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タジクじん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
タジクじん
تاجيک
Тоҷик
そう人口じんこう
やく1650まん~2550まんにん
居住きょじゅう地域ちいき
アフガニスタンの旗 アフガニスタン860まん0000にん
(それ以上いじょうとも)
タジキスタンの旗 タジキスタン584まん9331にん
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン140まん0000にん
パキスタンの旗 パキスタン122まん0000にん
イランの旗 イラン50まん0000にん
ロシアの旗 ロシア12まん0000にん
ドイツの旗 ドイツ9まん0000にん
カタールの旗 カタール8まん7000にん
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく5まん2000にん
中華人民共和国の旗 中国ちゅうごく4まん1083にん
カナダの旗 カナダ1まん5870にん
言語げんご
ペルシアひとしイランけい言語げんごアフガニスタンではダリータジキスタンおよび中国ちゅうごくではタジクばれる)その各国かっこく公用こうよう
宗教しゅうきょう
イスラームきょう正教会せいきょうかい
関連かんれんする民族みんぞく
ペルシアじんウイグルパミールじんヤグノブじん

タジクじんペルシア: تاجيک‎, Tājīk; タジク: Тоҷик) は、タジキスタンアフガニスタン中心ちゅうしん居住きょじゅうするイランけい民族みんぞく。スキタイ遊牧民ゆうぼくみんであったひがしイランけい人々ひとびときん現代げんだいてき民族みんぞく区分くぶんである。

起源きげん

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タジクじんテュルク元々もともと古代こだいから中央ちゅうおうアジアにみ、中央ちゅうおうアジアを起源きげんにする。スキタイ遊牧民ゆうぼくみんであったタジクはアルタイに遊牧民ゆうぼくみんおおくの影響えいきょうあたえた。もともとは古代こだいから近世きんせいにかけての中央ちゅうおうアジアイラン高原こうげんといった中央ちゅうおうユーラシア乾燥かんそう地帯ちたいにおいて、住民じゅうみんを2つのグループに大別たいべつタージーク(タジク)とテュルクんでいたことに由来ゆらいする。ここでいうタジクとは、ペルシアけい言語げんご使つかい、都市としあるいはオアシスひとおおく、都市とし文化ぶんかになじんだしょ集団しゅうだんぞくする人々ひとびと一方いっぽうテュルクとは、ペルシアけい言語げんご影響えいきょうつよけたテュルクけい言語げんご使つかい、おおくは都市としやオアシスのあいだひろがるステップ地帯ちたいでに遊牧民ゆうぼくみんしょ集団しゅうだんぞくしている人々ひとびと意味いみであった。

現在げんざいタジク民族みんぞくとされている人々ひとびとは、スキタイの遊牧民ゆうぼくみんまきバクトリアひとソグドじんサカじんなど、中央ちゅうおうアジア歴史れきしめるおおくの民族みんぞく系譜けいふいている。タジク民族みんぞくもととなったタージークとばれるしょ集団しゅうだん原型げんけいは、9世紀せいきから10世紀せいきひがしイランはなしていたバクトリアじんおよびソグドじん西にしイランぞくするダリー(ファルシー)をはなすようになっていった9~10世紀せいき形成けいせいされた。この地域ちいき遊牧民ゆうぼくみん言語げんごてき文化ぶんかてきテュルクまでには、この言語げんごはな人々ひとびとは、ギンドゥクシャ北方ほっぽうおよ南方なんぽう広範囲こうはんいなオアシスにひろがり、定住ていじゅうするにいたっていた。

語源ごげん

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語源ごげん不明ふめい。しかし一説いっせつに、ペルシャで「王冠おうかん」を意味いみする Taj に由来ゆらいし、民族みんぞく衣装いしょうタジクぼう形状けいじょうあらわす。あるいは、アラブけい部族ぶぞくであったタイイじん英語えいごばんどう語源ごげんであるともいう。

人種じんしゅ

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ペルシアけいイランけい)にぞくするために、基本きほんてきにはコーカソイドで、父系ふけいしめY染色せんしょくたいハプログループは、Wells(2001)によれば、R1aが44.7%、Jが18.4%、R2が7.9%、Lが8%、Hが5%である[1]

宗教しゅうきょう

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現在げんざいのタジクじん宗教しゅうきょうイスラム教いすらむきょうであるが、宗派しゅうはスンナ主流しゅりゅうであり、少数しょうすうなかではイスマーイールおおい。これはイランにおける狭義きょうぎペルシアじんおもじゅうイマームであるのとは対照たいしょうてきである。

