(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ウイグル - Wikipedia コンテンツにスキップ

ウイグル

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ウイグル
ئۇيغۇر · uyghurlar · Уйғур · 维吾尔/維吾なんじ
そう人口じんこう
合計ごうけい やく1,350まんにん
居住きょじゅう地域ちいき
中華人民共和国の旗 中国ちゅうごく
(おも新疆しんきょうウイグル自治じち)
12,123,000
(中国ちゅうごく当局とうきょく発表はっぴょうすう)[1][2]
カザフスタンの旗 カザフスタン223,100 (2009)
(カザフスタンのウイグルじん英語えいごばん)[3][4]
トルコの旗 トルコ60,000 (2020)[5]
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン55,220 (2008)[6][7]
キルギスの旗 キルギス48,543 (2009)
(キルギスのウイグルじん英語えいごばん)[8]
サウジアラビアの旗 サウジアラビア〜50,000 (2013)
(サウジ労働省ろうどうしょう)[9]
ヨルダンの旗 ヨルダン〜30,000 (2017)
オーストラリアの旗 オーストラリア5,000 – 10,000[10]
スウェーデンの旗 スウェーデン2,000 (2019)[11]
パキスタンの旗 パキスタン〜1,000世帯せたい (2010)
(パキスタンのウイグルじん英語えいごばん)[12]
ロシアの旗 ロシア3,696 (2010)[13]
トルクメニスタンの旗 トルクメニスタン〜3,000[14]
カナダの旗 カナダ〜1,555 (2016)[15]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ1,800+
(ウイグルけいアメリカじん)[16]
日本の旗 日本にっぽん〜1,000 (2012)[17]
ドイツの旗 ドイツ〜750 (2013)[18]
ウクライナの旗 ウクライナ197 (2001)[19]
言語げんご
宗教しゅうきょう
おもイスラム教いすらむきょう・スンナ
関連かんれんする民族みんぞく
タジクじん, ウズベク[20]テュルクけい民族みんぞく

ウイグルウイグル: ئۇيغۇرلار, Уйғурлар, IPA: [ujɣurˈlɑr]; : 维吾尔, しげる: 維吾なんじ, 拼音: Wéiwú'ěr, [wěɪǔɑ̀ɻ];[21][22] えい: Uyghurs, [ˈwɡʊərz][23])は、4世紀せいきから13世紀せいきにかけて中央ちゅうおうユーラシア活動かつどうしたテュルクけい遊牧ゆうぼく民族みんぞく[ちゅう 1]およびその後裔こうえいしょうする民族みんぞく[24](あるいは現在げんざい政治せいじてき必要ひつようせいからみずから「ウイグル」と名乗なの民族みんぞく[25])をす。

現在げんざい中国ちゅうごく新疆しんきょうウイグル自治じちカザフスタンウズベキスタンキルギスなど中央ちゅうおうアジア居住きょじゅうしており、人口じんこうやく1,000まんにん[26]テュルク諸語しょごウイグルはなムスリムである[27]

呼称こしょう

[編集へんしゅう]

古代こだい中国ちゅうごくでの呼称こしょう

[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく史書ししょでは、袁紇[28][29]がらすまもる[30]がらす[30]韋紇[31][32]迴紇[33]かい[30][34]迴鶻[33]かい[30][34]などと表記ひょうきされてきた。

突厥碑文ひぶんによる表記ひょうき

[編集へんしゅう]

やがてテュルクけい遊牧民ゆうぼくみん自身じしんでも文字もじ突厥文字もじ)を使つかって物事ものごとしるすようになると、(Uyγがんまur)[35]表記ひょうきした。

イルハンあさにおける表記ひょうき

[編集へんしゅう]

14世紀せいきイルハンあさではアラビア文字もじで「اويغور (Ūyghūr)」と表記ひょうきされ、イルハンあさ政治せいじラシードゥッディーンはその著書ちょしょ『ジャーミ・ウッ・タワーリーフ(しゅう)』の「ウイグル部族ぶぞくこころざし」において、「ウイグル」とはテュルクで「同盟どうめい」・「協力きょうりょく」のであるとしるしている[36]

現代げんだい中国ちゅうごくによる表記ひょうき

[編集へんしゅう]

もり世才せさい従来じゅうらい中華民国ちゅうかみんこく当局とうきょくもちいていた「まといかい(Chánhuí チャンフェイ)」を廃止はいしして「ウイグル」民族みんぞくを「設定せってい」する指示しじれ、1934ねんはぶけ府議会ふぎかい正式せいしき採用さいようさせ「維吾なんじ(Wéiwú'ěr ウェイウーアー)」という漢字かんじ表記ひょうきさだめた。[37]

歴史れきし

[編集へんしゅう]

そうせい伝承でんしょう

[編集へんしゅう]

ウイグルのそうせいについては、モンゴル帝国ていこく時代じだいのペルシア文献ぶんけんにおいていくつかの物語ものがたりしるされている。アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー世界せかい征服せいふくしゃ歴史れきし』(1260ねん編纂へんさん)とラシードゥッディーンしゅう』(1314ねん編纂へんさん完成かんせい)がある。

とく後者こうしゃの『あつまり』ではテュルク・モンゴルけいしょ部族ぶぞくをイスラームてき世界せかいかんわくない分類ぶんるいしており、これらをだい洪水こうずい現在げんざい人類じんるい遠祖えんそとなったノア(ヌーフ)の3にん息子むすこセムハムヤフェトのうちヤフェト(ヤーフィス)の子孫しそんとしている。

テュルクけい種族しゅぞくをヤフェトの子孫しそんとするのは『あつまり以外いがいにもられるが、『あつまり』はこれにオグズ・カガン伝説でんせつからめてべているのが特徴とくちょうであり、後世こうせいにもこの傾向けいこうがれた。

ラシードゥッディーンしゅう』ウイグル部族ぶぞく (1314)
  • 伝承でんしょう:「ノアのアブルチャ・カンすなわヤフェトのディブ・バクイののカラ・カンのオグズ( اوغوز پسر قرا خان پسز ديب باقوى پسر يافِث پسر نوح عليه السّلام Ūghūz pisar-i Qarā-Khān pisar-i Dīp Bāqūy pisar-i Abūlja Khān Yāfith pisar-i Nūḥ `alaihi al-salam.)[38][39]は、唯一ゆいいつかみアッラー)のみをしんじたので、叔父おじたち兄弟きょうだいから攻撃こうげきけたが、かれはその親族しんぞく一部いちぶ援助えんじょけてやぶ彼等かれら領地りょうち併合へいごうした。

かれ大会たいかいひらき、親族しんぞく異姓いせい集団しゅうだん戦士せんしたち鎮撫ちんぶし、ともたたかった親族しんぞく人々ひとびとに“ウイグル”のさづけた」[38][39]

  • 古代こだい:「ウイグリスターン地方ちほう (wilāyat-i Ūyghūristān) には2つの非常ひじょうおおきなやまがあり、ひとつはブクラト・ブズルク( بوقراتو بوزلوق Būqrātū-būzlūq)、もうひとつはウシュクンルク・タンクリム( اوشقون لوق تنكريم Ūšqūn-lūq-tankrīm)であった。そのふたつのあいだにはカラコルムさん (kūh-i Qarāqūrum) が鎮座ちんざし、カアン(Qā'ān; オゴデイのこと)がてられた都市としはそのやま名前なまえにちなんでばれている。そのやまのそばにクト・タク( قوت طاق Qūt-ṭāq)とばれているやまがある。

その山々やまやま一帯いったいには10ほんかわ(がながれている)場所ばしょと、9ほんかわ(がながれている)場所ばしょがある。ふる時代じだいには、ウイグルしょ部族ぶぞく居住きょじゅうは、これらのしょ河川かせん山々やまやま荒野あらの (ṣuḥrā-hā) にあった。

この10ほんかわにすむものたちがおりかれらはオン・ウイグル( اون اويغور Ūn Ūyghūr)とばれ、9ほんかわにいるものはトグズ・ウイグル( توغوز اوغوز Tūghūz Ūyghūr)とばれている[ちゅう 2]。この10ほんかわはオン・ウルグン( اون اُرغون Ūn-Urghūn)[ちゅう 3]ばれている。

それらの名前なまえ以下いか説明せつめいすると、اييشلك Aīīšlik(部族ぶぞく),اوتنكر Ūtinkar?(部族ぶぞく), بوقيز Būqīz(部族ぶぞく),اوزقندر Ūzqundur(部族ぶぞく),تولار Tūlār,تاردار Tārdār(部族ぶぞく),ادر Adar(部族ぶぞく:もしくは ادر اوج Adar-Ūjか),اوج تابين Ūj-Tābīn(部族ぶぞく:もしくは تابين Tābīnか), قملانجو Qamlānjū(部族ぶぞく),اوتيكان Ūtīkān(部族ぶぞく)である。3ほん河畔かはんに9が、つぎの4ほん河畔かはんに5がいる。9ほんの Qamlānjū のかわ沿いには オン部族ぶぞく( قوم اونك qawm-i Ūnk:もしくは قوم لونك qawm-i Lūnkか)、10ほん河畔かはんに قمق آتی كوز Qamaq-ātī-kūz がある。その名称めいしょうしょうふくめ122がそれらのかわった。かず世代せだいったがウイグルしょ部族ぶぞくにはまったきみちょう(pādshāhī wa sar-varī)がらず、各部かくぶ武力ぶりょく争奪そうだつはじめるとべつ集団しゅうだんからちょうてていた。

のち各部かくぶ共同きょうどう利益りえきため会議かいぎひらき、全体ぜんたい命令めいれいはっする1人ひとり全権ぜんけん君主くんしゅ(pādshāhī muṭalliq-i amr ki bar hamganān nāfidh farmān bāshad)を自分じぶんたちなかからすことを決議けつぎ全会ぜんかい一致いっち満場まんじょうけて、アビシュリク( ابيشلك Abīšlik)からもっと聡明そうめいなマングダイ( منكوتای Mankūtāī /ないしマング・バイ منكوباى Mankū-bāī)を選出せんしゅつ、イル・イルテベル( ايل ايلتبر Īl-Īltabar)の称号しょうごうさづけた。また、ウズクンドゥル(اوزقندر Ūzqundur)から品質ひんしつ性格せいかく良好りょうこう人物じんぶつえらんでキョル・イルキン( كول ايركين Kūl-Īrkīn)の称号しょうごうさづけた。彼等かれらにんぜん民族みんぞくしょ部族ぶぞく君主くんしゅ(pādshāh-i jumhūr wa aqwām)となり、彼等かれら一族いちぞく(ūrūgh/uruq)が100年間ねんかん統治とうちした。」[40][41][42]

