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ひがし突厥

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ひがし突厥あせこく
(Türük)
突厥 582ねん - 745ねん 回鶻
カルルク
バスミル
東突厥の位置
7世紀せいきひがし突厥の最大さいだい版図はんと
公用こうよう テュルク(テュルク諸語しょごのひとつ)、ソグド
首都しゅと ウテュケンさん
あせ
587ねん - 609ねん けいみんあせ
682ねん - 690ねんころおもねこつ咄禄
744ねん - 745ねん白眉はくびあせ
変遷へんせん
突厥の東西とうざい分裂ぶんれつ 582ねん
とう支配しはい630ねん
ひがし突厥の再興さいこう682ねん
かい鶻によって滅亡めつぼう745ねん

ひがし突厥(ひがしとっけつ、とうとっけつ)は、582ねん突厥東西とうざい分裂ぶんれつしたさい東側ひがしがわ勢力せいりょく。これにたいし、西側にしがわ勢力せいりょく西にし突厥という。

ひがし突厥はおおきくけて3つの時期じき分類ぶんるいでき、1つだいいちあせこく、2つ羈縻政策せいさく、3つだいあせこくとなる。744ねん最後さいごひがしあせかい紇(ウイグル)によってころされると、ひがし突厥の旧領きゅうりょうかいってわった。

歴史れきし

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以下いか記述きじゅつは『ずいしょ』、『きゅうとうしょ』、『しんとうしょ』によるもの。

だいいちあせこく

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ひらきすめらぎ2ねん582ねんふゆ突厥ずい征討せいとうけ、だいあせすなはちりゃくあせ在位ざいい581ねん - 587ねん)はしょうあせ阿波あわあせむさぼあせあせらをひきいて迎撃げいげきするが、敗走はいそうし、えと疫病えきびょうなやまされ、あえなく撤退てったいした。このときすなはちりゃくあせ阿波あわあせ気性きしょうあらいのを危惧きぐし、さき阿波あわあせ領地りょうちかいその部落ぶらく襲撃しゅうげきし、阿波あわあせははころした。これにより阿波あわあせかえるところがなくなり、西にしいたるあたまあせ(タルドゥシュ・カガン)[1]のもとへ亡命ぼうめいした。このことをいたいたるあたまあせ阿波あわあせに10まんへいをつけてすなはちりゃくあせ攻撃こうげきさせた。このほかにもむさぼあせあせすなはちりゃくあせ従弟じゅうていつとむ察などがすなはちりゃくあせから離反りはんし、阿波あわあせいた。これによって阿波あわあせは突厥からかれて西にし突厥を建国けんこくし、西域せいいき諸国しょこくしたがえた。

こうして東西とうざいかれた突厥はたがいに攻撃こうげきったが、みやこあいあせ在位ざいい587ねん - 599ねん)の時代じだいになってようやくずいぶんみかど仲裁ちゅうさい両者りょうしゃ和解わかいすることとなった。しかし、ひらきすめらぎ17ねん597ねん)、すなはちりゃくあせであるしみ(センガン)は突利あせ(テリス・カガン)[2]ごうして、勝手かってずい関係かんけいをもったことから、だいあせであるみやこあいあせ激怒げきどし、ずい国交こっこう断絶だんぜつし、たびたび辺境へんきょうおかすようになった。

ひらきすめらぎ19ねん599ねん)、ずいかんおう楊諒元帥げんすいとしてみやこあいあせたせた。みやこあいあせいたるあたまあせんで、突利あせ攻撃こうげきし、その兄弟子あにでしめいころした。突利あせちょうまごあきらずいんだ。6月、こう楊素いたるあたまあせち、これを大破たいはした。ぶんみかどは突利あせはいしてけいみんあせ在位ざいい599ねん - 609ねん)とし、義成よしなり公主こうしゅめとらせた。なおもみやこあいあせけいみんあせ攻撃こうげきし、ずい辺境へんきょうおかすので、えつこくおおやけ楊素・行軍こうぐんそうかんかんそう寿ことぶき太平たいへいこうまんさい大将軍だいしょうぐん姚辯軍勢ぐんぜいみやこあいあせ攻撃こうげきした。このとしの12月、みやこあいあせ部下ぶかころされると、いたるあたまあせ迦可あせとなってけいみんあせ対立たいりつした。しかし、ずいんだけいみんあせほうつね優位ゆういとなった。