言語げんご

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西にしイランぐんぞくするペルシアけい言語げんごアフガニスタンではダリータジキスタンおよびウズベキスタンではタジクばれる)が主流しゅりゅうで、少数しょうすう集団しゅうだんひがしイランぐんぞくするパミール中国ちゅうごくではこの系統けいとう言語げんごがタジクばれる)やヤグノビなどをはなす。

各国かっこくのタジクじん

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現在げんざいアフガニスタン北部ほくぶ居住きょじゅうするタジクじんは、ドゥッラーニーあさ創設そうせつしゃアフマド・シャー・ドゥッラーニーにより王朝おうちょう支配しはい構成こうせい集団しゅうだん編入へんにゅうされた。これが近代きんだい国家こっかとして認識にんしきされるようになる、きん現代げんだいアフガニスタン国家こっか国民こくみんとして、タジクじんふくまれるようになる起源きげんである。それ以来いらいパシュトゥーンじん統治とうちしゃは、くに統治とうちたって、タジクじん考慮こうりょれざるをず、1936ねんまではタジクじん使用しようするダリー唯一ゆいいつ公用こうようだった。

ただし、アフガニスタンのような中央ちゅうおうユーラシア世界せかいでは、テュルクけい主体しゅたいとする遊牧ゆうぼく勢力せいりょくが、得意とくいとする騎馬きば軍事ぐんじりょくもと軍事ぐんじりょく王権おうけん政治せいじ担当たんとうし、都市とし文化ぶんか精通せいつうし、文書ぶんしょ事務じむ得意とくいとするタージーク勢力せいりょく拠点きょてん都市とし文書ぶんしょ行政ぎょうせい担当たんとうするという構図こうずは、中世ちゅうせいから近世きんせいにかけては普遍ふへんてきなものであった。アフガニスタンの場合ばあいも、この時代じだい遊牧ゆうぼく軍事ぐんじ勢力せいりょくとしてはめずらしく、テュルクけいではなくインド・イラン言語げんご使用しようするものの、遊牧ゆうぼく騎馬きば軍事ぐんじ勢力せいりょくたるパシュトゥーンけい王権おうけん勢力せいりょくが、みずからは騎馬きば軍事ぐんじ王権おうけん政治せいじ専念せんねんし、文書ぶんしょ行政ぎょうせい都市としやオアシスを拠点きょてんとするタージーク勢力せいりょくにまかせ、タージーク勢力せいりょく言語げんご行政ぎょうせい公用こうようとして採用さいようした。

また、1776ねんにアフガニスタンの首都しゅとはパシュトゥーンじん優勢ゆうせいカンダハールからタジクじん優勢ゆうせいカーブル移転いてんされた。これも、テュルクけい集団しゅうだんやパシュトゥーンじんのような遊牧ゆうぼく軍事ぐんじ勢力せいりょく都市としない都市としがい近郊きんこう移動いどうしつつ軍事ぐんじ政治せいじ中枢ちゅうすう独占どくせんし、文書ぶんしょ行政ぎょうせい事務じむは、タージーク勢力せいりょくがその拠点きょてん都市とし行政ぎょうせい機関きかんきょいたり、移動いどうする宮廷きゅうてい随伴ずいはんして担当たんとうするという、中世ちゅうせいから近世きんせいにかけての中央ちゅうおうアジアの政治せいじ行政ぎょうせい状況じょうきょう一般いっぱん形態けいたい共通きょうつうした現象げんしょうることもできるし、王権おうけん中枢ちゅうすう勢力せいりょくとある意味いみ対等たいとう側面そくめんゆうするほかのパシュトゥーンじんしょ集団しゅうだんは、かならずしも王権おうけん中枢ちゅうすう構成こうせいするパシュトゥーンけい勢力せいりょくにとって安定あんていてき忠誠ちゅうせい期待きたいできる安全あんぜん存在そんざいではなく、王権おうけん忠誠ちゅうせいちか官僚かんりょう集団しゅうだん輩出はいしゅつするタージーク勢力せいりょくほう王権おうけん中枢ちゅうすうのパシュトゥーンけい勢力せいりょくにとっては信頼しんらいけたという側面そくめん考慮こうりょできる。

