やしきじゅん

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やしき じゅん(てい じゅん)は、かねあさ末期まっきからモンゴル帝国ていこく初期しょきにかけて活躍かつやくした人物じんぶつ

概要がいよう[編集へんしゅう]

やしきじゅんじゅんてんぐんくだりからけん出身しゅっしん人物じんぶつであった。かねまつ、モンゴルの侵攻しんこうはじまると華北かほく地方ちほう治安ちあん悪化あっかし、盗賊とうぞく横行おうこうする状態じょうたいにあった。そこでやしきじゅん一族いちぞくもの郷里きょうりものすうひゃくめいあつめ、おとうとやしきつねとともに石城せきじょうげんという2つのしろきず盗賊とうぞくからまもった。やしきじゅん1214ねんきのえいぬ)に華北かほく地方ちほう侵攻しんこうしてきたチンギス・カンに投降とうこうしたとつたえられるが、実際じっさいにモンゴルに投降とうこうしたのはもっとのことではないかとするせつもある[1]1216ねんへい)、てい地方ちほうかつえはなれこるとそれにともなって盗賊とうぞく掠奪りゃくだつ悪化あっかし、やしきじゅんじょうおそった盗賊とうぞくすうひゃくにんらえてころした。モンゴルがわではきょくけんつねしゅうあらため、やしきじゅんをそのやすなで使とした[2]

そのやしきじゅんかねあさ武将ぶしょうであるたけせん軍団ぐんだん撃退げきたいし、この功績こうせきにより鎮国じょう将軍しょうぐんつねしゅうとうしょ元帥げんすい昇格しょうかくとなった。1220ねんかのえたつ)、たけせんやま・堯山に駐屯ちゅうとんすると、やしきじゅんおとうとやしきつねとともにこれを再度さいどやぶった。このころ西京にしぎょう現在げんざいだい同市どうし)の郝道しょうひそかにたけせんんで攻撃こうげき仕掛しかけていたため、やしきじゅんは郝道しょうらえてこれをころしてしまった。さらに、やしきじゅん華北かほく駐留ちゅうりゅうするモンゴルぐん総帥そうすいであるムカリとともにたけせんぐんおうやなぎこうやぶり、この敗戦はいせんによってついたけせんじょう南方なんぽうのがれた。たけせんとの一連いちれん戦闘せんとうによる功績こうせきにより、やしきじゅんは察納ごうというモンゴルめいと驃騎まもるじょう将軍しょうぐん地位ちいさずかった[3]

1231ねんからし)、だい2だい皇帝こうていオゴデイによるだいきんあさ侵攻しんこうはじまると、河南かなんしょぐんはモンゴルぐんによって平定へいていされ、やしきじゅんはそのなかでも中山ちゅうざん統治とうちまかされた。1239ねんおのれ)には行軍こうぐんまんとされ、5せんぐんひきみなみそう遠征えんせいぐんくわわり、かえりとく攻略こうりゃくして駐屯ちゅうとんした。1247ねん丁未ていみ)には河口かこう駐屯ちゅうとんしていたところをみなみそうぐん夜襲やしゅうけたが、これをかえちにして15にんりとした。1253ねんみずのとうし)にはさざなみすいめたが、1256ねんへいたつ)に74さいにしてくなった[4]最終さいしゅうてきまん(トゥメン)にまで昇格しょうかくしたやしきじゅんは、おなじく河北かほく地方ちほうまんとされたふみてんさわじょうまん)・ちょうやわらじゅんてんまん)に有力ゆうりょくかん人世じんせいこうであったとひょうされている[5]

