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ふとしそう (とう)

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ふとしそう みん
とう
だい2だい皇帝こうていてんあせ
からふとしそうみん台北たいぺい国立こくりつみや博物はくぶついん所蔵しょぞう
王朝おうちょう とう
在位ざいい期間きかん 武徳ぶとく9ねん8がつ9にち - さだかん23ねん5月26にち[1]
626ねん9月4にち - 649ねん7がつ10日とおか
都城みやこのじょう 長安ながやす
せいいみな みん
諡号しごう ぶん皇帝こうてい
文武ぶんぶせい皇帝こうてい
文武ぶんぶ大聖たいせい皇帝こうてい
文武ぶんぶ大聖たいせい大広おおひろこう皇帝こうてい
びょうごう ふとしむね
生年せいねん ひらきすめらぎ17ねん12月16にち
598ねん1がつ28にち
没年ぼつねん さだかん23ねん5月26にち
649ねん7がつ10日とおか
ちち 高祖こうそふかし
はは ふときよし皇后こうごう竇氏
后妃こうひ ちょうまご皇后こうごう
陵墓りょうぼ あきらりょう
年号ねんごう さだかん : 627ねん - 649ねん

ふとしむね(たいそう)は、からあさだい2だい皇帝こうていとうあせこく初代しょだいてんあせいみなみん(せいみん)。高祖こうそふかし次男じなんで、ふかしともとう創建そうけんしゃとされる。ずいすえ混乱こんらんふかしともふとしはら挙兵きょへいし、長安ながやすさだめてとう建国けんこくした。ふとしむねおもぐんひきいて各地かくち転戦てんせんして群雄ぐんゆう平定へいていし、626ねんにクーデターの玄武げんぶもんへんにて皇太子こうたいしたてしげる打倒だとうして皇帝こうてい即位そくいし、群雄ぐんゆう勢力せいりょく平定へいていして天下てんか統一とういつした。

すぐれた政治せいじりょくせ、ひろ人材じんざい登用とうよう官制かんせいととのえるなどしょ制度せいどととのえてからあさ基盤きばん確立かくりつし、さだかんばれる太平たいへいきずいた。対外たいがいてきには、ひがし突厥撃破げきはして西北せいほく遊牧民ゆうぼくみん首長しゅちょうからてんあせ中国語ちゅうごくごばん称号しょうごうおくられた[2]騎兵きへい戦術せんじゅつ使つかった武力ぶりょくにおいて卓越たくえつし、文治ぶんじにもちかられるなど文武ぶんぶとくそなえ、中国ちゅうごく史上しじょう有数ゆうすう名君めいくん一人ひとりとなえられる[3]

生涯しょうがい

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幼年ようねん

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598ねん武功ぶこうけん当時とうじずいあさ唐国からくにこう煬帝母方ははかた従兄じゅうけいにあたるふかし宇文うぶんたいきたあまね始祖しそ)の孫娘まごむすめにあたる竇氏(ふときよし皇后こうごう)のとしてまれた。ふかしははどくしんよんじょであり、ふかし皇后こうごうであるふとしきよし皇后こうごう北方ほっぽう漢人かんどであり、ふかしふとしきよし皇后こうごうみんは、すくなくともその血統けっとうの4ぶんの3以上いじょうかんじんになる[4]。4さいころふかしおとずれたある書生しょせいがこのて「りゅうおおとり姿すがた天日てんじつひょう、其年几冠必能ずみやすみん」(「りゅう鳳凰ほうおう姿すがたゆうし、成人せいじんなかおさめて民衆みんしゅう安心あんしんさせるだろう」とった。そのためみんといういみながついたという[5]

即位そくいまえ

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16さいのとき、ずい煬帝かりもんにおいて突厥包囲ほういされると、みんくもていきょうした従軍じゅうぐんし、煬帝救出きゅうしゅつ尽力じんりょくした。またふかしがたなれきやま)の包囲ほういかれたときは、けいひきいて救援きゅうえんした。

617ねん大業おおわざ13ねん)、ふかしふとしはらおこりへいすると、みんみぎりょうぐんだいとく敦煌とんこうぐんおおやけとなって長安ながやすけて進軍しんぐんした。そう老生ろうせい撃破げきはし、長安ながやす平定へいていすると、しんこくおおやけふうぜられた。618ねんよしやすし2ねん)1がつみぎ元帥げんすいとなり、3月にはちょうこくおおやけあらためふうされた。

