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ずいから演義えんぎ

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ずいから演義えんぎ』(ずいとうえんぎ)は、きよしはつ褚人中国語ちゅうごくごばんによってつくられた通俗つうぞく歴史れきし小説しょうせつ。20かん100かい

貫中かんちゅうへんわれる『ずいから両朝りょうちょうこころざしでん演義えんぎ中国語ちゅうごくごばん』をもとに、褚人が『ずい煬帝つや中国語ちゅうごくごばん』『ずい遺文いぶん中国語ちゅうごくごばん』などの野史やしとうそう伝奇でんき小説しょうせつ筆記ひっき民間みんかん伝承でんしょう文芸ぶんげいから材料ざいりょうあつめてつくられたとわれる。中国ちゅうごく文学ぶんがくしゃきむ文京ぶんきょうによれば、『ずいから両朝りょうちょうこころざしでん演義えんぎ』の時点じてんで『三国志さんごくし演義えんぎ』のはなし固有名詞こゆうめいしのみを変更へんこうして借用しゃくようしたところがあり、『三国志さんごくし演義えんぎ』の模倣もほうさくといういろ[1]

魯迅ろじんは『中国ちゅうごく小説しょうせつりゃくだいじゅうよんへん 元明もとあき傳來でんらいこれこううえ)で、以下いかのようにべ、かなりひく評価ひょうかくだしている。 「『ずいから演義えんぎ』は、ずいぶんみかどひね滅亡めつぼうさせたところからはじまり、安史やすしらんのちとうげんむね長安ながやすもどるところでわる。そのあいだはたたんゆうしんほど咬金しげる木蘭もくれんなどのはなし挿入そうにゅうされている。しかしながらその文章ぶんしょう明代あきよ末期まっき軽佻けいちょう浮薄ふはく空気くうき反映はんえいしてしまっており、ふかみにとぼしい。貫中かんちゅうの『三国志さんごくし演義えんぎ』のような深刻しんこくさがなく、出来栄できばえも『三国志さんごくし演義えんぎ』にくらべるとすうだんちる。バカバカしいはなしもあり、んでいてむなしい気持きもちになる」[2]

日本にっぽんでは、やすのうつとむ田中たなか芳樹よしきによるリライトほん出版しゅっぱんされているが、学問がくもんてき日本語にほんごやくは2024ねん時点じてん存在そんざいしていない。

