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ウイグル ئۇيغۇر · uyghurlar · Уйғур · 维吾尔/維吾爾 なんじ 総 そう 人口 じんこう 合計 ごうけい 約 やく 1,350万 まん 人 にん 居住 きょじゅう 地域 ちいき 中国 ちゅうごく (主 おも に新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く )12,123,000 (中国 ちゅうごく 当局 とうきょく 発表 はっぴょう 数 すう )[ 1] [ 2] カザフスタン 223,100 (2009) (カザフスタンのウイグル人 じん (英語 えいご 版 ばん ) )[ 3] [ 4] トルコ 60,000 (2020)[ 5] ウズベキスタン 55,220 (2008)[ 6] [ 7] キルギス 48,543 (2009) (キルギスのウイグル人 じん (英語 えいご 版 ばん ) )[ 8] サウジアラビア 〜50,000 (2013) (サウジ労働省 ろうどうしょう )[ 9] ヨルダン 〜30,000 (2017) オーストラリア 5,000 – 10,000[ 10] スウェーデン 2,000 (2019)[ 11] パキスタン 〜1,000世帯 せたい (2010) (パキスタンのウイグル人 じん (英語 えいご 版 ばん ) )[ 12] ロシア 3,696 (2010)[ 13] トルクメニスタン 〜3,000[ 14] カナダ 〜1,555 (2016)[ 15] アメリカ 1,800+ (ウイグル系 けい アメリカ人 じん )[ 16] 日本 にっぽん 〜1,000 (2012)[ 17] ドイツ 〜750 (2013)[ 18] ウクライナ 197 (2001)[ 19] 言語 げんご 宗教 しゅうきょう 主 おも にイスラム教 いすらむきょう ・スンナ派 は 関連 かんれん する民族 みんぞく タジク人 じん , ウズベク [ 20] ・テュルク系 けい 民族 みんぞく
ウイグル (ウイグル語 ご : ئۇيغۇرلار , Уйғурлар , IPA: [ujɣurˈlɑr] ; 簡 : 维吾尔 , 繁 しげる : 維吾爾 なんじ , 拼音 : Wéiwú'ěr , [wěɪǔɑ̀ɻ] ; 英 えい : Uyghurs , [ 23] )は、4世紀 せいき から13世紀 せいき にかけて中央 ちゅうおう ユーラシア で活動 かつどう したテュルク系 けい 遊牧 ゆうぼく 民族 みんぞく [ 注 ちゅう 1] 、及 およ びその後裔 こうえい と称 しょう する民族 みんぞく [ 24] (あるいは現在 げんざい の政治 せいじ 的 てき 必要 ひつよう 性 せい から自 みずか ら「ウイグル」と名乗 なの る民族 みんぞく [ 25] )を指 さ す。
現在 げんざい は中国 ちゅうごく の新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く やカザフスタン ・ウズベキスタン ・キルギス など中央 ちゅうおう アジア に居住 きょじゅう しており、人口 じんこう は約 やく 1,000万 まん 人 にん [ 26] 、テュルク諸語 しょご のウイグル語 ご を話 はな すムスリム である[ 27] 。
中国 ちゅうごく 史書 ししょ では、袁紇 [ 28] [ 29] ・烏 がらす 護 まもる [ 30] ・烏 がらす 紇[ 30] ・韋紇 [ 31] [ 32] ・迴紇 [ 33] ・回 かい 紇[ 30] [ 34] ・迴鶻 [ 33] ・回 かい 鶻[ 30] [ 34] などと表記 ひょうき されてきた。
やがてテュルク系 けい 遊牧民 ゆうぼくみん 自身 じしん でも文字 もじ (突厥文字 もじ )を使 つか って物事 ものごと を記 しる すようになると、 (Uyγ がんま ur)[ 35] と表記 ひょうき した。
14世紀 せいき のイルハン朝 あさ ではアラビア文字 もじ で「اويغور (Ūyghūr)」と表記 ひょうき され、イルハン朝 あさ の政治 せいじ 家 か ラシードゥッディーン はその著書 ちょしょ 『ジャーミ・ウッ・タワーリーフ(集 しゅう 史 し )』の「ウイグル部族 ぶぞく 志 こころざし 」において、「ウイグル」とはテュルク語 ご で「同盟 どうめい 」・「協力 きょうりょく 」の意 い であると記 しる している[ 36] 。
盛 もり 世才 せさい は従来 じゅうらい の中華民国 ちゅうかみんこく 当局 とうきょく が用 もち いていた「纏 まとい 回 かい (Chánhuí チャンフェイ)」を廃止 はいし して「ウイグル」民族 みんぞく を「設定 せってい 」する指示 しじ を受 う け入 い れ、1934年 ねん に省 はぶけ 府議会 ふぎかい で正式 せいしき 採用 さいよう させ「維吾爾 なんじ (Wéiwú'ěr ウェイウーアー)」という漢字 かんじ 表記 ひょうき を定 さだ めた。[ 37]
ウイグルの創 そう 生 せい については、モンゴル帝国 ていこく 時代 じだい のペルシア語 ご 文献 ぶんけん においていくつかの物語 ものがたり が記 しる されている。アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー 『世界 せかい 征服 せいふく 者 しゃ の歴史 れきし 』(1260年 ねん 編纂 へんさん )とラシードゥッディーン 『集 しゅう 史 し 』(1314年 ねん 編纂 へんさん 完成 かんせい )がある。
特 とく に後者 こうしゃ の『集 あつまり 史 し 』ではテュルク・モンゴル系 けい の諸 しょ 部族 ぶぞく をイスラーム的 てき 世界 せかい 観 かん の枠 わく 内 ない で分類 ぶんるい しており、これらを大 だい 洪水 こうずい 後 ご に現在 げんざい の人類 じんるい の遠祖 えんそ となったノア (ヌーフ)の3人 にん の息子 むすこ セム 、ハム 、ヤフェト のうちヤフェト(ヤーフィス)の子孫 しそん としている。
テュルク系 けい 種族 しゅぞく をヤフェトの子孫 しそん とするのは『集 あつまり 史 し 』以外 いがい にも見 み られるが、『集 あつまり 史 し 』はこれにオグズ・カガン伝説 でんせつ も絡 から めて述 の べているのが特徴 とくちょう であり、後世 こうせい にもこの傾向 けいこう は受 う け継 つ がれた。
ラシードゥッディーン 『集 しゅう 史 し 』ウイグル部族 ぶぞく 誌 し (1314)
伝承 でんしょう :「ノア の子 こ のアブルチャ・カン即 すなわ ちヤフェト の子 こ のディブ・バクイの子 こ のカラ・カンの子 こ のオグズ ( اوغوز پسر قرا خان پسز ديب باقوى پسر يافِث پسر نوح عليه السّلام Ūghūz pisar-i Qarā-Khān pisar-i Dīp Bāqūy pisar-i Abūlja Khān Yāfith pisar-i Nūḥ `alaihi al-salam.)[ 38] [ 39] は、唯一 ゆいいつ 神 かみ (アッラー )のみを信 しん じたので、叔父 おじ 達 たち や兄弟 きょうだい から攻撃 こうげき を受 う けたが、彼 かれ はその親族 しんぞく の一部 いちぶ の援助 えんじょ を受 う けて打 う ち破 やぶ り彼等 かれら の領地 りょうち を併合 へいごう した。
彼 かれ は大会 たいかい を開 ひら き、親族 しんぞく ・異姓 いせい の集団 しゅうだん ・戦士 せんし 達 たち を鎮撫 ちんぶ し、共 とも に戦 たたか った親族 しんぞく の人々 ひとびと に“ウイグル”の名 な を授 さづ けた」[ 38] [ 39]
古代 こだい :「ウイグリスターン地方 ちほう (wilāyat-i Ūyghūristān) には2つの非常 ひじょう に大 おお きな山 やま があり、ひとつはブクラト・ブズルク( بوقراتو بوزلوق Būqrātū-būzlūq)、もうひとつはウシュクンルク・タンクリム( اوشقون لوق تنكريم Ūšqūn-lūq-tankrīm)であった。そのふたつの間 あいだ にはカラコルム山 さん (kūh-i Qarāqūrum) が鎮座 ちんざ し、カアン(Qā'ān; オゴデイ のこと)が建 た てられた都市 とし はその山 やま の名前 なまえ にちなんで呼 よ ばれている。その山 やま のそばにクト・タク( قوت طاق Qūt-ṭāq)と呼 よ ばれている山 やま がある。
その山々 やまやま の一帯 いったい には10本 ほん の河 かわ (が流 なが れている)場所 ばしょ と、9本 ほん の河 かわ (が流 なが れている)場所 ばしょ がある。古 ふる い時代 じだい には、ウイグル諸 しょ 部族 ぶぞく の居住 きょじゅう 地 ち は、これらの諸 しょ 河川 かせん や山々 やまやま や荒野 あらの (ṣuḥrā-hā) にあった。
この10本 ほん の河 かわ にすむものたちがおり彼 かれ らはオン・ウイグル( اون اويغور Ūn Ūyghūr)と呼 よ ばれ、9本 ほん の河 かわ にいるものはトグズ・ウイグル( توغوز اوغوز Tūghūz Ūyghūr)と呼 よ ばれている[ 注 ちゅう 2] 。この10本 ほん の河 かわ はオン・ウルグン( اون اُرغون Ūn-Urghūn)[ 注 ちゅう 3] と呼 よ ばれている。
それらの名前 なまえ を以下 いか に説明 せつめい すると、اييشلك Aīīšlik(部族 ぶぞく ),اوتنكر Ūtinkar?(部族 ぶぞく ), بوقيز Būqīz(部族 ぶぞく ),اوزقندر Ūzqundur(部族 ぶぞく ),تولار Tūlār部 ぶ ,تاردار Tārdār(部族 ぶぞく ),ادر Adar(部族 ぶぞく :もしくは ادر اوج Adar-Ūjか),اوج تابين Ūj-Tābīn(部族 ぶぞく :もしくは تابين Tābīnか), قملانجو Qamlānjū(部族 ぶぞく ),اوتيكان Ūtīkān(部族 ぶぞく )である。3本 ほん の河畔 かはん に9部 ぶ が、次 つぎ の4本 ほん の河畔 かはん に5部 ぶ がいる。9本 ほん 目 め の Qamlānjū の河 かわ 沿 ぞ いには オン部族 ぶぞく ( قوم اونك qawm-i Ūnk:もしくは قوم لونك qawm-i Lūnkか)、10本 ほん 目 め の河畔 かはん に قمق آتی كوز Qamaq-ātī-kūz 部 ぶ がある。その他 た 名称 めいしょう 不 ふ 詳 しょう の部 ぶ を含 ふく め122部 ぶ がそれらの河 かわ に有 あ った。数 かず 世代 せだい 経 た ったがウイグル諸 しょ 部族 ぶぞく には決 き まった君 きみ 長 ちょう (pādshāhī wa sar-varī)が居 お らず、各部 かくぶ が武力 ぶりょく 争奪 そうだつ を始 はじ めると別 べつ の集団 しゅうだん から長 ちょう を立 た てていた。