現在げんざい、タジクじんヘラートのオアシス、ヒンドゥークシュ山脈さんみゃくみなみ斜面しゃめんパンジシールしゅう、ゴルベンドおよサラング峡谷きょうこくならびに北東ほくとう辺境へんきょうバダフシャーンしゅうの3だい地域ちいき集中しゅうちゅうしている。

タジクじんは、平野ひらのじん山岳さんがくじんの2つのグループにけることができる。平野ひらのじんは、比較的ひかくてき早期そうきにパシュトゥーンじん君主くんしゅ服従ふくじゅうした。平野ひらのじんだい部分ぶぶんスンニーである。平野ひらのタジクじんは、伝統でんとうてきにパシュトゥーンじん統治とうちしゃ忠実ちゅうじつであった。パシュトゥーンじん元来がんらい遊牧ゆうぼく集団しゅうだんつねとして多核たかくてき中央ちゅうおう集権しゅうけんてき集団しゅうだん構成こうせい原理げんりち、王権おうけんたいして分派ぶんぱ活動かつどうをとるものたちてくることがまれではない。そのため平野ひらのタジクじんは、王権おうけん中枢ちゅうすう構成こうせいする集団しゅうだん以外いがいのパシュトゥーンけい集団しゅうだんへの対抗たいこう勢力せいりょくとしての兵士へいしとしても利用りようされ、その上層じょうそう王国おうこくにおいて文書ぶんしょ行政ぎょうせい官僚かんりょうのみではなく、軍人ぐんじん貴族きぞくをも形成けいせいした。

山岳さんがくタジクじん非常ひじょう独立どくりつ精神せいしんみ、かつ好戦こうせんてきであり、パシュトゥーンけい王権おうけん反抗はんこうてきでアフガニスタンの歴史れきしとおして反乱はんらん戦争せんそうえなかった。山岳さんがくタジクじんしゅとしてスンナシーアかれ、バダフシャーンしゅうではニザールぞくしている。ソビエト連邦れんぽうのアフガニスタン侵攻しんこうや、その内戦ないせんさいには、アフマド・シャー・マスードひとしのような有能ゆうのう野戦やせん指揮しきかん多数たすう輩出はいしゅつしている。

ソ連それん撤退てったいターリバーン台頭たいとうすると「タジクじんはタジキスタンへかえるべき」として圧迫あっぱくけた[2]

1929ねん12月5にちタジク・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく設立せつりつされた。

タジキスタン共産党きょうさんとう初期しょき要員よういんは、南部なんぶじん、カラテギン(沿パミール地区ちく)、パミールおよびクリャーブの一部いちぶ代表だいひょうしゃから形成けいせいされた。ボリシェビキ政策せいさくは、山岳さんがくじん閉鎖へいさてき生活せいかつ様式ようしきえる契機けいきともなった。カラテギンだけはイスラム教いすらむきょう影響えいきょうのこされ、タジキスタンの現状げんじょうにも影響えいきょうしている。

1937ねん最初さいしょにタジク革命かくめい政府せいふ樹立じゅりつした南部なんぶじんは、完全かんぜん粛清しゅくせいされた。だい世界せかい大戦たいせん、ホジェント出身しゅっしんしゃ権力けんりょくうつった。

ホジェント(きゅうレニナバード)は、イスラム神学しんがくのエリート、ホージャの領地りょうちである。その規律きりつ互助ごじょは、かれらが80年代ねんだいいたるまで権力けんりょく維持いじすることをたすけた。しかし、パミールじんとクリャーブじんも、権力けんりょく闘争とうそうくわわりはじめた。

さい南部なんぶ地域ちいきのクリャーブはイスラム保守ほしゅ主義しゅぎさらされず迅速じんそくあたらしい価値かちれたが、その代表だいひょうしゃたちとう指導しどうにおいてつねてき役割やくわりあまんじ、地区ちく自体じたいつね最貧さいひん地区ちくの1つだった。

ゴルノ・バダフシャン自治じちしゅう住民じゅうみんであるパミールじんは、地域ちいきとはことなる民族みんぞく文化ぶんか言語げんごゆうし、宗教しゅうきょうてきにはイスラム教いすらむきょうシーア一派いっぱであるイスマーイールぞくする(タジクじんおおくは、スンニー)。

