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まんしゅう民族みんぞく

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出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
満州まんしゅう民族みんぞくから転送てんそう
まんしゅう民族みんぞく
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ヌルハチ(あいしんさとしホンタイジ(あいしんさとしげん燁(あいしんさとしたね禛(あいしんさとし
ひろれきあいしんさとし西にしふとしきさき(イェヘ=ナラ湉(あいしんさとし溥儀ふぎあいしんさとし
ドルゴン(あいしんさとしオボイ(グヮルギャヘシェン(ニオフル溥傑(あいしんさとし
ろうしゃあらわ玗(あいしんさとしロザムンド・クワンろうろう
そう人口じんこう
10,700,000
ぜん人類じんるいの0.15%
見積みつもり
居住きょじゅう地域ちいき
中華人民共和国の旗 中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく10,682,263[1]
香港の旗 香港ほんこん288[2]
中華民国の旗 中華民国ちゅうかみんこく12,000[3]
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく379[4]
関連かんれんする民族みんぞく
シベぞくダウールぞくモンゴルぞくかん民族みんぞくなど

まんしゅう民族みんぞく(まんしゅうみんぞく、マンジュみんぞく、まんしゅう: ᠮᠠᠨᠵᡠ
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転写てんしゃ: manju uksura)は、ツングースけい民族みんぞくひとつで、中国ちゅうごく東北とうほくロシア沿海えんかい地方ちほうきゅうまんしゅう)などに発祥はっしょうし、現在げんざい中国ちゅうごく各地かくち散在さんざいしている民族みんぞくである。まんしゅうぞく(まんしゅうぞく、マンジュぞく)、まんぞく(まんぞく、マンぞく)などともばれる。

おなじく中国ちゅうごく東北とうほくおこり、かつてかね建国けんこくしたおんなしん祖先そせんとする。17世紀せいき現在げんざい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくおよびモンゴルこく全土ぜんど支配しはいするきよしおこした[5]清朝せいちょうでは、民族みんぞく全体ぜんたいはちはたまんしゅう: ᠵᠠᡴᡡᠨ
ᡤᡡᠰᠠ
転写てんしゃ: jakūn gūsaやっつのはた)に組織そしきされ(まんしゅうはちはた)、こうむはちはたかんぐんはちはたばれるおもにモンゴルじんかんじんによって構成こうせいされた軍事ぐんじ集団しゅうだんはちはたのメンバーとともにはたじんともばれた。同系どうけい民族みんぞくシベウデヘナナイウリチウィルタなどがある。中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくによる民族みんぞく識別しきべつ工作こうさくでは、こうむはちはたかんぐんはちはたふくむ「はたじん末裔まつえい全体ぜんたいが「まんぞく」に「識別しきべつ」(=区分くぶん)され、「55の少数しょうすう民族みんぞく」のひとつとされた。2010ねん中国ちゅうごく国勢調査こくせいちょうさでは人口じんこう1,038まんにんとされ、「少数しょうすう民族みんぞく」としてはチワンぞくかいぞく人口じんこうである[6][注釈ちゅうしゃく 1]

概要がいよう

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ふくしゅうまんしゅう民族みんぞく(1915ねん

まんしゅう」の漢字かんじまんしゅう民族みんぞくめいᠮᠠᠨᠵᡠmanju(マンジュ)ので、元来がんらいは「まんしゅう」であるが、現在げんざい日本にっぽんでは一般いっぱん常用漢字じょうようかんじをもって「満州まんしゅう」と表記ひょうきすることがおお[5]

まんしゅうについては「しゅう」の文字もじふくまれていることから、まんしゅう民族みんぞくおこった地域ちいきは、現在げんざいでも英語えいごではまんしゅう民族みんぞく土地とちという意味いみでマンチュリア(“Manchuria”)のように地域ちいき呼称こしょうとしてもちいられ、これに対応たいおうして日本語にほんごでも「中国ちゅうごく東北とうほく」を広域こういき地名ちめいまんしゅう満州まんしゅう)」とばれたり、国境こっきょうまちまんしゅうさと」など地域ちいき名称めいしょうのイメージがつよい。とく民族みんぞくのことを場合ばあいは、まんしゅう民族みんぞくまんしゅうぞくまんしゅうじんまんじんなどと表記ひょうきする。しかし、中国ちゅうごくにおいてはあくまでも民族みんぞくめいであり、土地とち名前なまえではない。まんしゅうにおいても "ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ, manju" はもっぱまんしゅうぞくし、「まんしゅう (ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ
ᡤᡳᠰᡠᠨ
, manju gisun) 」、「まんしゅう文字もじ (ᠮᠠᠨ᠋ᠵᡠ
ᡥᡝᡵᡤᡝᠨ
, manju hergen)」なども「まんしゅうじん言葉ことば」「まんしゅうじん文字もじ」とほぐされる。

民族みんぞくめいである まんしゅう/マンジュの起源きげんについては諸説しょせつあり、いまのところ不明ふめいである。しばしば、サンスクリットのマンジュシュリー(文殊もんじゅ文殊もんじゅ菩薩ぼさつのこと)に由来ゆらいするともいわれるが[7]元来がんらい16世紀せいきまでにおんなしんしたくくられていた人々ひとびとのうち、けんしゅうおんなじき[注釈ちゅうしゃく 2]ぞくする5つの部族ぶぞく(スクスフ、フネヘ、ワンギャ、ドンゴ、ジェチェン)を一括いっかつする呼称こしょうであった[8]日本にっぽん東洋とうよう学者がくしゃである岡田おかだ英弘ひでひろ清朝せいちょう時代じだいダライ・ラマが「マンジュとわれるからには、清朝せいちょう皇帝こうてい文殊もんじゅ菩薩ぼさつ化身けしんである」と宣伝せんでんしたものをだい6だい皇帝こうていいぬいたかしみかど政治せいじてき利用りようしたところから、文殊もんじゅ菩薩ぼさつ民族みんぞくめい由来ゆらいとなったという俗説ぞくせつまれたのではないかとしている[9]

現在げんざい中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくのもとでは、モンゴルじん漢人かんど末裔まつえい一部いちぶきゅうこうむはちはた」、きゅうかんぐんはちはた」の末裔まつえいら)とわせて「まんぞく」(Mănzú)としてひとくくりにされ、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく55の少数しょうすう民族みんぞくひとつと位置付いちづけられている。1911ねんからし革命かくめいによる清朝せいちょう崩壊ほうかい排斥はいせきけた過去かこち、1949ねん中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつしたのちには少数しょうすう民族みんぞくおなじく区域くいき自治じちけんあたえられ、合計ごうけい11の自治じちけんがある(一覧いちらん後述こうじゅつ)。映画えいがラストエンペラー』でられる清朝せいちょう最後さいご皇帝こうていである溥儀ふぎや、戯曲ぎきょくちゃかん』などの作品さくひん有名ゆうめい作家さっかろうしゃまんしゅうじん出身しゅっしんである[6]

分布ぶんぷ

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えいりょうよんてい
えいりょうりゅうかべ

まんしゅうぞくは、かつて中国ちゅうごく支配しはいしたきよしあさはたじん末裔まつえいであり、中国ちゅうごく全土ぜんど散在さんざいする[5]過半数かはんすうは、遼寧りょうねいしょう居住きょじゅうしており[6]河北かほくしょう吉林きつりんしょう黒竜江こくりゅうこうしょう内モンゴル自治うちもんごるじち新疆しんきょうウイグル自治じち甘粛かんせいしょう山東さんとうしょうにも分布ぶんぷし、北京ぺきん天津てんしん成都せいと西安しーあん広州こうしゅう銀川ぎんかわなどの大都市だいとしやその中小ちゅうしょう都市としにも居住きょじゅうする。清朝せいちょう前期ぜんき公文書こうぶんしょ民間みんかん史料しりょうまんしゅうだけでしるされているが、ひとびとのまんしゅうたいする意識いしきうすれており、まんしゅう危機ききひんしている[6]。『朝日新聞あさひしんぶん』の報道ほうどうによれば2013ねん時点じてんで、中国ちゅうごく国内こくないまんしゅうかいし、文献ぶんけんめるレベルの学者がくしゃけっしておおくないという。一方いっぽう黒竜江こくりゅうこう大学だいがく中央ちゅうおう民族みんぞく大学だいがく北京ぺきん社会しゃかい科学かがくいんなどをはじめとする大学だいがく研究けんきゅう機関きかんによってもまんしゅうかんする研究けんきゅうおこなわれている。まんしゅう文字もじモンゴル文字もじ起源きげんとするアルファベットであり、まんしゅう文字もじかいすモンゴルぞく研究けんきゅうしゃ(哈斯ともえとくなんじ(ハスバートル)など)もおられる。日本にっぽんでも有名ゆうめいな『論語ろんご』『孟子もうし』『詩経しきょう』『孫子まごこ兵法ひょうほう』など中国ちゅうごく伝統でんとう文化ぶんか代表だいひょうする著作ちょさくにもまんしゅう訳本やくほん存在そんざいし、まんしゅう文字もじ漢文かんぶん併記へいきされている。研究けんきゅう機関きかん以外いがい場所ばしょ自学じがく授業じゅぎょうつうじてまんしゅう習得しゅうとくした学習がくしゅうしゃ人数にんずうのぞいても、まんしゅうかいし、文献ぶんけんむことができるレベルの学者がくしゃが10めいほどにぎないのはうたがわしい[6]

清朝せいちょう発祥はっしょうといわれているのが、遼寧りょうねいしょうなでじゅんしんまろうどまんぞく自治じちけんである[6]。しかし、そこにあってもまんしゅう民族みんぞく小学校しょうがっこうは1こうしかなく、まんしゅうぞく固有こゆうせいもちいる児童じどうもいない[6]一方いっぽうで、ヌルハチがしろてらきずいて最初さいしょ根拠地こんきょちとしたヘトゥアラᡥᡝᡨᡠ᠋
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hetu ala、赫図おもねひしげ[注釈ちゅうしゃく 3]、すなわち、どう自治じちけん西方せいほうえいりょう鎮老城村じょうむらはヌルハチ即位そくいであり、ヌルハチの祖先そせん陵墓りょうぼであるえいりょうがあり、太陰暦たいいんれき4がつ18にち各地かくちまんしゅうぞくあつまる祭礼さいれいとなっている[11][注釈ちゅうしゃく 4]

まんしゅう民族みんぞく人口じんこう清朝せいちょう時代じだいには200まんにんほどとされていたが、清朝せいちょう滅亡めつぼう迫害はくがいおそれたため、つづいておこなわれた中華民国ちゅうかみんこく初期しょき国勢調査こくせいちょうさみずからをまんしゅうぞくとしたのはやく50まんにんにすぎなかったという。しかし、少数しょうすう民族みんぞく権利けんりうたわれるようになると、その人口じんこう一気いっきに500まんにんえたといわれている。