後 のち に各部 かくぶ が共同 きょうどう 利益 りえき の為 ため に会議 かいぎ を開 ひら き、全体 ぜんたい に命令 めいれい を発 はっ する1人 ひとり の全権 ぜんけん 君主 くんしゅ (pādshāhī muṭalliq-i amr ki bar hamganān nāfidh farmān bāshad)を自分 じぶん 達 たち の中 なか から出 だ すことを決議 けつぎ 。全会 ぜんかい 一致 いっち で満場 まんじょう の意 い を受 う けて、アビシュリク( ابيشلك Abīšlik)部 ぶ から最 もっと も聡明 そうめい なマングダイ( منكوتای Mankūtāī /ないしマング・バイ منكوباى Mankū-bāī)を選出 せんしゅつ 、イル・イルテベル( ايل ايلتبر Īl-Īltabar)の称号 しょうごう を授 さづ けた。また、ウズクンドゥル(اوزقندر Ūzqundur)部 ぶ から品質 ひんしつ 性格 せいかく の良好 りょうこう な人物 じんぶつ を選 えら んでキョル・イルキン( كول ايركين Kūl-Īrkīn)の称号 しょうごう を授 さづ けた。彼等 かれら 二 に 人 にん は全 ぜん 民族 みんぞく と諸 しょ 部族 ぶぞく の君主 くんしゅ (pādshāh-i jumhūr wa aqwām)となり、彼等 かれら の一族 いちぞく (ūrūgh/uruq)が100年間 ねんかん 統治 とうち した。」[ 40] [ 41] [ 42]
アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー 『世界 せかい 征服 せいふく 者 しゃ の歴史 れきし 』(1260)
「カラコルム から発 はっ するトグラ河 かわ とセレンガ川 かわ が合流 ごうりゅう するカムランジュ( قملانجو Qamlānjū)に双 そう 樹 き があった。双 そう 樹 じゅ の間 あいだ の丘 おか に天 てん から光 ひかり が降 ふ り注 そそ ぎ、日 ひ ごと丘 おか は大 おお きくなった。やがて丘陵 きゅうりょう が開 ひら き、天幕 てんまく 張 は りの5つの部屋 へや が現 あらわ れると各々 おのおの に一人 ひとり の子供 こども が座 すわ っていた。5人 にん の子供 こども はこの土地 とち の人々 ひとびと から王子 おうじ と同 おな じように尊敬 そんけい され、長男 ちょうなん はソンクル・テギン ( سنقر تكين Sunqur Takīn/Sonqur Tegin)、次男 じなん はクトル・テギン ( قوتر تكين Qūtur Takīn/Qotur Tegin)、三男 さんなん はブカク・テギン ( توكاك تكين Tūkāk Takīn/Tükel Tegin)、四 よん 男 なん はオル・テギン ( اور تكين Ūr Takīn/Or Tegin)、五男 いつお はブク・テギン ( بوقو تكين Būqū Takīn/Buqu Tegin)と命名 めいめい された。ウイグル人 じん は彼 かれ らが天 てん より降臨 こうりん したものと信 しん じ、彼 かれ らの一人 ひとり を君主 くんしゅ に戴 いただ くことにした。そこで、末子 まっし のブク・テギンが美貌 びぼう と才智 さいち に最 もっと も秀 ひい で、あらゆる言語 げんご と文字 もじ に通 つう じていたので、ウイグル人 じん は彼 かれ を推戴 すいたい してカン ( خان Khān)とし、大祭 たいさい を催 もよお して玉座 ぎょくざ に就 つ かせた」[ 42] [ 43] [ 44]
五 ご 胡 えびす 十 じゅう 六 ろく 国 こく 時代 じだい の高 こう 車 しゃ の位置 いち
「高 こう 車 しゃ (こうしゃ)」とは4~6世紀 せいき の中国 ちゅうごく 北朝 ほくちょう におけるテュルク系 けい 遊牧民 ゆうぼくみん の総称 そうしょう で、彼 かれ らが高大 こうだい な車輪 しゃりん のついた轀車(おんしゃ:荷車 にぐるま )を用 もち いたことに由来 ゆらい する[ 28] [ 29] 。その一部 いちぶ 族 ぞく である袁紇(ウイグル)部 ぶ は、モンゴル高原 こうげん をめぐって拓 つぶせ 跋 ばつ 部 ぶ の代 だい 国 くに や北 きた 魏 たかし と争 あらそ っていたが、4世紀 せいき 末 まつ から5世紀 せいき 初頭 しょとう に柔 やわ 然 しか 可 か 汗 あせ 国 こく に従属 じゅうぞく した。
390年 ねん 、袁紇部 ぶ は北 きた 魏 ぎ の道 みち 武 たけ 帝 みかど の北 きた 伐 き で大敗 たいはい を喫 きっ し[ 注 ちゅう 4] 、429年 ねん に北 きた 魏 たかし が漠 ばく 北 きた へ遠征 えんせい して柔 やわ 然 しか を打 う ち破 やぶ ると、袁紇部 ぶ を含 ふく む高 こう 車 しゃ 諸 しょ 部族 ぶぞく は北 きた 魏 たかし に服属 ふくぞく して漠 ばく 南 みなみ へ移住 いじゅう させられた。
一時期 いちじき 、高 こう 車 しゃ 諸 しょ 部 ぶ は孝文 たかふみ 帝 みかど の南 みなみ 征 せい に従軍 じゅうぐん することに反対 はんたい し、袁紇樹 じゅ 者 しゃ を主 おも (あるじ)に推戴 すいたい して北 きた 魏 たかし に対 たい して反旗 はんき を翻 ひるがえ したが、のちにまた北 きた 魏 ぎ に降 ふ った。
7世紀 せいき 初 はじ めの東西 とうざい 突厥可 か 汗 あせ 国 こく 。
6世紀 せいき ~7世紀 せいき 、高 こう 車 しゃ は鉄 てつ 勒(てつろく)と呼 よ ばれるようになり、袁紇(ウイグル)部 ぶ も中国 ちゅうごく 史書 ししょ で烏 がらす 護 まもる [ 30] ・烏 がらす 紇[ 30] ・韋紇 [ 31] [ 32] などと記 しる され、やがて迴紇 [ 33] ・回 かい 紇[ 30] [ 34] と表記 ひょうき されるようになる。当時 とうじ 、鉄 てつ 勒諸部 ぶ は突厥 可 か 汗 あせ 国 こく に属 ぞく し最大 さいだい の構成 こうせい 民族 みんぞく であったが、趨勢 すうせい に応 おう じて叛服 はんぷく を繰 く り返 かえ していた。
隋 ずい 代 だい に42部 ぶ を数 かぞ えた鉄 てつ 勒諸部 ぶ (アルタイ以西 いせい に31部 ぶ ・勝 かち 兵 へい 88,000、以東 いとう に11部 ぶ ・勝 かち 兵 へい 20,000)は、唐 とう 代 だい に至 いた ると徐々 じょじょ に東 ひがし へ移動 いどう ・集合 しゅうごう (15部 ぶ ・勝 かち 兵 へい 200,000)、その中 なか でも回 かい 紇(ウイグル)部 ぶ は特 とく に強 つよ 盛 もり となってモンゴル高原 こうげん の覇権 はけん を薛延陀 (せつえんだ)部 ぶ と争 あらそ った。
629年 ねん に部族 ぶぞく 長 ちょう の吐迷度 ど は薛延陀部を破 やぶ り、鉄 てつ 勒の盟主 めいしゅ となった。646年 ねん には唐 とう に帰順 きじゅん し、回 かい 紇部は瀚海都 と 督 とく 府 ふ とされ、吐迷度 ど は懐 ふところ 化 か 大将軍 だいしょうぐん を拝命 はいめい し、瀚海都 と 督 とく となった。
682年 ねん 、東 ひがし 突厥 が再興 さいこう (第 だい 二 に 突厥可 か 汗 あせ 国 こく )すると回 かい 紇(ウイグル)部 ぶ は再 ふたた び屈従 くつじゅう を余儀 よぎ なくされたものの、734年 ねん に東 ひがし 突厥の毘伽可 か 汗 あせ (ビルゲ・カガン)が毒殺 どくさつ されると、バシュミル 部 ぶ 、カルルク 部 ぶ らとともに東 ひがし 突厥へ度々 たびたび 攻撃 こうげき を仕掛 しか け、745年 ねん に回 かい 紇(ウイグル)部 ぶ の可 か 汗 あせ (カガン、君主 くんしゅ )となった骨 ほね 力 りょく 裴羅 (クトゥルグ・ボイラ)が唐 とう と組 く んで最後 さいご の東 ひがし 突厥可 か 汗 あせ である白眉 はくび 可 か 汗 あせ を殺 ころ して東 ひがし 突厥可 か 汗 あせ 国 こく を滅 ほろ ぼした[ 45] 。
8世紀 せいき 後半 こうはん の回 かい 鶻の位置 いち 。
744年 ねん 、骨 ほね 力 りょく 裴羅(クトゥルグ・ボイラ)は回 かい 鶻可汗 あせ 国 こく (ウイグル可 か 汗 あせ 国 こく 、ウイグル帝国 ていこく )を建国 けんこく する(744年 ねん - 840年 ねん )。回 かい 鶻(ウイグル)可 か 汗 あせ 国 こく は東 ひがし 突厥の旧領 きゅうりょう を支配 しはい し、新 あら たなモンゴル高原 こうげん の支配 しはい 者 しゃ となった。
以後 いご 、彼 かれ ら回 かい 鶻(ウイグル)の筆頭 ひっとう 氏族 しぞく である薬 くすり 羅 ら 葛 かずら (ヤグラカル )氏 し によって可 か 汗 あせ 位 い が継承 けいしょう された。経済 けいざい 面 めん では唐 とう との絹 きぬ 馬 ば 貿易 ぼうえき や東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく とのシルクロード 交易 こうえき によって莫大 ばくだい な利益 りえき を上 あ げた。[ 46]
755年 ねん に唐 とう で起 お きた安史 やすし の乱 らん では、唐 とう の要請 ようせい により回 かい 鶻(ウイグル)軍 ぐん が反乱 はんらん を鎮 しず め、763年 ねん に終結 しゅうけつ することができた。
唐 とう が安 やす 史 し の乱 らん の勃発 ぼっぱつ により西域 せいいき の経営 けいえい から手 て を引 ひ くと[ 47] 、回 かい 鶻(ウイグル)は西域 せいいき を巡 めぐ って吐蕃 と数 すう 十 じゅう 年 ねん に渡 わた る戦 たたか いを繰 く り広 ひろ げた。この北 きた 庭 にわ 争奪 そうだつ 戦 せん は792年 ねん まで続 つづ くが、最終 さいしゅう 的 てき に回 かい 鶻(ウイグル)軍 ぐん は北 きた 庭 にわ を奪還 だっかん し吐蕃に勝利 しょうり した。トルファン盆地 ぼんち とタリム盆地 ぼんち 北部 ほくぶ が回 かい 鶻(ウイグル)の領国 りょうごく となった[ 48] 。
なお懐 ふところ 信 しんじ 可 か 汗 あせ (在位 ざいい :795年 ねん - 805年 ねん )の代 だい にマニ教 きょう が国教 こっきょう 化 か され、世界 せかい 史上 しじょう 唯一 ゆいいつ となるマニ教 きょう 国家 こっか が誕生 たんじょう した。
