(Translated by https://www.hiragana.jp/)
石珪 - Wikipedia コンテンツにスキップ

いし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

いし(せき けい、? - 1223ねん)は、モンゴル帝国ていこくつかえた漢人かんど一人ひとりたいやすしゅうしんたいけん出身しゅっしんほんぬき兗州たてまつけん当初とうしょは「べにふすまぐん」とばれる反乱はんらんぐん頭目とうもく一人ひとりとしてみなみそう帰順きじゅんかねあさたたかったが、のちみなみそう見限みかぎってモンゴル帝国ていこく投降とうこうしたことでられる。一方いっぽうで、妻子さいし見殺みごろしにしてまでモンゴルにったことや、きむちょう捕虜ほりょとなったさいにはモンゴルへの忠誠ちゅうせいつらぬいてころされたことなどから、『もと』では忠義ちゅうぎでんたてつてされている。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

いし珪はきたそう時代じだいに「徂徠そらい先生せんせい」とごうした儒家じゅかいしかい[1]末裔まつえいで、めぐまれた体格たいかくちながら、先祖せんぞならって学問がくもんにもはげ人物じんぶつであった。かねあさ末期まっきモンゴルぐん侵攻しんこう貞祐ていゆうみなみによって華北かほく一帯いったい荒廃こうはいすると、いし珪は郷里きょうり若者わかものひきいて自衛じえいし、ちんたかしむねちょうみやこみつる覇王はおうへいかめこうむやまやぶった[2]。このころ山東さんとう地方ちほうではかねみなみそうあいだ戦争せんそうひらき禧用へい)で生活せいかつ困窮こんきゅうした民衆みんしゅうが「べにふすま」とばれる反乱はんらんぐん形成けいせいしており、たいやす一帯いったい1212ねんたかしけい元年がんねん/よしみじょう5ねん/みずのえさる)に蜂起ほうきしたりゅうひきいる勢力せいりょく支配しはいするようになり、いし珪もりゅう支配しはいはいった[3]。しかし1215ねん貞祐ていゆう3ねん/よしみてい8ねん/おつ)にかね討伐とうばつぐんによってりゅうころされると、霍儀が勢力せいりょく継承けいしょうし、いし珪と彭義あきらなつぜんあお・裴淵・かずらたいら・楊徳こうおうあらわちゅうらがこれにしたがった[4]。しかし、沂州攻撃こうげき失敗しっぱいした霍儀も斬殺ざんさつされると、その残党ざんとう一部いちぶは彭義あきらひきいられてあきら合流ごうりゅうし、のこりはいし珪・なつあきら統率とうそつすることとなった[5]一方いっぽうりゅうべにふすまぐん勢力せいりょくを2ふんしていた楊安りゅうさきんじて討伐とうばつされており、こちらはあきらがその地位ちい継承けいしょうしていた。

1217ねん貞祐ていゆう5ねん/よしみてい10ねん/ちょううし)、モンゴルぐんさい侵攻しんこう連動れんどうしてみなみそうきむちょう開戦かいせんすると、いし珪らべにふすまぐんみなみそうがわからきむちょうりょう侵攻しんこう尖兵せんぺいとして注目ちゅうもくされるようになった[6]1218ねんきょうじょう2ねん/よしみてい11ねん/つちのえとら)にはいるとべにふすまぐんからみなみそうのがれていたさきはたらきかけによってまずあきらみなみそう投降とうこうし、時期じき不明ふめいであるが前後ぜんごしていし珪もみなみそうり、これ以後いごいし珪らべにふすまぐんみなみそうがわから「忠義ちゅうぎぐん」とばれるようになった[7][8]また同年どうねんチンギス・カンジュブカン使者ししゃ派遣はけんしてみなみそう和議わぎむすんだため、1219ねんきょうじょう3ねん/よしみてい12ねん/おのれ)にいし珪は配下はいかりゅうじゅん中央ちゅうおうアジア遠征えんせいちゅうのチンギス・カンのした派遣はけんした。チンギス・カンはりゅうじゅんあつねぎらい、たとえみなみそうとの和議わぎやぶれてもいし珪の一家いっかとはなが関係かんけいむすぼうとかたったため、報告ほうこくけたいし珪はモンゴルにることをかんがえるようになったという[9]