どう618ねん武徳ぶとく元年がんねん)5がつとうてられ長兄ちょうけいたてしげる立太子りったいしされるとともに、みんは6がつしんおうふうぜられ、尚書しょうしょれいにんじられている。からあさでは即位そくいまえみん尚書しょうしょれいにんじられたため、皇帝こうていまえしょく臣下しんか就任しゅうにんさせることを忌避きひし、滅亡めつぼうまで尚書しょうしょれい欠員けついんとなった。

みん武将ぶしょうとしてすぐれた才能さいのう発揮はっきし、とらろうたたかやぶった建徳けんとくはじめ、薛仁杲英語えいごばんりゅう武周ぶしゅうおうたかしりゅうくろといったずいまつとうはつ割拠かっきょした群雄ぐんゆう平定へいていするのに中心ちゅうしんてき役割やくわりたした。

621ねん武徳ぶとく4ねん)、ふかしみん功績こうせきたかさから前代ぜんだいよりの官位かんいではりないとし、「てんさくじょうはた」の称号しょうごう王公おうこううえとくおけしてみんあたえた[6]同年どうねん門下もんかしょうおさむぶんかんふとしむね即位そくい弘文こうぶんかん改名かいめい)がかれた。

けんなりみんはしだいに対立たいりつし、けんなりふかしうったえてみんはかりごとであるぼうげんよわいもり如晦とおざけるなどの対抗たいこうさくり、みんとしをはかった。それを事前じぜん察知さっちして危険きけんかんじたみんは、2人ふたりひそかに連絡れんらくし、626ねん武徳ぶとく9ねん)6がつ長安ながやす宮廷きゅうてい玄武げんぶもんで、けんなりおとうと元吉もとよし殺害さつがいした(玄武げんぶもんへん)。この政変せいへんにより、ふかしは8がつみん譲位じょういし、事態じたい収拾しゅうしゅうはかった。

さだかん

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即位そくいしてちょうまご皇后こうごうてたふとしむねは、その直後ちょくご和議わぎむすんでいた突厥の侵攻しんこうけた。『きゅうとうしょ』などの史書ししょによれば、いかりにまかせたふとしむねはわずか6ともない、渭水布陣ふじんした突厥ぐんまえち、突厥の協定きょうてい違反いはんめた。その態度たいどおそれをなした突厥はとうからげた、と記録きろくされているが、これはふとしむね勇猛ゆうもうさを誇張こちょうした内容ないようであり、ふとしむねったとうぐんとの対決たいけつけて撤退てったいしたとも、または突厥にたい貢物みつぎものおく撤退てったい依頼いらいしたともわれている。この事件じけん渭水のめい中国語ちゅうごくごばんもしくは渭水のはずかしめばれる。

627ねん元号げんごうさだかん改元かいげんした。ぼうげんよわいもり如晦の2人ふたり任用にんよう政治せいじみ、たてしげる幕下まくしたからちょう登用とうようしてみずからにたいしての諫言をおこなわせ、つねみずからをりっするようにつとめた。賦役ふえき刑罰けいばつ軽減けいげん三省みつよしろくせい整備せいびなどをおこない、軍事ぐんじめんにおいてもへい訓練くんれんみずか視察しさつし、成績せいせき優秀ゆうしゅうしゃには褒賞ほうしょうあたえたため、とうぐん軍事ぐんじりょく強力きょうりょくになった。これらの施策しさくによりずいまつからのなが戦乱せんらん傷跡きずあと徐々じょじょ回復かいふくし、とう国勢こくせい急速きゅうそくたかまることとなった。

629ねんさだかん3ねん)、充実じゅうじつした国力こくりょく背景はいけいに突厥討伐とうばつ実施じっしする。やすし登用とうようして出兵しゅっぺいし、630ねんさだかん4ねん)には突厥の頡利あせ捕虜ほりょとした。これにより突厥は崩壊ほうかいし、西北せいほくかた遊牧ゆうぼくしょ部族ぶぞくからあさ支配しはいはいることとなった。族長ぞくちょうたちは長安ながやす集結しゅうけつし、ふとしむねてんあせ中国語ちゅうごくごばん称号しょうごうたてまつうえする。てんあせ北方ほっぽう遊牧ゆうぼく民族みんぞく君主くんしゅであるあせよりさらに上位じょうい君主くんしゅ意味いみする称号しょうごうであり、とう皇帝こうていは、中華ちゅうか天子てんしであると同時どうじ北方ほっぽう民族みんぞく首長しゅちょうとしての地位ちい獲得かくとくすることとなった。さらに640ねんさだかん14ねん)、西域せいいきこうあきらこく滅亡めつぼうさせ、西域せいいき交易こうえき重要じゅうよう拠点きょてんのこの直轄ちょっかつりょうとした。