7世紀せいきはじめの東西とうざい突厥あせこく

じん寿ことぶき元年がんねん601ねん)、それまでけいみんあせ付属ふぞくしていたてつの斛薛(こくせつ)などのしょが叛いたので、ぶんみかどみことのりで楊素をくもしゅう道行みちゆきぐん元帥げんすいとし、けいみんあせひきいてきたせいさせた。一方いっぽう迦可あせはふたたびけいみんあせめたが敗北はいぼくし、吐谷渾奔走ほんそうした。これによりけいみんあせひがし突厥全土ぜんど掌握しょうあくすることとなり、以降いこうずいとの関係かんけい良好りょうこうであった。

しかし、はじめ畢可あせ在位ざいい609ねん - 619ねん)のだいになると、ひがし突厥はずいおとろえにじょうじて反旗はんきひるがえした。大業おおわざ11ねん615ねん)8がつはじめ畢可あせすうじゅうまん騎馬きば軍団ぐんだんひきいてずい入寇にゅうこうし、煬帝かりもんにて包囲ほういした。煬帝はみことのりによってしょぐんへい出動しゅつどうさせ、ひがし突厥ぐん撤退てったいさせた。これ以降いこうひがし突厥はずい北辺ほくへんらすようになり、二度にどずい朝貢ちょうこうすることはなかった。また、ずいまつ動乱どうらんにおいて、薛挙建徳けんとくおうたかしりゅう武周ぶしゅうはりもろこうひらくどうなどの反抗はんこうしゃみなひがし突厥にたたえしんし、はじめ畢可あせによって称号しょうごうけた。

武徳ぶとく元年がんねん618ねん)、ひがし突厥の支援しえんもあって中国ちゅうごくとう建国けんこくすると、はじめ畢可あせほね咄禄とくつとむ(クトゥルク・テギン)をつかわして入朝にゅうちょうさせた。高祖こうそ太極たいきょく殿どのうたげもよおした。武徳ぶとく2ねん619ねん)2がつはじめ畢可あせ賊軍ぞくぐんはりもろとともにとうへの侵入しんにゅう略奪りゃくだつはかったが、はじめ畢可あせくなったためりやめとなった。

はじめ畢可あせ時代じだいではしょうあせ姿すがたはほとんどく、だいあせ地位ちいしつらえ(シャド)となっていた。シャドの権力けんりょくしょうあせよりよわいため、はじめ畢可あせだいあせへの権力けんりょく集中しゅうちゅうをはかったものとおもわれる。しかし、それでも中央ちゅうおう集権しゅうけん国家こっかとはがたく、部族ぶぞく部族ぶぞくちょうは頡利はつ(イルテベル:Iltäbär)や俟斤(イルキン:Irkin)といった称号しょうごうをおびて、ある程度ていど地位ちいたもっていた。そのため、中央ちゅうおうからは吐屯(トゥドゥン:Tudun)というかん派遣はけんしてしょ部族ぶぞく監視かんしするとともぜい徴収ちょうしゅうしていた[3]

中国ちゅうごく混乱こんらんじょうじ、比較的ひかくてき優位ゆういっていたひがし突厥であったが、頡利あせ在位ざいい620ねん - 630ねん)のだいになり、内部ないぶ分裂ぶんれつてつ勒諸反乱はんらん天変地異てんぺんちいなどによってひがし突厥はとう降伏ごうぶくすることとなった(630ねん3がつ)。