主要しゅよう分布ぶんぷいき

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まんしゅうぞく自治じちけん
シベぞく自治じちけん

自治じちけん民族みんぞく鎮・民族みんぞくきょう

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歴史れきし

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古代こだい記録きろく

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文献ぶんけんじょうによれば、狩猟しゅりょうみんたたえさるそれせいいしを、あるいは以降いこう物産ぶっさんといった。(はく)という民族みんぞくもあったが[13]戦国せんごく時代じだいからかんだいにかけてのかん民族みんぞく進出しんしゅつらくなみぐんぜん108ねん設置せっち以下いか4ぐん設置せっちといううごきのなかで、貊のなかからおっとあまりこった[13]

高句麗こうくり建国けんこくしたのもかんぞくではなく、貊族であった。7世紀せいき末葉まつようあわまつ靺鞨高句麗こうくりのこみんくわえ、みなみまんしゅうから現在げんざい朝鮮半島ちょうせんはんとう北部ほくぶにかけてのに、「うみひがしもりこく」としょうされた渤海建国けんこくされた[5][13][注釈ちゅうしゃく 5]

きむ王朝おうちょうおんなしんぞく

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1142ねんにおけるおんなしんぞく王朝おうちょうかね」と周辺しゅうへんしょ王朝おうちょう
そうみなみそう)はかん民族みんぞく王朝おうちょう西にしなつはチベットけいタングート王朝おうちょうだいはチベットけいペーぞく王朝おうちょう

はんのうはんりょうおんなしんぞくかんがおおもねほね(ワンヤン・アクダ)[15][注釈ちゅうしゃく 7]により統一とういつされた。おんなしんは、靺鞨ななのうち、黒水くろみず靺鞨ばれた集団しゅうだんだとかんがえられる[16]かねは、渤海をほろぼしたモンゴルけいちぎりぞくによる遊牧民ゆうぼくみん王朝おうちょうりょうほろぼし、さらに1126ねんかん民族みんぞく王朝おうちょうそう徽宗欽宗のニみかどおよび皇族こうぞく重臣じゅうしんらをらえて中国ちゅうごく北半きたはん支配しはいし、つばめきょう(いまの北京ぺきん)にうつして宋朝そうちょうみなみへといやった[5][17]体系たいけい整備せいびし、政府せいふ組織そしき中央ちゅうおう地方ちほうともに中国ちゅうごくふうにして支配しはい体制たいせいととのえたが、軍事ぐんじ権力けんりょくつよにぎって独占どくせんしたのはおんなしんぞくであり、政府せいふ首脳しゅのうもまたじょしんぞくによってめられた[5][17]おんな真人しんじんには行政ぎょうせい軍事ぐんじねたミンガン・ムクンの制度せいどなどがとられ特別とくべつ保護ほごけた[17]東北とうほくまんしゅう)にあってはだい部分ぶぶんもうやすはかりごとかつせいによって統治とうちされたが、民族みんぞく西部せいぶ南部なんぶではしゅうけんせい採用さいようされた[17]

きむはしかし、1206ねんチンギス・カンによって成立せいりつしたモンゴル帝国ていこく猛攻もうこうけて劣勢れっせいち、開封かいふううつしたものの1232ねんにはその開封かいふう包囲ほういされた[18]。そして、1234ねんオゴデイらの進撃しんげきにより、逃走とうそうしていたあいむね自殺じさつしてかねほろんだ[5][17][18]一方いっぽう、これに先立さきだって、ちぎり反乱はんらん鎮圧ちんあつしょうして挙兵きょへいしていたきむ王朝おうちょうしょうかばまんやつは、1215ねんかねより自立じりつして「天王てんのう」を名乗なのり、ひがしなつこくだいしんこく)を建国けんこくしていた[18]ひがしなつは、モンゴルに服属ふくぞくしたり自立じりつしたりをかえしていたが、このくにもまた、1233ねん、オゴデイのグユクによってほろぼされた[17][18]

おんなしんぞくは、きむがモンゴル帝国ていこくほろぼされてからのちは、モンゴル帝国ていこく大元おおもと大明だいめい支配しはいかれた[17][19]。そのあいだかね時代じだい創始そうししたおんな文字もじもしだいにうしなわれ、きむ建国けんこく以前いぜん部族ぶぞく集団しゅうだん後退こうたいした[19]当時とうじおんなしんぞく家族かぞくは、主人しゅじん奴婢ぬひ完全かんぜん二分にぶんされており、主人しゅじん狩猟しゅりょう採集さいしゅう交易こうえき戦争せんそうなどのそと仕事しごと奴婢ぬひ農耕のうこうブタ飼養しようなど食糧しょくりょう生産せいさん担当たんとうするという分業ぶんぎょう体制たいせい確立かくりつしていた[20]。その役割やくわり固定こていし、世襲せしゅうされていったが、代々だいだい起居ききょ食事しょくじをともにし、双方そうほう物産ぶっさん物資ぶっしへだてなく均等きんとう分配ぶんぱいされたから、両者りょうしゃむすびつきはきわめて緊密きんみつであった[20]東北とうほく残留ざんりゅうしたおんなしんおんなじき)は、もとだいにはりょうとうしょゆき中書ちゅうしょしょう管轄かんかつはいったが、その統制とうせいはゆるやかなもので、ほぼ完全かんぜん自治じちがゆるされていた[21]だいからにかけてひとは、半島はんとうぞくしたにあった[8][17][注釈ちゅうしゃく 8]

おんなしんぞくからまんしゅうぞく

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まんしゅう文字もじみぎ)と漢字かんじひだり
むらさき禁城きんじょう北京ぺきんいぬいきよしもんがく

とりわけながら中国ちゅうごく本土ほんど相対そうたいてきちかけんしゅうおんなじきからスクスフ有力ゆうりょく氏族しぞくだった英傑えいけつ拡大かくだいした[17]。ヌルハチの支配しはいする領域りょういきは、一方いっぽうでは「マンジュこく」(ᠮᠠᠨᠵᡠ
ᡤᡠᡵᡠᠨ
, manju gurun, まんしゅうこく)としょうされるようになったが、マンジュこくがさらにうみ西にしおんなしんよん(マンジュ政権せいけんからは「フルンよん」)、野人やじんおんなしんよんおなじく「東海とうかいよん」)を統合とうごうしていく過程かていで、「マンジュ」がひろおんなしん全体ぜんたい総称そうしょうとしてもちいられるようになった[8]。なお、けんしゅううみ西にし野人やじんかくおんなしんには、それぞれ内部ないぶてきなんらかの結合けつごう関係かんけいがあったとかんがえられがちだが、実際じっさいはそうではなかった[8]けんしゅうおんなしんのなかのもまた、それぞれ別個べっこてられた5つのくにのような様相ようそうていしており、それをえてのまとまりはなかった[8]。「マンジュこく」は、その意味いみふくあい部族ぶぞく国家こっかであった[8]

かね滅亡めつぼうおんな文字もじうしなわれ、おんなしんぞくはモンゴルぶん漢文かんぶん翻訳ほんやくして文書ぶんしょをつくるようになっていたが、「マンジュこく」の勢威せいい拡大かくだいし、民族みんぞく統合とうごうすすめるなかで民族みんぞくてき自覚じかくたかまり、そのちょうであるヌルハチは自分じぶんたちの文書ぶんしょ外国がいこく翻訳ほんやくして記述きじゅつしている状況じょうきょう不自然ふしぜんだとかんじるようになっていた[23]。ヌルハチは、学者がくしゃエルデニ・バクシ中国語ちゅうごくごばんめいじて文字もじをつくらせた[23]1599ねんのこととされている[23]。すなわち、広大こうだい地域ちいきはなされるようになった「マンジュこく」の言語げんご表記ひょうきするため、アラム文字もじをルーツにするモンゴル文字もじたてきのウイグル文字もじ応用おうようしたもの)を改良かいりょうさせて圏点けんてんまんしゅう文字もじをつくり、当時とうじおんなしんまんしゅう)を表記ひょうきすることとしたのである[23]。さらに、圏点けんてん文字もじでは区別くべつすることのできないha(ᡥᠠ)とga(ᡤᠠ)、de(ᡩ᠋ᡝ᠋)とte (ᡨᡝ᠋)などを識別しきべつするため、ヌルハチのホンタイジは、17世紀せいきダハイ・バクシゆう圏点けんてんまんしゅう文字もじをつくらせた[23][注釈ちゅうしゃく 9]まんしゅう文字もじ資料しりょうゆう圏点けんてんまんしゅう文字もじかれたものが圧倒的あっとうてきおおい。

ヌルハチは、中国ちゅうごくのほぼ全域ぜんいき領有りょうゆうして、[17]これは、すうひゃくねん空白くうはくへだてて、2にわたり歴史れきしのこ統一とういつ国家こっか樹立じゅりつして中国ちゅうごく内地ないち支配しはいした、稀有けうれいであった[19]後金あときんはヌルハチぼつ発展はってんし、子息しそくホンタイジはうちモンゴルを併合へいごうし、朝鮮ちょうせん属国ぞっこくとなして国号こくごうを「きよし」にあらため、また、民族みんぞくめいも「おんなしん」を民族みんぞくめいとしてもちいることをきんじ、"マンジュ"とあらため、それに「まんしゅう」のてた[5][25][注釈ちゅうしゃく 10]

清朝せいちょう中国ちゅうごく支配しはい

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おんなしんぞく出身しゅっしんのホンタイジはおんなしん概念がいねんて、おんな真人しんじんこうむ古人こじん遼東りゃおとんかんじんとう北方ほっぽうしょぞくまんしゅうひと)と統合とうごうし、国号こくごうを「だいきよし」にあらためた。ちなみに、民族みんぞく名称めいしょうあらわす“みつる”と“しゅう”、そして政権せいけん名称めいしょうあらわす“きよし”のいずれにも“氵(さんずい)”がいているのは、ぎょうとくむすく“あきら”を“以水かつ”するという陰陽いんようぎょう思想しそうもとづいているとされる[29][注釈ちゅうしゃく 12]。ホンタイジは、1636ねんきよし国号こくごうしょうしたとき、みつるかん、モンゴルのさん勢力せいりょく推戴すいたいされ、民族みんぞく国家こっか君主くんしゅとしてハーンであると同時どうじ皇帝こうていでもあるということを、内外ないがい宣言せんげんした[31]民族みんぞく王朝おうちょうとなったきよしのもと、まんしゅうじんは、はちはたしょうする8グループに編成へんせいされ、王朝おうちょうささえる支配しはいそう構成こうせいする主要しゅよう民族みんぞくのひとつとなり、軍人ぐんじん官僚かんりょう輩出はいしゅつした。