一方いっぽう、このころべにふすまぐん忠義ちゅうぎぐんいし珪・あきら・沈鐸とさきの3勢力せいりょくおおきくかれていたが、そもそもべにふすまぐんみなみそうけをつくった沈鐸とさきとく厚遇こうぐうされており、いし珪は沈鐸とさきたいして不満ふまんいていたようである[10]。また、1218ねんよしみてい11ねん)2がつ戦死せんししたこうただしぐんあきら継承けいしょう亀山かめやま駐屯ちゅうとんするようになったことはいし珪らの地位ちい相対そうたいてき低下ていかさせ、いし珪はべにふすまぐん忠義ちゅうぎぐんなかもっと劣位れつい困窮こんきゅうした状況じょうきょうかれることとなった[10]さらに、べにふすまぐん支配しはいする山東さんとう地方ちほうからみなみそうするものがあまりにもおおかったため、みなみそうからべにふすまぐんへの糧食りょうしょく支援しえん(「忠義ちゅうぎかて」とばれていた)がとどこおるようになり、これに不満ふまんいたいし珪は1219ねんよしみてい12ねん)1がつうんかてふねうばい、2がつには2まんにんひきいて淮河をわたみなみそうりょうみなみもん攻撃こうげきした[10]けんすわえしゅうはりへいべにふすまぐんおうあらわしんこうともちょうくにながらに協力きょうりょくもとめたもののやぶれ、おうあらわしんこうともちょうくにながらはいし珪と遭遇そうぐうすると下馬げばして山東さんとうはな戦闘せんとうをやめてしまったため、あきら仲介ちゅうかいにはいることでようやくいし珪はへいおさめた[11]。こうしていし珪のこした内紛ないふんおさまったが、このころかねぐんが淮西に進出しんしゅつしていたことから、これに対処たいしょするためにあきらいし珪は盱眙けん派遣はけんされることとなった[12][13]

1220ねんきょうじょう4ねん/よしみてい13ねん/かのえたつ)6がつさきみなみそう朝廷ちょうてい指示しじによってころされたのちみなみそうがわ指導しどうしゃうしなった忠義ちゅうぎぐんみなみそうからおくんだひねせんひきいさせようとはかった。ところが、予想よそうはんしてさき配下はいかであった裴淵・そういさおちんまご武正たけまさおうよしふかしちょうやまちょうともらはみなみそう要請ようせい拒絶きょぜつし、盱眙に駐屯ちゅうとんしていたいし珪を指導しどうしゃとしてむかれた[11]。そこでやむなく、みなみそう朝廷ちょうていいし珪に「さざなみすい忠義ちゅうぎぐん統轄とうかつ」の地位ちいさづけた[14]一方いっぽうひねせんおくもうとしていた賈涉はこれをはじとし、いし珪のぐんを6つにけて分散ぶんさんさせようとしたが、裴淵らは依然いぜんとしていし珪をしゅとしてあおいでいた。このあいだ経緯けいい注視ちゅうししていたあきらいし珪を討伐とうばつすることをもうたが賈涉は決断けつだんできず、最終さいしゅうてきには「淮河に戦艦せんかん布陣ふじんしていし珪を威嚇いかくし、しかのちいし珪をまねき、ものにはぜにかてやし、いたらざるものには支援しえんめるよう通達つうたつすれば、いし珪のいちとう自壊じかいするであろう」というさく採用さいようした[15]

ここにいためられたいし珪はつまあな息子むすこいし金山かなやま見捨みすてて淮河をわたりモンゴルにることを決意けついし、1220ねんよしみてい13ねん)12月に裴淵を殺害さつがいしてそういさおちんまご武正たけまさらとともにモンゴルの陣営じんえいかった[16][11]。これをったみなみそうしょうは「ふとしじょういし珪)がもどれば、ふとしじょう妻子さいし危害きがいくわえない」とびかけたがいし珪はかえりみなかったため、いし珪の妻子さいしは淮河にしずめられてしまった。ついにモンゴルの勢力せいりょくけんはいったいし珪はこのころ華北かほく駐屯ちゅうとんしていたムカリり、これをよろこんだムカリは「東平とうへい南京なんきんたようなものだ」とかたったという[17]一方いっぽうのこされた「さざなみすい忠義ちゅうぎぐん」はあきら吸収きゅうしゅうし、これによってべにふすまぐんけい勢力せいりょくすべあきら傘下さんかはいることとなった。