840年 ねん 、回 かい 鶻(ウイグル)可 か 汗 あせ 国 こく は内乱 ないらん と黠戛斯 (キルギス)族 ぞく の侵攻 しんこう を受 う けて崩壊 ほうかい した[ 49] 。このときウイグル人 じん はモンゴル高原 こうげん から別 べつ の地域 ちいき へ拡散 かくさん し、唐 とう の北方 ほっぽう に移住 いじゅう した集団 しゅうだん はのちに元 もと 代 だい のオングート となり[ 49] 、西 にし の天山 あまやま 方面 ほうめん のカルルク (葛 かずら 邏禄)へ移 うつ った一派 いっぱ は、後 のち にテュルク系 けい 初 はつ のイスラーム王朝 おうちょう であるカラハン朝 あさ となり、甘粛 かんせい に移 うつ った一派 いっぱ はのちの甘 あま 州 しゅう ウイグル王国 おうこく となり、[ 49] 。東部 とうぶ 天山 あまやま のビシュバリク (北 きた 庭 にわ )、カラシャール (焉耆 )、トゥルファン (高 こう 昌 あきら )に移 うつ った一派 いっぱ は天山 あまやま ウイグル王国 おうこく となった[ 49] 。
滅亡 めつぼう したウイグル遺 のこ 民 みん の一部 いちぶ は河西 かさい (現在 げんざい の甘粛 かんせい 省 しょう )に逃 のが れて割拠 かっきょ し、甘 あま 州 しゅう (張 ちょう 掖 わき )を中心 ちゅうしん に甘 あま 州 しゅう ウイグル王国 おうこく (甘 あま 州 しゅう 回 かい 鶻)を形成 けいせい 、1028年 ねん のタングート による甘 あま 州 しゅう 陥落 かんらく まで勢力 せいりょく を保 たも った[ 50] 。
10世紀 せいき 後半 こうはん の天山 あまやま ウイグル王国 おうこく 。
モンゴル帝国 ていこく (元朝 がんちょう )領 りょう のウイグル王国 おうこく
焉耆(カラシャール)や北 きた 庭 にわ (ビシュバリク)に割拠 かっきょ した集団 しゅうだん が天山 あまやま ウイグル国 こく を建国 けんこく すると、定住 ていじゅう 化 か して「ウイグル (Uyghur)」とか「トゥグズグズ (Tughuzghuz)」などと呼 よ ばれた。彼 かれ らは遊牧 ゆうぼく していた時代 じだい からソグド人 じん の影響 えいきょう を受 う けマニ教 きょう を信仰 しんこう していたが、のちに仏教 ぶっきょう 、ネストリウス派 は キリスト教 きりすときょう なども信仰 しんこう され、高 こう 昌 あきら 漢 かん 文化 ぶんか などを形成 けいせい した[ 49] 。タリム盆地 ぼんち に先住 せんじゅう していた住民 じゅうみん はこうしてウイグル化 か ・トルコ化 か されていった[ 49] 。
10世紀 せいき 以降 いこう 、カシュガルなどのタリム盆地 ぼんち 西部 せいぶ ではイスラーム教 きょう が普及 ふきゅう したが、タリム盆地 ぼんち 東部 とうぶ の天山 あまやま ウイグル国 こく では仏教 ぶっきょう が根強 ねづよ く、カラ・キタイ (西 にし 遼 りょう )やモンゴル帝国 ていこく に服属 ふくぞく している間 あいだ は仏教 ぶっきょう が信仰 しんこう された[ 49] 。
13世紀 せいき 、モンゴル高原 こうげん でチンギス・カン のモンゴル帝国 ていこく が勃興 ぼっこう すると、1211年 ねん にウイグル王 おう バルチュク・アルト・テギン は早 はや い段階 だんかい でモンゴル帝国 ていこく に帰順 きじゅん したため、チンギス・カンに気 き に入 い られ、自 みずか らの「5番目 ばんめ の息子 むすこ 」として厚遇 こうぐう された[ 51] 。バルチュクの子 こ サランディ・テギン はオゴデイ・カアン の娘 むすめ を娶 めと り、駙馬(キュレゲン )となった[ 52] 。
以後 いご 、モンゴル帝国 ていこく でのウイグル王家 おうけ は「ウイグル駙馬王家 おうけ 」としてコンギラト駙馬家 か と並 なら ぶ、駙馬王家 おうけ 筆頭 ひっとう と賞 しょう され、モンゴル王族 おうぞく に準 じゅん じる地位 ちい を得 え る。
モンゴル帝国 ていこく および元朝 がんちょう では、ウイグル人 じん 官僚 かんりょう はモンゴル宮廷 きゅうてい で重用 じゅうよう され、帝国 ていこく の経済 けいざい を担当 たんとう する大臣 だいじん も輩出 はいしゅつ した。この時代 じだい 、ウイグル王国 おうこく 地域 ちいき を指 さ して「ウイグリスタン (Ūyghristān)」と呼 よ ばれた[ 53] 。
やがてモンゴル帝国 ていこく でクビライ とカイドゥ の内乱 ないらん が起 お きると天山 あまやま ウイグル王国 おうこく はその抗 こう 争 そう の地 ち となり、君主 くんしゅ のコチカル・テギン とネウリン・テギン の時代 じだい にウイグル王家 おうけ はウイグリスタンを放棄 ほうき せざるを得 え なくなり、甘粛 かんせい の永昌 えいしょう 路 ろ に移住 いじゅう したままその歴史 れきし を終 お える[ 54] 。
モンゴル帝国 ていこく 以降 いこう 、天山 あまやま ウイグルの国民 こくみん (タリム盆地 ぼんち のオアシス都市 とし の住民 じゅうみん )はモンゴル国民 こくみん となり、チャガタイ・ハン国 こく 、オイラト 族 ぞく (ジュンガル )と支配 しはい 者 しゃ が交代 こうたい していくうちに、都市 とし 国家 こっか 単位 たんい での緩 ゆる い民族 みんぞく 名称 めいしょう (カラシャール人 じん 、ホータン人 じん 、ヤルカンド人 じん 、カシュガル人 じん など)しかもたなくなり、異教徒 いきょうと に対 たい してはムスリム 、他所 よそ 者 しゃ に対 たい してイェルリク (土地 とち の者 もの )と呼 よ ぶ程度 ていど で、「ウイグル」という名称 めいしょう は忘 わす れ去 さ られていった[ 25] [ 55] 。
現代 げんだい ウイグル人 じん の祖先 そせん と仮託 かたく されているウイグル人 じん は自 みずか らの民族 みんぞく をテュルクと呼 よ び中核 ちゅうかく 集団 しゅうだん をウイグルと呼 よ んだが、マーワラーアンナフル やタリム盆地 ぼんち のオアシス都市 とし の住民 じゅうみん は、都市 とし 国家 こっか 単位 たんい での緩 ゆる い民族 みんぞく 名称 めいしょう しかもたず、異教徒 いきょうと に対 たい してはムスリム 、他所 よそ 者 しゃ に対 たい してイェルリク (土地 とち の者 もの )と呼 よ ぶ程度 ていど であった[ 25] [ 55] 。
モンゴル帝国 ていこく 、ジュンガル への服属 ふくぞく を経 へ て、18世紀 せいき 半 なか ばにジュンガルを清朝 せいちょう が滅 ほろ ぼすと、「ムスリムの土地 とち 」を意味 いみ する「回 かい 疆」または「新 あたら しい領土 りょうど 」を意味 いみ する「新 しん 疆 」と呼 よ ばれた。その後 ご ロシア が中央 ちゅうおう アジア に進出 しんしゅつ し、1881年 ねん にトルキスタン を併合 へいごう すると、清朝 せいちょう は1884年 ねん にタリム盆地 ぼんち ・ジュンガル盆地 ぼんち を纏 まと めて新 しん 疆省 を設置 せっち した(1884-1955年 ねん )。
1921年 ねん 、ソ連 それん トルキスタン 地方 ちほう のタリム盆地 ぼんち 出身 しゅっしん 者 しゃ が「ウイグル」という呼称 こしょう を用 もち い始 はじ めたことをうけて、親 おや ソ派 は でタリム盆地 ぼんち ・ジュンガル盆地 ぼんち ・東 ひがし トルキスタン(イリ地方 ちほう )一帯 いったい に独立 どくりつ 的 てき な軍閥 ぐんばつ を形成 けいせい した盛 もり 世才 せさい 政権 せいけん が、1934年 ねん に「ウイグル」という呼称 こしょう と「維吾爾 なんじ (Wéiwú'ěr )」の漢字 かんじ 表記 ひょうき を定 さだ めた。この呼称 こしょう は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく にも引 ひ き継 つ がれている(維吾爾 なんじ 族 ぞく 、维吾尔族)[ 56] 。
1911年 ねん 、辛 からし 亥 い 革命 かくめい が中国 ちゅうごく 内地 ないち で発生 はっせい する。新 しん 疆にも革命 かくめい 派 は が入 はい り、1912年 ねん 1月 がつ 、イリの革命 かくめい 派 は が蜂起 ほうき し、イリ将軍 しょうぐん でモンゴル旗 はた 人 じん の広 こう 福 ぶく (グワンフ)を臨時 りんじ 都 と 督 とく とする政府 せいふ が樹立 じゅりつ された[ 57] 。
清 きよし の宣 せん 統 すべ 帝 みかど が退位 たいい すると、ウルムチ知事 ちじ であった楊増新 しん が新 しん 疆省長 ちょう ・督 とく 軍 ぐん となる[ 57] 。雲南 うんなん 出身 しゅっしん の楊増新 しん は新 しん 疆を独立 どくりつ 王国 おうこく にしようとつとめた[ 57] 。
他方 たほう 、オスマン帝国 ていこく は汎 ひろし トルコ主義 しゅぎ を中央 ちゅうおう ユーラシア に広 ひろ めようとしており、トルコ人 じん のアフメト・ケマル が新 しん 疆に派遣 はけん され、師範 しはん 学校 がっこう を設立 せつりつ し、この学校 がっこう がカシュガルの民族 みんぞく 主義 しゅぎ 運動 うんどう の中核 ちゅうかく となった[ 58] 。
当時 とうじ ソ連 それん 共産党 きょうさんとう 党員 とういん でもあった遼寧 りょうねい 省 しょう 出身 しゅっしん の漢 かん 人 じん である盛 もり 世才 せさい は、1933年 ねん に軍 ぐん を率 ひき いてクーデターを起 お こすと新 しん 疆軍閥 ばつ を率 ひき いて1944年 ねん まで独立 どくりつ した政権 せいけん を築 きず いた[ 37] 。盛 もり 世才 せさい は従来 じゅうらい の中華民国 ちゅうかみんこく 当局 とうきょく が用 もち いていた「纏 まとい 回 かい (てんかい)」を廃止 はいし して「ウイグル」民族 みんぞく を「設定 せってい 」する指示 しじ を受 う け入 い れ、1934年 ねん に省 はぶけ 府議会 ふぎかい で正式 せいしき 採用 さいよう させ「維吾爾 なんじ 」という漢字 かんじ 表記 ひょうき も定 さだ めた[ 37] 。
楊増新 しん が1928年 ねん に暗殺 あんさつ されると、金 きむ 樹 いつき 仁 ひとし が新 しん 疆省長 ちょう になる[ 59] 。しかし金 きむ 樹 いつき 仁 じん はメッカ巡礼 じゅんれい などを禁止 きんし するなどムスリムへの弾圧 だんあつ 政策 せいさく を行 おこな い、さらに土着 どちゃく の小 しょう 王国 おうこく であったハミ郡 ぐん 王家 おうけ を消滅 しょうめつ させようとする(回 かい 土 ど 帰 き 流 りゅう 問題 もんだい )と、これに反発 はんぱつ した住民 じゅうみん たちは1931年 ねん に大 だい 規模 きぼ な反乱 はんらん を起 お こす[ 60] 。ハミ郡 ぐん 王家 おうけ 軍 ぐん は、回 かい 族 ぞく の軍閥 ぐんばつ 馬 うま 仲 なか 英 えい に援助 えんじょ を求 もと め、馬 うま 仲 なか 英軍 えいぐん はバルクルまで進出 しんしゅつ するが、新 しん 疆省政府 せいふ 軍 ぐん が登場 とうじょう すると甘粛 かんせい に撤退 てったい し、ハミ郡 ぐん 王家 おうけ 軍 ぐん は山地 さんち へ撤退 てったい した[ 60] 。