アラー・ウッディーン・ジュヴァイニー世界せかい征服せいふくしゃ歴史れきし』(1260)
  • カラコルムからはっするトグラかわセレンガかわ合流ごうりゅうするカムランジュ( قملانجو Qamlānjū)にそうがあった。そうじゅあいだおかてんからひかりそそぎ、ごとおかおおきくなった。やがて丘陵きゅうりょうひらき、天幕てんまくりの5つの部屋へやあらわれると各々おのおの一人ひとり子供こどもすわっていた。5にん子供こどもはこの土地とち人々ひとびとから王子おうじおなじように尊敬そんけいされ、長男ちょうなんソンクル・テギン( سنقر تكين Sunqur Takīn/Sonqur Tegin)、次男じなんクトル・テギン( قوتر تكين Qūtur Takīn/Qotur Tegin)、三男さんなんブカク・テギン( توكاك تكين Tūkāk Takīn/Tükel Tegin)、よんなんオル・テギン( اور تكين Ūr Takīn/Or Tegin)、五男いつおブク・テギン( بوقو تكين Būqū Takīn/Buqu Tegin)と命名めいめいされた。ウイグルじんかれらがてんより降臨こうりんしたものとしんじ、かれらの一人ひとり君主くんしゅいただくことにした。そこで、末子まっしのブク・テギンが美貌びぼう才智さいちもっとひいで、あらゆる言語げんご文字もじつうじていたので、ウイグルじんかれ推戴すいたいしてカン( خان Khān)とし、大祭たいさいもよおして玉座ぎょくざかせた」[42][43][44]

古代こだいウイグル

[編集へんしゅう]

こうしゃの袁紇(ウイグル)

[編集へんしゅう]
えびすじゅうろくこく時代じだいこうしゃ位置いち

こうしゃ(こうしゃ)」とは4~6世紀せいき中国ちゅうごく北朝ほくちょうにおけるテュルクけい遊牧民ゆうぼくみん総称そうしょうで、かれらが高大こうだい車輪しゃりんのついた轀車(おんしゃ:荷車にぐるま)をもちいたことに由来ゆらいする[28][29]。その一部いちぶぞくである袁紇(ウイグル)は、モンゴル高原こうげんをめぐってつぶせばつだいくにきたたかしあらそっていたが、4世紀せいきまつから5世紀せいき初頭しょとうやわしかあせこく従属じゅうぞくした。

390ねん、袁紇きたみちたけみかどきた大敗たいはいきっ[ちゅう 4]429ねんきたたかしばくきた遠征えんせいしてやわしかやぶると、袁紇ふくこうしゃしょ部族ぶぞくきたたかし服属ふくぞくしてばくみなみ移住いじゅうさせられた。

一時期いちじきこうしゃしょ孝文たかふみみかどみなみせい従軍じゅうぐんすることに反対はんたいし、袁紇じゅしゃおも(あるじ)に推戴すいたいしてきたたかしたいして反旗はんきひるがえしたが、のちにまたきたった。

てつ勒のかい紇(ウイグル)

[編集へんしゅう]
7世紀せいきはじめの東西とうざい突厥あせこく

6世紀せいき~7世紀せいきこうしゃてつ勒(てつろく)とばれるようになり、袁紇(ウイグル)中国ちゅうごく史書ししょがらすまもる[30]がらす[30]韋紇[31][32]などとしるされ、やがて迴紇[33]かい[30][34]表記ひょうきされるようになる。当時とうじてつ勒諸突厥あせこくぞく最大さいだい構成こうせい民族みんぞくであったが、趨勢すうせいおうじて叛服はんぷくかえしていた。

ずいだいに42かぞえたてつ勒諸(アルタイ以西いせいに31かちへい88,000、以東いとうに11かちへい20,000)は、とうだいいたると徐々じょじょひがし移動いどう集合しゅうごう(15かちへい200,000)、そのなかでもかい紇(ウイグル)とくつよもりとなってモンゴル高原こうげん覇権はけん薛延陀(せつえんだ)あらそった。

629ねん部族ぶぞくちょう吐迷は薛延陀部をやぶり、てつ勒の盟主めいしゅとなった。646ねんにはとう帰順きじゅんし、かい紇部は瀚海とくとされ、吐迷ふところ大将軍だいしょうぐん拝命はいめいし、瀚海とくとなった。

682ねんひがし突厥再興さいこうだい突厥あせこく)するとかい紇(ウイグル)ふたた屈従くつじゅう余儀よぎなくされたものの、734ねんひがし突厥の毘伽あせ(ビルゲ・カガン)が毒殺どくさつされると、バシュミルカルルクらとともにひがし突厥へ度々たびたび攻撃こうげき仕掛しかけ、745ねんかい紇(ウイグル)あせ(カガン、君主くんしゅ)となったほねりょく裴羅(クトゥルグ・ボイラ)がとうんで最後さいごひがし突厥あせである白眉はくびあせころしてひがし突厥あせこくほろぼした[45]

かい鶻(ウイグル)あせこく

[編集へんしゅう]
8世紀せいき後半こうはんかい鶻の位置いち

744ねんほねりょく裴羅(クトゥルグ・ボイラ)はかい鶻可あせこく(ウイグルあせこく、ウイグル帝国ていこく)を建国けんこくする(744ねん - 840ねん)。かい鶻(ウイグル)あせこくひがし突厥の旧領きゅうりょう支配しはいし、あらたなモンゴル高原こうげん支配しはいしゃとなった。

以後いごかれかい鶻(ウイグル)の筆頭ひっとう氏族しぞくであるくすりかずらヤグラカルによってあせ継承けいしょうされた。経済けいざいめんではとうとのきぬ貿易ぼうえきひがしマ帝国まていこくとのシルクロード交易こうえきによって莫大ばくだい利益りえきげた。[46]

755ねんとうきた安史やすしらんでは、とう要請ようせいによりかい鶻(ウイグル)ぐん反乱はんらんしずめ、763ねん終結しゅうけつすることができた。

とうやすらん勃発ぼっぱつにより西域せいいき経営けいえいからくと[47]かい鶻(ウイグル)は西域せいいきめぐって吐蕃すうじゅうねんわたたたかいをひろげた。このきたにわ争奪そうだつせんは792ねんまでつづくが、最終さいしゅうてきかい鶻(ウイグル)ぐんきたにわ奪還だっかんし吐蕃に勝利しょうりした。トルファン盆地ぼんちとタリム盆地ぼんち北部ほくぶかい鶻(ウイグル)の領国りょうごくとなった[48]

なおふところしんじあせ在位ざいい795ねん - 805ねん)のだいマニきょう国教こっきょうされ、世界せかい史上しじょう唯一ゆいいつとなるマニきょう国家こっか誕生たんじょうした。

840ねんかい鶻(ウイグル)あせこく内乱ないらん黠戛斯(キルギス)ぞく侵攻しんこうけて崩壊ほうかいした[49]。このときウイグルじんはモンゴル高原こうげんからべつ地域ちいき拡散かくさんし、とう北方ほっぽう移住いじゅうした集団しゅうだんはのちにもとだいオングートとなり[49]西にし天山あまやま方面ほうめんカルルクかずら邏禄)へうつった一派いっぱは、のちにテュルクけいはつイスラーム王朝おうちょうであるカラハンあさとなり、甘粛かんせいうつった一派いっぱはのちのあましゅうウイグル王国おうこくとなり、[49]東部とうぶ天山あまやまビシュバリクきたにわ)、カラシャール焉耆)、トゥルファンこうあきら)にうつった一派いっぱ天山あまやまウイグル王国おうこくとなった[49]

あましゅうウイグル王国おうこく

[編集へんしゅう]

滅亡めつぼうしたウイグルのこみん一部いちぶ河西かさい現在げんざい甘粛かんせいしょう)にのがれて割拠かっきょし、あましゅうちょうわき)を中心ちゅうしんあましゅうウイグル王国おうこくあましゅうかい鶻)を形成けいせい1028ねんタングートによるあましゅう陥落かんらくまで勢力せいりょくたもった[50]

天山あまやまウイグル王国おうこく

[編集へんしゅう]
10世紀せいき後半こうはん天山あまやまウイグル王国おうこく
モンゴル帝国ていこく元朝がんちょうりょうのウイグル王国おうこく

焉耆(カラシャール)やきたにわ(ビシュバリク)に割拠かっきょした集団しゅうだん天山あまやまウイグルこく建国けんこくすると、定住ていじゅうして「ウイグル (Uyghur)」とか「トゥグズグズ (Tughuzghuz)」などとばれた。かれらは遊牧ゆうぼくしていた時代じだいからソグドじん影響えいきょうマニきょう信仰しんこうしていたが、のちに仏教ぶっきょうネストリウスキリスト教きりすときょうなども信仰しんこうされ、こうあきらかん文化ぶんかなどを形成けいせいした[49]。タリム盆地ぼんち先住せんじゅうしていた住民じゅうみんはこうしてウイグルトルコされていった[49]

10世紀せいき以降いこう、カシュガルなどのタリム盆地ぼんち西部せいぶではイスラームきょう普及ふきゅうしたが、タリム盆地ぼんち東部とうぶ天山あまやまウイグルこくでは仏教ぶっきょう根強ねづよく、カラ・キタイ西にしりょう)やモンゴル帝国ていこく服属ふくぞくしているあいだ仏教ぶっきょう信仰しんこうされた[49]

13世紀せいきモンゴル高原こうげんチンギス・カンのモンゴル帝国ていこく勃興ぼっこうすると、1211ねんにウイグルおうバルチュク・アルト・テギンはや段階だんかいでモンゴル帝国ていこく帰順きじゅんしたため、チンギス・カンにられ、みずからの「5番目ばんめ息子むすこ」として厚遇こうぐうされた[51]。バルチュクのサランディ・テギンオゴデイ・カアンむすめめとり、駙馬(キュレゲン)となった[52]

以後いごモンゴル帝国ていこくでのウイグル王家おうけは「ウイグル駙馬王家おうけ」としてコンギラト駙馬ならぶ、駙馬王家おうけ筆頭ひっとうしょうされ、モンゴル王族おうぞくじゅんじる地位ちいる。

モンゴル帝国ていこくおよび元朝がんちょうでは、ウイグルじん官僚かんりょうはモンゴル宮廷きゅうてい重用じゅうようされ、帝国ていこく経済けいざい担当たんとうする大臣だいじん輩出はいしゅつした。この時代じだい、ウイグル王国おうこく地域ちいきして「ウイグリスタン (Ūyghristān)」とばれた[53]

やがてモンゴル帝国ていこくクビライカイドゥ内乱ないらんきると天山あまやまウイグル王国おうこくはそのこうそうとなり、君主くんしゅコチカル・テギンネウリン・テギン時代じだいにウイグル王家おうけはウイグリスタンを放棄ほうきせざるをなくなり、甘粛かんせい永昌えいしょう移住いじゅうしたままその歴史れきしえる[54]