1221ねんからし)、ムカリはいし珪にひかりろく大夫たいふすみ兗単三州兵馬都総管・やま東路あずまじぎょう元帥げんすい地位ちいさづけ、きむとらあたえた[18]1223ねんみずのとひつじ)にはチンギス・カンより妻子さいしててまでモンゴルにったことをねぎら言葉ことばと、あらためてきむむらさきこうろく大夫たいふ東平とうへい兵馬へいばそうかん山東さんとうしょみち元帥げんすい地位ちいさづけることがつたえられた[19]

同年どうねん7がついし珪は曹州めたが、きむちょうしょうていしたがえよろしやぶれて包囲ほういされ、救援きゅうえんへいいたらないうち捕虜ほりょにされてしまった。かねあさ首都しゅと開封かいふうまでいし珪は連行れんこうされ、そのひととなりを評価ひょうかしたきむちょう皇帝こうていよりかねるようさそわれたが、いし珪はこれを峻拒しゅんきょした。おこった皇帝こうていはこれを処刑しょけいして市街しがいさらし、のちいし珪の部下ぶかたちは兗州にしゃてていし珪をまつったという[20]のこされた息子むすこいしてんろくちち地位ちいぎ、きむちょうとのたたかいに活躍かつやくした。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ そうまき432列伝れつでん191儒林2せきかいでん,「いしかい守道もち、兗州たてまつじん。……以『えき教授きょうじゅ於家、魯人ごうかい徂徠そらい先生せんせい』」
  2. ^ もとまき193列伝れつでん80忠義ちゅうぎ1せき珪伝,「いし珪、たい安新あんしんたいじんそう徂徠そらい先生せんせい守道もち裔孫也、読書どくしょりょくためぎょう体貌たいぼう魁偉かいい膂力りょりょくひと、倜儻不羈ふききむ貞祐ていゆうみなみわたる兵戈へいかよんおこり、珪率少壮しょうそうまけけわしたもてあずか滕陽ちんたかしそう聚兵山東さんとうやぶちょうみやこみつる覇王はおうへい於亀こうむやまそうすすむていもとりゅう以兵むかえてき、珪敗於亳とげかち引兵にゅう盱眙。かいそう賈渉さそえころせさざなみすい忠義ちゅうぎぐん統轄とうかつさき人情にんじょう不安ふあんしゅうむかえ珪為そちよびためふとしじょう
  3. ^ 池内いけうち1977,33ぺーじ
  4. ^ 池内いけうち1977,36ぺーじ
  5. ^ そうまき476列伝れつでん235ぜんつて,「はつ大元おおもとへいやぶちゅう金主きんしゅ竄汴、斂益よこのこみんがん阻思らん。於是りゅうおこりたいやすかすめ淄・沂。、霍儀まましこれ。彭義あきらいしなつぜんあお・裴淵・かずらたいら・楊徳こうおうあらわちゅうとう。楊安おこりかすめ莒・みつてん徽・おうさとしためはかりごとぬしははしゅうとりゅうぜんためそち、汲君りつおう琳・閻通・ただしともちょうただしただしまご武正たけまさとう蜂起ほうき。……霍儀おさむ沂州した、霆自清河きよかわいずるじょしゅうつぶせ其衆。彭義あきらかえりあきら摑者、そくおもね魯達。霆即すもも措、たまものせいかんがお
  6. ^ 池内いけうち1977,37-38ぺーじ
  7. ^ そうまき403列伝れつでん162賈涉でん,「賈涉、ずみがわ天台てんだいじん。……淮人さき・沈鐸せつすわえしゅうもりおうじゅん以招山東さんとうじんじゅんれい鐸遣しゅうようせつ楊友・りゅうあきらあきらとう以其しゅいたりさき招石珪・かずらたいら・楊徳こうつうごう忠義ちゅうぎぐん』」