ハミの反乱 はんらん をうけて1932年 ねん にはトルファン のイスラム教 いすらむきょう 諸 しょ 民族 みんぞく の反乱 はんらん が発生 はっせい する[ 60] 。反乱 はんらん 軍 ぐん はトルファンを掌握 しょうあく するが、ロシア白 しろ 軍 ぐん の残党 ざんとう を含 ふく む盛 もり 世才 せさい の省 しょう 政府 せいふ 軍 ぐん に敗北 はいぼく する[ 60] 。その後 ご トルファンは馬 うま 仲 なか 英 えい に占領 せんりょう された[ 60] 。
東 ひがし トルキスタンイスラム共和 きょうわ 国 こく 国旗 こっき
1933年 ねん 2月 がつ 、タリム盆地 ぼんち 南部 なんぶ のホタンで、ムハンマド・アミーン・ブグラ が蜂起 ほうき し、漢人 かんど 官僚 かんりょう を一掃 いっそう して、ヤルカンド、カシュガルへ進軍 しんぐん し、1933年 ねん 11月に東 ひがし トルキスタン・イスラーム共和 きょうわ 国 こく を樹立 じゅりつ した[ 61] 。
なお、東 ひがし トルキスタン・イスラーム共和 きょうわ 国 こく では漢語 かんご を話 はな す回 かい 民 みん は漢人 かんど と同様 どうよう に排除 はいじょ され、トルコ系 けい の住民 じゅうみん が構成 こうせい 員 いん とされた[ 61] 。
馬 うま 仲 なか 英軍 えいぐん がウルムチに向 む かうと、1933年 ねん 4月 がつ 12日 にち にクーデターが起 お こり、盛 もり 世才 せさい が実権 じっけん を握 にぎ った[ 61] 。
盛 もり 世才 せさい はソ連 それん に援助 えんじょ を要請 ようせい し、1934年 ねん 1月 がつ 、ソ連 それん 軍 ぐん が新 しん 疆に進軍 しんぐん 、馬 うま 仲 なか 英軍 えいぐん は敗北 はいぼく する[ 61] 。馬 うま 仲 なか 英軍 えいぐん は西 にし に向 む かい、東 ひがし トルキスタン・イスラーム共和 きょうわ 国 こく を壊滅 かいめつ させ、その後 ご ソ連 それん と交渉 こうしょう してソ連 それん に亡命 ぼうめい した[ 61] 。
1941年 ねん には、アルタイ地区 ちく のカザフ遊牧民 ゆうぼくみん のケレイ部族 ぶぞく 出身 しゅっしん のオスマンとダリール・ハーンが、ソ連 それん とモンゴル人民 じんみん 共和 きょうわ 国 こく の援助 えんじょ をうけ、アルタイ民族 みんぞく 革命 かくめい 臨時 りんじ 政府 せいふ を樹立 じゅりつ した[ 62] 。1944年 ねん 10月にはイリ渓谷 けいこく のニルカとクルジャで反乱 はんらん が発生 はっせい し、11月12日 にち 、東 ひがし トルキスタン共和 きょうわ 国 こく が建国 けんこく された[ 62] 。
この第 だい 二 に 次 じ 東 ひがし トルキスタン独立 どくりつ 運動 うんどう にはソ連 それん 赤軍 せきぐん が直接 ちょくせつ 参加 さんか した[ 62] 。
翌年 よくねん の1945年 ねん 、アルタイ民族 みんぞく 革命 かくめい 臨時 りんじ 政府 せいふ と東 ひがし トルキスタン共和 きょうわ 国 こく 、さらにタルバガダイのゲリラ隊 たい も合流 ごうりゅう した[ 62] 。中国 ちゅうごく では「東 ひがし トルキスタン共和 きょうわ 国 こく 」という名称 めいしょう を使用 しよう することは避 さ けられ、三 さん 区 く 革命 かくめい と呼 よ ばれる[ 63] 。
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 政府 せいふ による新 しん 疆接収 せっしゅう [ 編集 へんしゅう ]
接収 せっしゅう のために中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 政府 せいふ から新 しん 疆に派遣 はけん された代表 だいひょう 団 だん 、1950年 ねん
人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん によるウイグル接収 せっしゅう [ 編集 へんしゅう ]
1949年 ねん 、国共 こっきょう 内戦 ないせん を制 せい した中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう は、新 しん 疆の接収 せっしゅう のために、鄧力群 ぐん を派遣 はけん し、イリ政府 せいふ との交渉 こうしょう を行 おこな った。
毛沢東 もうたくとう は、イリ政府 せいふ に書簡 しょかん を送 おく り、イリの首脳 しゅのう 陣 じん を北京 ぺきん の政治 せいじ 協商 きょうしょう 会議 かいぎ に招 まね いた。
しかし、8月 がつ 27日 にち 、北京 ぺきん に向 む かった3地域 ちいき の11人 にん のリーダー達 たち 、アフメトジャン・カスィミ(Ehmetjan Qasim)、アブドゥルキリム・アバソフ (Abdulkerim Abbas)、イスハクベグ・モノノフ (Ishaq Beg Munonov)、Luo Zhi、Rakhimjan Sabirhajiev、デレリカン・スグルバヨフ (Dalelkhan Sugirbayev)らイリ首脳 しゅのう 陣 じん の乗 の った飛行機 ひこうき はソ連 それん 領内 りょうない アルマトイ で消息 しょうそく を絶 た った。
首脳 しゅのう を失 うしな ったイリ政府 せいふ は混乱 こんらん に陥 おちい ったが、残 のこ されたイリ政府 せいふ 幹部 かんぶ のセイプディン・エズィズィ が陸路 りくろ で北京 ぺきん へ赴 おもむ き、政治 せいじ 協商 きょうしょう 会議 かいぎ に参加 さんか して共産党 きょうさんとう への服属 ふくぞく を表明 ひょうめい した。9月26日 にち にはブルハン・シャヒディ ら新 しん 疆省政府 せいふ 幹部 かんぶ も国民党 こくみんとう 政府 せいふ との関係 かんけい を断 た ち共産党 きょうさんとう 政府 せいふ への帰順 きじゅん を表明 ひょうめい した。
12月までに中国 ちゅうごく 人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん が新 しん 疆全域 ぜんいき に展開 てんかい し、統合 とうごう された[ 64] 。ウイグル族 ぞく とソ連 それん 領 りょう 中央 ちゅうおう アジア出身 しゅっしん 者 しゃ 、モンゴル族 ぞく やシベ族 ぞく 、回 かい 族 ぞく で構成 こうせい された東 ひがし トルキスタン共和 きょうわ 国軍 こくぐん (イリ民族 みんぞく 軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) )を野戦 やせん 第 だい 五 ご 軍 ぐん に編入 へんにゅう した人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん に対抗 たいこう して、国民党 こくみんとう 側 がわ についたウイグル人 じん のユルバース・カーン は白 しろ 系 けい ロシア人 じん と中国人 ちゅうごくじん ムスリムの軍 ぐん (帰化 きか 軍 ぐん )を率 ひき いていた。1950年 ねん 、伊 い 吾 われ で国民党 こくみんとう 勢力 せいりょく の残存 ざんそん していた地域 ちいき へ進軍 しんぐん してこれを制圧 せいあつ した(伊 い 吾 われ の戦 たたか い )。これによって新 しん 疆は中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の帰属 きぞく となった。
この後 のち 、民族 みんぞく 名称 めいしょう はウイグル族 ぞく (維吾爾 なんじ 族 ぞく )と公式 こうしき に定 さだ められ、現在 げんざい に至 いた っている。
中国 ちゅうごく 政府 せいふ は1950年 ねん ごろ、新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く に漢 かん 族 ぞく を中心 ちゅうしん とする新 しん 疆生産 せいさん 建設 けんせつ 兵団 へいだん を大量 たいりょう に入植 にゅうしょく させた。
その後 ご 、入植 にゅうしょく 当初 とうしょ 人口 じんこう 7パーセントだった漢 かん 族 ぞく が1991年 ねん には40パーセントになった。
中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく 国旗 こっき
1955年 ねん には中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく で2番目 ばんめ の自治 じち 区 く 新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く が設置 せっち された。
1990年 ねん にはウイグル人 じん 住民 じゅうみん のデモに対 たい して武装 ぶそう 警察 けいさつ が発砲 はっぽう し、15名 めい (数 すう 十 じゅう 名 めい とも)が射殺 しゃさつ されるバリン郷 きょう 事件 じけん (英語 えいご 版 ばん ) がおきている[ 65] 。
1991年 ねん にはウイグル人 じん 作家 さっか トルグン・アルマス の著作 ちょさく 『ウイグル人 じん 』が、「大 だい ウイグル主義 しゅぎ 的 てき 」「民族 みんぞく 分裂 ぶんれつ 主義 しゅぎ 的 てき 」であることを理由 りゆう に発禁 はっきん 処分 しょぶん となり、著者 ちょしゃ も軟禁 なんきん 状態 じょうたい に置 お かれた[ 66] 。
バリン郷 きょう 事件 じけん 以降 いこう 、反 はん 政府 せいふ とみられるテロ事件 じけん も相次 あいつ いでいる。1997年 ねん にも大 だい 規模 きぼ なデモが発生 はっせい し、鎮圧 ちんあつ に出動 しゅつどう した軍隊 ぐんたい と衝突 しょうとつ して、多 おお くの死傷 ししょう 者 しゃ を出 だ したグルジャ事件 じけん が発生 はっせい している。
1996年 ねん 、中国 ちゅうごく 人民 じんみん 政治 せいじ 協商 きょうしょう 会議 かいぎ 全国 ぜんこく 委員 いいん を務 つと める実業 じつぎょう 家 か のラビア・カーディル が政治 せいじ 協商 きょうしょう 会議 かいぎ で漢 かん 族 ぞく によるウイグル人 じん 抑圧 よくあつ を非難 ひなん する演説 えんぜつ を行 おこな うが公安 こうあん 当局 とうきょく の間 あいだ で問題 もんだい となりラビアは1997年 ねん に全 すべ ての公的 こうてき 役職 やくしょく から解任 かいにん された。