モンゴル帝国ていこく以降いこう

[編集へんしゅう]

モンゴル帝国ていこく以降いこう天山あまやまウイグルの国民こくみんタリム盆地ぼんちオアシス都市とし住民じゅうみん)はモンゴル国民こくみんとなり、チャガタイ・ハンこくオイラトぞくジュンガル)と支配しはいしゃ交代こうたいしていくうちに、都市とし国家こっか単位たんいでのゆる民族みんぞく名称めいしょう(カラシャールじん、ホータンじん、ヤルカンドじん、カシュガルじんなど)しかもたなくなり、異教徒いきょうとたいしてはムスリム他所よそしゃたいしてイェルリク土地とちもの)と程度ていどで、「ウイグル」という名称めいしょうわすられていった[25][55]

きん現代げんだいウイグル

[編集へんしゅう]

しん疆」

[編集へんしゅう]

現代げんだいウイグルじん祖先そせん仮託かたくされているウイグルじんみずからの民族みんぞくをテュルクと中核ちゅうかく集団しゅうだんをウイグルとんだが、マーワラーアンナフルタリム盆地ぼんちオアシス都市とし住民じゅうみんは、都市とし国家こっか単位たんいでのゆる民族みんぞく名称めいしょうしかもたず、異教徒いきょうとたいしてはムスリム他所よそしゃたいしてイェルリク土地とちもの)と程度ていどであった[25][55]

モンゴル帝国ていこくジュンガルへの服属ふくぞくて、18世紀せいきなかばにジュンガルを清朝せいちょうほろぼすと、「ムスリムの土地とち」を意味いみする「かい疆」または「あたらしい領土りょうど」を意味いみする「しん」とばれた。そのロシア中央ちゅうおうアジア進出しんしゅつし、1881ねんトルキスタン併合へいごうすると、清朝せいちょう1884ねんにタリム盆地ぼんち・ジュンガル盆地ぼんちまとめてしん疆省設置せっちした(1884-1955ねん)。

ウイグル(維吾なんじ

[編集へんしゅう]

1921ねんソ連それんトルキスタン地方ちほうのタリム盆地ぼんち出身しゅっしんしゃが「ウイグル」という呼称こしょうもちはじめたことをうけて、おやでタリム盆地ぼんち・ジュンガル盆地ぼんちひがしトルキスタン(イリ地方ちほう一帯いったい独立どくりつてき軍閥ぐんばつ形成けいせいしたもり世才せさい政権せいけんが、1934ねんに「ウイグル」という呼称こしょうと「維吾なんじ (Wéiwú'ěr)」の漢字かんじ表記ひょうきさだめた。この呼称こしょう中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくにもがれている(維吾なんじぞく、维吾尔族)[56]

中華民国ちゅうかみんこく時代じだい

[編集へんしゅう]

1911ねんからし革命かくめい中国ちゅうごく内地ないち発生はっせいする。しん疆にも革命かくめいはいり、1912ねん1がつ、イリの革命かくめい蜂起ほうきし、イリ将軍しょうぐんでモンゴルはたじんこうぶく(グワンフ)を臨時りんじとくとする政府せいふ樹立じゅりつされた[57]

きよしせんすべみかど退位たいいすると、ウルムチ知事ちじであった楊増しんしん疆省ちょうとくぐんとなる[57]雲南うんなん出身しゅっしんの楊増しんしん疆を独立どくりつ王国おうこくにしようとつとめた[57]

他方たほうオスマン帝国ていこくひろしトルコ主義しゅぎ中央ちゅうおうユーラシアひろめようとしており、トルコじんアフメト・ケマルしん疆に派遣はけんされ、師範しはん学校がっこう設立せつりつし、この学校がっこうがカシュガルの民族みんぞく主義しゅぎ運動うんどう中核ちゅうかくとなった[58]

もり世才せさいによる改名かいめい

[編集へんしゅう]

当時とうじソ連それん共産党きょうさんとう党員とういんでもあった遼寧りょうねいしょう出身しゅっしんかんじんであるもり世才せさいは、1933ねんぐんひきいてクーデターをこすとしん疆軍ばつひきいて1944ねんまで独立どくりつした政権せいけんきずいた[37]もり世才せさい従来じゅうらい中華民国ちゅうかみんこく当局とうきょくもちいていた「まといかい(てんかい)」を廃止はいしして「ウイグル」民族みんぞくを「設定せってい」する指示しじれ、1934ねんはぶけ府議会ふぎかい正式せいしき採用さいようさせ「維吾なんじ」という漢字かんじ表記ひょうきさだめた[37]

ハミぐん王家おうけ反乱はんらん

[編集へんしゅう]

楊増しんが1928ねん暗殺あんさつされると、きむいつきひとししん疆省ちょうになる[59]。しかしきむいつきじんはメッカ巡礼じゅんれいなどを禁止きんしするなどムスリムへの弾圧だんあつ政策せいさくおこない、さらに土着どちゃくしょう王国おうこくであったハミぐん王家おうけ消滅しょうめつさせようとする(かいりゅう問題もんだい)と、これに反発はんぱつした住民じゅうみんたちは1931ねんだい規模きぼ反乱はんらんこす[60]。ハミぐん王家おうけぐんは、かいぞく軍閥ぐんばつうまなかえい援助えんじょもとめ、うまなか英軍えいぐんはバルクルまで進出しんしゅつするが、しん疆省政府せいふぐん登場とうじょうすると甘粛かんせい撤退てったいし、ハミぐん王家おうけぐん山地さんち撤退てったいした[60]

トルファンの反乱はんらん

[編集へんしゅう]

ハミの反乱はんらんをうけて1932ねんにはトルファンイスラム教いすらむきょうしょ民族みんぞく反乱はんらん発生はっせいする[60]反乱はんらんぐんはトルファンを掌握しょうあくするが、ロシアしろぐん残党ざんとうふくもり世才せさいしょう政府せいふぐん敗北はいぼくする[60]。そのトルファンはうまなかえい占領せんりょうされた[60]

ひがしトルキスタン・イスラーム共和きょうわこく

[編集へんしゅう]
ひがしトルキスタンイスラム共和きょうわこく国旗こっき

1933ねん2がつ、タリム盆地ぼんち南部なんぶのホタンで、ムハンマド・アミーン・ブグラ蜂起ほうきし、漢人かんど官僚かんりょう一掃いっそうして、ヤルカンド、カシュガルへ進軍しんぐんし、1933ねん11月にひがしトルキスタン・イスラーム共和きょうわこく樹立じゅりつした[61]

なお、ひがしトルキスタン・イスラーム共和きょうわこくでは漢語かんごはなかいみん漢人かんど同様どうよう排除はいじょされ、トルコけい住民じゅうみん構成こうせいいんとされた[61]

うまなか英軍えいぐんがウルムチにかうと、1933ねん4がつ12にちにクーデターがこり、もり世才せさい実権じっけんにぎった[61]

もり世才せさいソ連それん援助えんじょ要請ようせいし、1934ねん1がつソ連それんぐんしん疆に進軍しんぐんうまなか英軍えいぐん敗北はいぼくする[61]うまなか英軍えいぐん西にしかい、ひがしトルキスタン・イスラーム共和きょうわこく壊滅かいめつさせ、そのソ連それん交渉こうしょうしてソ連それん亡命ぼうめいした[61]

1941ねんには、アルタイ地区ちくのカザフ遊牧民ゆうぼくみんのケレイ部族ぶぞく出身しゅっしんのオスマンとダリール・ハーンが、ソ連それんとモンゴル人民じんみん共和きょうわこく援助えんじょをうけ、アルタイ民族みんぞく革命かくめい臨時りんじ政府せいふ樹立じゅりつした[62]1944ねん10月にはイリ渓谷けいこくのニルカとクルジャで反乱はんらん発生はっせいし、11月12にちひがしトルキスタン共和きょうわこく建国けんこくされた[62]

このだいひがしトルキスタン独立どくりつ運動うんどうにはソ連それん赤軍せきぐん直接ちょくせつ参加さんかした[62]

翌年よくねんの1945ねん、アルタイ民族みんぞく革命かくめい臨時りんじ政府せいふひがしトルキスタン共和きょうわこく、さらにタルバガダイのゲリラたい合流ごうりゅうした[62]中国ちゅうごくでは「ひがしトルキスタン共和きょうわこく」という名称めいしょう使用しようすることはけられ、さん革命かくめいばれる[63]

中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく政府せいふによるしん接収せっしゅう

[編集へんしゅう]
接収せっしゅうのために中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政府せいふからしん疆に派遣はけんされた代表だいひょうだん、1950ねん

人民じんみん解放かいほうぐんによるウイグル接収せっしゅう

[編集へんしゅう]

1949ねん国共こっきょう内戦ないせんせいした中国共産党ちゅうごくきょうさんとうは、しん疆の接収せっしゅうのために、鄧力ぐん派遣はけんし、イリ政府せいふとの交渉こうしょうおこなった。

毛沢東もうたくとうは、イリ政府せいふ書簡しょかんおくり、イリの首脳しゅのうじん北京ぺきん政治せいじ協商きょうしょう会議かいぎまねいた。

しかし、8がつ27にち北京ぺきんかった3地域ちいきの11にんのリーダーたち、アフメトジャン・カスィミ(Ehmetjan Qasim)、アブドゥルキリム・アバソフ(Abdulkerim Abbas)、イスハクベグ・モノノフ(Ishaq Beg Munonov)、Luo Zhi、Rakhimjan Sabirhajiev、デレリカン・スグルバヨフ(Dalelkhan Sugirbayev)らイリ首脳しゅのうじんった飛行機ひこうきソ連それん領内りょうないアルマトイ消息しょうそくった。

首脳しゅのううしなったイリ政府せいふ混乱こんらんおちいったが、のこされたイリ政府せいふ幹部かんぶセイプディン・エズィズィ陸路りくろ北京ぺきんおもむき、政治せいじ協商きょうしょう会議かいぎ参加さんかして共産党きょうさんとうへの服属ふくぞく表明ひょうめいした。9月26にちにはブルハン・シャヒディしん疆省政府せいふ幹部かんぶ国民党こくみんとう政府せいふとの関係かんけい共産党きょうさんとう政府せいふへの帰順きじゅん表明ひょうめいした。

12月までに中国ちゅうごく人民じんみん解放かいほうぐんしん全域ぜんいき展開てんかいし、統合とうごうされた[64]ウイグルぞくソ連それんりょう中央ちゅうおうアジア出身しゅっしんしゃモンゴルぞくシベぞくかいぞく構成こうせいされたひがしトルキスタン共和きょうわ国軍こくぐんイリ民族みんぞくぐん英語えいごばん)を野戦やせんだいぐん編入へんにゅうした人民じんみん解放かいほうぐん対抗たいこうして、国民党こくみんとうがわについたウイグルじんユルバース・カーンしろけいロシアじん中国人ちゅうごくじんムスリムのぐん(帰化きかぐん)をひきいていた。1950ねんわれ国民党こくみんとう勢力せいりょく残存ざんそんしていた地域ちいき進軍しんぐんしてこれを制圧せいあつした(われたたか)。これによってしん疆は中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく帰属きぞくとなった。