タジキスタンにおける科学かがく文化ぶんかは、サマルカンドおよびブハラ出身しゅっしんしゃになった。

1929ねん12月5にちタジク・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく設立せつりつやく140まんにんのタジクじんがウズベク領内りょうないのこされて、ウズベキスタンの人口じんこうの5%をめている。ソ連それん時代じだいに、ウズベクはなすことのできるタジクじんはウズベクじん分類ぶんるいされたため、タジクじん実際じっさいには相当そうとうすういるものとされる。実際じっさいには、人口じんこうの20~30%をめているという調査ちょうさもある。サマルカンドやブハラ、シャフリサブスなどのウズベキスタン南部なんぶ地域ちいきフェルガナ盆地ぼんち地域ちいきシルダリヤかわ沿岸えんがん地域ちいきではタジク広範囲こうはんいにわたってはなされており[3]、タジクけん地域ちいきとなっている。ウズベキスタンではタジク教育きょういく禁止きんしされ、家庭かていないとうでの使用しよう限定げんていされている。そのため、タジク話者わしゃはほとんどがウズベクとの完全かんぜんなバイリンガルでもあり統計とうけいじょうではタジク割合わりあいは4.4%にぎないが、ぜん人口じんこうの20%~30%前後ぜんごのタジクじんがいるものと推測すいそくされる[4]。このことから、ウズベキスタンはタジキスタンにぐタジクじん国家こっかともいえる。

今日きょう中国ちゅうごくりょう版図はんとないでは、タジクの人々ひとびと伝統でんとうてきタリム盆地ぼんち新疆しんきょうウイグル自治じち西部せいぶ都市としやオアシス集落しゅうらく拠点きょてんとしてきた。宗教しゅうきょうはタジキスタンとことなり、住民じゅうみんのほとんどがシーアイスマーイール7イマーム)にぞくする。また、言語げんごパミールけいサリコルワヒもちいる。

中国ちゅうごくでは、しんだいからみんこくにかけ、しんを「かい」(「ムスリムの土地とち」の)、その住人じゅうにんたちを「かい」(「ムスリムたちの集団しゅうだん組織そしき」の)としょうし、同君どうくん連合れんごうてき構成こうせい原理げんり清朝せいちょうぞくしょ種族しゅぞくを「ぞくみつるこうむかいぞうかん)」と総称そうしょうするさいには、タジクけいしょ集団しゅうだんを、テュルクけいしょ集団しゅうだんとともに「かい」の概念がいねん一括いっかつしてきた。

からし革命かくめい中華民国ちゅうかみんこくでは近代きんだいてき国民こくみん国家こっかとしての体制たいせい確立かくりつするため、建国けんこく直後ちょくごよりきゅう清朝せいちょうぞくしょ政権せいけんぞくする国民こくみん歴史れきしてき古代こだい以来いらい中国ちゅうごく国民こくみんである「中華ちゅうか民族みんぞく」なる固有こゆう民族みんぞくであると、政治せいじてき定義ていぎし、その構成こうせい要素ようそたるぞく共和きょうわうたった。さらに中国共産党ちゅうごくきょうさんとう政権せいけん奪取だっしゅし、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつすると、その内部ないぶ言語げんご文化ぶんか差異さいにもとづいて民族みんぞくべつ区分くぶんする民族みんぞく識別しきべつ工作こうさくおこない、かんぞくと「55の少数しょうすう民族みんぞく」とに区分くぶんした。タジクけいしょ集団しゅうだんは、この措置そちによって「タジクぞくとうよしかつぞく」として独立どくりつしたひとつの「少数しょうすう民族みんぞく」としての地位ちい獲得かくとくした。

関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Wells, Spencer et al. 2001, The Eurasian Heartland: A continental perspective on Y-chromosome diversity
  2. ^ 地球ちきゅう悲鳴ひめい なげきのハザラ アフガニスタンの異端いたんしゃ”. NATIONAL GEOGRAPHIC (2008ねん). 2021ねん8がつ16にち閲覧えつらん
  3. ^ Lena Jonson, "Tajikistan in the New Central Asia", Published by I.B.Tauris, 2006. p. 108: "According to official Uzbek statistics there are slightly over 1 million Tajiks in Uzbekistan or about 4% of the population. The unofficial figure is over 6 million Tajiks. They are concentrated in the Sukhandarya, Samarqand and Bukhara regions."
  4. ^ Richard Foltz, "The Tajiks of Uzbekistan", Central Asian Survey, 213-216 (1996).

外部がいぶリンク

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