ラビアの夫 おっと で作家 さっか のシディク・ハジ・ロウジ が行 おこな った書籍 しょせき (John Graver, Chinese-Soviet Relations 1937-1945 ) のウイグル語 ご 訳 やく [ 67] が当局 とうきょく より問題 もんだい 視 し されたといわれるが、シディク・ハジ・ロウジは1996年 ねん に米国 べいこく に亡命 ぼうめい した。
1999年 ねん 8月 がつ 13日 にち 、公安 こうあん 当局 とうきょく は、ウルムチ市内 しない に滞在 たいざい していた米国 べいこく 議会 ぎかい 関係 かんけい 者 しゃ に接触 せっしょく しようとしたラビアを国家 こっか 機密 きみつ 漏洩 ろうえい 罪 ざい で逮捕 たいほ し、米国 べいこく に亡命 ぼうめい した夫 おっと に対 たい して「不法 ふほう に機密 きみつ 情報 じょうほう を漏洩 ろうえい した」として懲役 ちょうえき 8年 ねん の実刑 じっけい 判決 はんけつ を下 くだ した。
1997年 ねん のグルジャ事件 じけん 以降 いこう はアフガニスタン やパキスタン に逃 のが れたウイグル族 ぞく もいたが、アメリカのアフガニスタン侵攻 しんこう の際 さい に米 べい 軍 ぐん による拘束 こうそく やパキスタン政府 せいふ の引 ひ き渡 わた しによってキューバ のグアンタナモ湾 わん 収容 しゅうよう キャンプ に収監 しゅうかん された[ 68] 。
また1999年 ねん 1月 がつ より漢 かん 族 ぞく の作家 さっか 王 おう 力雄 りきお が新 しん 疆の民族 みんぞく 問題 もんだい に関 かん する著作 ちょさく 執筆 しっぴつ のため、新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く で資料 しりょう 収集 しゅうしゅう を開始 かいし すると、同年 どうねん 1月 がつ 29日 にち に新 しん 疆自治 ち 区 く 国家 こっか 安全 あんぜん 庁 ちょう (上級 じょうきゅう 機関 きかん の国家 こっか 安全 あんぜん 部 ぶ は旧 きゅう ソ連 それん のKGBに相当 そうとう する諜報 ちょうほう 機関 きかん )に国家 こっか 機密 きみつ 窃取 せっしゅ の容疑 ようぎ で拘束 こうそく (法 ほう 手続 てつづ きを踏 ふ んだ正式 せいしき な逮捕 たいほ ではない)され、42日 にち 後 ご に解放 かいほう された。
その経緯 けいい を『新 しん 疆追記 ついき 』にまとめ、インターネット上 じょう で公表 こうひょう した[ 69] 。王 おう 力雄 りきお はその後 ご 、ウイグル問題 もんだい に関 かん する調査 ちょうさ をもとに2007年 ねん 10月 がつ 『我 が 的 てき 西域 せいいき 、你的東 ひがし 土 ど 』(邦題 ほうだい :私 わたし の西域 せいいき 、君 きみ の東 ひがし トルキスタン )を台湾 たいわん で出版 しゅっぱん した[ 70] 。
テロ組織 そしき 指定 してい
2003年 ねん 12月、中国 ちゅうごく 政府 せいふ はウイグル人 じん を主 おも な構成 こうせい 員 いん とするトルキスタン・イスラム運動 うんどう (ETIM)、東 ひがし トルキスタン解放 かいほう 組織 そしき (ETLO)、世界 せかい ウイグル青年 せいねん 代表 だいひょう 大会 たいかい 及 およ び東 ひがし トルキスタン情報 じょうほう センター の4 よっ つの組織 そしき をテロ組織 そしき として認定 にんてい し、これらの組織 そしき の幹部 かんぶ 等 とう 11名 めい をテロリストとして認定 にんてい したと発表 はっぴょう した[ 71] 。
中国 ちゅうごく 政府 せいふ は、中央 ちゅうおう アジア諸国 しょこく の在外 ざいがい ウイグル人 じん 社会 しゃかい が、ウイグル民族 みんぞく 運動 うんどう の拠点 きょてん となっていることを警戒 けいかい し続 つづ けており、1996年 ねん には上海 しゃんはい ファイブ 、2001年 ねん には上海 しゃんはい 協力 きょうりょく 機構 きこう を設立 せつりつ し、国内 こくない のイスラーム原理 げんり 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく の伸張 しんちょう を警戒 けいかい するロシア や中央 ちゅうおう アジア諸国 しょこく と共 とも に、分離 ぶんり 主義 しゅぎ 、イスラーム過激 かげき 主義 しゅぎ に対 たい する国際 こくさい 協力 きょうりょく の枠組 わくぐ みを構築 こうちく した。
また、2001年 ねん 9月11日 にち の米国 べいこく での同時 どうじ 多発 たはつ テロ事件 じけん 以降 いこう 、中国 ちゅうごく 政府 せいふ はブッシュ 政権 せいけん の唱 とな える「対 たい テロ戦争 せんそう 」への支持 しじ を表明 ひょうめい し、ウイグル民族 みんぞく 運動 うんどう と新 しん 疆におけるテロ を結 むす びつけて、その脅威 きょうい を強調 きょうちょう している。
公 おおやけ 教育 きょういく における漢語 かんご 使用 しよう の義務 ぎむ 化 か [ 編集 へんしゅう ]
2003年 ねん には、これまで少数 しょうすう 民族 みんぞく の固有 こゆう 言語 げんご の使用 しよう が公認 こうにん されてきた高等 こうとう 教育 きょういく で、漢語 かんご の使用 しよう が中国 ちゅうごく 政府 せいふ によって義務付 ぎむづ けられた。
2005年 ねん 、ライス 米国 べいこく 国務 こくむ 長官 ちょうかん の訪中 ほうちゅう を控 ひか え、米国 べいこく から人権 じんけん 問題 もんだい での批判 ひはん を受 う けることを恐 おそ れた中国 ちゅうごく 政府 せいふ は、2005年 ねん 3月14日 にち に「外国 がいこく での病気 びょうき 療養 りょうよう 」を理由 りゆう にラビア・カーディルを釈放 しゃくほう 。ラビアは米国 べいこく に亡命 ぼうめい し、のち世界 せかい ウイグル会議 かいぎ 議長 ぎちょう に選出 せんしゅつ され、2006年 ねん にはノーベル平和 へいわ 賞 しょう 候補 こうほ にもなった。
2008年 ねん 3月 がつ には、新 しん 疆南部 ぶ のホータン市 し で、600名 めい を超 こ える当局 とうきょく への抗議 こうぎ デモが発生 はっせい した[ 72] 。
2009年 ねん 6月 がつ には、広東 かんとん 省 しょう 韶関市 し の玩具 おもちゃ 工場 こうじょう で漢 かん 族 ぞく 従業 じゅうぎょう 員 いん とウイグル人 じん 従業 じゅうぎょう 員 いん の間 あいだ で衝突 しょうとつ が起 お き、死者 ししゃ 2名 めい 、負傷 ふしょう 者 しゃ 120名 めい を出 だ し[ 73] [ 74] 、翌 よく 7月 がつ には、事件 じけん に抗議 こうぎ する約 やく 3,000名 めい のウイグル人 じん と武装 ぶそう 警察 けいさつ が、ウルムチ 市内 しない で衝突 しょうとつ し、140名 めい が死亡 しぼう 、800名 めい 以上 いじょう が負傷 ふしょう した(2009年 ねん ウイグル騒乱 そうらん [ 75] )。
2015年 ねん 8月 がつ 17日 にち と18日 にち 、タイ の首都 しゅと バンコク で死者 ししゃ 20名 めい 、負傷 ふしょう 者 しゃ 125名 めい (うち日本人 にっぽんじん 1名 めい )を出 だ す連続 れんぞく 爆破 ばくは テロ事件 じけん が起 お こった。
タイ政府 せいふ は、事件 じけん の1カ月 かげつ 前 まえ 、亡命 ぼうめい を目指 めざ していたウイグル人 じん 109人 にん を中国 ちゅうごく に強制 きょうせい 送還 そうかん していた為 ため 、これに対 たい する報復 ほうふく テロではないかとの見方 みかた が広 ひろ がっている[ 76] 。
また、エジプト などでウイグル自治 じち 区 く 出身 しゅっしん の留学生 りゅうがくせい らが現地 げんち の治安 ちあん 当局 とうきょく に拘束 こうそく されるケースが増加 ぞうか しているとされ、一部 いちぶ が中国 ちゅうごく へ強制 きょうせい 送還 そうかん されているとの報道 ほうどう がある[ 77] 。
現代 げんだい のウイグル人 じん は、テュルク諸語 しょご の南東 なんとう 語 ご 群 ぐん (チャガタイ語 ご 群 ぐん )に属 ぞく すウイグル語 ご を話 はな す。タリム盆地 ぼんち は様々 さまざま な民族 みんぞく の交流 こうりゅう 地 ち であったため、紀元前 きげんぜん からすでにモンゴロイドとコーカソイドの混血 こんけつ が始 はじ まっていた。
歴史 れきし 的 てき にタリム盆地 ぼんち の民族 みんぞく は東 ひがし イラン語 ご やトカラ語 ご を話 はな し、古 こ インドやイランの人種 じんしゅ に属 ぞく す人々 ひとびと を元 もと として幾 いく 波 は にも渡 わた って北 きた のトルコ民族 みんぞく や東 ひがし の漢 かん 民族 みんぞく の支配 しはい を受 う けた。11世紀 せいき まではソグド語 ご やトカラ語 ご を使 つか い続 つづ けた。
現在 げんざい のようにテュルク系 けい の言語 げんご を話 はな すようになったのは、9世紀 せいき から12世紀 せいき にタリム盆地 ぼんち 東部 とうぶ を支配 しはい した天山 あまやま ウイグル王国 おうこく 、タリム盆地 ぼんち 西部 せいぶ を支配 しはい したカラハン朝 あさ においてである。こうした過程 かてい は「テュルク化 か 」といわれる。
回 かい 紇部および回 かい 鶻可汗 あせ 国 こく 時代 じだい までは、突厥と同 おな じ古代 こだい テュルク(突厥)語 ご を話 はな していたと思 おも われる[ 78] が、天山 あまやま ウイグル王国 おうこく 時代 じだい (9世紀 せいき - 16世紀 せいき 頃 ごろ )になると、その言語 げんご はウイグル文字 もじ で表記 ひょうき される古代 こだい ウイグル語 ご となる。
現代 げんだい ウイグル語 ご は古代 こだい ウイグル語 ご の後裔 こうえい ではなく、同 おな じチュルク語族 ごぞく に属 ぞく すものの、下位 かい の系統 けいとう が異 こと なる。
カラハン朝 あさ の詩人 しじん ユースフ・ハーッス・ハージブ の『クタドグ・ビリク』(1069年 ねん )が最初 さいしょ のテュルク語 ご 文学 ぶんがく とされる。以後 いご 、11世紀 せいき にマフムッド・カッシュガリ がおり、13世紀 せいき にはアフマット・ユグナキ 、14世紀 せいき にはユスーフ・サッカキ 、15世紀 せいき にはルットフィ が現 あらわ れた。17-18世紀 せいき のウイグル古典 こてん 文学 ぶんがく の代表 だいひょう に、ヒルキティ 、ゼリリ 、ノビティ がいる。