こののち民族みんぞく名称めいしょうウイグルぞく(維吾なんじぞく)と公式こうしきさだめられ、現在げんざいいたっている。

中国ちゅうごく政府せいふ1950ねんごろ、新疆しんきょうウイグル自治じちかんぞく中心ちゅうしんとするしん生産せいさん建設けんせつ兵団へいだん大量たいりょう入植にゅうしょくさせた。

その入植にゅうしょく当初とうしょ人口じんこう7パーセントだったかんぞく1991ねんには40パーセントになった。

新疆しんきょうウイグル自治じち設置せっち

[編集へんしゅう]
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく国旗こっき

1955ねんには中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくで2番目ばんめ自治じち新疆しんきょうウイグル自治じち設置せっちされた。

1990年代ねんだい

[編集へんしゅう]

1990ねんにはウイグルじん住民じゅうみんのデモにたいして武装ぶそう警察けいさつ発砲はっぽうし、15めいすうじゅうめいとも)が射殺しゃさつされるバリンきょう事件じけん英語えいごばんがおきている[65]

1991ねんにはウイグルじん作家さっかトルグン・アルマス著作ちょさくウイグルじん』が、「だいウイグル主義しゅぎてき」「民族みんぞく分裂ぶんれつ主義しゅぎてき」であることを理由りゆう発禁はっきん処分しょぶんとなり、著者ちょしゃ軟禁なんきん状態じょうたいかれた[66]

バリンきょう事件じけん以降いこうはん政府せいふとみられるテロ事件じけん相次あいついでいる。1997ねんにもだい規模きぼなデモが発生はっせいし、鎮圧ちんあつ出動しゅつどうした軍隊ぐんたい衝突しょうとつして、おおくの死傷ししょうしゃしたグルジャ事件じけん発生はっせいしている。

1996ねん中国ちゅうごく人民じんみん政治せいじ協商きょうしょう会議かいぎ全国ぜんこく委員いいんつとめる実業じつぎょうラビア・カーディル政治せいじ協商きょうしょう会議かいぎかんぞくによるウイグルじん抑圧よくあつ非難ひなんする演説えんぜつおこなうが公安こうあん当局とうきょくあいだ問題もんだいとなりラビアは1997ねんすべての公的こうてき役職やくしょくから解任かいにんされた。

ラビアのおっと作家さっかシディク・ハジ・ロウジおこなった書籍しょせき (John Graver, Chinese-Soviet Relations 1937-1945) のウイグルやく[67]当局とうきょくより問題もんだいされたといわれるが、シディク・ハジ・ロウジは1996ねん米国べいこく亡命ぼうめいした。

1999ねん8がつ13にち公安こうあん当局とうきょくは、ウルムチ市内しない滞在たいざいしていた米国べいこく議会ぎかい関係かんけいしゃ接触せっしょくしようとしたラビアを国家こっか機密きみつ漏洩ろうえいざい逮捕たいほし、米国べいこく亡命ぼうめいしたおっとたいして「不法ふほう機密きみつ情報じょうほう漏洩ろうえいした」として懲役ちょうえき8ねん実刑じっけい判決はんけつくだした。

1997ねんグルジャ事件じけん以降いこうアフガニスタンパキスタンのがれたウイグルぞくもいたが、アメリカのアフガニスタン侵攻しんこうさいべいぐんによる拘束こうそくやパキスタン政府せいふわたしによってキューバグアンタナモわん収容しゅうようキャンプ収監しゅうかんされた[68]

また1999ねん1がつよりかんぞく作家さっかおう力雄りきおしん疆の民族みんぞく問題もんだいかんする著作ちょさく執筆しっぴつのため、新疆しんきょうウイグル自治じち資料しりょう収集しゅうしゅう開始かいしすると、同年どうねん1がつ29にちしん疆自国家こっか安全あんぜんちょう上級じょうきゅう機関きかん国家こっか安全あんぜんきゅうソ連それんのKGBに相当そうとうする諜報ちょうほう機関きかん)に国家こっか機密きみつ窃取せっしゅ容疑ようぎ拘束こうそくほう手続てつづきをんだ正式せいしき逮捕たいほではない)され、42にち解放かいほうされた。

その経緯けいいを『しん追記ついき』にまとめ、インターネットじょう公表こうひょうした[69]おう力雄りきおはその、ウイグル問題もんだいかんする調査ちょうさをもとに2007ねん10がつてき西域せいいき、你的ひがし』(邦題ほうだいわたし西域せいいききみひがしトルキスタン)を台湾たいわん出版しゅっぱんした[70]

2000年代ねんだい

[編集へんしゅう]

テロ組織そしき指定してい

2003ねん12月、中国ちゅうごく政府せいふはウイグルじんおも構成こうせいいんとするトルキスタン・イスラム運動うんどう(ETIM)、ひがしトルキスタン解放かいほう組織そしき(ETLO)、世界せかいウイグル青年せいねん代表だいひょう大会たいかいおよひがしトルキスタン情報じょうほうセンターよっつの組織そしきをテロ組織そしきとして認定にんていし、これらの組織そしき幹部かんぶとう11めいをテロリストとして認定にんていしたと発表はっぴょうした[71]

上海しゃんはい協力きょうりょく機構きこう
[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく政府せいふは、中央ちゅうおうアジア諸国しょこく在外ざいがいウイグルじん社会しゃかいが、ウイグル民族みんぞく運動うんどう拠点きょてんとなっていることを警戒けいかいつづけており、1996ねんには上海しゃんはいファイブ2001ねんには上海しゃんはい協力きょうりょく機構きこう設立せつりつし、国内こくないイスラーム原理げんり主義しゅぎ勢力せいりょく伸張しんちょう警戒けいかいするロシア中央ちゅうおうアジア諸国しょこくともに、分離ぶんり主義しゅぎ、イスラーム過激かげき主義しゅぎたいする国際こくさい協力きょうりょく枠組わくぐみを構築こうちくした。

また、2001ねん9月11にち米国べいこくでの同時どうじ多発たはつテロ事件じけん以降いこう中国ちゅうごく政府せいふブッシュ政権せいけんとなえる「たいテロ戦争せんそう」への支持しじ表明ひょうめいし、ウイグル民族みんぞく運動うんどうしん疆におけるテロむすびつけて、その脅威きょうい強調きょうちょうしている。

おおやけ教育きょういくにおける漢語かんご使用しよう義務ぎむ
[編集へんしゅう]

2003ねんには、これまで少数しょうすう民族みんぞく固有こゆう言語げんご使用しよう公認こうにんされてきた高等こうとう教育きょういくで、漢語かんご使用しよう中国ちゅうごく政府せいふによって義務付ぎむづけられた。

2005ねんライス米国べいこく国務こくむ長官ちょうかん訪中ほうちゅうひかえ、米国べいこくから人権じんけん問題もんだいでの批判ひはんけることをおそれた中国ちゅうごく政府せいふは、2005ねん3月14にちに「外国がいこくでの病気びょうき療養りょうよう」を理由りゆうにラビア・カーディルを釈放しゃくほう。ラビアは米国べいこく亡命ぼうめいし、のち世界せかいウイグル会議かいぎ議長ぎちょう選出せんしゅつされ、2006ねんにはノーベル平和へいわしょう候補こうほにもなった。

2008ねん3がつには、しん疆南ホータンで、600めいえる当局とうきょくへの抗議こうぎデモが発生はっせいした[72]

2009ねんウイグル騒乱そうらん
[編集へんしゅう]

2009ねん6がつには、広東かんとんしょう韶関玩具おもちゃ工場こうじょうかんぞく従業じゅうぎょういんとウイグルじん従業じゅうぎょういんあいだ衝突しょうとつき、死者ししゃ2めい負傷ふしょうしゃ120めい[73][74]よく7がつには、事件じけん抗議こうぎするやく3,000めいのウイグルじん武装ぶそう警察けいさつが、ウルムチ市内しない衝突しょうとつし、140めい死亡しぼう、800めい以上いじょう負傷ふしょうした(2009ねんウイグル騒乱そうらん[75])。

2015ねん8がつ17にちと18にちタイ首都しゅとバンコク死者ししゃ20めい負傷ふしょうしゃ125めい(うち日本人にっぽんじん1めい)を連続れんぞく爆破ばくはテロ事件じけんこった。

タイ政府せいふは、事件じけんの1カ月かげつまえ亡命ぼうめい目指めざしていたウイグルじん109にん中国ちゅうごく強制きょうせい送還そうかんしていたため、これにたいする報復ほうふくテロではないかとの見方みかたひろがっている[76]

また、エジプトなどでウイグル自治じち出身しゅっしん留学生りゅうがくせいらが現地げんち治安ちあん当局とうきょく拘束こうそくされるケースが増加ぞうかしているとされ、一部いちぶ中国ちゅうごく強制きょうせい送還そうかんされているとの報道ほうどうがある[77]

中国ちゅうごく自治じち地方ちほう

[編集へんしゅう]

自治じち

[編集へんしゅう]

民族みんぞくきょう

[編集へんしゅう]

言語げんご

[編集へんしゅう]

現代げんだいのウイグルじんは、テュルク諸語しょご南東なんとうぐん(チャガタイぐん)にぞくウイグルはなす。タリム盆地ぼんち様々さまざま民族みんぞく交流こうりゅうであったため、紀元前きげんぜんからすでにモンゴロイドとコーカソイドの混血こんけつはじまっていた。

歴史れきしてきにタリム盆地ぼんち民族みんぞくひがしイラントカラはなし、インドやイランの人種じんしゅぞく人々ひとびともととしていくにもわたってきたのトルコ民族みんぞくひがしかん民族みんぞく支配しはいけた。11世紀せいきまではソグドやトカラ使つかつづけた。

現在げんざいのようにテュルクけい言語げんごはなすようになったのは、9世紀せいきから12世紀せいきにタリム盆地ぼんち東部とうぶ支配しはいした天山あまやまウイグル王国おうこく、タリム盆地ぼんち西部せいぶ支配しはいしたカラハンあさにおいてである。こうした過程かていは「テュルク」といわれる。

古代こだいウイグル現代げんだいウイグル

[編集へんしゅう]

かい紇部およびかい鶻可あせこく時代じだいまでは、突厥とおな古代こだいテュルク(突厥)はなしていたとおもわれる[78]が、天山あまやまウイグル王国おうこく時代じだい(9世紀せいき - 16世紀せいきごろ)になると、その言語げんごはウイグル文字もじ表記ひょうきされる古代こだいウイグルとなる。