雍和みや北京ぺきんあきらたいもんかかげられた扁額へんがくひだりからモンゴルぶん、チベットぶん漢文かんぶんまんしゅうぶんよんたいごう璧となっている。

1644ねんきよし山海さんかいせきえて万里ばんり長城ちょうじょう以南いなん進出しんしゅつし、なりらん滅亡めつぼうしたあかりにかわって北京ぺきん入城にゅうじょうした。あかり滅亡めつぼうは、あかり旧領きゅうりょう征服せいふくし、はちはた北京ぺきん集団しゅうだん移住いじゅうさせて漢人かんど土地とちまんしゅうじん支配しはいする体制たいせいをきずきあげた[32]。なお、漂着ひょうちゃくにより朝鮮ちょうせん抑留よくりゅうされていたヘンドリック・ハメルによれば、まんしゅうじん支配しはいの17世紀せいき初期しょき朝鮮ちょうせんでは、朝鮮ちょうせん国王こくおう国内こくないでは絶対ぜったいてき権力けんりょくをもっているものの、後継こうけいしゃめるさいまんしゅうじんのハーンの同意どういなければならず、また、まんしゅうじん勅使ちょくしウリャンカイ野人やじんおんなしん)は、としに3かい朝鮮ちょうせんから貢物みつぎもの徴収ちょうしゅうし、朝鮮ちょうせん高官こうかんまんしゅうじんおびえきっていたという[33]

歴代れきだい清朝せいちょう皇帝こうていは、同時どうじに、まんしゅうやモンゴルなど北方ほっぽう民族みんぞく社会しゃかいちょうとしてのハーンでもあった[31][34]。その意味いみ清朝せいちょうは、かんぞくのハンが中国ちゅうごく皇帝こうていでもあるという「えびす」と「はな」が同居どうきょするじゅうせいゆうしていたが[31]日本にっぽん東洋とうよう学者がくしゃ石橋いしばしたかしゆうは、さらにこれに「はたみつる東北とうほくでのみつるこうむかん)」の体系たいけいくわえた「三重みえ帝国ていこく」であったとしている[34]首都しゅと北京ぺきん中国ちゅうごく内地ないち華北かほくに、ふく都盛つもりきょうげん瀋陽しんよう)は中国ちゅうごく東北とうほくに、行在所あんざいしょ避暑ひしょ山荘さんそう」はねつかわげんうけたまわとく)にそれぞれ位置いちしており、いずれも清朝せいちょうのハン(だいきよし皇帝こうてい)が政治せいじ実務じつむおこなった場所ばしょというてんでは共通きょうつうしているが、実際じっさいはこの3かしょ性格せいかくはまったく異質いしつであった[34]清朝せいちょう皇帝こうていは、北京ぺきんにいるときは中華ちゅうか世界せかい天子てんしとして君臨くんりんしていたが、長城ちょうじょうがい位置いちするねつかわ離宮りきゅう(「避暑ひしょ山荘さんそう」)では、内陸ないりくアジア世界せかいにおけるモンゴルぞく首長しゅちょう、ボグド=セチェン=ハンとして行動こうどうし、ねつかわは、モンゴルぞくチベットぞくのみならず、ウイグル王公おうこうテュルクけい民族みんぞく首長しゅちょうベグ)、朝鮮ちょうせんちょう)および大南おおみなみ阮朝)・タイ王国おうこくアユタヤ王朝おうちょうトンブリー王朝おうちょうチャクリー王朝おうちょう)・ビルマコンバウン王朝おうちょう)といった東南とうなんアジアにおける朝貢ちょうこうこく使節しせつ、さらにイギリス使節しせつまでもあさするかんぞく世界せかいはん」の中心ちゅうしんであった[34][注釈ちゅうしゃく 13]一方いっぽう瀋陽しんよう奉天ほうてん行宮あんぐう瀋陽しんようみやひがしくるわには右翼うよくおうおよび左翼さよくおう執務しつむしつはちはたそれぞれの建造けんぞうぶつをともなう、はたじん部族ぶぞくちょう会議かいぎ反映はんえいした十王じゅうおうちんがある[34][注釈ちゅうしゃく 14]

清朝せいちょう建築けんちくぶつは、複数ふくすう言語げんご表記ひょうきされる「ごう形式けいしき」のがくかかげられることを一大いちだい特徴とくちょうとしているが、ここではみつるかんあい璧であるだけでなく、みつるかんこうむごう璧、それにチベットをくわえたよんたいごう璧、さらにウイグルをくわえた五体ごたい完璧かんぺきもある[34]清朝せいちょう記録きろくはまた、『まんしゅう実録じつろく中国語ちゅうごくごばん』をはじめとする実録じつろくるい原則げんそくとしてまんぶんほん漢文かんぶんほんこうむ古文こぶんほんさん種類しゅるいによって編纂へんさんされており、みつるかんこうむかくかたり担当たんとうする翻訳ほんやくかんがおり、そのための科挙かきょもあった[34]。これにチベットやウイグルなどの諸語しょごふくめたかんせん私撰しせん辞書じしょおおつくられたのも清朝せいちょう文化ぶんか特徴とくちょうとなっている[34]だいきよし帝国ていこくは、みつるかんこうむ三重みえ構造こうぞう基本きほんとしており、瀋陽しんよう北京ぺきんねつかわにあった3政務せいむしょはそれを象徴しょうちょうするものというとらえかたができるのである[34]

中国ちゅうごくあつかった映画えいがなどにみられる辮髪べんぱつりょうあたま、チーパオ(チャイナドレス)は、本来ほんらいまんしゅうじん習俗しゅうぞくであったものがしんだい漢人かんど社会しゃかいまれたものである[36][注釈ちゅうしゃく 15]あかりとの戦争せんそうさいしては占領せんりょう男性だんせい住民じゅうみん辮髪べんぱつめいじ、あかり滅亡めつぼうまんしゅうぞく髪型かみがた服装ふくそうかんぞくにも強制きょうせいして漢人かんど服飾ふくしょくけることを禁止きんしし、かん民族みんぞく伝統でんとう文化ぶんか抑圧よくあつする態度たいどをとった[36][注釈ちゅうしゃく 16]。これを「剃髪ていはつえきふく」(かみり、ふくえるの)という。一方いっぽう科挙かきょ実施じっし中央ちゅうおう内閣ないかくろく地方ちほう総督そうとくめぐなで設置せっちして軍事ぐんじ政治せいじ管轄かんかつさせるなど、明朝みょうちょう行政ぎょうせい制度せいど存続そんぞくさせて強硬きょうこう政策せいさく懐柔かいじゅう政策せいさく併用へいようした[37]。また、指導しどう理念りねんとして朱子学しゅしがくをはじめとする儒家じゅか思想しそうれていた[37]

いぬいたかしみかど時代じだい大臣だいじんであるマチャン

盛期せいききよし王朝おうちょうまんしゅうじん

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史上しじょう最大さいだい版図はんとをきずいたいぬいたかしみかど肖像しょうぞうジュゼッペ・カスティリオーネ、1736ねん
いぬいたかしみかどつかえたまんしゅうぞく衛兵えいへいフルチャ・バトゥルうらないおん(ジャンインボー) むらさき禁城きんじょうむらさきひかりかくかかげられていたたけ功臣こうしん肖像しょうぞう作者さくしゃ不明ふめい、1760ねん)。まんしゅう漢文かんぶんかれたいするさんかれている。かれには名誉めいよ称号しょうごうであるバトゥルあたえられている。

17世紀せいきコサック(カザク)によるシベリアへの東進とうしんいちじるしいロシア・ツァーリこくきよしとが国境こっきょうをめぐって対立たいりつした(しん国境こっきょう紛争ふんそう[38]1650年代ねんだい初頭しょとうエロフェイ・ハバロフひきいるコサックの一派いっぱアムールがわのぞきよしがわ拠点きょてんヤクサ(まさかつ薩)をうばい、同地どうちアルバジンあらためて東方とうほう進出しんしゅつへの拠点きょてんとした[38]。ロシアじんはアムールがわりながら先住民せんじゅうみんからヤサク(毛皮けがわぜい)を徴収ちょうしゅうした[38]1652ねん現在げんざいハバロフスク周辺しゅうへんとみられるアチャンスクでしん戦闘せんとうこった。1658ねんには朝鮮ちょうせんこくぐん動員どういんした清国きよくにがわ勝利しょうりし、アムールがわ流域りゅういきからロシアじん勢力せいりょく駆逐くちくしたが、1665ねん、シベリアに追放ついほうされていたポーランド貴族きぞくニキフォール・チェルノゴフスキー英語えいごばんイリムスク英語えいごばんヴォイヴォダぐん司令しれいかん)を殺害さつがいして逃走とうそうヤクサこく英語えいごばん建国けんこくして先住民せんじゅうみんから毛皮けがわぜい徴収ちょうしゅうした。しん国境こっきょう紛争ふんそう再燃さいねんし、1683ねん、アルバジン戦争せんそう勃発ぼっぱつ戦況せんきょうしんがわ優勢ゆうせい推移すいいし、1689ねんしん両国りょうこくネルチンスク条約じょうやくむすんで講和こうわした[38]。その結果けっかそとまんしゅうふくめたまんしゅう全体ぜんたいきよし領土りょうど確定かくていした[39][注釈ちゅうしゃく 17]。なお、このときのロシアじん捕虜ほりょは「ニル」に編成へんせいされ鑲黄はたまんしゅう配属はいぞくされた[注釈ちゅうしゃく 18]

きよし歴代れきだい皇帝こうていは、漢人かんど圧倒的あっとうてき多数たすうめる中国ちゅうごく支配しはいするにあたっても、まんしゅうをはじめとする独自どくじ民族みんぞく文化ぶんか維持いじ発展はってんつとめていた。しかし、次第しだいまんしゅうすたれ、まんしゅうじんあいだでも漢語かんごはなされるようになり、習俗しゅうぞくもしだいにかんしていった。しんだい中期ちゅうき北京ぺきんまんしゅうじんによってまれた「子弟していしょ」という俗曲ぞっきょくしゅうには、漢語かんごまんしゅうぜてできているきょくがあり、当時とうじまんしゅうじん言語げんご状況じょうきょう一端いったんがかいまみえる[41]

清朝せいちょうによって優遇ゆうぐうされたまんしゅうぞく清朝せいちょう発展はってんにともない中国ちゅうごく本土ほんど移住いじゅうするもの増加ぞうかした一方いっぽうまんしゅうじんであるまんしゅうでは人口じんこうり、荒廃こうはいしたため、1653ねんから1668ねんまで遼東りゃおとん招民開墾かいこんれいして漢人かんど移住いじゅうすすめた[17]。しかし、18世紀せいきはいると東北とうほくまんしゅう)に自発じはつてき移住いじゅうするかんじんかず急増きゅうぞうしたため、1740ねんには移住いじゅう禁止きんしれいしてまんしゅうじん生活せいかつ保護ほごしようとした[17]

1735ねんから1795ねんまで治世ちせい60ねんにおよぶだい6だいいぬいたかしみかどは、45ねんにわたる外征がいせいを「十全じゅうぜん武功ぶこう」としょうし、晩年ばんねんこのんでもちいたたまにも「十全じゅうぜん老人ろうじん」の文字もじらせた[42]1750年代ねんだい後半こうはんには、きよしいぬいたかしみかど外征がいせいにより中国ちゅうごく東北とうほく中国ちゅうごく内地ないちモンゴル高原こうげんひがしトルキスタンふくテンシャン山脈さんみゃく南北なんぼく両側りょうがわ、チベットより構成こうせいされる最大さいだい版図はんときずいた[43]1759ねんにはテンシャンの南北なんぼく両側りょうがわ地域ちいきを「あたらしつよし」と命名めいめいした[43]現代げんだい中国ちゅうごく骨格こっかくは、いぬいたかしみかどによってかたちづくられたということができる[42]

