建徳けんとく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
なつおう建徳けんとく
なつ
おう
王朝おうちょう なつ
在位ざいい期間きかん 617ねん - 621ねん
都城みやこのじょう らく寿ことぶき→洺州
せいいみな建徳けんとく
生年せいねん 武平たけひら4ねん573ねん
没年ぼつねん おおとり4ねん (621-08-03) 621ねん8がつ3にち(48さいぼつ))
后妃こうひ 曹氏
年号ねんごう ちょううし : 617ねん - 618ねん
おおとり : 618ねん - 621ねん

建徳けんとく(とう けんとく)は、ずいまつとうはつ割拠かっきょした群雄ぐんゆう一人ひとり

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

清河きよかわぐん漳南けん現在げんざい河北かほくしょう衡水ぐすくけん北東ほくとう)に代々だいだい農村のうそんさとちょうつとめるいえまれた。大業おおわざ7ねん611ねん)、煬帝高句麗こうくり遠征えんせい徴発ちょうはつおこなったさいひゃくにんちょう選抜せんばつされた。まごやす叛乱はんらん連座れんざし、一族いちぞく誅殺ちゅうさつされると、こうにわとりはく現在げんざい河北かほくしょう衡水ぐすくけん南西なんせいおこり指導しどうしゃ高士こうしたちしたせた。高士こうしたち死後しごは、その軍勢ぐんぜいひきいてにょう現在げんざい河北かほくしょう衡水にょうけん)を攻撃こうげきし、平原ひらはら現在げんざい山東さんとうしょうとくしゅうりょうぐすく)を占拠せんきょした。部下ぶか大切たいせつあつかい、また戦闘せんとう虐殺ぎゃくさつおこなわなかったことから民衆みんしゅう支持しじて、そのぐんは10まんにもたっした。

大業おおわざ13ねん617ねん)、らく寿ことぶき現在げんざい河北かほくしょう滄州けんじけん)にて長楽ながらおう自称じしょうし、独自どくじ元号げんごうとしてちょううして、積極せっきょくてき領土りょうど拡大かくだいおこなった。煬帝は薛世ゆうめいじ3まん軍勢ぐんぜい討伐とうばつしようとするが、竇建徳けんとくぐんせに壊滅かいめつした。こうして河北かほくほとんどの地域ちいきが竇建徳けんとく統治とうちかれることとなった。よくひのとうし2ねん618ねん)、竇建徳けんとくなつおうしょうおおとり改元かいげん、8がつには洺州現在げんざい河北かほくしょう邯鄲かんたん永年えいねん)に遷都せんとした。

おおとり2ねん619ねん)、おうたかし楊侗はい皇帝こうてい自称じしょうすると、竇建徳けんとくもまた朝廷ちょうてい整備せいびしていく(ただしなつおう称号しょうごう使用しよう)。おおとり4ねん621ねん)、とうみんおうたかし拠点きょてんである洛陽らくよう攻撃こうげきすると、おうたかし要請ようせいれて竇建徳けんとく出兵しゅっぺいするが、とらろうたたかとらろうせき現在げんざい河南かなんしょうていしゅう滎陽)でみんぐんやぶれてらえられ、長安ながやす処刑しょけいされた。

建徳けんとく処刑しょけいにより、なつ残存ざんそん勢力せいりょく中心ちゅうしんとして盟友めいゆうりゅうくろ自立じりつし、河北かほく混乱こんらんつづくこととなった。