から

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から(とう けん、だいぞう元年がんねん579ねん) - あらわけい元年がんねん10月3にち656ねん10月26にち))は、中国ちゅうごくとう軍人ぐんじんしげるやくほんぬき并州すすむけんとうしのげけむりかくじゅうよん功臣こうしんのひとりにげられた。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

ずいえびすじゅんしゅう刺史ししとうくんてっから)のとしてまれた。ちちとうくんてっふかし親交しんこうがあり、そのためから倹もふかし次子じしみん親交しんこうむすんだ。ずい政治せいじみだれると、から倹はおうぎょうてるようふかしみんにひそかにいた。大業おおわざ13ねん617ねん)、ふかしふとしはらおこりへいすると、しつさんぐん・渭北道ほくどう元帥げんすい司馬しばにんぜられた。長安ながやす平定へいていされると、あい国府こくふしつとなり、すすむあきらぐんおおやけふうぜられた。

武徳ぶとく元年がんねん618ねん)、うち舎人とねりすすみ、中書ちゅうしょさむらいろうつねさむらいてんじた。武徳ぶとく2ねん619ねん)、りょたかししげるりゅう武周ぶしゅうむすんでなつけんでそむくと、から倹はえい安王やすおうたかしもとどくふところおん・于筠らとともに討伐とうばつにあたった。しかしじょうおそけいとくやぶれてりゅう武周ぶしゅうらえられた。ときにどくふところおんとうたいする造反ぞうはんたくらんでいることをり、りゅうゆずるをひそかにふかしのもとに派遣はけんしてその謀略ぼうりゃく告発こくはつさせた。武徳ぶとく3ねん620ねん)、りゅう武周ぶしゅうやぶれて、突厥逃亡とうぼうすると、から倹はふとしはら戸籍こせき武器ぶき封印ふういんしてみん到着とうちゃくった。ふかしから倹がてきちゅうにあってもからあさへの忠誠ちゅうせいわすれなかったことを賞賛しょうさんし、きゅうかんふくさせ、そのまま并州みちやすなで大使たいしとし、どくふところおん資産しさんたまわった。長安ながやす帰還きかんしてれい尚書しょうしょてんさくちょうとなり、みぎこうろく大夫たいふくわえられた。みんしたりゅうくろ討伐とうばつし、かそけしゅう道行みちゆきぐんそうかんていしゅうみちやすなで大使たいしをつとめた。うまたかまんせいが突厥について叛くと、これを鎮圧ちんあつして黄門こうもんさむらいろうねた。莒国こうすすむふうされてさんせんしょく邑をけた。とげしゅうみやこただしとなり、綿わたしゅうろくひゃくじつふうけた。

さだかん4ねん630ねん)、突厥への使者ししゃち、頡利あせ帰順きじゅんさそった。いっぽう頡利の油断ゆだんすましてやすしぐんひきいて頡利をおそ撃破げきはした。から倹はひとつで脱出だっしゅつして帰還きかんした。みん尚書しょうしょにんぜられた。から倹はかんにあって仕事しごとはげまず、賓客ひんきゃくさけんではたのしんでいた。微罪びざいれて、ひかりろく大夫たいふ左遷させんされた。さだかん19ねん645ねん)に致仕ちしした。えい年間ねんかん国老こくろうとして特進とくしんくわえられた。

あらわけい元年がんねん(656ねん)10がつあんひとしさとやしきくなり、開府かいふどうさん・并州とく追贈ついぞうされた。同年どうねんの11月24にちあきらりょうに陪葬された。おくりなじょうといった。

逸話いつわ人物じんぶつ[編集へんしゅう]

  • ふかしふとばらおこりへいするまえから倹は「おおやけ朝廷ちょうてい一角いっかくめ、せいずいの楊氏にってわると予言よげんされたであり、天下てんかながらくおおやけのぞんでおります。もしかんひらいて、みなみ豪傑ごうけつあつめ、きたえびす狄をまねき、ひがしつばめちょうおさめ、長駆ちょうくして黄河こうがわたり、はた・雍のれば、いんおうしゅうたけおうのようにおうぎょうてることができましょう」とふかしった。
  • ふとしむねしたがって洛陽らくようえん狩猟しゅりょうをしたときのこと。イノシシのれがはやしからしてきて、ふとしむねよんはつて、よんひきのイノシシをたおした。いちひきのイノシシがおどがってうまあぶみたっしたので、から倹はうまててげた。ふとしむねけんいてイノシシをり、「てんさくちょうはどうしてこいつをそんなにおそれるのか?」とわらった。から倹は「かん高祖こうそ馬上まけ天下てんかて、馬上まけ天下てんかおさめなかったといいます。陛下へいか神武じんむをもって四方しほうさだめられましたのに、どうしてまたししいちひきのことでよろこばれますのか」とこたえた。

子女しじょ[編集へんしゅう]

から倹には、唐松からまつよわいからこうむから同人どうじんから河上かわかみからぜん識・から授衣・とうかんがいた。

から河上かわかみ614ねん - 678ねん1がつ6にち)は、よしみかいといった。東宮とうぐう通事つうじ舎人とねりおそれ部員ぶいん外郎ういろうあららぎしゅう司馬しばはじめしゅうちょう・忻州刺史ししなどを歴任れきにんし、676ねん殿中でんちゅうしょうかんとなった。

からぜん識は、ふとしむねむすめあきら公主こうしゅつまとした。

とうかんは、河西かさいれいとなり、られた。

伝記でんき資料しりょう[編集へんしゅう]

  • きゅうとうしょまき58 列伝れつでんだい8「から倹伝」
  • しんとうしょまき89 列伝れつでんだい14「から倹伝」
  • だいとう開府かいふどう三司特進戸部尚書上柱国莒国公唐君墓誌(から倹墓
  • だいとう殿中でんちゅうしょうかんじょうはしらこくとうくん墓誌ぼしめいから河上かわかみ墓誌ぼし