列強れっきょう進出しんしゅつまんしゅうぞく

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清朝せいちょう末期まっきまんしゅうぞく武人ぶじんたち
まんしゅうこく(1932-1945)の地図ちず

1840ねん以降いこうせいアヘン戦争せんそうアロー戦争せんそう敗北はいぼくし、だい規模きぼ農民のうみん反乱はんらんである太平たいへい天国てんごくらんこって弱体じゃくたいすると、ロシアはきよしたいして武力ぶりょくによる威圧いあつつよめ、1858ねんにはアイグン条約じょうやくむすんで、しんりょうとされてきたそとまんしゅうのうちに割譲かつじょうし、両国りょうこく共同きょうどう管理かんりすることとなった。さらに2ねん1860ねんには北京ぺきん条約じょうやくによって、この正式せいしきにロシアりょうとなった[44][注釈ちゅうしゃく 19]

一方いっぽう皇帝こうてい故郷こきょうまんしゅう1860ねんまでは保護ほごされ、漢人かんど移住いじゅうはある程度ていど制限せいげんされていたが、とくひろしらの献策けんさくれて開放かいほうさくてんじ、漢人かんど農民のうみん移住いじゅう急増きゅうぞうした。中国ちゅうごくではこれを「関東かんとう」とんでいる[注釈ちゅうしゃく 20]漢人かんど人口じんこうはさらに急増きゅうぞうしてまんしゅうじん人口じんこう上回うわまわり、その生活せいかついき蚕食さんしょくされた。また、イギリス領事館りょうじかん営口かれるなど外国がいこくじん勢力せいりょくまんしゅう南方なんぽうからもはいんで、まんしゅうじん故郷こきょうおおきな変貌へんぼうげた[17]。アヘン戦争せんそう敗北はいぼく清国きよくにうみきん政策せいさく放棄ほうきして欧米おうべい列強れっきょう門戸もんこひらいたが、にちしん戦争せんそう(1894-1895)やきたきよし事変じへん(1900)の敗北はいぼくなどによって深刻しんこくはん植民しょくみん状態じょうたいおちいった。1911ねんからし革命かくめいさいには「ほろびまんきょうかん」がスローガンとしてかかげられた[注釈ちゅうしゃく 21]

1932ねんには日本にっぽんによって、きよし最後さいご皇帝こうていだったせんすべみかど溥儀ふぎ執政しっせい(のちに皇帝こうてい)としてまんしゅうこくてられた[17][45][46][注釈ちゅうしゃく 22]まんしゅうこくみつるこうむかんあさ民族みんぞくによる「ぞく協和きょうわ」「王道おうどう楽土らくど」を理念りねんとしており[45]国名こくめいに「まんしゅう」をふくむものの、まんしゅうじんがこのくに自分じぶんたちの民族みんぞく国家こっかとして意識いしきしていたわけではない。しかし、建国けんこくまんしゅうぞくには帝政ていせい期成きせい運動うんどうこすなど、このくに民族みんぞく復権ふっけん期待きたいする傾向けいこう一部いちぶではみられた。まんしゅうこく建国けんこく宣言せんげんは、溥儀ふぎかついだきゅう清朝せいちょう帝政ていせいひとびとの主導しゅどうによってなされ、それを関東軍かんとうぐん承認しょうにんしたものだが、そこには「れいきょう儒教じゅきょうとほぼおなじだが、道徳どうとく秩序ちつじょ祭礼さいれいめん前面ぜんめんてる)」を国教こっきょうとすることがうたわれていた[47]1934ねん皇帝こうてい即位そくいしきにおいて溥儀ふぎは、まんしゅうぞく民族みんぞく衣装いしょうであるりゅうほう着用ちゃくようを、関東軍かんとうぐんは「ぞく協和きょうわ」の見地けんちからこれをゆるされず、まんしゅう国軍こくぐんだい総帥そうすいふく着用ちゃくようするようもとめられた[48]溥儀ふぎはこれにしたがったが、それに先立さきだってれい報告ほうこく開催かいさい主張しゅちょうし、関東軍かんとうぐんはその開催かいさい着用ちゃくようみとめた[48]。なお、まんしゅうこくにおける筆頭ひっとう公用こうよう中国ちゅうごく漢語かんご)であり、だい公用こうよう日本語にほんごであった[49]。ただし、筆頭ひっとう公用こうよう中国語ちゅうごくごとも漢語かんご(シナ)ともしょうされず「まんしゅう」もしくは「まん」としょうされ[注釈ちゅうしゃく 23]まんしゅうこく住人じゅうにんまんぞくかんぞくとわず「まんひと」としょうされた[49]

現代げんだいまんぞく

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だい世界せかい大戦たいせんのち成立せいりつした中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこくは、あいしんさとし溥儀ふぎを「思想しそう改造かいぞう」したのちまんしゅうぞく代表だいひょうとして中国ちゅうごく人民じんみん政治せいじ協商きょうしょう会議かいぎ全国ぜんこく委員いいん任命にんめい[48]、「民族みんぞく識別しきべつ工作こうさく」をおこなって国内こくない少数しょうすう民族みんぞく一定いってい権利けんりゆうする民族みんぞくとして公認こうにんしていった。しんだいはたじんたちは、おもにマンジュたちにより構成こうせいされたまんしゅうはちはたのほか、こうむはちはたかんぐんはちはたなど3つの集団しゅうだんから構成こうせいされていたが、この「民族みんぞく識別しきべつ工作こうさく」では、こうむはちはたかんぐんはちはた末裔まつえいたちを「こうむぞく」や「かんぞく」に区分くぶんするのではなく、「はたじん全体ぜんたいをまとめて「まんぞく」と区分くぶんした[注釈ちゅうしゃく 24]

まんしゅうはちはたぞくしていたすずはく(シベ)ぞくいたる斡爾(ダウール)ぞくなどについては、それぞれ56の民族みんぞく一員いちいんである独自どくじ民族みんぞくとして識別しきべつされている。

なお、まんしゅうぞくは、しんだい支配しはいしゃ階級かいきゅうとして長城ちょうじょう以南いなん移住いじゅうした経緯けいいじょうから都市とし住民じゅうみんおおいため、かん民族みんぞくくらべて教育きょういく水準すいじゅんたかい。1990ねん人口じんこう調査ちょうさ資料しりょうによればまんしゅうぞく人口じんこう1まんにんたりの大学だいがく進学しんがくしゃすうは1,652.2人ふたりで、全国ぜんこく平均へいきん水準すいじゅん139.0にんかんぞく平均へいきん水準すいじゅん143.1人ひとりくらべてはるかにたかかった。また、15さい以上いじょう識字しきじはん識字しきじめる比率ひりつは、まんぞくは1.41パーセントで、全国ぜんこく22.21パーセント、かんぞく21.53パーセントよりもはるかにひくく、中国ちゅうごく国内こくないかく民族みんぞくなか識字しきじりつはん識字しきじりつふくむ)がもっとひく[51]

生業せいぎょう文化ぶんか習俗しゅうぞく

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伝統でんとうてき生業せいぎょう

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さて依然いぜん中国ちゅうごくにいたるまではいうにとってがおも生業せいぎょう農耕のうこうムギアワヒエキビなど穀類こくるい中心ちゅうしんとする天水てんすい農業のうぎょうであった[20]狩猟しゅりょうテンキツネミンクリスなど毛皮けがわ目的もくてきであり、中華ちゅうか料理りょうり食材しょくざいとなるキクラゲキノコるいまつ薬用やくようとしてられる朝鮮人参ちょうせんにんじん(オタネニンジン)の採集さいしゅうなどもおこなわれた[19][20][52]清朝せいちょう軍事ぐんじ組織そしきとしてられるはちはたも、その編成へんせい方法ほうほう元来がんらいまんしゅうぞく狩猟しゅりょう生活せいかつからあみだされた巻狩まきがりせい応用おうようしたものだったといわれる[7][24]

明代あきよ後期こうき遼東りゃおとん地方ちほう当時とうじ高額こうがく取引とりひきされただい商品しょうひんといえば、クロテン毛皮けがわ山岳さんがく地帯ちたい自生じせいする薬用やくよう人参にんじんであった[52][注釈ちゅうしゃく 25]。こうした産物さんぶつ現地げんち消費しょうひされず、奥地おくちからリレーしきりょうにもたらされ、さらに北京ぺきん方面ほうめんへとおくられて、穀物こくもつ織物おりもの金属きんぞく製品せいひんといった中国ちゅうごく内地ないち商品しょうひん交換こうかんされる[20]。ヌルハチはこうした特産とくさんひんのルートを掌握しょうあくして交易こうえき利益りえきていた氏族しぞくちょうのひとりであった[52]

ヌルハチのかんしてえば、そのやまがちで大小だいしょう河川かせん縦横じゅうおうながれ、斜面しゃめん点在てんざいする平地ひらちではコーリャンなどが栽培さいばいされていたが、農地のうちとしてはかならずしもめぐまれていなかった[53]。したがって、西方せいほう隣接りんせつする肥沃ひよく広大こうだい遼東りゃおとん平野へいや農地のうちは、かれにすれば垂涎すいえんてきであった[53]。ヌルハチは遼東りゃおとん進出しんしゅつするやおんな真人しんじんまんしゅうじん)をこの続々ぞくぞく移住いじゅうさせ、農耕のうこう国家こっかとして発展はってんする基礎きそかためた[53]

またブタやしなえがなされており、産地さんちとしても有名ゆうめいであった[注釈ちゅうしゃく 26]。ただし、こうした生業せいぎょうのみで十分じゅうぶん自給自足じきゅうじそくができるというほどの経済けいざいてき基盤きばんゆうしていたわけではなかった[19][注釈ちゅうしゃく 27]。なお、吉林きつりんしょう吉林きつりんたかたむろ[注釈ちゅうしゃく 28]は、鷹狩たかがり従事じゅうじするはちはた兵士へいし代々だいだい居住きょじゅうし、鷹匠たかじょう数多かずおお輩出はいしゅつしたであり、ふる狩猟しゅりょう文化ぶんか今日きょうつたえている[54]

習俗しゅうぞく生活せいかつ文化ぶんか

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辮髪べんぱつにカットする巡回じゅんかい理髪りはつしゃ(19世紀せいきトーマス・アロム英語えいごばん

かん民族みんぞくられる纏足てんそく習慣しゅうかんまんしゅうぞく女性じょせいにはなかった。女性じょせい服飾ふくしょくは、上述じょうじゅつしたチーパオまたはベスト着用ちゃくようすることがおお[54]男性だんせい伝統でんとうてき筒袖つつそでチョッキズボンという服飾ふくしょくこのんだ[55]