現代げんだいウイグル古代こだいウイグル後裔こうえいではなく、おなチュルク語族ごぞくぞくすものの、下位かい系統けいとうことなる。

文字もじ

[編集へんしゅう]

文化ぶんか

[編集へんしゅう]

文学ぶんがく

[編集へんしゅう]

カラハンあさ詩人しじんユースフ・ハーッス・ハージブの『クタドグ・ビリク』(1069ねん)が最初さいしょのテュルク文学ぶんがくとされる。以後いご、11世紀せいきマフムッド・カッシュガリがおり、13世紀せいきにはアフマット・ユグナキ、14世紀せいきにはユスーフ・サッカキ、15世紀せいきにはルットフィあらわれた。17-18世紀せいきウイグル古典こてん文学ぶんがく代表だいひょうに、ヒルキティゼリリノビティがいる。

現代げんだいではトルグン・アルマス著作ちょさくウイグルじん』があるが、ウイグル民族みんぞく主義しゅぎであり分離ぶんり主義しゅぎしゃであるとして中国ちゅうごく政府せいふから発禁はっきん処分しょぶんけた。またかん民族みんぞく作家さっかおう力雄りきおによる『わたし西域せいいききみひがしトルキスタン』(2007[ちゅう 5])もある。

音楽おんがく

[編集へんしゅう]

アラブじんテュルクじんペルシアじんにみられる音楽おんがく様式ようしきマカーム楽曲がっきょく体系たいけいひとつであるムカム無形むけい文化ぶんか遺産いさんとしてられる。

料理りょうり

[編集へんしゅう]

宗教しゅうきょう

[編集へんしゅう]

仏教ぶっきょう

[編集へんしゅう]

「ウイグル=コネクション」

[編集へんしゅう]

森安もりやす孝夫たかおは、14世紀せいき以降いこうのモンゴル時代じだい敦煌とんこうなどの河西かさい地方ちほうにいたウイグルじん仏教徒ぶっきょうと集団しゅうだんは、もと東部とうぶ天山あまやま地方ちほうのウイグル王国おうこくから移住いじゅうしたとし、また、ウイグルじん仏教徒ぶっきょうとは、東部とうぶ天山あまやま河西かさいから華北かほく江南こうなんおよぶネットワーク「ウイグル=コネクション」を展開てんかいしたとした[79][80][81][82]

チベット仏教ぶっきょう

[編集へんしゅう]

松井まついふとしはこの「ウイグル=コネクション」ではチベット仏教ぶっきょう帰依きえしたウイグルじん仏教徒ぶっきょうととくおおきな役割やくわりたしたとしている[82]

スンナイスラム教いすらむきょう

[編集へんしゅう]
イスラム教いすらむきょう宗派しゅうは分布ぶんぷ
みどり:スンナ
みどりシーア

ウイグルぞくイスラム教徒きょうとおおくはスンニであるが、おなじスンニかいぞくイフワーンサラフィー主義しゅぎけいサラフィーヤ英語えいごばんとはながらく対立たいりつしてきた[83][84][85]

民族みんぞく定義ていぎ

[編集へんしゅう]

人種じんしゅ遺伝子いでんし

[編集へんしゅう]

現在げんざいのウイグルじんモンゴロイドコーカソイド混血こんけつであり、Y染色せんしょくたいハプログループハプログループR (Y染色せんしょくたい)ハプログループJ (Y染色せんしょくたい)ハプログループO2 (Y染色せんしょくたい)ハプログループC2 (Y染色せんしょくたい)など多様たようなタイプがみられる[86]

テュルクけい民族みんぞく

[編集へんしゅう]
テュルクけい民族みんぞく分布ぶんぷ

ウイグルテュルク諸語しょごであるため、ウイグルじんテュルクけい民族みんぞくぞくする。なお、テュルクけい民族みんぞく(トルコ民族みんぞく)とは、「とうだいから現代げんだいにいたる歴史れきしてき言語げんごてき状況じょうきょう勘案かんあんして、方言ほうげんはあっても非常ひじょう近似きんじしているトルコけい言語げんごはなしていたにちがいないとおもわれる突厥てつかいカルルクバスミルすな陀族などをいちくくりにした呼称こしょう」と定義ていぎされる[87]

歴史れきし学者がくしゃ森安もりやす孝夫たかおはなしによれば、古代こだいのテュルク民族みんぞくとうだいまではそのほとんどが黒髪くろかみちょく黒目くろめモンゴロイドであった[87]としている。とうだい末期まっきモンゴリアアルタイ地域ちいき本拠ほんきょとしていたかい鶻(ウイグル・カガンこく)が崩壊ほうかいし、のこみん一部いちぶあましゅう天山あまやま山脈さんみゃく一帯いったいからタリム盆地ぼんち移動いどうする[87]

それによって、タリム盆地ぼんち先住せんじゅうしていたトカラ西南せいなんひがしイラン話者わしゃ[88]がテュルク[89]した。なお、テュルク民族みんぞく先住せんじゅうテュルク話者わしゃ[88]住民じゅうみん虐殺ぎゃくさつしたのではなく、共存きょうぞんしていたといわれ、形質けいしつてき特徴とくちょう多様たようである[87]

こうした言語げんごからの民族みんぞく定義ていぎではなく、近代きんだいてき民族みんぞく概念がいねん観点かんてんからすれば、当時とうじ住民じゅうみんおな民族みんぞく意識いしきをもっていたわけではない[87]。たとえば、「民族みんぞく集団しゅうだん」としてはモンゴル時代じだい支配しはい集団しゅうだんとなったウイグルの残部ざんぶでイスラムしたタリム盆地ぼんち周辺しゅうへんのトルコ(テュルク)にんや、カラハンあさしたでイスラムしたトルキスタンのトルコじんは、それぞれの居住きょじゅうであるオアシス都市としごとに自己じこ認識にんしきしていた(「トルファンひと」、「クチャひと」、「カシュガルひと」、「サマルカンドひと」、「ブハラひと」など)。このようにタリム盆地ぼんち周辺しゅうへんオアシスてい住民じゅうみん固有こゆう民族みんぞく名称めいしょうたず、異教徒いきょうとたいしては「ムスリム」、異邦いほうじんたいしては「イェルリク土地とちもの)」と自己じこ呼称こしょうしていた[25][55]

20世紀せいきはいって、ロシア革命かくめいにより成立せいりつしたソビエト政権せいけんは、民族みんぞく政策せいさくとして「民族みんぞくべつ自治じち」をかかげた。

トルキスタンでも遊牧ゆうぼくしょ集団しゅうだんやオアシス都市としてい住民じゅうみんあいだに「民族みんぞくてき境界きょうかい区分くぶん」がかれ、しょ民族みんぞくが「設定せってい」されていった。当時とうじ、トルキスタンには、1881ねんイリ条約じょうやく締結ていけつさいにロシアりょう移住いじゅうしたイリ地方ちほうひがしトルキスタン出身しゅっしんしゃ多数たすういたが、かれらはひがしトルキスタン政治せいじてき統一とういつ志向しこうするさいに、古代こだいの「ウイグル」という民族みんぞく呼称こしょうふたた見出みいだし、1921ねんのアルマ・マタ会議かいぎ民族みんぞく呼称こしょうとして決定けっていされる(後述こうじゅつ[55])。

森安もりやすはなしによれば、このとき「本来ほんらいウイグルではないきゅうカラハンあさ治下ちかのカシュガルじん・コータンじんまでもウイグルとぶようになった」として、「しんウイグル」は「ウイグル」とはことなるとしている[25]

この呼称こしょう中華民国ちゅうかみんこく統治とうちしん疆省にもられるようになり、1934ねんもり世才せさい政権せいけん従来じゅうらい当局とうきょくもちいていた「まといかい(てんかい)」からウイグルのおとうつしである「維吾なんじ」への改称かいしょうめ、しょう府議会ふぎかい正式せいしきにこの民族みんぞく呼称こしょう採用さいようさせた。「維吾なんじ」という漢字かんじ表記ひょうき正式せいしき確定かくてい現在げんざいいたっている[56]

ウイグルの呼称こしょう復活ふっかつ

[編集へんしゅう]

トルキスタンには、1881ねんしんイリ条約じょうやく締結ていけつさいにロシアりょう移住いじゅうしたイリ地方ちほうはじめとするしん疆北西部せいぶ出身しゅっしんしゃ多数たすういた。

また、ジュンガル時代じだい入植にゅうしょくされた農耕のうこうみん末裔まつえいであるタランチ集団しゅうだん清朝せいちょうへの反乱はんらんヤクブ・ベクのらんなど)に加担かたんしていたため、イリ地方ちほう清朝せいちょう返還へんかんされると、清朝せいちょう政府せいふ報復ほうふく処罰しょばつおそれ、おおくのタランチはロシアりょうセミレチエしゅうなどに移住いじゅうしている[55]

にち戦争せんそうにおいて、それまで国際こくさいてきには小国しょうこくとみなされていた日本にっぽんロシア帝国ていこく勝利しょうりすると、それに触発しょくはつされて1908ねんには青年せいねんトルコじん革命かくめいきる。

青年せいねんトルコじん革命かくめい以降いこうひろしテュルク主義しゅぎがトュルクけい民族みんぞく大々的だいだいてき流行りゅうこうし、そうしたテュルク主義しゅぎ影響えいきょうけていたナザル・ホジャ(Na§ar khv±ja ‘Abd al-TMamad)というタランチ集団しゅうだん記者きしゃが1913ねんアルトゥシャフルを「わたしたちの祖先そせん祖国そこくであり文明ぶんめいてきなウイグルの祖先そせんたちの舞台ぶたいであり、イスラーム戦士せんしたちがぜん世紀せいき強大きょうだいなテュルクのハーンこく樹立じゅりつした場所ばしょ」と表現ひょうげんしている[55]。またナザル・ホジャは1914ねんからは「Uyghur Balasï(ウイグルの)」という署名しょめいをするようになっており、ムスリム知識ちしきじんあいだで「ウイグル」呼称こしょう使用しようされていた[55]

1913ねん11月の雑誌ざっし『シューラー』での記事きじでは「テュルク文学ぶんがくはウイグル(ユグル、ウグル; 漢語かんごでホイフ)方言ほうげんはじめられた。オルホン碑文ひぶんはより以前いぜんかれたが、しん意味いみうと、テュルク文学ぶんがくはウイグルはじめられた」とする論評ろんぴょう掲載けいさいされている[55]

アルマ・アタ会議かいぎ

[編集へんしゅう]