羈縻政策せいさく

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7世紀せいき、羈縻政策せいさく周辺しゅうへんこく

頡利あせ降伏ごうぶくとうてつ勒の薛延陀部族長ぞくちょうであるえびすおとこ真珠しんじゅ毘伽あせとし、モンゴル高原こうげん支配しはいさせ、ひがし突厥にたいしては中国ちゅうごくないめてかんする羈縻支配しはいをおこなった。しかし、モンゴル高原こうげんの薛延陀部が次第しだい勢力せいりょくしてきたため、とう646ねんきたおこない、薛延陀部をやぶって羈縻支配しはいれ、それにともないてつ勒諸も羈縻支配しはいれた。ちょうどそのころひがし突厥のべつ出身しゅっしんくるまはなあせ金山かなやまアルタイ山脈さんみゃく)のきた独立どくりつ姿勢しせいせたため、さだかん23ねん649ねん)にとう迴紇ぼくこつなどをひきいてくるまはなあせ襲撃しゅうげきした。するとくるまはなあせしたがっていたしょ次々つぎつぎ降伏ごうぶくしていき、えい元年がんねん650ねん)にはくるまはなあせらえられ、北方ほっぽう民族みんぞくはすべてとうの羈縻支配しはいはいることとなった。

これら、とうって長安ながやすまでやってしょ部族ぶぞくちょうたちは、とき皇帝こうていふとしむねたいして“てんあせ(テングリ・カガン:Täŋri-Qaγがんまan)”の称号しょうごうたてまつったという。

だいあせこく

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7世紀せいき後半こうはんから8世紀せいき前半ぜんはん西にし突厥崩壊ほうかい周辺しゅうへんこく

羈縻支配しはいあまんじてけていた北方ほっぽう民族みんぞくであったが、徐々じょじょ独立どくりつうごきをはじめていく。

えいあつし元年がんねん682ねん)、おもねこつ咄禄らは5せん余人よにん群盗ぐんとうをなし、きゅうせいてつ勒(トクズ・オグズ)をしょうかすめし、おおくのひつじ次第しだいつよもりとなっていった。そして、おもねこつ咄禄はみずかってあせイルティリシュ・カガン)となり、そのおとうとおもねだますすころせ(シャド:かんめい[4]おもね咄悉匐まもる(ヤブグ:かんめい[5]とした。12月、おもねこつ咄禄はくろすなじょうり、并州北境きたざかい侵入しんにゅう略奪りゃくだつおこなった。このときたん于長おう本立ほんたてのもとにいたおもね徳元とくもとちんテュルク: 𐱃𐰆𐰪𐰸𐰸 - Tonyuquq - トニュクク英語えいごばん - 暾欲だに)が帰順きじゅんしてきたので、おもねこつ咄禄はかれ阿波あわたち(アパ・タルカン:かんめい)に任命にんめいした。

こうして独立どくりつたしたひがし突厥は通称つうしょうだいあせこくともばれ、そのとうぐんたたかって勝利しょうりおさめ、とう辺境へんきょう地帯ちたいらしまわった。おもねこつ咄禄は天授てんじゅ690ねん - 692ねん)のはじめに病死びょうしし、そのだまとげれんはまだおさなかったので、おとうとおもねだますすいだ。

おもねだますすはカプガン・カガン(在位ざいい690ねんごろ - 716ねん)とごうし、しきりに中国ちゅうごく北辺ほくへん侵入しんにゅうし、略奪りゃくだつをおこなった。しかし、長寿ちょうじゅ2ねん693ねん)からはしゅう入朝にゅうちょうするようになり、武則たけのりてんから遷善あせ称号しょうごうける。また、万歳ばんざいどおりてん元年がんねん696ねん)のちぎり討伐とうばつこうがあったため、特進とくしん・頡跌ほどこせ(イルティリシュ)だいたん于・たてこう報国ほうこくあせたまわった。