  8. ^ 池内いけうち1977,38ぺーじ
  9. ^ もとまき193列伝れつでん80忠義ちゅうぎ1せき珪伝,「としつちのえとらふとし使かずら罕与そうおのれ、珪令麾下きかりゅうじゅんちょく抵尋斯干じょうにゅう覲、ふとし慰労いろうじゅん、且勅珪曰『如宋和議わぎなりわれあずかしかえいゆい一家いっかわれ必栄なんじ』。じゅんかえつげ珪、珪心感服かんぷく日夜にちやおもえ
  10. ^ a b c 池内いけうち1977,42ぺーじ
  11. ^ a b c 池内いけうち1977,43ぺーじ
  12. ^ そうまき476列伝れつでん235ぜんつて,「じゅうねん山東さんとうらいしゃとめけんすわえしゅうやなへい以贍。さきこんへい請預両月わちしかこうそちしょ五千並良等万人往密州就食、もと。請速ぜんだいりょう其衆、またもとへい以石珪権軍務ぐんむ、珪乃だつうんかてふねがつかのえたつりつぐんまん淮大かすめへい調ちょうおうあらわしんこうともちょうくになが以兵ぎゃくいたりみなみもんあらわしんはいともくにえいぐう珪、下馬しもうま与作よさく山東さんとうみなふくせんへい窘、乃遣ぜんさとしこれどききんじんかこえ淮西きゅう馬司まつかさみつるけいそう戍濠、せんさんせん、珪及ちょうはるみなゆう亡失ぼうしつそち調ちょうぜんあずかさき・珪軍援盱眙。ぜんまたほしこころみおや東海とうかいてんぐん赴之。みずのとぐうきんじん於嘉さんたたかえしょうとし
  13. ^ そうまき403列伝れつでん162賈涉でん,「珪等はん、斃鐸於漣すいじゅんやめつうばんはりへいゆきもりごとよくしょう其糧使つぶせ。珪・とくこうとう以漣すいしょぐん淮屯みなみわたりもん、焚掠いくつきいい朝廷ちょうていよくかず残金ざんきんおけわがぐんなん』。へいあきらさきこばめこれとめこと甚危。わたるざいたからおう上書うわがき曰『くだかかといたり、而金乃請、此正ようこうきよしあいだこうけいさくこわ山東さんとうわざわい必移於両淮。きょうきんじんしょとぼしおもんみざいあずかかてわかきょすうねんとしぬさかえこれ以肉啖餒とら、啖尽しょう反噬はんぜいいたりわか忠義ちゅうぎこれにんみなもとはじめ而来、たて定額ていがくため一軍いちぐんしょ北岸ほくがんのりやすのう以有げんざいおう無窮むきゅう須。ひだるすなわち噬人、飽則用命ようめい、其勢しか也』。授淮ひがしひさげてんけいごくけんすわえしゅう節制せっせいほんきょうひがし忠義ちゅうぎじんへいわたる亟遣でんつばささとし珪等逆順ぎゃくじゅん禍福かふく以軽しゃ山陽さんようとくこうとう郊迎、ふく請死、ちかい以自しん
  14. ^ そうまき40やすしそう本紀ほんぎ4,「[よしみていじゅうさんねんはちがつきのえさるふくうみしゅう、以将さくかんすすむじょ晞稷しゅうごと。盱眙しょうせき珪叛にゅうさざなみ水軍すいぐんみことのり以珪ためさざなみすい忠義ちゅうぎぐん統轄とうかつ