1921ねんカザフスタンのアルマアタ(アルマトイ[ちゅう 6][55]において開催かいさいされたざいソ連それんトルキスタン出身しゅっしんしゃ大会たいかいにおいて、ロシアじんトルコ学者がくしゃのセルゲイ・マローフ(Сергей Ефимович Малов)が「ウイグル」という民族みんぞく名称めいしょう復活ふっかつ発議はつぎし、どう大会たいかいはこれをけて、「ウイグル」民族みんぞく名称めいしょうみずか名乗なのることを決定けっていした[55]

このときの「ウイグル民族みんぞく」とは、ひがしトルキスタン出身しゅっしんのテュルクけいムスリム定住ていじゅうみんとその子孫しそんであるが、「ウイグル」という民族みんぞく呼称こしょう復活ふっかつされるまではタランチ集団しゅうだんカシュガルひとトゥルファンひとなど、民族みんぞく名称めいしょうというよりも祖先そせんまたは自身じしん出身しゅっしん自称じしょうしていた[55]

この会議かいぎソ連それんによる中央ちゅうおうアジア「民族みんぞくてき境界きょうかい画定かくてい政策せいさく準備じゅんび作業さぎょうひとつとみなされているが、「ウイグル」呼称こしょうがこのときに発案はつあんされたのでなく、それ以前いぜんにもムスリム知識ちしきじんあいだで「ウイグル」呼称こしょう使用しようされるようになっていた[55]

なお、マローフは中国ちゅうごく甘粛かんせい地方ちほうサリグ・ウイグルの研究けんきゅうしゃでもあった[55]。サリグ・ウイグルは16世紀せいき初頭しょとう天山あまやま地方ちほうから甘粛かんせい地方ちほうのがれてきた仏教ぶっきょうのことを[55]

アメリカ政府せいふ支援しえん

[編集へんしゅう]

日本にっぽんとの関係かんけい

[編集へんしゅう]

ウイグル地域ちいき日本人にっぽんじんがはいったのは、1880ねん大日本帝国だいにっぽんていこくのロシア駐在ちゅうざい公使こうし西にしいさお二郎じろうがはじめてとされる[91][92]

1902ねんから1908ねんおよび1910ねんにかけては大谷おおや探検たんけんたいはいった[92][93]

1905ねんには上海しゃんはいどう文書ぶんしょいん期生きせい波多野はたの養作ようさくはやしいずる賢次郎けんじろう桜井さくらい好幸よしゆきはいっている[92][93]

1906ねんには参謀さんぼう本部ほんぶ将校しょうこう日野ひのつよし上原うえはらはいった[92][93]。このうち上原うえはら現地げんちでの活動かつどうについては不明ふめい部分ぶぶんおおいが、中国ちゅうごくがわ資料しりょう[94]によれば、1907ねんにイリで陸軍りくぐん武備ぶび速成そくせい学堂がくどう設立せつりつしたさいに、軍事ぐんじ教官きょうかんとして日本人にっぽんじんの「はら尚志ひさし」を任命にんめいしたという記録きろくがあり、これが上原うえはらではないかと推定すいていされており、イリ地方ちほうで1912ねんまで6年間ねんかん活動かつどうしていたともいわれる[92]

こうした大日本帝国だいにっぽんていこく軍部ぐんぶによる情報じょうほう収集しゅうしゅう活動かつどうはロシアの動向どうこうかんするものであったとされる[92]

関岡せきおか英之ひでゆきによれば、大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐんは、満州まんしゅうモンゴル、ウイグル、チベットイスラム教いすらむきょう勢力せいりょくなどを支援しえんすることによって、ソ連それん中国共産党ちゅうごくきょうさんとうなどの共産きょうさん主義しゅぎ勢力せいりょく包囲ほういする戦略せんりゃくとして「防共ぼうきょう回廊かいろう政策せいさくがあったと指摘してきしている[95]だい日本にっぽん回教かいきょう協会きょうかい創設そうせつしたはやしずくじゅうろうや、板垣いたがき征四郎せいしろうらが推進すいしんしたといわれる[95]関東軍かんとうぐん満州まんしゅう中心ちゅうしんに、土肥どいはら賢二けんじらのハルビン特務とくむ機関きかんがシベリアでの諜報ちょうほう活動かつどう板垣いたがき征四郎せいしろう少将しょうしょうひきいる奉天ほうてん特務とくむ機関きかん華北かほくぶん工作こうさく松室まつむろ孝良たかよしうけたまわとく特務とくむ機関きかんうちこうむ工作こうさく展開てんかいするというさん正面しょうめん作戦さくせんかまえたとされ、このうち松室まつむろ孝良たかよしは1934ねん2がつに「満州まんしゅうこく隣接りんせつ地方ちほう占領せんりょう統治とうちあん」を起案きあんし、そのなかで満州まんしゅう、モンゴル、イスラム、チベットの環状かんじょう連盟れんめい提唱ていしょうした[95]大日本帝国だいにっぽんていこく時代じだい諜報ちょうほういんに、西川にしかわ一三かずみがおり、1945ねんうちモンゴルより河西かさい回廊かいろうてチベットに潜行せんこうした。戦後せんごインド帰国きこくした。

ほかに木村きむらこえおっと同様どうよう諜報ちょうほういんとしてチベットにはいった。西川にしかわ木村きむらにチベットりを指示しじしたのは東條とうじょう英機ひできであった[95]

戦後せんご日本にっぽんは1972ねん9がつ29にちにちちゅう共同きょうどう声明せいめいおよび1978ねん8がつ12にちにちちゅう平和へいわ友好ゆうこう条約じょうやく締結ていけつにともない、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくとの国交こっこう正常せいじょうした。そのさい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく正当せいとう国家こっかとして認定にんていし、かつ中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく配慮はいりょする外交がいこう方針ほうしんをとったため、台湾たいわん独立どくりつした国家こっかとはみないことを約束やくそくするとともに、チベット問題もんだいやウイグル問題もんだいなどをふくめ、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくの「国内こくない問題もんだい」について公式こうしきには積極せっきょくてき態度たいどをとるにいたっていない。

2000年代ねんだい

[編集へんしゅう]

しかし2000年代ねんだい以降いこう激化げきかするチベットやウイグルの動乱どうらんなどをけて、ウイグルにおける人権じんけん侵害しんがい問題もんだいなどを民間みんかん活動かつどう活発かっぱつし、2008ねん平成へいせい20ねん)6がつ在日ざいにちウイグルじん日本人にっぽんじん支援しえんしゃによって日本にっぽんウイグル協会きょうかい設立せつりつされ、世界せかいウイグル会議かいぎ傘下さんか団体だんたいとして活動かつどうおこなっている。

2009ねんウイグル騒乱そうらん直後ちょくごの2009ねん7がつにラビア・カーディルが度目どめ来日らいにちたしたが、中国ちゅうごく外交がいこうたけだいえらふく部長ぶちょう宮本みやもと雄二ゆうじちゅう中国ちゅうごく大使たいしび、「日本にっぽん政府せいふ即刻そっこく、カーディルの日本にっぽんでのはん中国ちゅうごくてき分裂ぶんれつ活動かつどう制止せいしすることをもとめる」と中国ちゅうごく政府せいふつよ不満ふまん表明ひょうめいした[96]中国ちゅうごく政府せいふは、カーディルが騒乱そうらん黒幕くろまくだと断定だんていしている[96]

2012ねん4がつ23にち日本にっぽんウイグル国会こっかい議員ぎいん連盟れんめい自民党じみんとう本部ほんぶ結成けっせいされ[97][98]日本にっぽん外務省がいむしょう安倍晋三あべしんぞう文雄ふみお三原みはらじゅん[99]山谷やまたにえり古屋こやけい衛藤えとう晟一せいいち新藤しんどう義孝よしたからが参加さんかしている[98]顧問こもん安倍晋三あべしんぞう中曽根なかそね弘文ひろふみ鴻池こうのいけさちはじめらがつとめるなど、日本にっぽん国会こっかい議員ぎいんでもウイグル問題もんだいあつかうようになっている。また同日どうじつ地方ちほう議会ぎかいでも東京とうきょう都庁とちょう日本にっぽんウイグル地方ちほう議員ぎいん連盟れんめい発足ほっそくした[98]

2013ねん10がつ、「トルキスタン・イスラムとう」を名乗なの団体だんたい天安門てんあんもん車両しゃりょう突入とつにゅうするテロが発生はっせいした。また、これにより日本人にっぽんじんにも負傷ふしょうしゃ発生はっせいした。「トルキスタン・イスラムとう」を名乗なの団体だんたい今後こんご人民大会堂じんみんだいかいどうふく中国ちゅうごく国内こくない複数ふくすう場所ばしょでも襲撃しゅうげき活動かつどうおこなうと宣言せんげんしたとされている[71]

2014ねんウルムチえき爆発ばくはつ事件じけん以降いこう当局とうきょくは「テロとのたたか」(いむ厲打げき暴力ぼうりょく恐怖きょうふ活動かつどうせんこう行動こうどういむだかあつ)をかかげ、厳格げんかく管理かんり統制とうせい構築こうちくした[100]様々さまざまハイテクもちいられていることが特徴とくちょうであり[101]、「世界せかいでもるいのない警察けいさつ国家こっか[102]完全かんぜん監視かんし社会しゃかい実験じっけんじょう[103]きずかれているとの欧米おうべいメディアや人権じんけん団体だんたいによる批判ひはんこっている[104]

2019ねん9がつ23にち国連こくれん総会そうかいわせてアメリカ国内こくない開催かいさいされた宗教しゅうきょう弾圧だんあつかんする会合かいごうでは、マイク・ペンスふく大統領だいとうりょうジョン・J・サリバン国務こくむふく長官ちょうかんらが、中国ちゅうごく政府せいふがウイグルじんへの弾圧だんあつおこなっているとして批判ひはんした[105]。これにたいして中国ちゅうごくがわ乱暴らんぼう内政ないせい干渉かんしょうだとしてアメリカがわ姿勢しせいつよ反発はんぱつした[106]

2020ねん7がつ、アメリカはウイグルにおける人権じんけん侵害しんがい理由りゆうとしてちん全国ぜんこく中国ちゅうごく政府せいふ高官こうかんすうにん査証さしょう発給はっきゅう制限せいげんとアメリカ国内こくない資産しさん凍結とうけつ措置そち発表はっぴょうした[107]。これにたいし、中国ちゅうごくがわマルコ・ルビオ上院じょういん議員ぎいんらへ、同様どうよう制裁せいさいくわえる対抗たいこう措置そち発表はっぴょうした[108]。また、アフリカ連合れんごう中国ちゅうごくはアメリカや西側にしがわ諸国しょこく人権じんけん利用りようして中国ちゅうごく発展はってん途上とじょうこく攻撃こうげきしていると批判ひはんした[109]