たいして、まんしゅうぞく男性だんせいのヘアスタイルであった[56]。1644ねん北京ぺきん入城にゅうじょう直後ちょくごきよしだい3だい皇帝こうていフリン(順治じゅんじみかど)の摂政せっしょうドルゴンは、きよし服属ふくぞくするかさからうかを区別くべつするため、かんぞくたいしても「薙髪ちはつれい」を発令はつれいした[56][57]。このさいは、中華ちゅうか思想しそう根強ねづよ抵抗ていこうのため強制きょうせいできなかった[57][注釈ちゅうしゃく 29]。しかし、1645ねん、「薙髪ちはつれい」をさい発令はつれいし、辮髪べんぱつ強制きょうせいした[56][58]。このとき、辮髪べんぱつ拒否きょひするものには死刑しけいもっのぞんだ[56][57]儒教じゅきょう伝統でんとうてきかんがえでは、毛髪もうはつふく身体しんたい傷付きずつけることは「不孝ふこう」とされ、タブーであったため、抵抗ていこうするものおおかったが、清朝せいちょう辮髪べんぱつおこなったものたいしては「かみってしたがうものには、すべてもとどおり安堵あんどする」として従来じゅうらい生活せいかつ慣習かんしゅうおこなえることを保証ほしょうした[57]清朝せいちょうは、かんぞく辮髪べんぱつぬほどきらいていることを承知しょうちしたうえで、あえて「薙髪ちはつれい」をさい発令はつれいしたのであり、ある意味いみ清朝せいちょうてき味方みかた識別しきべつのためには、これ以上いじょう効果こうかてきさくはなかった[57]

やがて、19世紀せいきには辮髪べんぱつ完全かんぜん普及ふきゅうし、僧侶そうりょ道士どうし女性じょせいのほかはことごとく辮髪べんぱつするようになり[56]中国ちゅうごくのものとなされるようになった。

氏族しぞくせい社会しゃかい文化ぶんか

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伝統でんとう衣装いしょう現代げんだいまんぞく男性だんせい(2012ねん

まんしゅうぞく「哈喇(ᡥᠠᠯᠠ,)」または「ムクン(mukūn)」とばれる父系ふけい氏族しぞくとした[59]。ロシアのセルゲイ・シロコゴロフ英語えいごばんはかつて、ハラが基本きほんてき血縁けつえん組織そしきであり、その血縁けつえん組織そしき発展はってんにともないガルガン(garugan)、ムクンの2そうしょうじたとろんじ、中国ちゅうごくの莫東とらはこれを継承けいしょうして、ハラ(部族ぶぞく)、ガルガン(胞族)、ムクン(氏族しぞく)のさんそう構造こうぞうとなえた[59]。しかし、シロコゴルフ・莫東とらせつは、今西いまにし春秋しゅんじゅう指摘してきしているようになん史料しりょうてき根拠こんきょゆうしない[59]。これにたいし、三田村みたむらやすしすけは、詳細しょうさい検討けんとう結果けっか、ムクンをハラから派生はせいした地域ちいき関係かんけいもととする血族けつぞく集団しゅうだんとみなす見解けんかいしめした[59]。ムクンがハラより発生はっせいしたとするせつは、現在げんざいおおくの専門せんもん支持しじする定説ていせつとなっている[59]。ムクンは、金代かなだいおんなしんぞくの「はかりごとかつ」を原義げんぎとしているとみられ、一義的いちぎてきには「ぞく」、二義的にぎてきには「」をあらわしており、一方いっぽう、ハラには「せい」のがあてられる[59]しんだいにあっては、ハラはもはや実体じったいをともなった血縁けつえん組織そしきとはいえず、ムクンだけがのこったが、野人やじんおんなひたばれたひとびととその末裔まつえいにあってはハラ組織そしき濃厚のうこう残存ざんそんしたのだった[59]

あきらきよしりょう王朝おうちょう皇宮こうぐうとなったむらさき禁城きんじょうでは、あかり内廷ないてい後宮こうきゅう)とそと廷のあいだへいもうけ、その区別くべつ厳格げんかくであったのにたいし、清朝せいちょうではそのへい撤去てっきょして両者りょうしゃ区別くべつゆるやかなものとなり、また、内廷ないていにおいても男子だんし禁制きんせいあかりほどにはきびしくなかった[60]。このことは、かんぞく家族かぞくせいまんしゅうぞく氏族しぞくせい相違そうい反映はんえいしているものととらえることができる[60][注釈ちゅうしゃく 30]

まんしゅうぞく姓氏せいし

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1個いっこのハラは複数ふくすうのムクンを包含ほうがんするが、1個いっこのムクンはただ1つのハラに帰属きぞくしており、ハラ組織そしき元来がんらい地域ちいきてき同一どういつせいゆうしていた[59]おんなしんぞくまんしゅう民族みんぞく)のハラの由来ゆらいは、つぎの2しゅ大別たいべつできる[59]

  1. 地名ちめい河川かせんめいせいとするもの … グワルギャ(ふりしか中国語ちゅうごくごばん)、トゥンギャ(佟佳)、ドンゴ(ただし鄂)、マギャ(うまけい)など。
  2. 古来こらいトーテムせいとするもの … ニョフル(ぼたん祜禄中国語ちゅうごくごばん原義げんぎは「オオカミ」)、サクダ(薩克たち原義げんぎは「イノシシ」)、ニマチャ(あま察、原義げんぎは「さかな」)、ショムル(舒穆ろく)など[59]

ハラは、当初とうしょぞくがいこん単位たんいであると同時どうじぞくないへの機能きのうゆうし、讐の義務ぎむをともない、また、精神せいしん生活せいかつ単位たんいでもあった[59]。それにたいし、ムクンはハラの瓦解がかいけて不断ふだん分節ぶんせつし、発展はってんしていったもので、その過程かていしめしていた[61]。たとえば、ギョロ(さとし)というハラは、『氏族しぞくどおり』によれば、イルゲンギョロ(なんじさとし)、シュシュギョロ(舒舒さとし)、シリンギョロ(西林にしばやしさとし)、トゥンギャンギョロ(つうがおさとし)、アヤンギョロ(おもねかおさとし)、フルンギョロ(よびりんさとし)、アハギョロ(おもね哈覚)、チャラギョロ(察喇さとし)という8つのムクンにかれ、さらにそれぞれが多数たすうぶんえだっていた[61]。ハラからムクンがしょうじた理由りゆうのひとつはぞくがいこん規制きせい機能きのう緩和かんわであって、すでに明代あきよじょしんぞくにおいて婚姻こんいん禁忌きんきやぶられていたことにある[61]。すなわち、どういちハラないムクンとのつうこんとしたのである[61]ふとしヌルハチはアイシンギョロ出身しゅっしんであったが、そのつまにはイルゲンギョロ2めい、シリンギョロ1めい、ギャムフギョロ(よしみきよし瑚覚)1めいけい4にんムクンの妻女さいじょふくまれていた[61]

まんしゅう民族みんぞく姓氏せいし本来ほんらい、アイシンギョロ(あいしんさとしᠠᡳ᠌ᠰᡳ᠍ᠨ
ᡤᡳᠣᡵᠣ
, aisin gioro)、イェヘナラ赫那ひしげᠶᡝᡥᡝ
ᠨᠠᡵᠠ
, yehe nara)、ヒタラ(とう臘、ᡥᡳᡨ᠋ᠠᡵᠠ, hitara) とうにみられるようにまんしゅうもとづいたものであった。しかし、現代げんだいまんぞくおおくは、かん民族みんぞく姓氏せいしになぞらえておも一文字ひともじの「かんせい」をもちいている。これは、清末きよすえからし革命かくめい風潮ふうちょうだい世界せかい大戦たいせんの「漢奸かんかんり、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつ文化ぶんかだい革命かくめいなど、中国ちゅうごく当局とうきょく弾圧だんあつけるためのいち方策ほうさくであったとかんがえられる。しかしながら、その場合ばあいであっても、

というように、改姓かいせいさいにも一定いってい原則げんそくしたがっている。現代げんだいまんぞくは、「氏族しぞく ― 哈喇(せいかんやくひょう」とらしわせることによって自分じぶん本来ほんらい姓氏せいしることができるようになっている。

まんしゅう民族みんぞくはもともとモンゴルじん影響えいきょうけて、かん民族みんぞくのように姓氏せいし同時どうじ習慣しゅうかんはなく、名前なまえのみをぶか、名前なまえまえ爵位しゃくい官職かんしょくめいけてんでいた(れい:睿親おうドルゴン)。あえて姓氏せいしつづけて場合ばあいは、たとえば「グワルギャせいオボイまんしゅう: ᡤᡡᠸᠠᠯᡤᡳᠶᠠ
ᡥᠠᠯᠠ ᡳ
ᠣᠪᠣᡳ
, gūwalgiya hala-i oboi) 」のようなかたをしていた。

婚姻こんいん

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伝統でんとうてき婚姻こんいんは、ぞくがいこんまんかんこんによって特徴とくちょうづけられる[62][63]ぞくがいこん規制きせいは、おな氏族しぞく同士どうし結婚けっこんしないという原則げんそくであり、現代げんだいにおいても濃厚のうこう確認かくにんでき、しかも、その規制きせいつよさはかんぞく以上いじょうである[62][63][注釈ちゅうしゃく 31]上述じょうじゅつした「ハラ(きゅう氏族しぞく)」は当初とうしょぞくがいこん単位たんいであったが、その分節ぶんせつによってしょうじた「ムクン(しん氏族しぞく)」が現代げんだいにおけるぞくがいこん単位たんいとなっている[59][61]

まんかんこんは、まんぞくかんぞく婚姻こんいん禁止きんし慣習かんしゅうであったが、現代げんだいにおいてはまもられていない[62][63]。かつてまんしゅうぞく全体ぜんたいはちはた組織そしきはいはたじんであり、にゅうはたしていないかんぞくとのつうこんゆるされていなかったが、にゅうはたしているかんぞくかんぐんはちはた)との結婚けっこん可能かのうであった[62][63]。なお、かれらがじょしんぞくしょうしていた時代じだいにあっては、継母けいぼめとったり、おとうとあによめめとったりするおさむつぎこんおおかったが、ホンタイジの時代じだいはいると漢人かんどてき観念かんねん浸透しんとうしてきゅうぞく矯正きょうせいはかられ、おさむつぎこん禁止きんしされた[63]

まんしゅうぞく婚姻こんいんきゅうぞくでは、子女しじょ成年せいねんたっすると双方そうほう両親りょうしんまたは仲人なこうどはないをて、双方そうほうの「門戸もんこちょう」(本人ほんにん生辰せいしんはち生年月日せいねんがっぴ)と姓氏せいしさんだい曾祖そうそ父母ちちはは祖父母そふぼ父母ちちはは姓名せいめい)がしるされている)を交換こうかんし、これが適合てきごうすれば婚約こんやくできるなど、おびただしいかずのしきたりと規制きせいがあった[63]

葬送そうそう殉死じゅんし風習ふうしゅう

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ふとしヌルハチに殉死じゅんしした夫人ふじん、アバハイ(こうれつたけ皇后こうごう