やしきじゅん息子むすこやしき[6]、その息子むすこやしきさかえじん[7]やしきじゅんぞくおとうとやしき[8]やしき琮の息子むすこやしきさわ[9]みなモンゴル帝国ていこくつかきんあさみなみそう攻略こうりゃく従事じゅうじした。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 池内いけうち1980,75-76ぺーじ
  2. ^ もとまき151列伝れつでん38ていじゅんでん,「やしきじゅん定行さだゆき唐人とうじんうらないせき於曲けんかねまつぬすめおこりじゅんかいしょぞくあつまりきょうじん豪壮ごうそうすうひゃくにんあずか其弟つねちくりょう寨于石城せきじょうげんたもてぶんよりどころ以守。としかぶといぬりつしゅらいふとし授行とうれいへいじょうひだる群盗ぐんとうよりどころじょう叛、みんみな穴地あなじ以避ぬすめ発地ほつち而噉其人、じゅんとりこすうひゃくにんころせこれ朝廷ちょうてい陞曲ためつねしゅう、以順為安ためやすなで使
  3. ^ もとまき151列伝れつでん38ていじゅんでん,「金将きんしょうたけせんよりどころじょうそちしゅらいおさむじゅんあずかたたかえ大敗たいはい賜金しきんとら鎮国じょう将軍しょうぐんつねしゅうとうしょ元帥げんすいかのえたつたけせんたむろへい于黄・堯両さんじゅん及弟つねまたげきはいどき西京にしぎょう郝道あきらかげゆいたけせんしょうかすめしゅうけんじゅんとりこどうあきらころせこれせん退すさてい以自じゅんしたがえはなはじむおさむはい於王やなぎこうせんとげ棄真ていみなみはし。以功、たまものじゅんめい察納ごう、陞驃まもるじょう将軍しょうぐんたかしさんまえ元帥げんすいおとうとつねたまものめいきんごう
  4. ^ もとまき151列伝れつでん38ていじゅんでん,「からしはるしたがえぶとそうおさむ河南かなんもろぐん、招降みんじゅうあまりまん、以順中山ちゅうざんおのれ、佩金ため行軍こうぐんまん管領かんりょうしょみちもとぐんせんにんしたがえ大軍たいぐんやぶかえりとくとめじゅん戍之。丁未ていみちゅう河口かこうそうへい夜襲やしゅう営、じゅん掩殺其衆、なまじゅうにんみずのとうしおさむさざなみすいきのえとらきょぞくしょう撒八・耨隣こう以奏、うえたまものしょう撒八・耨隣金銀きんぎん、仍隷麾下きかへい辰春たつはるじゅんそつとしななじゅうよん
  5. ^ 愛宕あたご1988,191ぺーじ
  6. ^ もとまき151列伝れつでん38ていじゅんでん,「浹、襲職しゅうしょくおのれしたがえ渡江とのえかこえ鄂州、ゆう戦功せんこうなかみつる元年がんねん即位そくい、浹以所部ところぶちょうせんとうじゅうにん奏聞そうもん于朝、とげ金銀きんぎんたまものさんねんかこえ璮、かえもりいきしゅういたりもとじゅういちねんたまものとら、授金しゅう招討副使ふくしこうまた遷懐遠大えんだい将軍しょうぐんかねしゅうまんじゅうさんねんあらためじょうかんぐんまん三月さんがつ、以枢密院すうみついんそうくだり淮西そうかんまんごとまもりいおりしゅうじゅうよんねんうつりりゅうきょう、仍管りょうほんつばさ軍人ぐんじんじゅうねんふくためかんぐんまんおさむ贛州がけせき寨・太平たいへいがんぞく有功ゆうこうじゅうななねん、陞鎮国上くにがみ将軍しょうぐん元帥げんすい、鎮龍きょうしょみちけんかんほんまんごとたまものぎんしるしきち・贛盗おこりくだりしょう元帥げんすい以鎮じゅういちねん元帥げんすいやめふくためまんじゅうさんねん、佩元くだとらためとくまん鎮守ちんじゅ吉安きちやすいくみつるりょう江西えにしかくまんあつまりへいななせん戍広ひがし、凡二大徳だいとくさんねんそつとしななじゅうななおく輔国じょう将軍しょうぐんきたにわ元帥げんすい元帥げんすいまもるぐんついふうだかぐんこうおくりなじょうさとし
  7. ^ もとまき151列伝れつでん38ていじゅんでん,「さかえじんかさね佩其とらためせん武将ぶしょうぐんかえりとくまん、鎮広あずまめぐみしゅうかん瘴疾、にんごとぬきかさねぬきそつちゅうかさねちゅうそつぶんかさね
  8. ^ もとまき151列伝れつでん38ていじゅんでん,「じゅんぞくおとうと琮。琮、ふとししたがえぞくけいぎょうとう元帥げんすいつねとしおつとりかねくだはたたけせんふくよりどころてい叛、琮敗于黄だい癸巳きししたがえ元帥げんすい倴盞滅金めっき于蔡、有功ゆうこうじょう五路万戸選充総管府推官。ひろたてまつむね賜金しきん、授管ぐんそう押、管領かんりょうなな兵馬へいば、鎮徐しゅうそうへいにゅうさかい、琮戦却之。おのれしたがえ大将たいしょう察罕おさむ滁州、力戦りきせん流矢ながれやちゅうほぞ明年みょうねんそつ
  9. ^ もとまき151列伝れつでん38ていじゅんでん,「さわかさねうつり鎮潁しゅうそうへいおさむ潁、さわ戦敗せんぱいいたりもとよんねんしたがえ元帥げんすいおもねうけらかつひらめふさが寨及ろう鵶山。じゅういちねんしたがえすなようだつろくかんみな論功ろんこう受賞じゅしょうゆうじゅうねん、授武徳ぶとく将軍しょうぐんかんぐんそうかんしたがえおさむ潭州及静こうるいかんふところ遠大えんだい将軍しょうぐんかんぐんまん・郴州そうかんたち魯花あかじゅうねんあらため授廬しゅうこうむかんぐんまんひろ遷潁しゅうつばさかい徽州績渓けんぬすめおこりさわ討平じゅうはちねんうつり鎮杭しゅうそつもとけんかさねため潁州まんげんけんそつ祺襲。祺卒、ちゅうかさね

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • さきたかしきょうこうむあさ治下ちかにおけるかん人世じんせいこう : かわついたち地区ちく山東さんとう地区ちくふたつのかた」『りん』37ごう、1954ねん
  • 愛宕あたご松男まつお東洋とうよう史学しがく論集ろんしゅう 4かんさんいち書房しょぼう、1988ねん
  • 池内いけうちいさお「モンゴルのかねこく経略けいりゃくかん人世じんせいこう成立せいりつ-1-」『創立そうりつさんじゅう周年しゅうねん記念きねんろん文集ぶんしゅう四国学院大学しこくがくいんだいがくへん、1980ねん
  • もとまき151列伝れつでん38ていじゅんでん
  • 新元しんもとまき144列伝れつでん41ていじゅんでん
  • こうむ兀児史記しきまき53列伝れつでん35ていじゅんでん