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定州(ていしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から民国初年にかけて、現在の河北省中部に設置された。
397年(皇始2年)、北魏により設置された。定州は中山郡・常山郡・鉅鹿郡・博陵郡・北平郡の5郡を管轄した[1]。
隋初には、定州は2郡5県を管轄した。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、定州の属郡は廃止された。596年(開皇16年)に定州から分割されて深州が置かれたが、605年(大業元年)に深州は廃止され、再び定州に統合された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、定州は博陵郡と改称され、下部に10県を管轄した[2]。613年(大業9年)、博陵郡は高陽郡と改称された[3]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
618年(武徳元年)、唐が竇建徳を滅ぼすと、高陽郡は定州と改められた。742年(天宝元年)、定州は博陵郡と改称された。758年(乾元元年)、博陵郡は定州の称にもどされた。定州は河北道に属し、安喜・義豊・北平・望都・安険・曲陽・陘邑・唐・新楽の9県を管轄した[4]。
1113年(政和3年)、北宋により定州は中山府に昇格した。中山府は河北西路に属し、安喜・新楽・無極・北平・望都・曲陽・唐の7県と軍城寨と北平軍を管轄した[5]。
1129年(天会7年)、金により中山府は定州に降格した。後に定州は中山府の称にもどされた。中山府は河北西路に属し、安喜・新楽・無極・永平・慶都・曲陽・唐の7県と竜泉・軍城の2鎮を管轄した[6]。
元のとき、中山府は真定路に属し、安喜・新楽・無極の3県を管轄した[7]。
1369年(洪武2年)、明により中山府は定州と改められた。定州は真定府に属し、新楽・曲陽の2県を管轄した[8]。
1724年(雍正2年)、清により定州は直隷州に昇格した。定州直隷州は直隷省に属し、曲陽・深沢の2県を管轄した[9]。
1913年、中華民国により定州直隷州は廃止された。
- ^ 『魏書』地形志二上
- ^ 『隋書』地理志中
- ^ 『隋書』煬帝紀
- ^ 『旧唐書』地理志二
- ^ 『宋史』地理志二
- ^ 『金史』地理志中
- ^ 『元史』地理志一
- ^ 『明史』地理志一
- ^ 『清史稿』地理志一