ちょうさかえ

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ちょう さかえ(ちょう えい、1182ねん - 1264ねん)は、モンゴル帝国ていこくつかえたかん人世じんせいこう漢人かんど軍閥ぐんばつ)の一人ひとりてるじょうふみてんさわじょうちょうやわら東平とうへいいむみのるらにならぶ、すみみなみ中心ちゅうしんとするだい軍閥ぐんばつきずいたことでられる[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

モンゴル時代じだい華北かほく投下とうかりょうすみみなみがカチウン投下とうかりょうすみみなみちょう勢力せいりょくけんであった。

ちょうさかえすみみなみれきぐすくけん出身しゅっしんで、えら容貌ようぼうられる豪傑ごうけつであった。ちょうさかえわかころ従軍じゅうぐんしてながつらぬいたときひとあしがくんでかせたが、はたしか自若じじゃくとしていたという。1210年代ねんだいチンギス・カンによるきむちょう侵攻しんこうはじまると、各地かくち敗北はいぼくきっしたかねぐん拠点きょてん防衛ぼうえいてんじ、華北かほく農村のうそん地帯ちたいはモンゴルぐんによる略奪りゃくだつ盗賊とうぞく横行おうこうする政府せいふ状態じょうたいおちいった。このようななか登場とうじょうするのが「さとへい」「義軍ぎぐん」とばれた農村のうそん自衛じえい集団しゅうだんの「かん人世じんせいこう」)で、ちょうさかえもその一人ひとりとしてすみみなみの黌堂みね根拠地こんきょちとし徐々じょじょ勢力せいりょく拡大かくだいはじめた。ちょうさかえあきらおか・鄒平・すみ長山ながやまからしがまだい新城しんじょう・淄州といった勢力せいりょくけんとし、モンゴルぐん盗賊とうぞくるとやまのがれる生活せいかつおくっていた[2][3]

1226ねんへいいぬ)、東平とうへいいむみのるじょうちょうやわらといった有力ゆうりょくこうがみなモンゴルにくだったため、ちょうさかえついにモンゴルに投降とうこうすることをめた。このころ山東さんとう地方ちほうすみ南方なんぽうめんはチンギス・カンのおとうとカチウン始祖しそとするカチウン・ウルスの領地りょうち投下とうかりょう)とさだめられていたため、ちょうさかえはカチウン・ウルス当主とうしゅアルチダイ・ノヤン投降とうこうもうた。アルチダイにれられてチンギス・カンのしたおとずれたちょうさかえは「山東さんとうなかでも唯一ゆいいつ投降とうこうこばんで抗戦こうせんしてきたなんじが、なぜ投降とうこうするようになったのか」とたずねられ、「山東さんとう広大こうだいであるが、ことごとくがみかど(チンギス・カン)のゆうするところとなった。もしわたしにほかにたよるべき勢力せいりょくがあればモンゴルに服従ふくじゅうはしなかっただろう」とこたえた。チンギス・カンはこのようなちょうさかえ不遜ふそん態度たいどをむしろ評価ひょうかし、「まさにサイン・バアトル(「賢明けんめいなる勇士ゆうし」の)である」 とひょうしたという[4]。こののちちょうさかえはチンギス・カンよりきむむらさきこうろく大夫たいふ山東さんとうこう尚書しょうしょしょうけん兵馬へいば元帥げんすいずみみなみごとにんじられ、はじめてすみみなみ拠点きょてんとするようになった[5][6]。また、モンゴルにくだったあかしとしてまごちょうひろししつ(トルカク)としてアルチダイのオルドおくったが、これによりちょうひろし多国たこくつうじた将軍しょうぐんとしてそだつこととなる[7]