文化ぶんかてきにも、それまでまとめられていた『すすむしょ』『はりしょ』『ひねしょ』『しゅうしょ』『ずいしょ』の正史せいし編纂へんさんさせ、とくに『すすむしょ』の王羲之おうぎしつてではみずか注釈ちゅうしゃくおこなった。また645ねんさだかん19ねん)にはげんがインドよりふつ経典きょうてんかえっており、ふとしむねげん奘を支援しえんしてかんやくおこなわせている。

これらの充実じゅうじつした政策せいさくにより、ふとしむね治世ちせいさだかんしょうし、後世こうせい理想りそう政治せいじおこなわれた時代じだい評価ひょうかされた。『きゅうとうしょ』では「家々いえいえは(泥棒どろぼうがいなくなったため)戸締とじまりをしなくなり、旅人たびびとは(旅行りょこうさき支給しきゅうしてもらえるため)たび食料しょくりょうたなくなった」とかれている。ただ、これについては「戦乱せんらんのちでいきなり太平たいへいおとずれるとはおもえない。後世こうせい誇張こちょうではないか」と現代げんだい歴史れきし学者がくしゃ布目ぬのめうしお疑問ぎもんしている。[7]後世こうせいふとむね臣下しんかたちの問答もんどうが『さだかんせいよう』として編纂へんさんされている。

晩年ばんねん

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ふとしむね晩年ばんねんには立太子りったいし問題もんだい発生はっせいした。当初とうしょ立太子りったいしされたのは長男ちょうなんうけたまわいぬい皇后こうごう長男ちょうなん)であったが、ふとしむねよんなんおうやすし皇后こうごう二男じなん)を偏愛へんあいしていた。このことが皇太子こうたいし奇行きこうにつながり、最後さいご謀反むほんくわだてたとしてはいされた。おう朋党ほうとうんでいて適格てきかくだとして、皇后こうごうあにであるちょうまご意向いこうにより、大人おとなしく孝行こうこうであることがとりえだったきゅうなんおさむ皇后こうごうさんなんこうむね)を皇太子こうたいしとしたが、この立太子りったいし問題もんだいこう武則たけのりてん台頭たいとう要因よういんとなることとなった。

皇太子こうたいし継承けいしょう問題もんだいふとしむねは「さんにんゆううけたまわやすし)と一人ひとりおとうとげんあきら)は、こんなごとをしてしまった。本当ほんとうに、なにたよればいのかわからない。」とって長椅子ながいすして、佩刀はかせ自殺じさつしようとするほど苦悩くのうしていた。

644ねんさだかん18ねん)、高句麗こうくり遠征えんせいとう高句麗こうくり出兵しゅっぺい)がおこなわれるが失敗しっぱいわり、それから5ねん649ねんさだかん23ねん)に崩御ほうぎょした。

崩御ほうぎょ諡号しごうとしてぶん皇帝こうてい(ぶんこうてい)がおくられたが、674ねんうえもと元年がんねん)、こうはじめにより文武ぶんぶせい皇帝こうてい(ぶんぶせいこうてい)にあらためられ、さらに749ねん天宝てんぽう8ねん)、げんむねにより再度さいど文武ぶんぶ大聖たいせい皇帝こうてい(ぶんぶだいせいこうてい)に変更へんこう、そして754ねん天宝てんぽう13ねん)にげんむねにより文武ぶんぶ大聖たいせい大広おおひろこう皇帝こうてい(ぶんぶだいせいだいこうこうこうてい)と再度さいどあらためられている。

後世こうせい評価ひょうか

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あかりの顧充は『歴朝れきちょうとしろく』において大宗たいそう絶賛ぜっさんしている。

  • いまさだかんせいよう』をむと善政ぜんせいやまのようにおおく、これほどさかえた時代じだい伝説でんせつ時代じだいであるなついんしゅうさんだいのぞいては存在そんざいしなかった。みん能力のうりょくは、闊達かったつさは劉邦りゅうほう匹敵ひってきし、武勇ぶゆう曹操そうそう匹敵ひってきし、戦乱せんらん平定へいていした功績こうせきいんおうしゅうたけおう匹敵ひってきし、政治せいじかったことは伝説でんせつの「成康なりやす」にちかかった」[8]

