おうよし

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おう よし(おう ぎ)は、かねあさ末期まっきからモンゴル帝国ていこく初期しょきにかけて活躍かつやくした人物じんぶつ

概要がいよう[編集へんしゅう]

おうよし定府じょうふやすしすすむけんひとで、代々だいだい農家のうかだしだった。1214ねん、モンゴルぐん侵攻しんこうけたきむちょう朝廷ちょうていちゅう現在げんざい北京ぺきん)から汴梁遷都せんとすると、華北かほく一帯いったいでは行政ぎょうせい機構きこう崩壊ほうかい盗賊とうぞく横行おうこうする状態じょうたいおちいった。そこでやすしすすむけん人々ひとびと以前いぜんから文武ぶんぶすぐれたことでられるおうよし自分じぶんたちの指導しどうしゃとして推戴すいたいした。おうよし崩壊ほうかいしたやすしすすむけん行政ぎょうせい機構きこう代行だいこうし、「みやこみつる」 としょうした[1]

同年どうねんきむちょうみなみ遷を口実こうじつにモンゴルぐん再度さいど南下なんかはじめると、おうよしムカリひきいる左翼さよく軍団ぐんだん投降とうこうした[2]。そのチンギス・カン謁見えっけんしたおうよし駿馬しゅんめ2ひきあたえられ、やすしすすむ県令けんれい地位ちいみとめられた。また、華北かほく治安ちあんがますます悪化あっかするなかおうよしやすしすすむひがし位置いちする「瀝城」という城塞じょうさいならばまもることも、付近ふきんさかなることで自活じかつもできるとべ、やすしすすむ住民じゅうみん移住いじゅうさせた。この判断はんだんにより、おおくのもの兵乱へいらんからすくうことができたという[3]

1215ねんおつ)、きむちょう将軍しょうぐんはくさちちょうしゅうはいってモンゴルぐんへの反攻はんこうはじめたため、ムカリはおうよしにこれを討伐とうばつさせようとした。おうよし大風おおふうちゅうちょう梯子はしごたずさえてちょうしゅう急襲きゅうしゅうし、よるうち四方しほうから城壁じょうへきのぼりこれを陥落かんらくさせた。はくさちにはのがれられたもののおうよしちょうしゅう平定へいてい成功せいこうし、この功績こうせきによりムカリからちょうしゅう太守たいしゅちょうしゅうおよ冀州招撫使地位ちいさづけられた[4]

1217ねんちょううし)、モンゴルぐん南下なんかして鉅鹿洺州しろとして帰還きかんしようとしたところ、かねかんぐんおさめらんひきいる軍団ぐんだん北上ほくじょうしようとしていることを偵知した。そこで、おうよし伏兵ふくへいいてわずか100でこれにたたかいをいどみ、敗勢はいせいよそおって退却たいきゃくしたところで伏兵ふくへい攻撃こうげきさせ、だい勝利しょうりおさめた。1218ねんつちのえとら)にはたば鹿しかけんふかしゅう攻略こうりゃくし、じゅんてん元帥げんすいちょうやわらがその功績こうせき報告ほうこくしたことで、ふかしゅう節度せつど使ふかしゅう・冀州・ちょうしゅう招撫使昇格しょうかくとなった[5][6]