2021ねん10がつ国連こくれんにおいて欧米おうべい中心ちゅうしんとした43カ国かこく中国ちゅうごく新疆しんきょうウイグル自治じち人権じんけん状況じょうきょう懸念けねんしめ共同きょうどう声明せいめい発表はっぴょうしたが、発展はってん途上とじょうこく中心ちゅうしんとした63カ国かこく人権じんけん問題もんだい口実こうじつとした内政ないせい干渉かんしょう反対はんたいするとして中国ちゅうごく擁護ようごする共同きょうどう声明せいめい発表はっぴょうした[110]

2021ねんアメリカ、カナダ、オランダ、イギリス、リトアニアが新疆しんきょうウイグル自治じち大量たいりょう虐殺ぎゃくさつおこなわれていると認定にんていした[111][112][113][114]

2021ねん5がつ国連こくれんのバチェレ人権じんけん高等こうとう弁務べんむかん新疆しんきょうウイグル自治じちを2日間にちかん視察しさつし、中国ちゅうごく貧困ひんこん撲滅ぼくめつ男女だんじょ平等びょうどうへのみを評価ひょうかした一方いっぽうで、死刑しけい廃止はいし新疆しんきょうウイグル自治じちにおけるテロ対策たいさく見直みなおしをもとめた[115]

歴代れきだい指導しどうしゃ

[編集へんしゅう]
清末きよすえみんはつ

しん疆都とく

  1. 袁大
中華民国ちゅうかみんこく時代じだい
  1. 楊増しん(1912ねんしん疆都とく1928ねん南京なんきん国民こくみん政府せいふからしん疆省ちょう任命にんめい
  2. きむいつきひとし
  3. もり世才せさい(1933ねん - 1944ねん
ひがしトルキスタン・イスラーム共和きょうわこく大統領だいとうりょう
ひがしトルキスタン共和きょうわこく主席しゅせき
  1. アリー・ハーン・トラ(イリハン・トレ)(1944ねん - 1947ねん
しん疆省連合れんごう政権せいけん主席しゅせき
  1. ちょうおさむなか(1947ねん - 1948ねん
  2. マスード・サブリ(1948ねん
イリ政権せいけん

映画えいが

[編集へんしゅう]