せいこよみ元年がんねん698ねん)5がつおもねだますす上表じょうひょうして武則たけのりてんになること、むすめとつがせること、和親わしんむすぶこと、さらにくだ[6]たん于都まもる農機具のうきぐ種子しゅしがほしいということを請願せいがんした。しかし、武則たけのりてんはじめこれをゆるさなかったため、おもねだますす激怒げきどし、つかさまろうどきょうどう殺害さつがいしようとした。ときしゅう朝廷ちょうていひがし突厥のへいぜいを懼れており、納言なごん姚璹鸞台さむらいろう再思さいし建議けんぎでその和親わしん許可きょかすることとなり、すべての要求ようきゅうんだ。7月、そこで武則たけのりてんは淮陽おうたけ延秀のぶひでおもねだますすむすめとつがせようと、みぎひょう韜衛大将軍だいしょうぐん閻知ほろはるかん尚書しょうしょみぎ武威ぶいまもるろうしょう楊斉そうつかさまろうどきょうとし、かれらをくろすな南庭なんていおもむかせた。しかし、おもねだますすとう皇族こうぞく)ではなくしゅう皇族こうぞくたけ)がたことにこととなえ、いますぐに武周ぶしゅう政権せいけんたおしてから王朝おうちょうもどそうと、8がつたけ延秀のぶひで拘束こうそくして閻知ほろあせふうじ、1まんひきいて南下なんかし、せいなんひら狄・きよしえびすなどのぐん鎮を攻撃こうげきし、せいなん軍使ぐんし慕容げん降伏ごうぶくさせた。しゅうけい45まんへいふせいだが、各所かくしょ惨敗ざんぱいした。武則たけのりてん激怒げきどし、だますす改名かいめいしてすすんだ。しかし、ひがし突厥ぐんいきおいはまらず、9月、つい武則たけのりてんとういおりりょうおう皇太子こうたいしとした。そのことをいたおもねだますすはようやくぐんいた。

せいこよみ2ねん699ねん)、おもねだますすおとうとおもね咄悉匐ててひだりひさし察、おもねこつ咄禄のおもねだまのりみぎひさし察に任命にんめいした。またおもねだますすおもね匐倶ててしょうあせとし、くらいりょう察のうえき、しょこんなどじゅうせい西にし突厥)の兵馬へいば4まん余人よにん統括とうかつさせ、またごうしてつぶせ西にしあせとした。これよりひがし突厥は連年れんねん辺境へんきょうあだした。

けいくも元年がんねん710ねん)、睿宗即位そくいすると、けいくも2ねん711ねん)1がつおもねだますすはまた使つかいおくって和親わしんい、そうおうしげるむすめ金山かなやま公主こうしゅとしてめとることを許可きょかされた。おもねだますすはその息子むすこの楊我ささえとくつとむつかわし来朝らいちょうみぎ驍衛員外いんがい大将軍だいしょうぐんさずかる。頡利あせ以来いらいもっとつよもりとなったおもねだますすであったが、老齢ろうれいとなり、部落ぶらくおおくは次第しだいに逃散していくことになる。

おもねだますす晩年ばんねんは、北方ほっぽう西方せいほう計略けいりゃく忙殺ぼうさつされた。北方ほっぽうではキルギズてつ勒諸反乱はんらんこし、西方せいほうではかつて西にし突厥に従属じゅうぞくしていたかずら邏禄(カルルク)や突騎ほどこせ(テュルギシュ)が台頭たいとうしてきた。さらには、西南せいなんアラブ・イスラーム勢力せいりょく攻撃こうげきによるソグディアナ救援きゅうえん要請ようせいにもおうじなければならなかった。こうしたなかおもねだますすきゅうせいてつ勒の抜曳かた(抜野いにしえ、バイルク:Bayïrqu)征伐せいばつちゅうころされてしまう。

おもねこつ咄禄の闕特つとむ(キュル・テギン:Kül Tigin)はきゅう糾合きゅうごうして、おもねだますすしょうあせおよしょおとうところし、闕特つとむあにであるひだりけんおうおもねだまとげれんてて毘伽あせ(ビルゲ・カガン:Bilgä Qaγがんまan)とした。闕特つとむ軍事ぐんじけんにぎり、暾欲だに英語えいごばん(トニュクク:Tonyuquq)が補佐ほさやくとなった。