おんなしんぞくきゅうぞくでは、火葬かそうおこなわれていた[64]。ヌルハチもホンタイジも火葬かそうされ、3だい順治じゅんじみかど火葬かそう制度せいど詳細しょうさいさだめ、かれ自身じしん火葬かそうされた[64]順治じゅんじ年間ねんかん以降いこう北京ぺきんまんしゅうぞくはしだいに土葬どそうおこなうようになったが、清朝せいちょうかん防止ぼうしする観点かんてんから、各地かくちちゅうぼうするはたじん行動こうどうきびしい制限せいげんし、死後しご現地げんち墳墓ふんぼもうけることをゆるさず、かならきょうはたそうすることとした[64]。そのため、火葬かそう風習ふうしゅう各地かくちちゅうぼうにたずさわるはたじんあいだたもたれた[64]。しかし、いぬいたかし年間ねんかんになると、各地かくち戦役せんえきおさまり、火葬かそう不孝ふこうみちとみなすかんぞく儒家じゅか思想しそう影響えいきょうけていたので、いぬいたかしみかど死後しご現地げんち土葬どそうすることを許可きょかし、そう一律いちりつ禁止きんしした[64]

おんなしんひとびとはまた、死者ししゃ葬送そうそうのためにうしうまころしてこれを死者ししゃささげ、そのにくしょくすというきゅうぞくをもっていた[64]。このような習俗しゅうぞくかん熙帝ころまではつづいたが、やがてかん民族みんぞく習俗しゅうぞくれ、かみをもって祭礼さいれいをおこなうようになった[64]

殉死じゅんし風習ふうしゅうひろおこなわれ、ヌルハチのつま死去しきょさいには4にん奴婢ぬひが、ヌルハチ自身じしん死去しきょさいにも正妃せいひアバハイ2人ふたり側室そくしつ殉死じゅんしした[64]。ホンタイジは殉死じゅんし強制きょうせい禁止きんししたが、禁止きんしされたのは強制きょうせい行為こういのみであって殉死じゅんしそのものは否定ひていされなかった[64]。ホンタイジの死去しきょさいには近侍きんじ2めい殉死じゅんししている[64]殉死じゅんしきゅうぞくまんしゅうぞく社会しゃかい連綿れんめんつづいてきたのは、奴婢ぬひ制度せいど無関係むかんけいではないとかんがえられる[64]かん熙帝が在位ざいいちゅう殉死じゅんし禁止きんしさと命令めいれいはっし、以降いこうかみじんくことで死者ししゃ霊魂れいこんまつることとなった[64]

言語げんご文字もじ

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満州まんしゅう文字もじ朱印しゅいん
白山はくさん黒水くろみずみなもと遠流おんるちょう」のまんしゅう "Šanyan alin, sahaliyan muke, sekiyen goro, eyen golmin" をまんぶんしめしている。

なかの言語げんごおおむ諸語しょごにおいてあらわ[14]語彙ごいではとくに、モンゴル漢語かんごからの借用しゃくようおお[65]清朝せいちょうにあってはだいいち公用こうよう地位ちいにあった[66]まんしゅうは、その話者わしゃ北京ぺきんはじめ中国ちゅうごく全土ぜんど居住きょじゅうするようになり、言語げんご分布ぶんぷ拡大かくだいしたが、かんじん比較ひかくすると人口じんこう絶対ぜったいすうがきわめてすくなかったので、まんしゅうぞく文化ぶんかかんし、言語げんご漢語かんごはなすようになり、まんしゅうはしだいに使つかわなくなっていった[67][68][69]まんしゅう使用しようは、すでに清朝せいちょう中期ちゅうき隆盛りゅうせいには衰微すいび兆候ちょうこうしめしていたという[67]現代げんだいまんしゅう中国ちゅうごく東北とうほくのごく一部いちぶでしかはなされなくなっている[65][注釈ちゅうしゃく 32]。なお、いぬい隆年たかとしあいだ中期ちゅうきイリ地方ちほう移住いじゅうしたシベぞく末裔まつえい今日きょうでもまんしゅうはなしている[65][68]。これをシベといい、シベ(シベ文字もじ)の新聞しんぶん書籍しょせき発行はっこうされている[65]

まんしゅう文語ぶんご資料しりょうには、『まんぶんろう』をはじめとする記録きろくるい[71]まんしゅう・モンゴル・かんチベットウイグル5ぞく言語げんご対照たいしょうさせた『御製ぎょせいたい清文せいぶんあきら中国語ちゅうごくごばん』などの辞書じしょるい、『大蔵経だいぞうきょう』、漢文かんぶん古典こてんその大量たいりょう翻訳ほんやく文献ぶんけんなどがある[68][注釈ちゅうしゃく 33]。また、文語ぶんご資料しりょうにはあたらないが17世紀せいき日本にっぽん越前えちぜんこく船乗ふなのりが漂流ひょうりゅうしたさい記録きろく、『韃靼だったん漂流ひょうりゅう異国いこく物語ものがたり)』には当時とうじまんしゅう仮名かめい文字もじ収録しゅうろくされている[68]まんしゅうについての情報じょうほう大半たいはんはこのたね文書ぶんしょ記録きろくからられたものであり、この文語ぶんご基盤きばんとなった南部なんぶ方言ほうげん直接的ちょくせつてき記録きろくとぼしい。まんしゅうについて近代きんだいてき記録きろくおこなわれはじめた19世紀せいきには、まんしゅうはほとんど少数しょうすう知識ちしきじん官吏かんりってもちいられる人工じんこうてきととのえられた形体けいたいとなっており、西洋せいようじんによる構造こうぞう文法ぶんぽうについての記録きろくたか一貫いっかんせい一方いっぽうで、発音はつおんについての記録きろくはしばしば混乱こんらんしている[72]


まんしゅう文字もじ先立さきだおんな文字もじについては、金石かねいしあや発見はっけん辞書じしょ収録しゅうろくされたにおける[73]かんがおまれいん中国語ちゅうごくごばんかんがお魯(耶魯)らによって1119ねん創成そうせいされたおんな大字だいじ表意ひょうい文字もじ1138ねんかねだい3だい皇帝こうてい熙宗制定せいていし、1145ねん公布こうふしたとしるされるおんな小字こあざ表音ひょうおん文字もじであった[74]大字だいじのみで表記ひょうき小字こあざのみで表記ひょうき、というさんよう表記ひょうきほうがあった[74]おんなしんまんしゅうちか言語げんごだとみられる[68]両者りょうしゃ姉妹しまい関係かんけいにあったというよりは、むしろ方言ほうげんてき関係かんけいにあって、おんなしん広義こうぎまんしゅうのなかにぼっしていったものとかんがえられる[73]

まんしゅう文字もじは、ひだりからたてきでみぎ改行かいぎょうする[66]。ホンタイジが、ギョルチャまんしゅうはたじんめいじて改良かいりょうさせた[66][75][注釈ちゅうしゃく 34]新疆しんきょうウイグル自治じち在住ざいじゅうするシベぞくは、まんしゅう文字もじ改良かいりょうしたシベ文字もじ使用しようしている[66]

宗教しゅうきょう

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水浴みずあびをするさん仙女せんにょ(『まんしゅう実録じつろく』)

自然しぜん崇拝すうはいにおいては、しんほししんおよび神山かみやま神石じんせき尊崇そんすうし、とりわけほししんたいする信仰しんこうもっと普遍ふへんてきなものであった[76]。『吉林きつりんどおりこころざし』にも「祭祀さいし典礼てんれいは、まんしゅうもっとおもんずるは、いちまつりぼしまつり」とある[76]ほししんとは、具体ぐたいてきには北斗七星ほくとしちせいであり、まんしゅうでは「ᠨᠠᡩ᠋ᠠᠨ
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, nadan usiha, ナダン(ななつ)ウシハ(ほし)」としょうする[76]記録きろくによれば、まんしゅうぞくまつりぼしは、おおくはつきしずのちおこなとうさいで、そこでは灯火ともしびがかきされ静寂せいじゃくのなかでおこなわれ、通常つうじょううらないぼくたたばらい、やまいばらいなどの巫術ふじゅつむすびついたじょわざわいまつりである[76]まんしゅうぞくちかい、おなじツングースけいのホジェンぞく[注釈ちゅうしゃく 35]もまた、ななほしじょわざわいかみとみなし、「よしほししん」と呼称こしょうする[76]まんしゅうぞくななほししんは、のちに祭礼さいれい固定こていてきなものに整備せいびされていき、それにともない人格じんかく神化しんかしていった[76]

瀋陽しんようみやきゅう奉天ほうてん行宮あんぐう)のかみ杆(かみとりまり

まんしゅうぞくとりかささぎカササギ)・イヌ崇拝すうはいした[77]とりかささぎ崇拝すうはいまんしゅうぞくのシャーマニズム信仰しんこう古層こそうをなしており、ちょう白山はくさん水浴みずあびをしていた天女てんにょさん仙女せんにょすえむすめ)フォクレン(ふつりん)がかみかささぎがくわえてきたしゅはてしょくしてかんくわし、まんしゅう始祖しそブクリヨンション中国語ちゅうごくごばんぬのさと雍順、あいしんさとし)をんだという伝説でんせつがのこる[77]。『まんしゅう実録じつろく』でもとりかささぎかんするいくつかの伝承でんしょう記述きじゅつされており、どうちょまんぶんほんではまんしゅうじん後裔こうえいはカササギをとしたことをつたえている[77]。また、ヘトゥアラに抑留よくりゅうされていた朝鮮ちょうせんじんみん著述ちょじゅつした『けんしゅう聞見ろく』では、けんしゅうおんなしんがイヌを自分じぶんたちの祖先そせんなしていて、イヌをころしたりべたり、イヌがわ使用しようすることをけっしてゆるさないという習俗しゅうぞくをもっていたことにふれている[77]。こうした習俗しゅうぞくは、清朝せいちょうつうじてわらなかった[77]

まんしゅうぞく元来がんらい自身じしん地上ちじょう降臨こうりんした天上てんじょうかいかみ々の子孫しそんであるとしんじ、自身じしん氏神うじがみ中心ちゅうしんとして団結だんけつした[7]とらかみ人面じんめんひょうかみ大鳥おおとりしん人面じんめんかいとりかみ)、突忽いた瑪法(海獣かいじゅう形象けいしょうから変化へんかしたかみ)、鹿しかかみなどは、まんしゅうかく氏族しぞくにおける保護ほごしん祖神そしんなどとしてあがめられた[77]かれらは森林地帯しんりんちたいでの狩猟しゅりょう採集さいしゅうさいして、しばしば各種かくしゅ猛獣もうじゅう襲撃しゅうげき直面ちょくめんし、予期よきせぬ災禍さいか不幸ふこう見舞みまわれ、あるいは漁撈ぎょろうさいしても数々かずかず危険きけん事故じこ遭遇そうぐうし、自分じぶんたちの無力むりょくさをさとることもおおかったとかんがえられる[77]。そこで鳥獣ちょうじゅう神格しんかくして祭祀さいしし、その勇気ゆうき能力のうりょくりて災厄さいやくのがれようとねがったところから動物どうぶつ崇拝すうはいはじまったのだろうと推測すいそくされる[77]。ここにおいてシャーマンが憑依ひょういして、たとえば、とら各種かくしゅ動作どうさ真似まね病人びょうにんわざわいをなす妖魔ようま威嚇いかくすることにより、病気びょうき治癒ちゆされるものとしんじられた[77]鹿しかしんは、ウジャラ(がらす扎拉)鹿しかかく採取さいしゅするさいまつったかみであったが、ここではシャーマンが帽子ぼうしうえ一対いっつい鹿しかかくし、鹿しかしん憑依ひょういするものとされた[77]