一方いっぽうみなみそう儒学じゅがくしゃしゅは『から総論そうろん』で下記かきよう大宗たいそう批判ひはんをしている。

  • 劉邦りゅうほう私欲しよくすくなかったが、ふとしむね行動こうどう一切いっさいは、仁義じんぎ仮面かめんこうむって私欲しよくをやっただけだ。劉邦りゅうほう正当せいとう天下てんか獲得かくとくし、経緯けいいもおかしなところはないが、それにくらべるとたいむね天下てんかかたもおかしなところがおおかった。もっともずいまつ反乱はんらんおおく、それを平定へいていしなければいけなかったので、一人ひとりのくだらない悪漢あっかんどくおっとすなわちいん紂王)をたおせばんだいんしゅう革命かくめいのようなわけにはいかなかったことは理解りかいできる。しかし、ずいきょうみかど擁立ようりつしたりしたのはどうにも弁護べんごのしようがない。あれは必要ひつようがあったのか?そういうことかられば、劉邦りゅうほう天下取てんかとりにふとしむねおよばないという評価ひょうかしかできない。また、ふとしむねおや高祖こうそにむりやりずいすすむみやおんなはべらせ、無理むりやり挙兵きょへいさせようとしたが、あの行為こういには君臣くんしん父子ふし夫婦ふうふというものがない」[9]
  • 玄武げんぶもんへんむにまれぬ行為こういではなかった。しゅうこうだんいんしゅう革命かくめいのち反乱はんらんこそうとしたかんの叔鮮・蔡の叔度をむにまれずたしたのとは、くらものにならない。ふとしむねにはしゅうこうだんのようなしんがない」[10][11]

このようなふとしむね言動げんどうたいする批判ひはんてき評価ひょうか懐疑かいぎてき考察こうさつ現在げんざい歴史れきし学者がくしゃあいだでも存在そんざいしており、布目ぬのめうしおは『つくられた暴君ぼうくんあきらくんずいの煬帝ととうふとそう』において、前述ぜんじゅつのように「さだかん」には後世こうせい誇張こちょうふくまれているとかんがえ、煬帝は大宗たいそうによって意図いとてき過少かしょう評価ひょうかされており、ふとしむね過大かだい評価ひょうかをされているとろんじている。[12]

人物じんぶつ逸話いつわ

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ふとしむね能筆のうひつとしてもられ、作品さくひんとしては「温泉おんせんめい」がある。臣下しんかにもはつとう楷書かいしょ完成かんせいさせたしょ大家たいか登用とうようするなど、しょたいする関心かんしんつよかった。また、書聖しょせいうたわれる王羲之おうぎし真筆しんぴつたいして、異常いじょうなまでの執心しゅうしんぶりをせていたことも有名ゆうめいである。王羲之おうぎし子孫しそんにあたり、かいにいた智永ともえというそうっており、智永ともえ没後ぼつご弁才べんさい禅師ぜんじ所有しょゆううつっていたらんていじょ真筆しんぴつれたいがあまりにさんわたって譲渡じょうと懇願こんがんしたがききいれてもらえなかったので使者ししゃつかわし、らんていじょにけちをつけてだましったほどである。こうしてれたらんていじょ自身じしん死後しごあきらりょうおさめさせたとつたえられている[13]

  • 勣がかつて病気びょうきになったとき、「ひげはいく。」といたふとしむねは、みずからのひげってせんじてくすり調合ちょうごうした。勣は、出血しゅっけつするほど頓首とんしゅしていて感謝かんしゃしたが、ふとしむねった。

社稷しゃしょくためにしたのだ。きょうためにしたのではない。なんでそこまで感謝かんしゃするのか!」

  • 勣が宴会えんかい参加さんかしていたときふとしむねはくつろいだ様子ようすった。

ちんは、群臣ぐんしんなかかこつけせるものさがしたが、おおやけ以上いじょうものはいない。おおやけはかつてひそかそむかなかった。どうしてちんそむこうか!」  勣はきじゃくってしゃし、ゆびを囓ってしたさけれてのみ、いつぶれた。ふとしむねふくいで、勣にけてあげた。