毘伽あせ治世ちせいは、中国ちゅうごくへの侵入しんにゅう略奪りゃくだつすくなく、とうとの関係かんけい良好りょうこうで、げんむねからきぬ貿易ぼうえき許可きょかていた。しかし、毘伽あせおやとうだったわけではなく、きぬ貿易ぼうえき恒常こうじょうてきおこな確約かくやくるための方便ほうべんとして、とうたいして誠意せいいせていた。つまり、毘伽あせ略奪りゃくだつだいいち主義しゅぎから交易こうえき重視じゅうしさくへと政策せいさく変更へんこうしたのである。また、毘伽あせ都城みやこのじょうきずき、仏教ぶっきょう道教どうきょう寺院じいんてようとしたが、暾欲だに草原そうげん地帯ちたいでは遊牧ゆうぼく生活せいかつ様式ようしき優越ゆうえつしていることを主張しゅちょうしたため、りやめにした。

暾欲だに死去しきょし、闕特つとむ731ねん、毘伽あせ734ねん死去しきょすると、だいあせこく一気いっき衰退すいたいしていくこととなる。ひがし突厥では内輪うちわもめが相次あいつぎ、741ねん以降いこうてつ勒のかい紇(ウイグル)がかずら邏禄(カルルク)・抜悉みつバシュミル)などとともにひがし突厥をめ、抜悉みつ酋長しゅうちょうあせとなったり、かい紇のほねりょく裴羅(クトゥルグ・ボイラ)がほね咄禄毗伽闕可あせ(クトゥルグ・ビルゲ・キュル・カガン)となったりして、745ねんついにひがし突厥最後さいご白眉はくびあせころされ、ひがし突厥はほろんだ。

政治せいじ体制たいせい

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君主くんしゅあせ(カガン:Qaγがんまan)といい、中国ちゅうごく皇帝こうていにあたる。皇后こうごうにあたるのはあつし(カガトゥン:Qaγがんまatun)という。また、皇太子こうたいしにあたるとくつとむ(テギン:Tägin)や、総督そうとくにあたるしつらえ(察、ころせ、シャド:Šad)がある。

  • しょうあせ
    • 突利あせおもちぎり靺鞨管轄かんかつきばかそけしゅうきた位置いちする。
  • とくつとむ(テギン:Tägin)
    • すべとくつとむおもえびす管轄かんかつ
    • 斛特つとむおもに斛薛管轄かんかつ
  • しつらえ(シャド:Šad)
    • のべ陀設…おものべ陀部を管轄かんかつ
    • しつらえおもに霫部を管轄かんかつ

そのしたには以下いかのおよそ28の官職かんしょくがある。これらの官職かんしょく代々だいだい世襲せしゅうによってがれ、父兄ふけいぬと子弟していこういだ。

  • まもる(ヤブグ:Yabγがんまu
  • こごめりつすす(キョリチュル)
  • 阿波あわ(アパ)
  • 俟利はつ(イルテベル:Iltäbär)…部族ぶぞくちょうあたえられる称号しょうごう
    • 頡利はつ(イルテベル:Iltäbär)…部族ぶぞくちょうあたえられる称号しょうごう
  • 吐屯(トゥドゥン:Tudun)…中央ちゅうおうから派遣はけんされる監察かんさつかん
  • 俟斤(イルキン:Irkin)…部族ぶぞくちょうあたえられる称号しょうごう
  • 閻洪たち
  • いたる(タルカン:Tarqan

あせ廷(首都しゅと)はきんさんうつとくぐんやまウテュケンさん:Ütükän yïš)にかれた。ひがし突厥はおおくの支配しはい民族みんぞくをもっており、ひがしちぎり(キタン:Qïtaň)・しつさんじゅうせいタタル:Otuz Tatar)、西にし吐谷渾こうあきら諸国しょこくしたがえていた。