  15. ^ そうまき476列伝れつでん235ぜんつて,「[よしみていじゅうさんねんぜんいたりすわえしゅうぞく召先赴行ざいぜんうず口之くちのとしゆうけいしょしょうしんどくさき嘗策せんくんもちしたおのれ、患之。乃陰ゆいせいそちしょにん吏莫凱、使つかい譖先、さきそつぜん而心えきわたるじょうさきよくおさむ其軍、輟統制とうせいひねせん往漣すい以総さきとう裴淵・そういさおちんまご武正たけまさ及王ふかちょうやまちょうともこばめ而不受、せんむかえせき珪於盱眙、たてまつため統帥とうすい。珪道すわえじょうわたる知覚ちかく、及選かえわたるはじ、乃謀ぶん珪軍ためろく、請於あさおさむたけしきょう東路あずまじ鈐轄しるしつげかくろく授淵とう使つかいぶんすべいい其縦。ふちとう受命じゅめいわたるそく聞於あさいいろくにんやめじゅんしたがえ、珪無能むのうため矣。其後ゆうきょうれいみな不納ふのうしかこうふちとうなおしゅ珪、わたるおそれ甚。ぜんむすぶ吏伺知之ともゆき、乃見わたる、請討珪、わたるゆうしょしゃ請以ぜんぐんぬのみなみもんうつり淮陰戦艦せんかんひね於淮がん、以示珪有備、しかこういのちいちしょう招珪ぐん来者らいしゃぞうぜにかていたりやめささえしゅうこころ一散いっさん、珪党はなれわたるよう其策、珪技はてきゅう珪素けいそどおりこう於大おだいもといたりころせふち而挾武正たけまさとくめずらしあずか其謀ぬしはじめしるべ大元おおもと
  16. ^ そうまき40やすしそう本紀ほんぎ4,「[よしみていじゅうさんねんじゅうがつみずのえさるさざなみすい忠義ちゅうぎぐん統轄とうかつせき珪叛」
  17. ^ もとまき193列伝れつでん80忠義ちゅうぎ1せき珪伝,「かのえたつそうはて渝盟、珪棄其妻あな金山かなやまつえけんわたり淮、そうすすむおい曰『ふとしじょうかいかんなんじ妻子さいし』。珪不顧、そうすすむ沈珪妻子さいし於淮。とげりつじゅんあつしいん孛里うみはなはじむはなはじむえついい曰『わかとく東平とうへい南京なんきん、授汝ばん』」
  18. ^ 池内いけうち1977,41ぺーじ
  19. ^ もとまき193列伝れつでん80忠義ちゅうぎ1せき珪伝,「からしはなはじむうけたまわせい授珪こうろく大夫たいふすみ兗単三州兵馬都総管・やま東路あずまじぎょう元帥げんすい、佩金とら便宜べんぎ従事じゅうじ後金あときん棄東ひらめ、珪与いむみのるぶんよりどころおさむ輯済・兗・沂・滕・たんもろしゅうみずのとふとしみことのり曰『いし珪棄妻子さいしひさげへい帰順きじゅん戦勝せんしょうおさむ授金むらさきひかりろく大夫たいふ東平とうへい兵馬へいばそうかん山東さんとうしょみち元帥げんすい如故』」
  20. ^ もとまき193列伝れつでん80忠義ちゅうぎ1せき珪伝,「あきなながつ、珪領へいやぶ曹州、あずか金将きんしょうていしたがえよろし連戦れんせんすう晝夜ちゅうやかてぜっ援兵えんぺいいたりぐん叛意はんい、珪臨じん仆被とりこしゅういたり汴、金主きんしゅたけし其為じんさそえ以名爵、よく使揖、珪憤然ふんぜん曰『われ事大じだいあさかんいたりこうろくふくのう受封他国たこく耶。かりわが一朝いっちょうとうばくしか以献』。金主きんしゅだいいかふけころせ于市、珪怡しか就死、いろ不変ふへん。其麾下立おりたてしゃ兗州まつ焉」

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • 池内いけうちいさおあきらろん--みなみそうきむ・モンゴル交戦こうせんにおけるいち民衆みんしゅう叛乱はんらん指導しどうしゃ軌跡きせき」『社会しゃかい文化ぶんか史学しがく』14ごう、1977ねん
  • もとまき193列伝れつでん80忠義ちゅうぎ1せき珪伝
  • 新元しんもとまき143列伝れつでん40せき珪伝