  • 高句麗こうくり征伐せいばつにおいてみぎまもる大将軍だいしょうぐんおもえたって負傷ふしょうしたときふとしむねみずからそのいだして治療ちりょうした。将士しょうしはこれをき、感動かんどうしないものはなかった。

ふとしむねにはろくひき名馬めいばがあった。そのうまたちの名前なまえは「しろ蹄烏」・「こぶし」・「颯露むらさき」・「とくつとむ」・「あお」・「什伐あか」という。

さだかんせいようによればいなごがいときふとしむねみずからバッタをみこんでいなごがいおさえたという伝説でんせつかれている。

じゅうはち学士がくし

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みんはたおうとなったとき、文学ぶんがくかんて、賢才けんさい招聘しょうへいした。もり如晦ぼうげんよわい于志やすしちょう姚思れん薛収褚亮りく徳明のりあきあな穎達玄道げんどうまもるもとおそれみなみ蔡允きょうかおしょうもとけいむね薛元けいぶたぶんたちつとむの18にん学士がくしとした。ぞくはたおうじゅうはち学士がくしともわれている。

じゅうよん功臣こうしん

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643ねんさだかん17ねん)、ふとしむねみずからととも中国ちゅうごく統一とういつ功績こうせきのあった功臣こうしん24めいしのんで、しのげけむりかくという建物たてもの功臣こうしんたちの画家がかである閻立ほんえがかせた。げたじゅんについては、当時とうじ功臣こうしん序列じょれつ反映はんえいしたものとなっている。ぞくしのげけむりかくじゅうよん功臣こうしんともわれている。

じゅうよん功臣こうしん

ちょうまごたかしきょうもり如晦ちょうぼうげんよわい高士こうしれんじょうおそきょうやすししょうだんこころざしげんりゅうひろしもとこごめ突通つきとおいんしばちょうまご順徳じゅんとくちょうあきらほうくんしゅうちょうこうほどぶしおそれみなみりゅうまさしかいからはた

宗室そうしつ

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  • 正室せいしつちょうまご皇后こうごう文徳ふみのり皇后こうごう)- 鮮卑つぶせばつ出自しゅつじつ、ちょうまごいもうと[14]
  • 側室そくしつ 韋珪
  • 側室そくしつ楊妃中国語ちゅうごくごばん - ずいの煬帝の皇女おうじょ
    • 三男さんなんくれおう つとむうつりんおう
    • 六男むつおしょくおう
  • 側室そくしつつばめいさお - 楊雄むすめつばめたから寿ひさしのあいだのむすめ
  • 側室そくしつていけん[15]
  • 側室そくしつ:楊妃 - 楊素の楊玄すすむむすめ
  • 側室そくしつかげ - かげむすめ
  • 側室そくしつ:韋昭よう - 韋貴叔父おじの韋匡はくむすめ
  • 側室そくしつたかしよう じょめぐみおくけん
  • 側室そくしつ:楊婕妤 - 楊雄の楊恭どうむすめ
  • 側室そくしつしょう美人びじん
  • 側室そくしつしょう才人さいじん
  • 側室そくしつちぇ才人さいじん
  • 側室そくしつ才人さいじん たけこび
  • 側室そくしつおう
  • がわおんなこうめぐみどおり[16]
  • 愛人あいじん剌王楊氏中国語ちゅうごくごばん - 楊雄のしたがえ孫娘まごむすめ元吉もとよしもとつま
  • 生母せいぼしょう子女しじょ
    • 次男じなんすわえおう ひろし - 早世そうせい
    • じゅう二男じなんだいおう - 早世そうせい
    • 長女ちょうじょじょうじょう公主こうしゅ - しょうするどしょう夫人ふじん
    • 次女じじょなんじみなみ公主こうしゅ - 早世そうせい
    • さんじょ南平みなみだいら公主こうしゅ - おうたかしちょく夫人ふじん、のちりゅうげんりゅうまさしかい夫人ふじん
    • よんじょとげやす公主こうしゅ - 竇逵(竇抗の竇静の夫人ふじん、のちおう大礼たいれい夫人ふじん
    • ろくじょあきら公主こうしゅ - からぜん識(から夫人ふじん
    • ななじょけい公主こうしゅ - しばれいたけしば夫人ふじん
    • 八女やめひろしやす公主こうしゅ - じんひょうふみだい夫人ふじん
    • きゅうじょ東陽とうよう公主こうしゅ - こう履行りこう高士こうしれん夫人ふじん
    • じゅういちじょ清河きよかわ公主こうしゅ たかしとくけん)- ほどしょあきらほどぶし夫人ふじん
    • じゅうじょらんりょう公主こうしゅ よしうららさだ)- 竇懐悊(竇毅の竇照の曾孫そうそん夫人ふじん
    • じゅうさんじょすすむやす公主こうしゅ - 韋思やす夫人ふじん、のち楊仁輅夫じん
    • じゅうよんじょ安康あんこう公主こうしゅ - どく諶(どくしんどくぞう曾孫そうそん夫人ふじん
    • じゅうじょ新興しんこう公主こうしゅ - ちょうまご敬道よしみちちょうまご順徳じゅんとくおとうと夫人ふじん
    • じゅうななじょ合浦がつぽ公主こうしゅこう公主こうしゅ) - ぼう遺愛いあいぼうげんよわい夫人ふじん
    • じゅうはちじょ金山かなやま公主こうしゅ - 早世そうせい
    • じゅうじょ常山つねやま公主こうしゅ