1230ねんかのえとら)、だいきんあさ侵攻しんこう計画けいかくされると、 ちょうさかえみずかさきひつつとめることをもう、これをよろこんだオゴデイちょうさかえ漢人かんど諸侯しょこう指揮しきかん位置付いちづけた。1231ねんからし)、黄河こうが渡河とかにはひきいて対岸たいがんかねぐんやぶり、さら勝勢しょうせいじょうじてちょうばんやま寨を陥落かんらくする功績こうせきげた。これらのやま寨を陥落かんらくさせたときにはすうまん捕虜ほりょたため、ちょうさかえ上官じょうかんアジュル反乱はんらんこることをおそれてこれを皆殺みなごろしにしようとしたが、ちょうさかえ説得せっとくしてやめさせたという。1233ねん癸巳きし)、睢陽を攻略こうりゃくしたときにも同様どうよう議論ぎろんこったが、やはりちょうさかえしろみん殺害さつがいをやめさせた[8]

1234ねんきのえうま)には沛を包囲ほういしたが、しろまもりはかたくなかなか攻略こうりゃくできなかった。 あるとき、沛の城主じょうしゅ夜襲やしゅう計画けいかくしたが、ちょうさかえはこれを事前じぜん察知さっちし、夜襲やしゅう撃退げきたいしたうえいきおいにじょうじて沛城まで攻略こうりゃくしてしまった。いでじょしゅう攻撃こうげきしたが、ここでも守将しゅしょうの沛が攻撃こうげき仕掛しかけてきたのを撃退げきたいし、そのいきおいでしろ攻略こうりゃくした。1235ねん乙未おとみ)には邳州を攻略こうりゃくし、1236ねんへいさる)には皇族こうぞくコデン指揮しきみなみそうりょうなつめようひかりとう3けんやぶった[9]

ちょうさかえかん人世じんせいこう同様どうよう荒廃こうはいした華北かほく復旧ふっきゅうにも尽力じんりょくし、すみみなみ移住いじゅうしてきた漢人かんど保護ほごして土地とち家屋かおくあたえたため、すみみなみ一帯いったい曠野あらのけて楽土らくどしたという。なかみつる2ねん1261ねん)にはすでに80さいという高齢こうれいであったちょうさかえが「すみみなみこう」にふうじられた。死後しごついふうではなく生前せいぜんふうじられるのは異例いれいのことであり、どう時期じきに「やす粛公」にほうぜられたちょうやわらとともに帝位ていい継承けいしょう戦争せんそうでクビライの勝利しょうり貢献こうけんした恩賞おんしょうであるとかんがえられている[10]。そのあいだもなくしてちょうさかえは83さいくなり、ちょうくにすぐるいだ[11]

すみみなみちょう[編集へんしゅう]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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ちょうくにすぐる
 
ちょうくにただし
 
ちょう邦彦くにひこ
 
ちょうくにまこと
 
ちょうくにまこと
 
ちょうくにけん
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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ちょうたかし
 
ちょう
 
 
 
 
 
 
ちょう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちょうもとふし
 
ちょうもとさと
 
クラクル王妃おうひ
イェスンジン
 
きむつよしやつ王妃おうひ
 
 
 
 
 