おんなしんぞくまんしゅうぞく)は、仏教ぶっきょう、とりわけモンゴルぞく影響えいきょうチベット仏教ぶっきょうになじんでいき、かん民族みんぞくとの交流こうりゅうつうじてかれらの民間みんかん信仰しんこう、とくに道教どうきょうからの影響えいきょうけていった[5][78]。1616ねん後金あときん建国けんこくさい、ヌルハチはヘトゥアラ城東じょうとう山上さんじょう仏教ぶっきょう寺院じいんたますめらぎびょう十王じゅうおう殿どのなどを建設けんせつして、これを「ななだいびょう」としょうした[78]せきみかどせきはね)、仏祖ぶっそ釈迦しゃか)、観世音菩薩かんぜおんぼさつはしだいにシャーマニズムの神祇じんぎれつくわえられ、清朝せいちょう宮廷きゅうてい一般いっぱんまんしゅうぞくから尊崇そんすうされるようになり、まんしゅう古来こらいかみ々よりもあつ崇拝すうはいけた[78]

1626ねん、ホンタイジが即位そくいした直後ちょくご儀礼ぎれいでは、最後さいご支配しはい領域りょういきにおけるゆみ達人たつじんらにゆみさせる「やなぎ儀式ぎしき」が執行しっこうされたが、これは金時きんときだいおんなしんがシャーマニズムのはいてん祭儀さいぎ付属ふぞくしてった儀式ぎしき継承けいしょうしたものであった[79]北京ぺきんむらさき禁城きんじょう内廷ないていひつじさるやすしみやもりきょう現在げんざい瀋陽しんよう)の奉天ほうてん行宮あんぐうせいやすしみやは、ともに、中国ちゅうごく皇帝こうていねるまんしゅうぞくのハーンが、シャーマンの祭祀さいしおこなった祭神さいじん殿どのとして独特どくとく設計せっけいほどこされており、そのくちみなみにはかみ杆(しんかん)、すなわちかみとりまりてられていた[79]ひつじさるやすしみやでは元旦がんたんくだりれいなどの特別とくべつ祭祀さいしのほか、つねさいであるあさゆうまつりが毎日まいにちおこなわれ、ブタが生贄いけにえとしてそなえられた[79]。また、かみ々のまえで「薩満ふとし々(サマンタイタイ)」としょうされる巫女ふじょまんしゅう神歌しんかとなえ、まわったという[79]。シャーマニズムの伝統でんとうは、まんしゅうぞく中国ちゅうごく内地ないち支配しはいてき地位ちいってからも温存おんぞんされたのであった。

神話しんわ伝承でんしょう

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まんぶんろう檔』天命てんめい6ねん1621ねんじょうまんぶん内国ないこくいん檔』てんさと8ねん1634ねんじょうには、当時とうじおんなしんぞくまんしゅうぞく)が日食にっしょく月食げっしょくという天文てんもん現象げんしょうを「天界てんかいいぬ太陽たいようつきべること」であるとかんがえていたことを示唆しさする記述きじゅつ収載しゅうさいされており、こうした伝承でんしょうのツングースけいしょ民族みんぞく朝鮮ちょうせん民族みんぞくテュルクけい民族みんぞく、また、パレオアジアけいとみられるニヴフ(ギリヤーク)にもみられる[80]

また、これに説話せつわとして、イチェ・マンジュ(てっまんしゅう ice manju/ しんまんしゅうにん伝承でんしょうとして、1.背後はいごてきぐんせまり、2.大河たいがさえぎ滅亡めつぼう危機ききむかえるが、3.大河たいがさかなうわきょうができてなんのがれ、4.滅亡めつぼうまぬかれる(新天地しんてんち移住いじゅうする)という4つのモチーフをともなう説話せつわつたわっている[80]。この4モチーフは、おっとあまり高句麗こうくり開国かいこく説話せつわひがし明王みょうおう朱蒙チュモン伝説でんせつ)にも共通きょうつうし、オロチョンぞくナナイぞくなどツングースけい民族みんぞく説話せつわにもみられる[80][注釈ちゅうしゃく 36]

歌舞かぶ武術ぶじゅつ

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きむこんほどこころざしどうぶくたかしやすこおりうれし」(『きよしだい宮廷きゅうてい生活せいかつ』より
厳寒げんかん北京ぺきんでスケートをしながらわざ披露ひろうするはちはた軍人ぐんじん

まんしゅうぞくは、歌舞かぶけた民族みんぞくとしてられており、そこにはあざやかな民族みんぞくてき個性こせい独特どくとく品格ひんかくがみられる[81]まんしゅうぞくのなかでもっともさかんにおこなわれたのは、莽勢まい(莽式まい)としょうする歌舞かぶで、別名べつめいを「そらひとし」といった[81]。莽勢まいは、集団しゅうだんのなかの1人ひとりうたい、しゅうは「そらひとし」をもってこれにし、正月しょうがつ祝祭日しゅくさいじつ男女だんじょ相対あいたいしてうというものであった[81]。このまいには「九折つづらおりじゅうはちしき」としょうされる、漁撈ぎょろう狩猟しゅりょう騎射きしゃなどの生活せいかつ反映はんえいした9つのまいのかたち、身体しんたい部位ぶいもちいた18の所作しょさがあったとつたわっている[81]清朝せいちょう北京ぺきん入城にゅうじょう宮廷きゅうていれられてだい規模きぼし、けいりゅうまいへと発展はってんした[81]けいりゅうまいは、あげれつまいたけまい)とおこりまいぶんまい)の構成こうせいされた[81]

習武にかんしては、まんしゅうぞく古来こらい騎馬きばしゃりょう得意とくいとし、清朝せいちょう建国けんこくはこれをまんしゅう根本こんぽんとみなして狩猟しゅりょう軍事ぐんじ活用かつようするのみならず、競技きょうぎした[82]。ヌルハチは、その趣味しゅみゆみ試合しあいであり、すぐれた射手しゃしゅわざきそってけなかったというゆみ名手めいしゅであったし、ホンタイジも飛翔ひしょうするいちとりをただの一矢いっしとすほどの腕前うでまえであった[82]競技きょうぎ種目しゅもくとしてはしゃ騎射きしゃがあり、弓術きゅうじゅつは、近代きんだいいたるまでまんしゅう民族みんぞく伝統でんとうとしてがれた[82]

スケートまんしゅうぞく得意とくいとするスポーツで、これまた初期しょき生業せいぎょう軍事ぐんじ活動かつどうむすびついていた[82]冬季とうきにおける酷寒こっかん東北とうほくでは河川かせん湖沼こしょう凍結とうけつして天然てんねんスケートリンクとなった[82]。スケートはスポーツであると同時どうじ軍事ぐんじ訓練くんれんでもあり、いぬいたかしみかどはこれを「くにぞく」としょうした[82]氷上ひかみおこなわれた競技きょうぎとしてはに、おうなどのリーダーがさむらいまもるひきいてきくボール)をりながら氷上ひかみはしり、いでしょ貴族きぞく官員かんいん妻女さいじょたちが氷上ひかみ競争きょうそうし、さき終点しゅうてんいたものをちとする「踢行あたま」などがあった[82]

まんしゅうじんたちはまた、相撲すもうかく觝)をことのほか愛好あいこうし、それはまんしゅうで「ぬの(プク)」としょうされた[82]。すでににゅう関前せきまえ宮廷きゅうていゆみ試合しあい宴会えんかいさいに、相撲すもう実演じつえんもよおされている[82]。ホンタイジの時代じだいにモンゴルとの関係かんけいふかまると、朝貢ちょうこうおとずれたモンゴルぞく力士りきしたちはしばしば宮廷きゅうていないわざ披露ひろうし、まんしゅうぞく力士りきし勝負しょうぶした[82]おさなくして帝位ていいき、権臣けんしんオボイ専横せんおうくるしんだかん熙帝若年じゃくねんさい相撲すもうきとしょうしてはたじんより強壮きょうそう少年しょうねんたちを選抜せんばつしてひそかに親衛隊しんえいたいをつくり、日々ひびこれを鍛錬たんれんさせて、じゅくしたときにオボイを逮捕たいほ、その腹心ふくしんたちを一網打尽いちもうだじんにして親政しんせい開始かいししたという逸話いつわをもっている[35][82]