ひがし突厥(だいあせこく)の碑文ひぶん

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以下いかのものはいわゆる突厥碑文ひぶん総称そうしょうされる碑文ひぶんであり、突厥時代じだい(とくにひがし突厥だいあせこく)にてられたため、そのがある。これらの碑文ひぶんはすべて古代こだいテュルク古代こだいトルコ・ルーン文字もじ突厥文字もじ)でかれている。

日本にっぽんではこれらの碑文ひぶんをしばしばオルホン碑文ひぶん総称そうしょうするが、かならずしも正確せいかく命名めいめいとはいえない[7]

その碑文ひぶんとしてはつぎのものがある。

歴代れきだい君主くんしゅ

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ひがし突厥あせこく

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  1. けいみんあせしみ)(587ねん - 609ねん)…すなはちりゃくあせみやこあいあせおとうと
  2. はじめ畢可あせ(咄吉)(609ねん - 619ねん)…けいみんあせ長男ちょうなんずい朝貢ちょうこう停止ていしする。
  3. ところあせ(俟利どるしつらえ)(619ねん - 620ねん)…けいみんあせ次男じなん
  4. 頡利あせ(咄苾)(620ねん - 630ねん)…けいみんあせ三男さんなんとう降伏ごうぶくし、ひがし突厥は一時いちじほろぶ。

羈縻(きび)政策せいさく

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突厥だいあせこく

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  1. おもねこつ咄禄(クトゥルグ、イルティリシュ・カガン)(682ねん - ?)…頡利あせの疏属、とうから独立どくりつしてひがし突厥を再興さいこうさせる。
  2. おもねだますす(カプガン・カガン)(? - 716ねん)…ほね咄禄のおとうと
  3. 毗伽あせ(ビルゲ・カガン、だまとげれん)(716ねん - 734ねん)…ほね咄禄の
  4. しかあせ(イネル・カガン)(734ねん)…毗伽あせ
  5. のぼりとしあせ(テングリ・カガン)(734ねん - 741ねんころせ)…しかあせおとうと
  6. ほね咄葉まもる(クトゥ・ヤブグ)(741ねん - 742ねんころせ
  7. がらすまいほどこせあせ(オズミシュ・カガン)(? - 744ねんころせ)…はん闕特つとむ
  8. 白眉はくびあせ(鶻隴匐)(744ねん - 745ねんころせ)…がらすまいほどこせあせおとうと

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ タルドゥシュ・カガン(Tarduš-qaγがんまan)とは、タルドゥシュ(Tarduš)すなわち西部せいぶ管轄かんかつするしょうあせのことで、西にしめんあせのこと。これにたい東面とうめんあせはテリス・カガン(Tölis-qaγがんまan)という。
  2. ^ テリス・カガン(Tölis-qaγがんまan)とは、テリス(Tölis)すなわち東部とうぶ管轄かんかつするしょうあせのことで、東面とうめんあせのこと。これにたい西にしめんあせはタルドゥシュカガン(Tarduš-qaγがんまan)という。
  3. ^ 小松こまつ久男ひさお中央ちゅうおうユーラシア』p067
  4. ^ 『オルホン碑文ひぶん』には「タルドゥシュ部族ぶぞくTarduš-budunみぎひさし)のシャド(Šad)」とある。
  5. ^ 『オルホン碑文ひぶん』には「テリス部族ぶぞくTölis-budunひだりひさし)のヤブグ(Yabγがんまu)」とある。
  6. ^ 咸亨年間ねんかん670ねん - 674ねん)に、ひがし突厥しょ部落ぶらくくだしゃおおくは、ゆたかしゅうかつしゅうれいしゅうなつしゅうついたちしゅうだいしゅうろくしゅう移住いじゅうさせられた。これをくだう。
  7. ^ 三上みかみ次男つぐおまもる雅夫まさお佐久間さくま重男しげお人類じんるい文化ぶんか4 中国ちゅうごく文明ぶんめい内陸ないりくアジア』p224

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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