主要しゅよう登場とうじょう人物じんぶつ

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はた叔宝と好漢こうかんたち

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せいはたは瓊。叔宝はよりもをもってられる。前半ぜんはんにおける主人公しゅじんこうで、120きんの簡(むち一種いっしゅ)をまわ豪傑ごうけつぞくおそわれているふかし義気ぎきから救出きゅうしゅつする場面ばめんはつ登場とうじょうのち帰順きじゅんすることになるとうえんることになる。もともとずい臣下しんかで、高麗こうらいとの戦争せんそう大功たいこうてている。のち、ひそかおうたかし主君しゅくんえながらも最終さいしゅうてきにはとう帰順きじゅんじょうおそけいとくとの対決たいけつ後世こうせいにおいて、じょうおそけいとくとともにもんしんとなっている。
せいたんつうしんである。けんそう員外いんがい富豪ふごう)ではた叔宝の親友しんゆうはた叔宝をおも財政ざいせいめんでサポートした。過失かしつによるとはいえ、あにからおおやけふかし殺害さつがいされたことからふかしはげしくうらむ。のち、これが原因げんいんになってとうへの帰順きじゅん拒否きょひ斬首ざんしゅされた。斬首ざんしゅされる箇所かしょでは『三国志さんごくし演義えんぎ』のりょぬの処刑しょけいのプロットを借用しゃくようしており、りょぬののようにみんじょ勣に命乞いのちごいをするなさけない態度たいど描写びょうしゃされる[1]
せいほどは咬金。ぶしである。はた叔宝の幼馴染おさななじみであり、また弟分おとうとぶんおの使つかであるが、戦闘せんとうはさほどつよいわけではない。トリックスターてき役割やくわり担当たんとうし、はなしおおいにげる。もともとひそか使つかえていたがはた叔宝とともにとう帰順きじゅんした。
は懋功。もとの名前なまえじょ勣だったが、ふかしから「」のくにせいたまわり、またふとしむねみん避諱して勣と改名かいめいはた叔宝やほどぶしらの武将ぶしょうタイプにたい知将ちしょうタイプ。もとひそか臣下しんかであったがとう帰順きじゅん
ずいぶんみかどひねほろぼし、天下てんか統一とういつたす。どく皇后こうごうあたまがらず、皇后こうごうきていたころ一切いっさいわらわかなかった。
ずいの2だい皇帝こうてい物語ものがたり前半ぜんはんにおいておおくの寵姫ちょうきたちと悦楽えつらくにふけるようえがかれている。暴君ぼうくんとして名高なだか人物じんぶつであるが、ほんさくにおいてはたんなる暴君ぼうくんでなく、それなりに魅力みりょくてき人物じんぶつとしてえがかれている。こううららへの出兵しゅっぺいだい運河うんが建造けんぞうなどによって人心じんしんうしなうことになった。
煬帝のちょうおう史実しじつでは宇文うぶんらにより、煬帝とともに死亡しぼうするのであるが、ほんさくにおいては袁紫けむりらとともにずい脱出だっしゅつのちには民族みんぞくおうとなる。
  • しゅたか
煬帝の寵姫ちょうき一人ひとり人間にんげん血肉けつにく万病まんびょうくすりであるといて、自分じぶんうでにくを煬帝にすといった一途いちずめんがある。煬帝の寵愛ちょうあいふかく、来世らいせでも男女だんじょなかになる約束やくそくわしていた。宇文うぶん及らの反乱はんらんさい、煬帝とともに死亡しぼうする。
  • 袁紫けむり
煬帝の寵姫ちょうき一人ひとり。楊義しんめいという設定せっていになっている。うらないの達人たつじんで、才色兼備さいしょくけんび女性じょせい宇文うぶん及らの反乱はんらんさい寵姫ちょうきや煬帝の息子むすこであるちょうおうとともに脱出だっしゅつ。のち、勣のつまとなっている。
からおおやけ。のちにとう高祖こうそとなる。70で70にんぞく退治たいじしたというゆみ名手めいしゅ。ただ、物語ものがたりにおいては活躍かつやくほとんどを息子むすこであるみんられており、たいした活躍かつやくはしない。
ふかし次男じなんで、とうふとしむね。あまりではないちち叱咤しったし、ずい反旗はんきひるがえす。みん母親ははおやかれごもった状態じょうたいぞくおそわれたところをはた叔宝に救出きゅうしゅつされており、てきかたであったころからはた叔宝に恩義おんぎかんじ、帰順きじゅんさせようともくろむ。とう天下てんか統一とういつ玄武げんぶもんへんにおいて、競争きょうそう相手あいてであったあにであり皇太子こうたいしたてしげるおとうと元吉もとよし殺害さつがい皇帝こうていとなる。皇帝こうていとなったあとはさだかんばれる善政ぜんせいをしいた。
せいじょうおそきょうけいとく。もともとりゅう武周ぶしゅう使つかえており、そのころにはた叔宝といちちもしている。りゅう武周ぶしゅうとうやぶれたのちとう帰順きじゅん以降いこうとう武将ぶしょうとして天下てんか統一とういつ尽力じんりょく玄武げんぶもんへんでも功績こうせきげている。120きんむち使つか豪傑ごうけつであり、その前線ぜんせん活躍かつやくしながらその生涯しょうがいにおいて、戦場せんじょうにおいてまった負傷ふしょうしなかったという。
もとはずいしんであったがとう帰順きじゅんした。名将めいしょうとしてられ、とう天下てんか統一とういつくした。さらに、歴史れきしてきには突厥征伐せいばつ大功たいこうおさめているが、ほんさくにおいては突厥征伐せいばつのエピソードがカットされているため出番でばんすくない。
中国ちゅうごく史上しじょう唯一ゆいいつ女帝にょていふとしそうこうはじめ親子おやこ寵愛ちょうあいけ、こうはじめ皇后こうごうとなり実権じっけんにぎる。
たかしもととうの6だい皇帝こうてい。「ひらきもと」というとう全盛期ぜんせいき時代じだいきずく。しかし、後年こうねんには楊貴妃ようきひおぼれ、また安史やすしらんこしてしまう。

備考びこう

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  • ずい、およびとうはつのころ、朝鮮半島ちょうせんはんとう高句麗こうくり百済くだらしんさんこく時代じだいであった。しかし、ずいから演義えんぎにおいて朝鮮ちょうせん半島はんとう支配しはいしている王朝おうちょう一貫いっかんしてこううららになっている。
  • とう建国けんこく歴史れきしてきにはみんによる突厥征伐せいばつや、朝鮮半島ちょうせんはんとうへの出兵しゅっぺいおこなわれているが、このエピソードがカットされている。そのため、突厥征伐せいばつげたやすし高句麗こうくり征服せいふく功績こうせきげた活躍かつやくすくなくなっている。
  • 歴史れきしてきには煬帝とともに殺害さつがいされたちょうおうのこったり、おなじくとう敗北はいぼくし、処刑しょけいされたはずの建徳けんとくそうとなってのこったりと、民間みんかんこのみそうな具合ぐあいにアレンジがなされている。

映像えいぞう作品さくひん

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テレビドラマ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b きむ文京ぶんきょう三国志さんごくし演義えんぎ世界せかい東方とうほう選書せんしょ東方とうほう書店しょてん)、P144-P146
  2. ^ ウィキソース『中国ちゅうごく小説しょうせつりゃく』の原文げんぶん

関連かんれん項目こうもく

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