現代 げんだい ではトルグン・アルマス の著作 ちょさく 『ウイグル人 じん 』があるが、ウイグル民族 みんぞく 主義 しゅぎ であり分離 ぶんり 主義 しゅぎ 者 しゃ であるとして中国 ちゅうごく 政府 せいふ から発禁 はっきん 処分 しょぶん を受 う けた。また漢 かん 民族 みんぞく の作家 さっか 王 おう 力雄 りきお による『私 わたし の西域 せいいき 、君 きみ の東 ひがし トルキスタン』(2007[ 注 ちゅう 5] )もある。
アラブ人 じん ・テュルク人 じん ・ペルシア人 じん にみられる音楽 おんがく の様式 ようしき 、マカーム の楽曲 がっきょく 体系 たいけい の一 ひと つであるムカム が無形 むけい 文化 ぶんか 遺産 いさん として知 し られる。
森安 もりやす 孝夫 たかお は、14世紀 せいき 以降 いこう のモンゴル時代 じだい に敦煌 とんこう などの河西 かさい 地方 ちほう にいたウイグル人 じん 仏教徒 ぶっきょうと 集団 しゅうだん は、元 もと は東部 とうぶ 天山 あまやま 地方 ちほう のウイグル王国 おうこく から移住 いじゅう したとし、また、ウイグル人 じん 仏教徒 ぶっきょうと は、東部 とうぶ 天山 あまやま ・河西 かさい から華北 かほく ・江南 こうなん に及 およ ぶネットワーク「ウイグル=コネクション」を展開 てんかい したとした[ 79] [ 80] [ 81] [ 82] 。
松井 まつい 太 ふとし はこの「ウイグル=コネクション」ではチベット仏教 ぶっきょう に帰依 きえ したウイグル人 じん 仏教徒 ぶっきょうと が特 とく に大 おお きな役割 やくわり を果 は たしたとしている[ 82] 。
イスラム教 いすらむきょう 宗派 しゅうは の分布 ぶんぷ 図 ず 黄 き 緑 みどり :スンナ派 は 緑 みどり :シーア派 は
ウイグル族 ぞく のイスラム教徒 きょうと の多 おお くはスンニ派 は であるが、同 おな じスンニ派 は の回 かい 族 ぞく のイフワーン派 は やサラフィー主義 しゅぎ 系 けい のサラフィーヤ派 は (英語 えいご 版 ばん ) とは長 なが らく対立 たいりつ してきた[ 83] [ 84] [ 85] 。
現在 げんざい のウイグル人 じん はモンゴロイド とコーカソイド の混血 こんけつ であり、Y染色 せんしょく 体 たい ハプログループ もハプログループR (Y染色 せんしょく 体 たい ) 、ハプログループJ (Y染色 せんしょく 体 たい ) 、ハプログループO2 (Y染色 せんしょく 体 たい ) 、ハプログループC2 (Y染色 せんしょく 体 たい ) など多様 たよう なタイプがみられる[ 86] 。
テュルク系 けい 民族 みんぞく の分布 ぶんぷ 。
ウイグル語 ご はテュルク諸語 しょご であるため、ウイグル人 じん はテュルク系 けい 民族 みんぞく に属 ぞく する。なお、テュルク系 けい 民族 みんぞく (トルコ民族 みんぞく )とは、「唐 とう 代 だい から現代 げんだい にいたる歴史 れきし 的 てき ・言語 げんご 的 てき 状況 じょうきょう を勘案 かんあん して、方言 ほうげん 差 さ はあっても非常 ひじょう に近似 きんじ しているトルコ系 けい の言語 げんご を話 はな していたに違 ちが いないと思 おも われる突厥 、鉄 てつ 勒 、回 かい 鶻 、カルルク 、バスミル 、沙 すな 陀族 などを一 いち 括 くく りにした呼称 こしょう 」と定義 ていぎ される[ 87] 。
歴史 れきし 学者 がくしゃ の森安 もりやす 孝夫 たかお の話 はなし によれば、古代 こだい のテュルク民族 みんぞく は唐 とう 代 だい まではそのほとんどが黒髪 くろかみ 、直 ちょく 毛 け 、黒目 くろめ のモンゴロイド であった[ 87] としている。唐 とう 代 だい 末期 まっき にモンゴリア 〜アルタイ 地域 ちいき を本拠 ほんきょ としていた回 かい 鶻(ウイグル・カガン国 こく )が崩壊 ほうかい し、遺 のこ 民 みん の一部 いちぶ が甘 あま 州 しゅう や天山 あまやま 山脈 さんみゃく 一帯 いったい からタリム盆地 ぼんち へ移動 いどう する[ 87] 。
それによって、タリム盆地 ぼんち に先住 せんじゅう していたトカラ語 ご や西南 せいなん 部 ぶ の東 ひがし イラン語 ご の話者 わしゃ [ 88] がテュルク語 ご 化 か [ 89] した。なお、テュルク民族 みんぞく が先住 せんじゅう の非 ひ 古 こ テュルク語 ご 話者 わしゃ [ 88] の住民 じゅうみん を虐殺 ぎゃくさつ したのではなく、共存 きょうぞん していたといわれ、形質 けいしつ 的 てき 特徴 とくちょう も多様 たよう である[ 87] 。
こうした言語 げんご からの民族 みんぞく の定義 ていぎ ではなく、近代 きんだい 的 てき 民族 みんぞく 概念 がいねん の観点 かんてん からすれば、当時 とうじ の住民 じゅうみん は同 おな じ民族 みんぞく 意識 いしき をもっていたわけではない[ 87] 。たとえば、「民族 みんぞく 集団 しゅうだん 」としてはモンゴル時代 じだい に被 ひ 支配 しはい 集団 しゅうだん となったウイグルの残部 ざんぶ でイスラム化 か したタリム盆地 ぼんち 周辺 しゅうへん のトルコ(テュルク)人 にん や、カラハン朝 あさ 下 した でイスラム化 か したトルキスタンのトルコ人 じん は、それぞれの居住 きょじゅう 地 ち であるオアシス都市 とし ごとに自己 じこ 認識 にんしき していた(「トルファン 人 ひと 」、「クチャ 人 ひと 」、「カシュガル 人 ひと 」、「サマルカンド 人 ひと 」、「ブハラ 人 ひと 」など)。このようにタリム盆地 ぼんち 周辺 しゅうへん のオアシス 定 てい 住民 じゅうみん は固有 こゆう の民族 みんぞく 名称 めいしょう を持 も たず、異教徒 いきょうと に対 たい しては「ムスリム 」、異邦 いほう 人 じん に対 たい しては「イェルリク (土地 とち の者 もの )」と自己 じこ を呼称 こしょう していた[ 25] [ 55] 。
20世紀 せいき に入 はい って、ロシア革命 かくめい により成立 せいりつ したソビエト政権 せいけん は、民族 みんぞく 政策 せいさく として「民族 みんぞく 別 べつ の自治 じち 」を掲 かか げた。
トルキスタン でも遊牧 ゆうぼく 諸 しょ 集団 しゅうだん やオアシス都市 とし の定 てい 住民 じゅうみん の間 あいだ に「民族 みんぞく 的 てき 境界 きょうかい 区分 くぶん 」が引 ひ かれ、諸 しょ 民族 みんぞく が「設定 せってい 」されていった。当時 とうじ 、トルキスタンには、1881年 ねん のイリ条約 じょうやく の締結 ていけつ の際 さい にロシア領 りょう に移住 いじゅう したイリ地方 ちほう の東 ひがし トルキスタン出身 しゅっしん 者 しゃ が多数 たすう いたが、彼 かれ らは東 ひがし トルキスタン の政治 せいじ 的 てき 統一 とういつ を志向 しこう する際 さい に、古代 こだい の「ウイグル」という民族 みんぞく 呼称 こしょう を再 ふたた び見出 みいだ し、1921年 ねん のアルマ・マタ会議 かいぎ で民族 みんぞく 呼称 こしょう として決定 けってい される(後述 こうじゅつ [ 55] )。
森安 もりやす の話 はなし によれば、このとき「本来 ほんらい ウイグルではない旧 きゅう カラハン朝 あさ 治下 ちか のカシュガル人 じん ・コータン人 じん までもウイグルと呼 よ ぶようになった」として、「新 しん ウイグル」は「古 こ ウイグル」とは異 こと なるとしている[ 25] 。
この呼称 こしょう は中華民国 ちゅうかみんこく 統治 とうち 下 か の新 しん 疆省にも知 し られるようになり、1934年 ねん 、盛 もり 世才 せさい 政権 せいけん は従来 じゅうらい 当局 とうきょく が用 もち いていた「纏 まとい 回 かい (てんかい)」からウイグルの音 おと 写 うつし である「維吾爾 なんじ 」への改称 かいしょう を決 き め、省 しょう 府議会 ふぎかい で正式 せいしき にこの民族 みんぞく 呼称 こしょう を採用 さいよう させた。「維吾爾 なんじ 」という漢字 かんじ 表記 ひょうき も正式 せいしき に確定 かくてい し現在 げんざい に至 いた っている[ 56] 。
トルキスタンには、1881年 ねん の露 ろ 清 しん イリ条約 じょうやく の締結 ていけつ の際 さい にロシア領 りょう に移住 いじゅう したイリ地方 ちほう を始 はじ めとする新 しん 疆北西部 せいぶ 出身 しゅっしん 者 しゃ が多数 たすう いた。
また、ジュンガル時代 じだい に入植 にゅうしょく された農耕 のうこう 民 みん の末裔 まつえい であるタランチ 集団 しゅうだん は清朝 せいちょう への反乱 はんらん (ヤクブ・ベクの乱 らん など)に加担 かたん していたため、イリ地方 ちほう が清朝 せいちょう へ返還 へんかん されると、清朝 せいちょう 政府 せいふ の報復 ほうふく 処罰 しょばつ を恐 おそ れ、多 おお くのタランチはロシア領 りょう のセミレチエ州 しゅう などに移住 いじゅう している[ 55] 。
日 にち 露 ろ 戦争 せんそう において、それまで国際 こくさい 的 てき には小国 しょうこく とみなされていた日本 にっぽん がロシア帝国 ていこく に勝利 しょうり すると、それに触発 しょくはつ されて1908年 ねん には青年 せいねん トルコ人 じん 革命 かくめい が起 お きる。
青年 せいねん トルコ人 じん 革命 かくめい 以降 いこう 、汎 ひろし テュルク主義 しゅぎ がトュルク系 けい 民族 みんぞく に大々的 だいだいてき に流行 りゅうこう し、そうしたテュルク主義 しゅぎ に影響 えいきょう を受 う けていたナザル・ホジャ (Na§ar khv±ja ‘Abd al-TMamad)というタランチ集団 しゅうだん の記者 きしゃ が1913年 ねん にアルトゥシャフル を「私 わたし たちの祖先 そせん の祖国 そこく であり文明 ぶんめい 的 てき なウイグルの祖先 そせん たちの舞台 ぶたい であり、イスラーム戦士 せんし たちが前 ぜん 世紀 せいき に強大 きょうだい なテュルクのハーン国 こく を樹立 じゅりつ した場所 ばしょ 」と表現 ひょうげん している[ 55] 。またナザル・ホジャは1914年 ねん からは「Uyghur Balasï(ウイグルの子 こ )」という署名 しょめい をするようになっており、ムスリム知識 ちしき 人 じん の間 あいだ で「ウイグル」呼称 こしょう は使用 しよう されていた[ 55] 。