1221ねんからし)、たけせんふたたしげるはくさち配下はいか武将ぶしょう派遣はけんし、しげるはくさちらはちょうしゅう進出しんしゅつし瀝城を奪取だっしゅした。これにたいし、おうよしすうひゃく軍船ぐんせんひきいてかわくだり、そうたたかいでてきへい1せんあまりをころだい勝利しょうりおさめ、しげる捕虜ほりょとした。はくさちのみはのがれたものの、おうよし迫撃はくげきによって瀝城が陥落かんらくすると西にしそうし、おうよしちょうしゅうからたけせんぐん撃退げきたいすることに成功せいこうした。また、このころ邢州では「ちょう大王だいおう」としょうする盗賊とうぞく横行おうこうしており、にんけんみずふさが拠点きょてんとしていた。みずふさがまもりはかたく、じょうだい軍閥ぐんばつふみてんさわがこれを攻略こうりゃくしようとして失敗しっぱいするほどであったが、おうよし1222ねんみずのえうま)にみずふさが陥落かんらくさせちょう大王だいおう勢力せいりょく平定へいていしてしまった。そのおうよしふかしゅう・冀州一帯いったい統治とうちつとめたため、治安ちあん悪化あっかしていたほか華北かほくしゅうけんくら楽土らくどのようであるとひょうされたという[7]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ もとまき151列伝れつでん38おうよしでん,「おうよしよろしこれていやすしすすむじんいえぎょうのうよしゆうきもさとし沈黙ちんもく寡言かげん読書どくしょ大義たいぎかねじん遷汴、かわついたちぬすめおこり県人けんじん聚而はかりごと曰『時事じじ如此、われ儕欲保全ほぜんしつむべゆうしょすべぞく』。乃相あずか推義ためちょうあるきけんごとひろごうためみやこみつる
  2. ^ むらさき山大やまだい全集ぜんしゅうまき18龍虎りゅうこまもるじょう将軍しょうぐん安武やすたけぐん節度せつど使兼行けんこうふか冀二州元帥府事王公行状(『もとまき151列伝れつでん38おうよしでんもとになった史料しりょう)ではおうよしのモンゴルへの投降とうこうを1213ねんみずのととりふゆのこととするが、これはかねあさみなみ遷(1214ねん)ののち記載きさいされており、とき系列けいれつみだれている。『紫山しざんだい全集ぜんしゅう』をもとにして作成さくせいしたとかんがえられる『もとまき151列伝れつでん38おうよしでんでは「1213ねんみずのととり)」という記載きさい省略しょうりゃくされており、やはり「みずのととり」という年次ねんじ信用しんようできないものとかんがえるのがただしいと池内いけうちいさおろんじている(池内いけうち1980,71-73ぺーじ)
  3. ^ もとまき151列伝れつでん38おうよしでん,「ふとし国王こくおうはなはじむへいいたり城下じょうかりつしゅ、以寧すすむ焉。にゅう覲太たまもの駿馬しゅんめひき、授寧すすむれいけんちょうしゅう以南いなん招撫使兵乱へいらんみんはい農耕のうこう所在しょざい人相にんそうしょくやすしすすむあずまゆうやぶさわ周回しゅうかいひゃくあまりさと中有ちゅううしょう堡曰瀝城、よし曰『瀝城雖小而完、且有ぎょはすひし芡之不可ふかしつ也』。とめへんはたただしもりやすしすすむりつしゅ瀝城、ゆかりぜんかつしゃしゅ
  4. ^ もとまき151列伝れつでん38おうよしでん,「としおつ金将きんしょうはくさちよりどころちょうしゅうはなはじむよし擣其じょうかいてん大風おおふうよしそち壮士そうしはさみちょうはしごやまし趨、よるよん四面しめんひとしとうころせもり埤者。城中じょうちゅうらんはくさち挺身ていしんはし天壇てんだん寨、いちしゅうとげじょうはなはじむうけたまわせい授義ちょうしゅう太守たいしゅちょうしゅう招撫使
  5. ^ もとまき151列伝れつでん38おうよしでん,「ちょううし大軍たいぐんみなみ鉅鹿・洺州しろかえぐんいたりから陽西ようさいきゅうもんぐうきんかんぐんおさめらんりつ冀州節度せつど使しばしげるとう将兵しょうへいまんあまりきたぎょう伏兵ふくへいくわりんさきひゃく挑之、おさめらん来迎らいごうせんいんやや却、さそえきんくわりんふくおこりかねへい大乱たいらん、奔還、おさめらん二弟及万戸李虎。つちのえとら、抜束鹿しか進攻しんこうふかしゅうまもりそち以城くだじゅんてん元帥げんすいちょうやわらじょう其功、陞深しゅう節度せつど使ふか冀趙さんしゅう招撫使
  6. ^ もとまき151列伝れつでん38おうよしでん,「金将きんしょうたけせん以兵四万来攻束鹿、せんさとしぐん曰『たば鹿しかへいしょうかてしろろういちにち抜也』。つきするどらいおさむよしずいおうこばめせきさんじゅうにち不能ふのう大小だいしょうすうじゅうせんみなとし一夕いっせきよし召将曰『今城いましろもり雖有あまりしかそと援兵えんぺい糧食りょうしょくはたつきあにすわ而待斃』。しいうしきょうりつ精鋭せいえいさんせん、銜枚よるちょく擣仙営。せんぐんみだれくらおさむころせすうせんにんせんりつあまりしゅ遁還じょう、悉獲其軍資ぐんし仗。はなはじむ聞之、使送しそう銀牌ぎんぱいじゅういのちたまもの有功ゆうこうしゃかのえたつ、抜冀しゅうしばしげる、械送ぐんまえはなはじむちょうやわらふくじょう其功、授龍とらまもるじょう将軍しょうぐん安武やすたけぐん節度せつど使くだりふかしゅう元帥げんすいごと賜金しきんとら
  7. ^ もとまき151列伝れつでん38おうよしでん,「からしせんふく其将しげるはくさちりつへいはかりごとかさねちょうしゅうなみ瀝城、りつ戦艦せんかんすうひゃくそう、沿江而下。ふねかじ於紀そう、截其下流かりゅう邀撃ようげき義士ぎしそつみな水郷すいごうじんぜんすいせん回旋かいせんひらけ闔、往来おうらい如風ふねせっのりおどとうかれせん、奮戈やましげきてき莫能とうころせせん餘人よにんとりこしゅうはくさち退すさ瀝城、よし引兵抜之、はくさち西にしはし二子ふたご焉。邢州ぬすめごうちょう大王だいおう、聚衆すうせんよりどころにんけんかたしろすい寨、じょうてんさわしゅう諸道しょどうへいおさむ不能ふのうみずのえうまよし引兵うす其城、いちちょう大王だいおうほう県令けんれいとうすうにんころせこれとう悉平。布教ふきょうれい招集しょうしゅうほろびすすむりつしゅげいふかし・冀之あいだとげため楽土らくどうん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • さきたかしきょうこうむあさ治下ちかにおけるかん人世じんせいこう : かわついたち地区ちく山東さんとう地区ちくふたつのかた」『りん』37ごう、1954ねん
  • 愛宕あたご松男まつお東洋とうよう史学しがく論集ろんしゅう 4かんさんいち書房しょぼう、1988ねん
  • 池内いけうちいさお「モンゴルのかねこく経略けいりゃくかん人世じんせいこう成立せいりつ-1-」『創立そうりつさんじゅう周年しゅうねん記念きねんろん文集ぶんしゅう四国学院大学しこくがくいんだいがくへん、1980ねん
  • もとまき151列伝れつでん38おうよしでん