐん は完 かん 顔 がお 合 ごう 達 たち ら率 ひき いる主力 しゅりょく 軍 ぐん を南下 なんか させたが、1232年 ねん 正月 しょうがつ にはこれを好機 こうき と見 み たオゴデイ軍 ぐん も遂 つい に一斉 いっせい に黄河 こうが を渡 わた り、金 かね 軍 ぐん は危機 きき 的 てき 状況 じょうきょう に陥 おちい った[26] 。そして旧暦 きゅうれき 正月 しょうがつ 16日 にち 、三峰山 みうねやま の戦 たたか い においてトルイ率 ひき いる軍団 ぐんだん が金 きむ 朝 ちょう 主力 しゅりょく 軍 ぐん を壊滅 かいめつ させたことで金 かね 朝 あさ は野戦 やせん でモンゴル軍 ぐん に対抗 たいこう する術 じゅつ を失 うしな い、首都 しゅと の開封 かいふう は裸 はだか 城 じょう となってモンゴル軍 ぐん に包囲 ほうい されることになった[27] 。
同年 どうねん 3月 がつ 、オゴデイ軍 ぐん とトルイ軍 ぐん は合流 ごうりゅう するとスブタイ・バアトル 、グユク・バアトル、テムデイ・コルチ 、タガチャル・コルチ ら4将 はた 率 ひき いる部隊 ぶたい を残 のこ して本隊 ほんたい は北 きた 還 かえ を始 はじ め、この4将 しょう によって開封 かいふう の包囲 ほうい が始 はじ められた(開封 かいふう 攻囲 こうい 戦 せん )[28] 。既 すで に大量 たいりょう の避難 ひなん 民 みん が逃 に げ込 こ んでいた開封 かいふう では食糧 しょくりょう 不足 ふそく と疫病 えきびょう によって悲惨 ひさん な状態 じょうたい に陥 おちい り、金 かね 朝 あさ は皇族 こうぞく の曹王訛 なまり 可 か (哀 あい 宗 むね の兄 あに の荊王盤 ばん 都 と の子 こ )を人質 ひとじち として差 さ し出 だ すことで一時 いちじ モンゴル軍 ぐん と停戦 ていせん を結 むす んだ。しかし同年 どうねん 7月 がつ には哀 あい 宗 むね に投降 とうこう の条件 じょうけん として皇帝 こうてい 号 ごう を捨 す て去 さ ることを迫 せま った使者 ししゃ の唐 から 慶 けい が殺 ころ され、開封 かいふう 救援 きゅうえん を志 こころざ した地方 ちほう の諸 しょ 軍 ぐん が敗 やぶ れたこともあり、哀 あい 宗 むね は1233年 ねん 正月 しょうがつ 23日 にち に一部 いちぶ の側近 そっきん とともに開封 かいふう を捨 す てて帰 かえり 徳 とく に逃 のが れた。
開封 かいふう では残 のこ された宰相 さいしょう によってモンゴルへの抗戦 こうせん が続 つづ けられたが、崔 ちぇ 立 だて が城内 きうち クーデターを起 お こして城内 じょうない の指揮 しき を掌握 しょうあく し、同年 どうねん 4月 がつ にスブタイに投降 とうこう したことにより開封 かいふう は陥落 かんらく した。一方 いっぽう 、哀 あい 宗 むね は6月 がつ に帰 き 徳 とく を出 で て南 みなみ 宋 そう との国境 こっきょう に近 ちか い蔡州 に逃 のが れたが、タガチャル・コルチ率 ひき いる別働隊 べつどうたい がこれを包囲 ほうい した(蔡州の戦 たたか い )[29] 。同月 どうげつ 10日 にち に金 かね 朝 あさ は投降 とうこう を申 もう し出 で たもののもはやモンゴル軍 ぐん がこれに応 おう じることはなく、11月には更 さら に孟 はじめ 珙率 ひき いる南 みなみ 宋 そう 軍 ぐん が包囲 ほうい に加 くわ わった[28] 。 1234年 ねん 正月 しょうがつ 、モンゴル軍 ぐん の攻囲 こうい が狭 せば まる中 なか で哀 あい 宗 むね は皇族 こうぞく の呼 よび 敦 あつし を説得 せっとく して皇帝 こうてい 位 い を譲 ゆず った(金 かね の末 すえ 帝 みかど )が、まさに末 すえ 帝 みかど の即位 そくい 式 しき が行 おこな われていた最中 さいちゅう にモンゴル軍 ぐん が城内 じょうない に雪崩 なだ れ込 こ み、哀 あい 宗 むね ・末 すえ 帝 みかど がともに殺 ころ されたことによって名実 めいじつ 共 ども に金 かね 朝 あさ は滅亡 めつぼう した[30] 。
モンゴルの侵入 しんにゅう 経路 けいろ [ 編集 へんしゅう ]
モンゴル帝国 ていこく の金 かね 国 こく 侵入 しんにゅう (1211 - 1215)
モンゴル帝国 ていこく の金 かね 国 こく 侵入 しんにゅう (1230 - 1234)
重要 じゅうよう 戦役 せんえき [ 編集 へんしゅう ]
^ 1233年 ねん の蔡州包囲 ほうい 戦 せん の際 さい 、南 みなみ 宋 そう はモンゴルに兵力 へいりょく 2万 まん 人 にん と米 べい 30万 まん 石 せき を支援 しえん した。
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愛宕 あたご 松男 まつお /寺田 てらだ 隆信 たかのぶ 『モンゴルと大明 だいめい 帝国 ていこく 』講談社 こうだんしゃ 学術 がくじゅつ 文庫 ぶんこ 、講談社 こうだんしゃ 、2008年 ねん (初版 しょはん 1998年 ねん )
杉山 すぎやま 正明 まさあき 『耶律楚 すわえ 材 ざい とその時代 じだい 』白 しろ 帝 みかど 社 しゃ 、1996年 ねん
杉山 すぎやま 正明 まさあき 『モンゴル帝国 ていこく の興亡 こうぼう (上 うえ )軍事 ぐんじ 拡大 かくだい の時代 じだい 』講談社 こうだんしゃ 現代新書 げんだいしんしょ 、講談社 こうだんしゃ 、2014年 ねん (初版 しょはん 1996年 ねん )
杉山 すぎやま 正明 まさあき /北川 きたがわ 誠一 せいいち 『世界 せかい の歴史 れきし 〈9〉大 だい モンゴルの時代 じだい 』中公 ちゅうこう 文庫 ぶんこ 、中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ 、2008年 ねん (初版 しょはん 1998年 ねん )
古松 こまつ 崇志 たかし 『草原 そうげん の制覇 せいは :大 だい モンゴルまで』岩波 いわなみ 新書 しんしょ 、岩波書店 いわなみしょてん 、2020年 ねん