ギャラリー

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ 『突厥与かい紇史』では、モンゴル高原こうげん東部とうぶおこり、のち西にしトルキスタン甘粛かんせいしょう新疆しんきょうウイグル自治じち移住いじゅうしたトルコけい民族みんぞく」としている。
  2. ^ on はテュルク数詞すうしの「10」の意味いみで、tuγがんまuz はおなじく数詞すうしの「9」の意味いみである。
  3. ^ M. Rawshan & M. Mūsavī,ほんしたがう。Али-Задеほん本文ほんぶんでは最初さいしょのアリフにはシャクルられていないので「アルグン(Arghūn)」ともめそうだが、Али-Задеほん335ぺーじ註3によると اورقون ūrghūnとしている写本しゃほんもあるため、M. Rawshan & M. Mūsavī,ほんみにしたがった。
  4. ^ しょみちたけみかど390ねんみちたけみかどきたおこなってこうくるま袁紇おおいにやぶり、多数たすう奴隷どれいうまうしひつじ20まんとうあまりる」
  5. ^ 邦訳ほうやくあつまりひろしゃ、2011ねん
  6. ^ タシュケントという証言しょうげんもある[90]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
  1. ^ しん疆维われ尔自统计きょく - archive.today - 2021/01/31簡体字かんたいじ中国語ちゅうごくご
  2. ^ 'The entire Uyghur population is seemingly being treated as suspect': China's persecution of its Muslim minority”. lse.ac.uk. LSE. 2018ねん9がつ22にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ2021ねん1がつ31にち閲覧えつらん
  3. ^ Ethnic groups of Kazakhstan in 2009”. www.almaty-kazakhstan.net. 2017ねん2がつ10日とおか時点じてんのオリジナルよりアーカイブ2021ねん1がつ31にち閲覧えつらん
  4. ^ Агентство Республики Каписью на 26,1% и составила 10098,6 тыс. человек. Увеличилась численность узбеков на 23,3%, составив 457,2 тыс. человек, уйгур - на 6%, составив 223,1 тыс. человек. Снизилась численность русских на 15,3%, составив 3797,0 тыс. человек; немцев - на 49,6%, составив 178,2 тыс. человек; украинцев – на 39,1%, составив 333,2 тыс. человек; татар – на 18,4%, составив 203,3 тыс. человек; других этносов – на 5,8%, составив 714,2 тыс. человек.
  5. ^ Uigurer som flytt Kina berättar om nytt liv i Turkiet”. 2021ねん1がつ31にち閲覧えつらん
  6. ^ Домен cjes.ru продается”. library.cjes.ru. 2011ねん7がつ19にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ2021ねん1がつ31にち閲覧えつらん
  7. ^ Уйгуры Узбекистана—Письма о Ташкенте”. mytashkent.uz. 2019ねん2がつ12にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ2021ねん1がつ31にち閲覧えつらん
  8. ^ Национальный статистический комитет Кыргызской Республики : Перепись населения и жилищного фонда Кыргызской Республики 2009 года в цифрах и фактах - Архив Публикаций - КНИГА II (часть I в таблицах) : 3.1. Численность постоянного населения по национальностям Archived 2012-03-08 at the Wayback Machine.
  9. ^ Nitaqat rules for Palestinians and Turkistanis eased”. arabnews.com. Saudi Labor Ministry. 2016ねん1がつ1にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ2021ねん1がつ31にち閲覧えつらん
  10. ^ Uighur abuse: Australia urged to impose sanctions on China”. www.sbs.com.au. 2018ねん9がつ11にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ2021ねん1がつ31にち閲覧えつらん
  11. ^ Lintner, Bertil (2019ねん10がつ31にち). “Where the Uighurs are free to be”. Asia Times. 2021ねん1がつ31にち閲覧えつらん
  12. ^ Shohret Hoshur; Shemshidin, Zubeyra (2010-04-06), “Pakistan Uyghurs in Hiding: Brothers blame raids and arrests on pressure from China”, Radio Free Asia, オリジナルの2010-05-13時点じてんにおけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20100513035854/http://www.rfa.org/english/news/uyghur/pakistan-uyghur-04062010143250.html 2021ねん1がつ31にち閲覧えつらん 
  13. ^ Перепись населения России 2010 года”. 2012ねん2がつ1にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ2021ねん1がつ31にち閲覧えつらん
  14. ^ Уйгуры. Кто такие. История народа. Где живут ныне (archive.today (2021-01-31))
  15. ^ Canada, Government of Canada, Statistics. “Census Profile, 2016 Census - Canada "Country" and Canada "Country"”. www12.statcan.gc.ca. 2018ねん4がつ28にち時点じてんのオリジナルよりアーカイブ2021ねん1がつ31にち閲覧えつらん
  16. ^ “Is their crossroads cuisine 'the next big thing'? Uyghurs hope so”. The Washington Post. (2017ねん3がつ3にち). オリジナルの2019ねん6がつ30にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20190630190022/https://www.washingtonpost.com/lifestyle/food/theyre-chinese-and-muslim-and-they-want-you-to-try-their-crossroads-cuisine/2017/03/03/906638bc-f91e-11e6-bf01-d47f8cf9b643_story.html 2021ねん1がつ31にち閲覧えつらん 
  17. ^ Hoshur, Shohret; Vandenbrink, Rachel. “Japan Backs Uyghur Rights” (英語えいご). Radio Free Asia. オリジナルの20180728時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180728190905/https://www.rfa.org/english/news/uyghur/japan-04242012181311.html 2021ねん1がつ31にち閲覧えつらん 
  18. ^ Shichor, Yitzhak (July 2013). “Nuisance Value: Uyghur activism in Germany and Beijing–Berlin relations”. Journal of Contemporary China 22 (82): 612–629. doi:10.1080/10670564.2013.766383. 
  19. ^ State statistics committee of Ukraine - National composition of population, 2001 census Archived 2014-10-08 at the Wayback Machine. (Ukrainian)
  20. ^ Touraj Atabaki, Sanjyot Mehendale (2004). Central Asia and the Caucasus: Transnationalism and Diaspora. p. 31. "The Uighurs, too, are Turkic Muslims, linguistically and culturally more closely related to the Uzbeks than the Kazakhs." 
  21. ^ Hahn 2006, p. 4.
  22. ^ Drompp 2005, p. 7.
  23. ^ “Uighur, n. and adj., Oxford English Dictionary, Oxford, England: Oxford University Press, http://www.oed.com/view/Entry/208581 
  24. ^ 大辞林だいじりん』(三省堂さんせいどう、1988ねん)の「ウイグル」こう
  25. ^ a b c d e 森安もりやす 2007, p. 32
  26. ^ Joshua Project - Uyghur Ethnic People in all Countries”. 2012ねん7がつ12にち閲覧えつらん
  27. ^ CNN.com - Xinjiang: On the new frontier - Apr 21, 2005”. 2012ねん7がつ24にち閲覧えつらん
  28. ^ a b しょふとしたけみかど列伝れつでんだいきゅうじゅういち だかしゃ
  29. ^ a b きた列伝れつでんだいはちじゅうろく だかしゃ
  30. ^ a b c d e f g しんとうしょ列伝れつでんだいいちひゃくよんじゅうじょう かい鶻上
  31. ^ a b ずいしょ列伝れつでんだいよんじゅうきゅう 北狄ほくてき
  32. ^ a b きた列伝れつでんだいはちじゅうなな てつ
  33. ^ a b c きゅうとうしょ列伝れつでんだいいちひゃくよんじゅう 迴紇
  34. ^ a b c しんとうしょ列伝れつでんだいいちひゃくよんじゅう かい鶻下
  35. ^ テス碑文ひぶん』。「」はみぎからひだりむ。
  36. ^ ドーソン/こう 1968,p326
  37. ^ a b c 加々美かがみ光行みつゆき中国ちゅうごく民族みんぞく問題もんだい危機きき本質ほんしつ岩波書店いわなみしょてん、2008ねん
  38. ^ a b Али-Заде 1968, p. 331
  39. ^ a b M. Rawshan & M. Mūsavī 1994, p. 138
  40. ^ Али-Заде 1968, pp. 331–332
  41. ^ M. Rawshan & M. Mūsavī 1994, pp. 139–140
  42. ^ a b ドーソン & こう 1968, pp. 320–321
  43. ^ Qazwíní 1912, pp. 40–41
  44. ^ Boyle 1958, pp. 55–57
  45. ^ きゅうとうしょ』、『しんとうしょ
  46. ^ 森安もりやす 2007
  47. ^ ひね 1991, 9しょう3
  48. ^ 森安もりやす 2007, p. 350
  49. ^ a b c d e f g 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん平凡社へいぼんしゃ1988(2007)所収しょしゅう「ウイグルぞく記事きじ
  50. ^ きゅうだい』、『そう
  51. ^ 世界せかい征服せいふくしゃ歴史れきし
  52. ^ 元朝がんちょう秘史ひし』による
  53. ^ 世界せかい征服せいふくしゃ歴史れきし』や『しゅう』など
  54. ^ もと』など
  55. ^ a b c d e f g h i j k l m n 大石おおいし 2003
  56. ^ a b 小松こまつ 2000, pp. 376–377
  57. ^ a b c 小松こまつ 2000, p. 371
  58. ^ 小松こまつ 2000, p. 372
  59. ^ 小松こまつ 2000, p. 373
  60. ^ a b c d e 小松こまつ 2000, p. 374
  61. ^ a b c d e 小松こまつ 2000, p. 375
  62. ^ a b c d 小松こまつ 2000, p. 378
  63. ^ 小松こまつ 2000, p. 379
  64. ^ 小松こまつへん pp.378-381
  65. ^ もうさと 1998, p. 139
  66. ^ しん 2003
  67. ^ John Graver, Chinese-Soviet Relations 1937-1945 (Oxford University, 1988, ISBN 978-0-19-505432-3)。かん訳書やくしょは『たいあずか盟友めいゆう』(りゅう戟鋒とうやく社会しゃかい科学かがく文献ぶんけん出版しゅっぱんしゃ、1992ねん
  68. ^ The Guantanamo 22”. アルジャジーラ. 2019ねん2がつ21にち閲覧えつらん
  69. ^ しん追記ついき
  70. ^ おう力雄りきお 2011
  71. ^ a b 外務省がいむしょう. “外務省がいむしょう 海外かいがい安全あんぜんホームページ”. 外務省がいむしょう 海外かいがい安全あんぜんホームページ. 2022ねん6がつ24にち閲覧えつらん
  72. ^ Uyghurs Protest in China's Remote Xinjiang Region (RFA 2008ねん4がつ1にち)
  73. ^ 広東かんとんかんぞく維族こうじん械鬥ひゃくきずほろび (VOA 2009ねん6がつ27にち)
  74. ^ 汪洋おうよう要求ようきゅうほう公正こうせい処理しょり旭日きょくじつ玩具おもちゃしょうぐんからだなぐ事件じけん (しんはなもう 2009ねん6がつ28にち)
  75. ^ 【ウイグル暴動ぼうどう】ウイグルぞくかんぞく襲撃しゅうげき、140にん死亡しぼう Archived 2011ねん01がつ8にち, at the Wayback Machine. ( MSN産経さんけいニュース 2009ねん7がつ6にち)
  76. ^ 2015ねん8がつ20にち毎日新聞まいにちしんぶん朝刊ちょうかん
  77. ^ “ウイグルぞく拘束こうそく相次あいつ中国ちゅうごく要請ようせいか”. 毎日新聞まいにちしんぶん. (2017ねん7がつ21にち). https://mainichi.jp/articles/20170722/k00/00m/030/097000c 2017ねん8がつ17にち閲覧えつらん 
  78. ^ テス碑文ひぶん』、『タリアト碑文ひぶん』、『シネ・ウス碑文ひぶん』、『カラ・バルガスン碑文ひぶん
  79. ^ 森安もりやす 1983, pp. 224–227
  80. ^ 森安もりやす 1988
  81. ^ 山口やまぐち 1985
  82. ^ a b 松井まつい 2008
  83. ^ al-Sudairi, Mohammed (October 23, 2014). "Chinese Salafism and the Saudi Connection". The Diplomat.
  84. ^ Zenn, Jacob (March 17, 2011). “Jihad in China? Marketing the Turkistan Islamic Party”. Terrorism Monitor (The Jamestown Foundation) 9 (11). https://jamestown.org/program/jihad-in-china-marketing-the-turkistan-islamic-party/ 2019ねん7がつ9にち閲覧えつらん. 
  85. ^ Zenn, Jacob (February 2013). Terrorism and Islamic Radicalization in Central Asia A Compendium of Recent Jamestown Analysis. p. 57. http://www.jamestown.org/uploads/media/Jamestown_articles_-_Terrorism_in_Central_Asia_February_2013.pdf 2019ねん7がつ9にち閲覧えつらん. 
  86. ^ Yali Xue et al 2006, Male demography in East Asia: a north-south contrast in human population expansion times Archived September 6, 2008, at the Wayback Machine.
  87. ^ a b c d e 森安もりやす 1997, p. 30
  88. ^ a b 荒川あらかわ 2010, 11しょう1
  89. ^ 『突厥与かい紇史』中編ちゅうへん8しょう4
  90. ^ ラティモア 1951, p. 167
  91. ^ 中田なかた 1983
  92. ^ a b c d e f おう柯 1995, pp. 32–33
  93. ^ a b c 大林おおばやし1974, pp. 156–157
  94. ^ おういつきくすのきしん疆図こころざし」51かん通宝つうほうかんのぞみりょうからし革命かくめいざい犁的見聞けんぶん」『しん疆文資料しりょうせん』1,1979ねん
  95. ^ a b c d 関岡せきおか 2010
  96. ^ a b 中国ちゅうごく日本にっぽんに「つよ不満ふまん」、世界せかいウイグル会議かいぎ・カーディル議長ぎちょう訪日ほうにち Record China 2009ねん7がつ30にち
  97. ^ 日本にっぽんウイグル協会きょうかい公式こうしきブログ (2012ねん4がつ23にち). 2012ねん7がつ13にち閲覧えつらん
  98. ^ a b c RFUJからのおらせ ラジオフリーウイグルジャパンブログ (2012ねん4がつ24にち). 2012ねん7がつ13にち閲覧えつらん
  99. ^ 三原みはらじゅんオフィシャルブログ (2012ねん4がつ23にち). 2012ねん7がつ13にち閲覧えつらん
  100. ^ Roberts, Sean R. (2018-03-22). “The biopolitics of China's "war on terror" and the exclusion of the Uyghurs”. Critical Asian Studies 50 (2): 232–258. doi:10.1080/14672715.2018.1454111. ISSN 1467-2715. 
  101. ^ しん疆:かんひかえきょうあたまはんこわ重要じゅうよう手段しゅだん みん眾對ぞうあたまゆう依賴いらいかん” (中国ちゅうごく). Now 新聞しんぶん. 2022ねん6がつ24にち閲覧えつらん
  102. ^ “China has turned Xinjiang into a police state like no other”. The Economist. (2018ねん5がつ31にち). ISSN 0013-0613. https://www.economist.com/briefing/2018/05/31/china-has-turned-xinjiang-into-a-police-state-like-no-other 2019ねん10がつ28にち閲覧えつらん 
  103. ^ 中国ちゅうごく完全かんぜん監視かんし社会しゃかい」の実験じっけんじょうしん疆をく”. ウォール・ストリート・ジャーナル. (2017ねん12月22にち). http://jp.wsj.com/articles/SB11070217722261694869804583589052841366988 2019ねん2がつ15にち閲覧えつらん 
  104. ^ 中国ちゅうごくしん疆当きょく住民じゅうみん生体せいたい情報じょうほう収集しゅうしゅう 人権じんけん団体だんたい報告ほうこく. CNN. (2017ねん12月14にち). https://www.cnn.co.jp/world/35111967.html 2019ねん10がつ28にち閲覧えつらん 
  105. ^ べい大統領だいとうりょう宗教しゅうきょう迫害はくがい終止符しゅうしふを」、中国ちゅうごくこめ非難ひなん”. ロイター (2019ねん9がつ24にち). 2019ねん11月22にち閲覧えつらん
  106. ^ ポンペオ発言はつげん乱暴らんぼう内政ないせい干渉かんしょう”. テレビ朝日てれびあさひ (2019ねん9がつ24にち). 2019ねん11月22にち閲覧えつらん
  107. ^ 美国びくに宣布せんぷ制裁せいさい侵犯しんぱんしん疆人权的中国ちゅうごくかん员及实体” (中国ちゅうごく). BBC News ちゅうぶん (2020ねん7がつ9にち). 2022ねん6がつ24にち閲覧えつらん
  108. ^ 中国ちゅうごくべい議員ぎいんらに制裁せいさい ウイグル問題もんだい報復ほうふく”. AFP (2020ねん7がつ13にち). 2020ねん8がつ10日とおか閲覧えつらん
  109. ^ region, Liu Xin Liu Xin co-leads the Global Times China desk She covers topics on China’s Xinjiang. “African envoys defend China on Xinjiang, say ‘no visit, no say’ - Global Times”. www.globaltimes.cn. 2022ねん6がつ24にち閲覧えつらん
  110. ^ 日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい. “中国ちゅうごく 新疆しんきょうウイグル自治じち人権じんけん状況じょうきょうめぐり国連こくれん非難ひなん応酬おうしゅう”. NHKニュース. 2022ねん6がつ24にち閲覧えつらん
  111. ^ “カナダ下院かいん 中国ちゅうごくのウイグル弾圧だんあつは「ジェノサイド」 動議どうぎ採択さいたく. 産経新聞さんけいしんぶん. (2021ねん2がつ23にち). オリジナルの2021ねん6がつ14にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210614111938/https://www.sankei.com/article/20210223-W7Z323WU4RORDGVCPAXHF7PVRE/ 
  112. ^ “Dutch parliament: China's treatment of Uighurs is genocide”. Reuters. (2021ねん2がつ25にち). https://www.reuters.com/article/us-netherlands-china-uighurs-idUSKBN2AP2CI 
  113. ^ Hefffer, Greg (2021ねん4がつ22にち). “House of Commons declares Uighurs are being subjected to genocide in China”. https://news.sky.com/story/house-of-commons-declares-uighurs-are-being-subjected-to-genocide-in-china-12283995 
  114. ^ Basu, Zachary (2021ねん5がつ20日はつか). “Lithuanian parliament becomes latest to recognize Uyghur genocide”. Axios. https://www.axios.com/lithuania-parliament-china-uyghur-genocide-ef0382b4-6fec-44a5-80b4-793d2618e094.html 
  115. ^ Statement by UN High Commissioner for Human Rights Michelle Bachelet after official visit to China” (英語えいご). OHCHR. 2022ねん6がつ24にち閲覧えつらん
  116. ^ ウイグルから少年しょうねん 公式こうしきサイト 2012ねん7がつ13にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
А.А. Али-Заде, ed (1968) [1314]. “1”. Джа̄миʿ ат-тава̄рӣх̮. 1. Москва 
Muḥammad Rawshan & Muṣṭafá Mūsavī, ed (1994) [1314]. Jāmiʿ al-tavārīkh. Tihrān 
Mírzá Muḥammad Qazwíní, ed (1912) [1260]. The Taʾríkh-i-jahán-gushá of ʿAláʾu ʾd-Dín ʿAṭá Malik-i-Juwayní. Layden 
John Andrew Boyle, tr (1958) [1260]. The History of the World-Conqueror by ʿAla-ad-Din ʿAta-Malik Juvaini. 1. Manchester 

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]