1913年 ねん 11月の雑誌 ざっし 『シューラー』での記事 きじ では「テュルク文学 ぶんがく はウイグル(ユグル、ウグル; 漢語 かんご でホイフ)方言 ほうげん で始 はじ められた。オルホン碑文 ひぶん はより以前 いぜん に書 か かれたが、真 しん の意味 いみ で言 い うと、テュルク文学 ぶんがく はウイグル語 ご で始 はじ められた」とする論評 ろんぴょう が掲載 けいさい されている[ 55] 。
1921年 ねん 、カザフスタン のアルマアタ(アルマトイ )[ 注 ちゅう 6] [ 55] において開催 かいさい された在 ざい ソ連 それん トルキスタン出身 しゅっしん 者 しゃ の大会 たいかい において、ロシア人 じん トルコ学者 がくしゃ のセルゲイ・マローフ(Сергей Ефимович Малов )が「ウイグル」という民族 みんぞく 名称 めいしょう の復活 ふっかつ を発議 はつぎ し、同 どう 大会 たいかい はこれを受 う けて、「ウイグル」民族 みんぞく 名称 めいしょう を自 みずか ら名乗 なの ることを決定 けってい した[ 55] 。
このときの「ウイグル民族 みんぞく 」とは、東 ひがし トルキスタン出身 しゅっしん のテュルク系 けい ムスリム定住 ていじゅう 民 みん とその子孫 しそん であるが、「ウイグル」という民族 みんぞく 呼称 こしょう が復活 ふっかつ されるまではタランチ集団 しゅうだん やカシュガル 人 ひと 、トゥルファン 人 ひと など、民族 みんぞく 名称 めいしょう というよりも祖先 そせん または自身 じしん の出身 しゅっしん 地 ち を自称 じしょう していた[ 55] 。
この会議 かいぎ はソ連 それん による中央 ちゅうおう アジア「民族 みんぞく 的 てき 境界 きょうかい 画定 かくてい 」政策 せいさく の準備 じゅんび 作業 さぎょう の一 ひと つとみなされているが、「ウイグル」呼称 こしょう がこのときに発案 はつあん されたのでなく、それ以前 いぜん にもムスリム知識 ちしき 人 じん の間 あいだ で「ウイグル」呼称 こしょう は使用 しよう されるようになっていた[ 55] 。
なお、マローフは中国 ちゅうごく 甘粛 かんせい 地方 ちほう のサリグ ・ウイグルの研究 けんきゅう 者 しゃ でもあった[ 55] 。サリグ・ウイグルは16世紀 せいき 初頭 しょとう に天山 あまやま 地方 ちほう から甘粛 かんせい 地方 ちほう に逃 のが れてきた仏教 ぶっきょう 徒 と のことを指 さ す[ 55] 。
ウイグル地域 ちいき に日本人 にっぽんじん がはいったのは、1880年 ねん の大日本帝国 だいにっぽんていこく のロシア駐在 ちゅうざい 公使 こうし の西 にし 徳 いさお 二郎 じろう がはじめてとされる[ 91] [ 92] 。
1902年 ねん から1908年 ねん および1910年 ねん にかけては大谷 おおや 探検 たんけん 隊 たい が入 はい った[ 92] [ 93] 。
1905年 ねん には上海 しゃんはい 亜 あ 同 どう 文書 ぶんしょ 院 いん 二 に 期生 きせい の波多野 はたの 養作 ようさく 、林 はやし 出 いずる 賢次郎 けんじろう 、桜井 さくらい 好幸 よしゆき が入 はい っている[ 92] [ 93] 。
1906年 ねん には参謀 さんぼう 本部 ほんぶ 将校 しょうこう の日野 ひの 強 つよし と上原 うえはら 多 た 市 し が入 はい った[ 92] [ 93] 。このうち上原 うえはら 多 た 市 し の現地 げんち での活動 かつどう については不明 ふめい な部分 ぶぶん が多 おお いが、中国 ちゅうごく 側 がわ 資料 しりょう [ 94] によれば、1907年 ねん にイリで陸軍 りくぐん 武備 ぶび 速成 そくせい 学堂 がくどう を設立 せつりつ した際 さい に、軍事 ぐんじ 教官 きょうかん として日本人 にっぽんじん の「原 はら 尚志 ひさし 」を任命 にんめい したという記録 きろく があり、これが上原 うえはら ではないかと推定 すいてい されており、イリ地方 ちほう で1912年 ねん まで6年間 ねんかん 活動 かつどう していたともいわれる[ 92] 。
こうした大日本帝国 だいにっぽんていこく 軍部 ぐんぶ による情報 じょうほう 収集 しゅうしゅう 活動 かつどう はロシアの動向 どうこう に関 かん するものであったとされる[ 92] 。
関岡 せきおか 英之 ひでゆき によれば、大日本帝国 だいにっぽんていこく 陸軍 りくぐん は、満州 まんしゅう 、モンゴル 、ウイグル、チベット やイスラム教 いすらむきょう 勢力 せいりょく などを支援 しえん することによって、ソ連 それん や中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう などの共産 きょうさん 主義 しゅぎ 勢力 せいりょく を包囲 ほうい する戦略 せんりゃく として「防共 ぼうきょう 回廊 かいろう 」政策 せいさく があったと指摘 してき している[ 95] 。大 だい 日本 にっぽん 回教 かいきょう 協会 きょうかい を創設 そうせつ した林 はやし 銑 ずく 十 じゅう 郎 ろう や、板垣 いたがき 征四郎 せいしろう らが推進 すいしん したといわれる[ 95] 。関東軍 かんとうぐん は満州 まんしゅう を中心 ちゅうしん に、土肥 どい 原 はら 賢二 けんじ らのハルビン 特務 とくむ 機関 きかん がシベリアでの諜報 ちょうほう 活動 かつどう 、板垣 いたがき 征四郎 せいしろう 少将 しょうしょう 率 ひき いる奉天 ほうてん 特務 とくむ 機関 きかん が華北 かほく 分 ぶん 治 ち 工作 こうさく 、松室 まつむろ 孝良 たかよし ら承 うけたまわ 徳 とく 特務 とくむ 機関 きかん が内 うち 蒙 こうむ 工作 こうさく を展開 てんかい するという三 さん 正面 しょうめん 作戦 さくせん を構 かま えたとされ、このうち松室 まつむろ 孝良 たかよし は1934年 ねん 2月 がつ に「満州 まんしゅう 国 こく 隣接 りんせつ 地方 ちほう 占領 せんりょう 地 ち 統治 とうち 案 あん 」を起案 きあん し、そのなかで満州 まんしゅう 、モンゴル、イスラム、チベットの環状 かんじょう 連盟 れんめい を提唱 ていしょう した[ 95] 。大日本帝国 だいにっぽんていこく 時代 じだい の諜報 ちょうほう 員 いん に、西川 にしかわ 一三 かずみ がおり、1945年 ねん に内 うち モンゴル より河西 かさい 回廊 かいろう を経 へ てチベットに潜行 せんこう した。戦後 せんご 、インド を経 へ て帰国 きこく した。
ほかに木村 きむら 肥 こえ 佐 さ 夫 おっと も同様 どうよう に諜報 ちょうほう 員 いん としてチベットに入 はい った。西川 にしかわ 、木村 きむら にチベット入 い りを指示 しじ したのは東條 とうじょう 英機 ひでき であった[ 95] 。
戦後 せんご 、日本 にっぽん は1972年 ねん 9月 がつ 29日 にち 日 にち 中 ちゅう 共同 きょうどう 声明 せいめい 、及 およ び1978年 ねん 8月 がつ 12日 にち 日 にち 中 ちゅう 平和 へいわ 友好 ゆうこう 条約 じょうやく 締結 ていけつ にともない、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく との国交 こっこう を正常 せいじょう 化 か した。その際 さい 、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく を正当 せいとう な国家 こっか として認定 にんてい し、かつ中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく に配慮 はいりょ する外交 がいこう 方針 ほうしん をとったため、台湾 たいわん を独立 どくりつ した国家 こっか とはみないことを約束 やくそく するとともに、チベット問題 もんだい やウイグル問題 もんだい などを含 ふく め、中華人民共和国 ちゅうかじんみんきょうわこく の「国内 こくない 問題 もんだい 」について公式 こうしき には積極 せっきょく 的 てき な態度 たいど をとるにいたっていない。
しかし2000年代 ねんだい 以降 いこう 、激化 げきか するチベット やウイグルの動乱 どうらん などを受 う けて、ウイグルにおける人権 じんけん 侵害 しんがい の問題 もんだい などを民間 みんかん の活動 かつどう が活発 かっぱつ 化 か し、2008年 ねん (平成 へいせい 20年 ねん )6月 がつ 、在日 ざいにち ウイグル人 じん と日本人 にっぽんじん 支援 しえん 者 しゃ によって日本 にっぽん ウイグル協会 きょうかい が設立 せつりつ され、世界 せかい ウイグル会議 かいぎ の傘下 さんか 団体 だんたい として活動 かつどう を行 おこな っている。
2009年 ねん ウイグル騒乱 そうらん 直後 ちょくご の2009年 ねん 7月 がつ にラビア・カーディルが二 に 度目 どめ の来日 らいにち を果 は たしたが、中国 ちゅうごく 外交 がいこう 部 ぶ の武 たけ 大 だい 偉 えら 副 ふく 部長 ぶちょう は宮本 みやもと 雄二 ゆうじ 駐 ちゅう 中国 ちゅうごく 大使 たいし を呼 よ び、「日本 にっぽん 政府 せいふ が即刻 そっこく 、カーディルの日本 にっぽん での反 はん 中国 ちゅうごく 的 てき な分裂 ぶんれつ 活動 かつどう を制止 せいし することを求 もと める」と述 の べ中国 ちゅうごく 政府 せいふ の強 つよ い不満 ふまん を表明 ひょうめい した[ 96] 。中国 ちゅうごく 政府 せいふ は、カーディルが騒乱 そうらん の黒幕 くろまく だと断定 だんてい している[ 96] 。
2012年 ねん 4月 がつ 23日 にち 、日本 にっぽん ウイグル国会 こっかい 議員 ぎいん 連盟 れんめい が自民党 じみんとう 本部 ほんぶ で結成 けっせい され[ 97] [ 98] 、日本 にっぽん の外務省 がいむしょう 、安倍晋三 あべしんぞう 、黄 き 文雄 ふみお 、三原 みはら じゅん子 こ [ 99] 、山谷 やまたに えり子 こ 、古屋 こや 圭 けい 司 し 、衛藤 えとう 晟一 せいいち 、新藤 しんどう 義孝 よしたか らが参加 さんか している[ 98] 。顧問 こもん は安倍晋三 あべしんぞう 、中曽根 なかそね 弘文 ひろふみ 、鴻池 こうのいけ 祥 さち 肇 はじめ らが務 つと めるなど、日本 にっぽん の国会 こっかい 議員 ぎいん でもウイグル問題 もんだい を取 と り扱 あつか うようになっている。また同日 どうじつ 、地方 ちほう 議会 ぎかい でも東京 とうきょう 都庁 とちょう で日本 にっぽん ウイグル地方 ちほう 議員 ぎいん 連盟 れんめい が発足 ほっそく した[ 98] 。