まんしゅうぞく出身しゅっしん著名ちょめいじん

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 2010ねん人口じんこう調査ちょうさではまんぞく人口じんこうは10,387,958にんであった[5]
  2. ^ けんしゅうおんなしん、「おんなじき」はあかりがわ呼称こしょうである。
  3. ^ ふとしヌルハチの事績じせきをまとめた『まんしゅう実録じつろく』によれば地名ちめい「ヘトゥアラ」は「横岡よこおか」という意味いみである[10]
  4. ^ ヘトゥアラでまれたヌルハチは、モンゴルのハルハ友好ゆうこう関係かんけいむすぶことに成功せいこうし、1616ねん同地どうち明朝みんちょうからの独立どくりつとアイシン(後金あときん)の建国けんこく自身じしん即位そくいせんしたという[12]
  5. ^ 靺鞨ぞく文化ぶんかについては、考古学こうこがくてき研究けんきゅうによってそのおおくが解明かいめいされてきている[14]
  6. ^ おんな文字もじによるろく真言しんごんろく大明だいめいのろい)である。
  7. ^ りょうだいおんなしんぞくのなかでもさほど有力ゆうりょくとはいえないかんがおかね王朝おうちょう樹立じゅりつさせるにいたった原因げんいんは、砂金さきんさんする河川かせん流域りゅういき支配しはいおさめたことによるとかんがえられる[15]
  8. ^ 現在げんざい、ロシア連邦れんぽう沿海州えんかいしゅうみ、狩猟しゅりょうおも生業せいぎょうとしてきた少数しょうすう民族みんぞくウデヘは、このうちの野人やじんおんなじき末裔まつえいかんがえられる[22]
  9. ^ 「バクシ」とは、書記官しょきかんであるとも[24]学者がくしゃ博士はかせであるともいわれる。
  10. ^ 1634ねん後金あときんぐんはモンゴルの一大いちだい拠点きょてんフフホト占領せんりょうし、ドルゴンらを派遣はけんしてリンダン・ハーン息子むすこ捜索そうさくさせた[25]1635ねん、ドルゴンはモンゴル帝国ていこく最後さいご君主くんしゅとなったエジェイ・ハーン降伏ごうぶくさせ、かれをともなって瀋陽しんよう帰還きかんした[26]。エジェイは、「せい誥之たから」ときざまれた大元おおもとでんこくの璽をたずさえ、ホンタイジにこれを献上けんじょうした[26]元朝がんちょう皇帝こうていけん象徴しょうちょうする印璽いんじがホンタイジのはいったということは、かれぜん中国ちゅうごく支配しはいけんもとから継承けいしょうしたことを意味いみしていた[26]
  11. ^ これにより「まんしゅう」の定着ていちゃくするが、東方とうほう世界せかい支配しはいするとされるほとけである文殊もんじゅ菩薩ぼさつまんしゅうかたりむすびつける説明せつめいについては、当時とうじチベット仏教ぶっきょう指導しどうしゃ発言はつげんいぬいたかしみかど利用りようしたところからしょうじた俗説ぞくせつだという見解けんかいもある[9]満州まんしゅう史書ししょまんぶんげん檔』はヌルハチによる国家こっか建設けんせつを「漢人かんどくに(ニカン=グルン)からひがしのかたかぶうみ日本海にほんかい)にいたるまでの、高麗こうらいこく(ソルホ=グルン)以北いほく、モンゴルこく(モンゴ=グルン)以南いなんのジュシェンくに(グルン)をみなしたがづくした」としるすようにおんな真人しんじん自分じぶんたちの世界せかい言語げんごによって周囲しゅういから区別くべつされる「ジュシェンこくおんなしんこく)」というまとまりとして理解りかいしていた[27]。ホンタイジは「われらがくにたみ(グルン)の元来がんらいマンジュ、ハダ・ウラ・イェヘ・ホイファであるぞ。それを理解りかいしないものがジュシェンという。...これからはいずれのものもわれらの本来ほんらいのマンジュというべ。ジュシェンとんだときはつみとする。」「くにたみのめいをマンジュとう。はた諸王しょおうせんたばさせたぞく(ジュシェン)を、そのおうぞく(ジュシェン)という。」(『まんぶんげん檔』)というみことのりれいくだし、たんなるかねこく後継こうけいまらないあらたな自意識じいしきしめした[28]
  12. ^ 満州まんしゅうじんぞく)は当時とうじ東北とうほくアジアにんでいた様々さまざま集団しゅうだんふくあい統合とうごう形成けいせいされたものである。「南方なんぽうツングースを中心ちゅうしんとするまんしゅうぞくおんなしんぞく末裔まつえい母体ぼたいとし、こうむぞく朝鮮ちょうせんぞくすずはくぞくダウールいたる斡爾)ぞく吸収きゅうしゅうし、長期ちょうき雑居ざっきょあたらしい共同きょうどうたい形成けいせい今日きょうられる独特どくとく民族みんぞくてきふくあい形成けいせいしたものである」(畑中はたなか[30]
  13. ^ 1793ねん初代しょだいマカートニー伯爵はくしゃくジョージ・マカートニーはイギリスおうジョージ3せい派遣はけんしたいぬいたかしみかどの80さいいわ使節しせつだんとしてねつかわおもむき、さん跪九叩頭こうとうれい拒否きょひした(のちにしんがわ妥協だきょうして英国えいこくりゅうひざをつき皇帝こうてい接吻せっぷんすることで事態じたい収拾しゅうしゅうした)ことでられる[34]
  14. ^ 清朝せいちょう皇帝こうてい皇帝こうていであるためには、まんしゅうじん、モンゴルじん漢人かんど支配しはいけん確立かくりつしなければならなかった[35]。モンゴルじんたいしては大元おおもとでんこくたま璽をゆうして最後さいごのハーンからその権利けんりゆずられ、漢人かんどたいしては大明だいめい帝位ていい継承けいしょうしたとしてその支配しはいけん主張しゅちょうできたのであるが、のところ、肝心かんじんまんしゅうじんたいしては本来ほんらい独裁どくさい権限けんげんはなく、部族ぶぞくちょう会議かいぎ議長ぎちょうにすぎない存在そんざいであり、当初とうしょ皇帝こうてい自身じしんがその部族ぶぞくちょう会議かいぎ軍事ぐんじ外交がいこうのリーダーとして選挙せんきょえらばれた存在そんざいだった[35]
  15. ^ チーパオ(はたほう)は本来ほんらい清朝せいちょうはたじん社会しゃかい婦人ふじんのうち、ふゆ綿入わたいれのかたち普遍ふへんしたものであるが、現在げんざいのようなかたちで統一とういつ普及ふきゅうするのは、中華民国ちゅうかみんこく成立せいりつ以降いこうのことである[36]清朝せいちょうでは、支配しはいしゃであるはたじん一般いっぱん漢人かんどとは厳格げんかく区別くべつされていたため、漢人かんど女性じょせいがチーパオを着用ちゃくようすることはみとめられていなかった[36]。このことがぎゃく女性じょせいあこがれとなったのか、政治せいじとはべつ次元じげんとしてまんしゅう民族みんぞくふくもとになって「チャイナドレス」としてひとあるきし、ボディコンシャスワンピースとしてひろ愛用あいようされることになった[36]
  16. ^ 辮髪べんぱつは、まんしゅうぞくおんなしんぞく)にかぎらず、きたアジアけいしょ民族みんぞくのあいだにふるくからひろくみられる風習ふうしゅうである[36]
  17. ^ ネルチンスク条約じょうやくは、ひがしアジア史上しじょうはじめてヨーロッパいちこくむすんだ国際こくさい条約じょうやくであった[39]
  18. ^ ニル(niru、「」の)とは、はちはたせいにおいて有事ゆうじさい兵士へいしとなる成年せいねん男子だんし300にん供出きょうしゅつしうる集団しゅうだん[24]清朝せいちょうは、5ニルをジャラン(jalan、1,500にん)とし、5ジャランをグサ(gūsa、25ニル、7,500にん)として、1グサ(7,500にん)をもって一旗ひとはたとした[24][40]。「はた」は本籍ほんせき所在しょざいをもあらわしており、たんなる兵制へいせいじょう単位たんいではなく、はたじん基本きほんてき帰属きぞくさきしめ社会しゃかい組織そしきであった[24]
  19. ^ 北京ぺきん条約じょうやくアロー戦争せんそう終結しゅうけつのためのイギリスフランスとの講和こうわ条約じょうやくである。
  20. ^ 1931ねんまんしゅう事変じへんまでに、すうひゃくまん規模きぼ人々ひとびと関内かんないから移動いどうしたといわれている。
  21. ^ 太平たいへい天国てんごくでははんきよし意思いしとして辮髪べんぱつ廃止はいししたが、清朝せいちょうはこのようなはん政府せいふ勢力せいりょくを「長髪ちょうはつぞく」とんだ。
  22. ^ あいしんさとし溥儀ふぎは、1917ねん7がつ軍閥ぐんばつ指導しどうしゃちょういさおによって13日間にちかんだけだが、帝位ていいいたことがあった(ちょういさお復辟ふくへき)。
  23. ^ まんしゅうぞく固有こゆう言語げんご本来ほんらいまんしゅう)は「固有こゆうまんしゅう」としょうされた[49]
  24. ^ しかし、「中国ちゅうごくてきゆめ」をかかげる習近ひらた政権せいけんはいってからは、以前いぜんにもしていっそう抑圧よくあつてき少数しょうすう民族みんぞく政策せいさくがとられるようになっている[50]
  25. ^ クロテンの毛皮けがわふゆきびしい華北かほく地方ちほうひとびとのみみてとして大量たいりょう需要じゅようがあったほか、あき朝鮮ちょうせんでの奢侈しゃし風潮ふうちょうからも人気にんきがあった[52]。オタネニンジン(朝鮮人参ちょうせんにんじん)は、上等じょうとうなものだとぎん匹敵ひってきするといわれたほど高価こうかであったが、これを採集さいしゅうするにはなつすうげつ猛獣もうじゅうおお高山たかやま地帯ちたい集団しゅうだん生活せいかつおく必要ひつようがあった[52]
  26. ^ 「ツングース」の名前なまえ由来ゆらいも、トルコのトングス(=ブタ)のなまったものといわれている[20]
  27. ^ あかり帝国ていこくは、たいモンゴル政策せいさく一環いっかんとしておんなしんぞく利用りようする政策せいさく採用さいようし、まもるしょ制度せいど適用てきようして各地かくちおんなしんぞく部族ぶぞくちょう官職かんしょくさづけ、それをしめ勅書ちょくしょ印璽いんじをあたえて、朝貢ちょうこう馬市うまいちにかかわる特権とっけん付与ふよ便宜べんぎはかった[19]。これは、自給自足じきゅうじそくむずかしいおんなしんぞく社会しゃかい権威けんい利権りけんをめぐる熾烈しれつ争奪そうだつこうそうむこととなって、結果けっかてきおんなしんぞくない覇権はけん闘争とうそうんだ[8][19]明朝みんちょう政策せいさく根底こんていにはおんなしんぞく分断ぶんだん意図いともあったが、ヌルハチはこうした覇権はけん闘争とうそういたうえであかり対抗たいこう勢力せいりょくとなるまでに勢力せいりょく拡大かくだいさせたのであるから、長期ちょうきてきかんがえればあかりにとって皮肉ひにく結果けっかだったといえる[8][19]
  28. ^ ヌルハチはここを「りょうろう」と名付なづけた。
  29. ^ 清朝せいちょう北京ぺきん入城にゅうじょうは、おおむ人民じんみん歓迎かんげいけたが、辮髪べんぱつ強制きょうせいはこれにたいする裏切うらぎ行為こういとしてめられた[57]
  30. ^ 清朝せいちょうにあっては、明代あきよには顕著けんちょだった後宮こうきゅう勢力せいりょく背景はいけいとする宦官かんがんせんけんという現象げんしょうはあまりみられなかった。
  31. ^ かんぞくにあっては、同姓どうせいであってもどうでなければつうこん制限せいげんされないし、同姓どうせいどうであってもふくおや高祖父こうそふおなじくするさん従兄弟いとこ姉妹しまいまでの親族しんぞく)の範囲はんいえれば結婚けっこん可能かのうである[63]まんぞくにあっては、かつては禁忌きんきとされた、同姓どうせいであるがどうでない男女だんじょどうであるがふくおや範囲はんいがいにある男女だんじょ結婚けっこんがみられるようになったというものの、とく老人ろうじんたちはそのことに否定ひていてきである[63]
  32. ^ 嫩江沿岸えんがんやアイグン(黒竜江こくりゅうこうしょう黒河くろかわ周辺しゅうへんなどの少数しょうすう集落しゅうらくでは、まんしゅう口頭こうとうとしてもちいられている[70]
  33. ^ まんぶんろう檔』文献ぶんけん題名だいめいであり、内藤ないとう命名めいめいによる[71]
  34. ^ 圏点けんてん文字もじゆう圏点けんてん文字もじ明瞭めいりょう区別くべつされ、まんしゅうぶん史料しりょう年代ねんだい検討けんとうするさい重要じゅうよう指標しひょうのひとつとなっている[66]
  35. ^ 赫哲ぞく、ロシアでは「ナナイ」としょうする。
  36. ^ うわきょうのモチーフは、説話せつわによっては、さかなではなくカメによってつくられる場合ばあいもある[80]

出典しゅってん

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関連かんれん項目こうもく

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登場とうじょう作品さくひん

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外部がいぶリンク

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