 
ちょうもと
 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 愛宕あたご1988,192ぺーじ
  2. ^ もとまき150列伝れつでん37ちょうさかえでん,「ちょうさかえてるすみみなみれきしろじんじょう貌奇えら。嘗従ぐんため流矢ながれやぬき眥、抜之不出ふしゅつれいじん以足抵其がく而抜神色しんしょく自若じじゃくきむ山東さんとう群盗ぐんとう蜂起ほうきさかえりつさとみんよりどころずみみなみ黌堂みねしゅうややもりとげ略章りゃくしょうおか・鄒平・すみ長山ながやまからしがまだい新城しんじょう及淄しゅう而有へいいたり則清のりきよ野入のいりさん
  3. ^ つつみ1995,3-4ぺーじ
  4. ^ 漢人かんど軍閥ぐんばつなかでもとく有力ゆうりょくものは「バアトル」というモンゴル称号しょうごうあたえられており、ふみてんさわは「サムカ・バアトル」、 ちょうやわらは「ちょうバアトル」 とばれていたことが記録きろくされている(つつみ1995,8ぺーじ)
  5. ^ もとまき150列伝れつでん37ちょうさかえでん,「としへいいぬ東平とうへいじゅんてんみな内属ないぞくさかえとげきょ其兵あずかおさめ款於按赤だい衍、引見いんけんふととい以孤ぐんすうどくこう王師おうしたい曰『山東さんとう広人ひろと稠、悉為みかどゆうしんわかただしゆう倚恃、また款服』。ふとしたけし、拊其曰『さいいんはち也』。授金むらさきひかりろく大夫たいふ山東さんとうこう尚書しょうしょしょうけん兵馬へいば元帥げんすいずみみなみごととき貿易ぼうえきようぎんみんそうはつはかこうさかえれい禁絶きんぜつ
  6. ^ ちょうさかえ一族いちぞくすみみなみ軍閥ぐんばつとして著名ちょめいなため当初とうしょからすみみなみ拠点きょてんとしていたようにかんがえられがちであるが、実際じっさいにはすみみなみ権益けんえきゆうするカチウン王家おうけむすびつくことではじめてすみみなみはいることができたのだとつつみ一昭かずあき指摘してきしている (つつみ1995,6ぺーじ)
  7. ^ ただし、ちょうひろし生年せいねんちょうさかえがアルチダイに投降とうこうしたとされるとしの1ねんまえ1225ねんであり、ちょうひろしまれた直後ちょくごからカチウンのオルドにおくられたというのはかんががたい。そのため、ちょうさかえがアルチダイに投降とうこうしたのは1225よりもはや段階だんかいで、ちょうさかえがチンギス・カンに面会めんかいしたのが1225ねんではないかとかんがえられている(つつみ1995,8ぺーじ)
  8. ^ もとまき150列伝れつでん37ちょうさかえでん,「かのえとら朝廷ちょうていしゅう諸侯しょこう汴、さかえ請先ろくぐん以清蹕道、みかど嘉之よしゆきたまものころもさんかさねみことのり諸侯しょこうじょうからしぐんいたり河上かわかみさかえりつよいずみもりしゃつぶせつめだんてきへいせいじんいたりさかえはせこれもちふう披靡、だつせんせんじゅうそう、麾抵北岸ほくがんすみしゅうぐんつぎすすむじょうしょうやぶちょうばんやま寨、俘獲まんあまり大将たいしょうおもねうけら魯恐せいへんよくつきころせこれさかえりょくそう而止。癸巳きし、汴梁したがえおもねうけら魯為先鋒せんぽうおさむ睢陽、よくころせ俘虜ふりょ、烹其以灌じょうまたちからどめすんで而城さかえ単騎たんき入城にゅうじょうなで其民」
  9. ^ もとまき150列伝れつでん37ちょうさかえでん,「きのえうまおさむ沛、沛拒もりややいむ、其将唆蛾夜来やらい擣営、さかえさとし、唆蛾かえしはしりつ壮士そうしついころせこれじょうかちきゅうおさむしろやぶ。就攻じょしゅう守将しゅしょうこく用安ようあん引兵突出とっしゅつさかえぎゃくげきまたやぶ其城、用安ようあん赴水乙未おとみ、抜邳しゅうへいさるしたがえ諸王しょおう闊端やぶそうなつめようひかりとうさんけん
  10. ^ つつみ1995,7ぺーじ
  11. ^ もとまき150列伝れつでん37ちょうさかえでん,「河南かなんみんきた徙至ずみみなみさかえれい民間みんかんぶんあずかきょ、俾得じゅ畜、且課其殿さい曠野あらの辟為楽土らくどこれさい中書ちゅうしょこう績、ため天下でんかだいいち璮拠えきわたし餽以馬蹄ばていきんさかえ曰『すんでもとこくなに擅交となりさかい』。却之。としろくじゅういち、乞致仕ちしこうじゅうきゅうねん即位そくいふうずみみなみこう致仕ちしそつとしはちじゅうさんななにんちょうくにすぐる襲爵しゅうしゃくさきそつくにじき行軍こうぐんまん邦彦くにひこけんずみみなみぎょうしょうくにまこと淄州。くにまことだいとくろうちゅうくにあきらおく魯総かんくにけん、淮安そうかんまごよんじゅうにんひろしかさねくにすぐる爵、あらためじょうそうかん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]