登場とうじょう作品さくひん

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小説しょうせつ

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漫画まんが

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映画えいが

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テレビドラマ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ きゅうとうしょまき3, ふとしそうおさむ さだかんじゅうさんねんがつおのれじょうによる。
  2. ^ 詳説しょうせつ世界せかい研究けんきゅう改訂かいていばん)』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 
  3. ^ 宮崎みやざきじょうだいから帝国ていこく中公ちゅうこう文庫ぶんこ
  4. ^ 原島はらしまひろいたりたん 東洋とうようへんすばるしゃ、2021ねん4がつ15にち、62-63ぺーじISBN 479910957X 
  5. ^ しんとうしょ本紀ほんぎだい
  6. ^ どおりかんまき189
  7. ^ 布目ぬのめ『つくられた暴君ぼうくんあきらくんずいの煬帝ととうふとそう清水しみず書院しょいん (清水しみず新書しんしょ 44) 1984
  8. ^ きよしちんゆめかみなり古今ここん図書としょ集成しゅうせい理学りがく彙編・経籍けいせきてんだい388かん原文げんぶんでは「閲《さだかんせいようこれしょ善政ぜんせい累々るいるいさかえいち史籍しせきどうもり,三代以還未有也。しゃ曰:『闊達かったつるいかんだか神武じんむどうじょらんたけ,致治いく成康なりやす。』あにきょ哉?」となっている。
  9. ^ 原文げんぶんでは「かんだか私意しい分數ぶんすうしょうからふとしむね一切假仁借義以行其私。 かん高祖こうそ天下てんか,卻正當為とうい直截ちょくせつ恁地做去,許多きょた委曲いきょくとうはつずい大亂たいらん如此,高祖こうそふとし宗因そういん群盜ぐんとうおこり直截ちょくせつ如此做去,ただ誅獨おっとため心中しんちゅうのまたたてきょうみかどかり援回まもる委曲いきょく如此,またなに必爾?所以ゆえん及漢創業そうぎょう也。からふとしそう以晉宮人みやびとさむらい高祖こうそ致其ちち於必便びん君臣くんしん父子ふし夫婦ふうふ。」
  10. ^ 原文げんぶんでは「ふとしむねころせたてしげる元吉もとよししゅうこう誅管蔡,如何いかとくふとしそうしゅうこうしん
  11. ^ 前述ぜんじゅつきよしちんゆめかみなり古今ここん図書としょ集成しゅうせい理学りがく彙編・経籍けいせきてんだい388かんく、しゅ熹『から総論そうろん
  12. ^ 布目ぬのめ『つくられた暴君ぼうくんあきらくんずいの煬帝ととうふとそう清水しみず書院しょいん (清水しみず新書しんしょ 44) 1984
  13. ^ 布目ぬのめうしお渢『つくられた暴君ぼうくんあきらくんずいの煬帝ととうふとそう』、清水しみず新書しんしょ、1984ねん、145ぺーじ
  14. ^ 松浦まつうら友久ともひさ李白りはく伝記でんきろんけんぶん出版しゅっぱん、1994ねん9がつ、75ぺーじISBN 978-4876361205 
  15. ^ とうかいようまき21
  16. ^ かたなじんこうめぐみどおり墓誌ぼし』によると、はたおう時代じだいかたなじんがわおんな品位ひんいかった)

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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