2013年 ねん 10月 がつ 、「トルキスタン・イスラム党 とう 」を名乗 なの る団体 だんたい が天安門 てんあんもん に車両 しゃりょう で突入 とつにゅう するテロが発生 はっせい した。また、これにより日本人 にっぽんじん にも負傷 ふしょう 者 しゃ が発生 はっせい した。「トルキスタン・イスラム党 とう 」を名乗 なの る団体 だんたい は今後 こんご 、人民大会堂 じんみんだいかいどう を含 ふく む中国 ちゅうごく 国内 こくない の複数 ふくすう の場所 ばしょ でも襲撃 しゅうげき 活動 かつどう を行 おこな うと宣言 せんげん したとされている[ 71] 。
2014年 ねん のウルムチ駅 えき 爆発 ばくはつ 事件 じけん 以降 いこう 、当局 とうきょく は「テロとの戦 たたか い 」(厳 いむ 厲打撃 げき 暴力 ぼうりょく 恐怖 きょうふ 活動 かつどう 専 せん 項 こう 行動 こうどう 、厳 いむ 打 だ 高 だか 圧 あつ )を掲 かか げ、厳格 げんかく な管理 かんり 統制 とうせい の構築 こうちく に乗 の り出 だ した[ 100] 。様々 さまざま なハイテク を用 もち いられていることが特徴 とくちょう であり[ 101] 、「世界 せかい でも類 るい のない警察 けいさつ 国家 こっか 」[ 102] 「完全 かんぜん 監視 かんし 社会 しゃかい の実験 じっけん 場 じょう 」[ 103] が築 きず かれているとの欧米 おうべい メディアや人権 じんけん 団体 だんたい による批判 ひはん も起 お こっている[ 104] 。
2019年 ねん 9月 がつ 23日 にち 、国連 こくれん 総会 そうかい に合 あ わせてアメリカ国内 こくない で開催 かいさい された宗教 しゅうきょう 弾圧 だんあつ に関 かん する会合 かいごう では、マイク・ペンス 副 ふく 大統領 だいとうりょう やジョン・J・サリバン 国務 こくむ 副 ふく 長官 ちょうかん らが、中国 ちゅうごく 政府 せいふ がウイグル人 じん への弾圧 だんあつ を行 おこな っているとして批判 ひはん した[ 105] 。これに対 たい して中国 ちゅうごく 側 がわ は乱暴 らんぼう な内政 ないせい 干渉 かんしょう だとしてアメリカ側 がわ の姿勢 しせい に強 つよ く反発 はんぱつ した[ 106] 。
2020年 ねん 7月 がつ 、アメリカはウイグルにおける人権 じんけん 侵害 しんがい を理由 りゆう として陳 ちん 全国 ぜんこく ら中国 ちゅうごく 政府 せいふ 高官 こうかん 数 すう 人 にん の査証 さしょう 発給 はっきゅう 制限 せいげん とアメリカ国内 こくない の資産 しさん 凍結 とうけつ 措置 そち を発表 はっぴょう した[ 107] 。これに対 たい し、中国 ちゅうごく 側 がわ はマルコ・ルビオ 上院 じょういん 議員 ぎいん らへ、同様 どうよう の制裁 せいさい を加 くわ える対抗 たいこう 措置 そち を発表 はっぴょう した[ 108] 。また、アフリカ連合 れんごう と中国 ちゅうごく はアメリカや西側 にしがわ 諸国 しょこく が人権 じんけん を利用 りよう して中国 ちゅうごく や他 た の発展 はってん 途上 とじょう 国 こく を攻撃 こうげき していると批判 ひはん した[ 109] 。
2021年 ねん 10月 がつ 、国連 こくれん において欧米 おうべい を中心 ちゅうしん とした43カ国 かこく が中国 ちゅうごく の新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く の人権 じんけん 状況 じょうきょう に懸念 けねん を示 しめ す共同 きょうどう 声明 せいめい を発表 はっぴょう したが、発展 はってん 途上 とじょう 国 こく を中心 ちゅうしん とした63カ国 かこく が人権 じんけん 問題 もんだい を口実 こうじつ とした内政 ないせい 干渉 かんしょう に反対 はんたい するとして中国 ちゅうごく を擁護 ようご する共同 きょうどう 声明 せいめい を発表 はっぴょう した[ 110] 。
2021年 ねん 、アメリカ 、カナダ、オランダ、イギリス、リトアニアが新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く で大量 たいりょう 虐殺 ぎゃくさつ が行 おこな われていると認定 にんてい した[ 111] [ 112] [ 113] [ 114] 。
2021年 ねん 5月 がつ 、国連 こくれん のバチェレ人権 じんけん 高等 こうとう 弁務 べんむ 官 かん が新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く を2日間 にちかん 視察 しさつ し、中国 ちゅうごく の貧困 ひんこん 撲滅 ぼくめつ や男女 だんじょ 平等 びょうどう への取 と り組 く みを評価 ひょうか した一方 いっぽう で、死刑 しけい 廃止 はいし や新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く におけるテロ対策 たいさく の見直 みなお しを求 もと めた[ 115] 。
清末 きよすえ 民 みん 初 はつ
新 しん 疆都督 とく
袁大化 か
中華民国 ちゅうかみんこく 時代 じだい
楊増新 しん (1912年 ねん 、新 しん 疆都督 とく 。1928年 ねん 、南京 なんきん 国民 こくみん 政府 せいふ から新 しん 疆省長 ちょう に任命 にんめい )
金 きむ 樹 いつき 仁 ひとし
盛 もり 世才 せさい (1933年 ねん - 1944年 ねん )
東 ひがし トルキスタン・イスラーム共和 きょうわ 国 こく 大統領 だいとうりょう
東 ひがし トルキスタン共和 きょうわ 国 こく 主席 しゅせき
アリー・ハーン・トラ (イリハン・トレ)(1944年 ねん - 1947年 ねん )
新 しん 疆省連合 れんごう 政権 せいけん 主席 しゅせき
張 ちょう 治 おさむ 中 なか (1947年 ねん - 1948年 ねん )
マスード・サブリ (1948年 ねん )
イリ政権 せいけん
ホータンにて。
ホータンにて。
メリカワト遺跡 いせき にて。
^ 『突厥与回 かい 紇史』では、モンゴル高原 こうげん 東部 とうぶ に興 おこ り、後 のち に西 にし トルキスタン や甘粛 かんせい 省 しょう ・新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く に移住 いじゅう したトルコ系 けい 民族 みんぞく 」としている。
^ on はテュルク語 ご で数詞 すうし の「10」の意味 いみ で、tuγ がんま uz は同 おな じく数詞 すうし の「9」の意味 いみ である。
^ M. Rawshan & M. Mūsavī,本 ほん に従 したが う。Али-Заде本 ほん 本文 ほんぶん では最初 さいしょ のアリフにはシャクル が振 ふ られていないので「アルグン(Arghūn)」とも読 よ めそうだが、Али-Заде本 ほん 335頁 ぺーじ 註3によると اورقون ūrghūnとしている写本 しゃほん もあるため、M. Rawshan & M. Mūsavī,本 ほん の読 よ みに従 したが った。
^ 『魏 ぎ 書 しょ 』道 みち 武 たけ 帝 みかど 紀 き 「390年 ねん に道 みち 武 たけ 帝 みかど が北 きた 伐 き を行 おこな って高 こう 車 くるま 袁紇部 ぶ を大 おお いに破 やぶ り、多数 たすう の奴隷 どれい と馬 うま 牛 うし 羊 ひつじ 20万 まん 頭 とう 余 あまり を得 え る」
^ 邦訳 ほうやく 、集 あつまり 広 ひろ 舎 しゃ 、2011年 ねん
^ タシュケント という証言 しょうげん もある[ 90] 。
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^ Агентство Республики Каписью на 26,1% и составила 10098,6 тыс. человек. Увеличилась численность узбеков на 23,3%, составив 457,2 тыс. человек, уйгур - на 6%, составив 223,1 тыс. человек. Снизилась численность русских на 15,3%, составив 3797,0 тыс. человек; немцев - на 49,6%, составив 178,2 тыс. человек; украинцев – на 39,1%, составив 333,2 тыс. человек; татар – на 18,4%, составив 203,3 тыс. человек; других этносов – на 5,8%, составив 714,2 тыс. человек.
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東 ひがし トルキスタン - 新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く 新 しん 疆史独立 どくりつ 運動 うんどう 文化 ぶんか 団体 だんたい 人物 じんぶつ 都市 とし 回 かい 紇族長 ぞくちょう 回 かい 鶻可 か 汗 あせ 甘 あま 州 しゅう ウイグル王国 おうこく 可 か 汗 あせ 天山 あまやま ウイグル王国 おうこく 君主 くんしゅ
uluγ がんま täŋridä qut bolmïš alp külüg bilgä 懐 ふところ 建 けん
qaγ がんま an
törtünč arslan bilgä täŋri ilig süŋülüg qaγ がんま an
bögü bilgä täŋri ilig
kün ay täŋritäg küsänčig körtlä yaruq täŋri bögü täŋrikänimiz
kün ay täŋridä qut bolmïš bayan ornanmïš alpïn ärdämin il tutmïš üčünč arslan bilgä χ かい an
täŋri bögü il bilgä arslan täŋri uyγ がんま ur tärkänimiz
ヤルカンド・ハン国 こく 君主 くんしゅ
サイード
アブドゥッラシード
アブドゥル・カリーム
ムハンマド
シュジャーウッディーン・アフマド
クライシュ
アパク(アブドゥッラティーフ)
プラド(アフマド)
ムハンマド・フダーバンダ
プラド(アフマド)(復位 ふくい )
アブドゥッラー
ヨルバルス
アブドゥッラティーフ
イスマーイール
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