粛慎 (中国ちゅうごく)

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紀元前きげんぜん1世紀せいきころ東夷あずまえびす諸国しょこく粛慎位置いち

粛慎(しゅくしん、拼音:Sùshèn)は、満州まんしゅう中国ちゅうごく東北とうほく地方ちほうおよそとまんしゅう)にんでいたとされる狩猟しゅりょう民族みんぞく。また、のちにこの民族みんぞくんでいた地域ちいき名称めいしょうともなった。粛慎という中国ちゅうごくしゅうだい春秋しゅんじゅう戦国せんごく時代じだい華北かほく中心ちゅうしんとするひがしアジア都市とし文化ぶんかけん人々ひとびとのちかん民族みんぞくとして統合とうごうされていく前身ぜんしんとなった人々ひとびと)が粛慎じん自称じしょう音訳おんやくしたもので、いきまき(そくしん、Xīshèn)・きびまき(しょくしん、Jìshèn)とも表記ひょうきされる。

中国ちゅうごくしゅうだい文献ぶんけんなかにしばしばられ、後代こうだい挹婁勿吉靺鞨おんなしん満州まんしゅうぞく)と同系どうけい民族みんぞくかんがえられることがしばしばある。

日本にっぽん歴史れきししょあらわれる粛慎(みしはせ)とはおなじだが、年代ねんだいおおきなひらきがあり、両者りょうしゃ関係かんけいせい不明ふめいである。

中国ちゅうごく文献ぶんけんにおける記述きじゅつ[編集へんしゅう]

まんしゅう歴史れきし
朝鮮ちょうせん ひがしえびす 濊貊
沃沮
粛慎
つばめ りょう西郡にしごおり 遼東りゃおとんぐん
はた りょう西郡にしごおり 遼東りゃおとんぐん
前漢ぜんかん りょう西郡にしごおり 遼東りゃおとんぐん まもる朝鮮ちょうせん 匈奴きょうど
かんよんぐん おっとあまり
こうかん りょう西郡にしごおり がらす 鮮卑 挹婁
遼東りゃおとんぐん 高句麗こうくり
げんうさぎぐん
たかし あきらはじむぐん 公孫こうそん
遼東りゃおとんぐん
げんうさぎぐん
西にしすすむ たいらしゅう
慕容 宇文うぶん
ぜんつばめ たいらしゅう
ぜんはた たいらしゅう
こうつばめ たいらしゅう
きたつばめ
きたたかし 営州 ちぎり くら莫奚 しつ
あずまたかし 営州 勿吉
きたひとし 営州
きたあまね 営州
ずい 柳城やなしろぐん 靺鞨
つばめぐん
りょう西郡にしごおり
とう 営州 まつばくとく にょうらくとく しつ韋都とく 安東あんどうみやこまもる 渤海こく 黒水くろみずとく 靺鞨
だいじゅうこく 営州 ちぎり 渤海こく 靺鞨
りょう 上京じょうきょうどう   ひがし おんなしん
中京ちゅうきょうどう じょうやす
東京とうきょうどう
きむ 東京とうきょう
上京じょうきょう
あずまりょう だいしんこく
もと りょうぎょうしょう
あきら 遼東りゃおとん やつ指揮しき使
けんしゅうおんなしん うみ西にしおんなしん 野人やじんおんなしん
きよし まんしゅう
 

ひがしさんしょう
ロマノフあさ
沿海州えんかいしゅう/みどりウクライナ/江東こうとうろくじゅうよんたむろ
中華民国ちゅうかみんこく
ひがしさんしょう
極東きょくとう共和きょうわこく
ソ連それん
極東きょくとう
まんしゅうこく
ソ連それん占領せんりょうまんしゅう
中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく
中国ちゅうごく東北とうほく
ロシア連邦れんぽう
極東きょくとう連邦れんぽう管区かんく/極東きょくとうロシア
北朝鮮きたちょうせん
たきぎとうぐん
中国ちゅうごく朝鮮ちょうせん関係かんけい
Portal:中国ちゅうごく

中国ちゅうごく文献ぶんけんでは、粛慎は弓矢ゆみやづくりの得意とくい東北とうほくかた民族みんぞくとして描写びょうしゃされている。その中国ちゅうごく史上しじょうへの最初さいしょ登場とうじょうしゅんさかのぼ[1]以降いこうせい天子てんし中国ちゅうごくあらわれるとそのとくかれて貢物みつぎものまつりにくるというえがかれかたをしている。中国ちゅうごく最古さいこ書物しょもつひとつである『しょけい』にも粛慎の記述きじゅつはある。また、『国語こくご』など複数ふくすう書物しょもつで、春秋しゅんじゅう時代じだい諸侯しょこうこくひとつであるひねにおいて、孔子こうしが粛慎の弓矢ゆみやについて説明せつめいする逸話いつわがある。

前漢ぜんかん以降いこうは、途上とじょうに扶余こく勃興ぼっこうしたため音信いんしん途絶とだえたとられ、粛慎はほとんど文献ぶんけんられなくなった。わって文献ぶんけんちゅうには扶余じん彼等かれらさい呼称こしょうである挹婁が多々たた出現しゅつげんするようになり、挹婁は粛慎の後裔こうえいとしてとらえられた。ただし、まったく粛慎が出現しゅつげんしないわけではなく、たとえば、前漢ぜんかん司馬しばしょうの「きょ」には、粛慎が登場とうじょうしてくるし、とう編纂へんさんされた『すすむしょ』にはよんえびすでんのなかに倭人わじんじょうとともに粛慎じょう収録しゅうろくされている。「きょ」についてえば、しゅうについてあつかった作品さくひんであるから粛慎という使つかったのである。また、『すすむしょ』についてえば、実質じっしつてきには挹婁をあつかっているが、古典こてんなかもちいられている由緒ゆいしょある粛慎という言葉ことば使つかったほうがみやびであるとして、粛慎という表題ひょうだいをつけたのである。

しょけい[編集へんしゅう]

なりおうすんで東夷あずまえびす、肅慎らいおう俾榮はくさくまかない肅慎いのち』。

なりおうすで東夷あずまえびす討伐とうばつし、粛慎がおいをもうげにきた。おう家来けらいさかえはくは『まかない粛慎いのち』をつくった。

春秋しゅんじゅうひだりでん[編集へんしゅう]

肅慎・つばめ・亳、吾北ごほく也。(あきらおおやけ9ねん

しゅうおういんってから)粛慎・つばめ・亳はくにしゅう)のきた土地とちである。

国語こくご[編集へんしゅう]

なか曰「はやぶさ也遠矣。此肅まき也。むかしたけおうかつしょうつうどう于九えびすひゃく蠻、使つかいかく以其かたまかない來貢らいこう使つかい忘職ぎょう。於是肅慎みつぎ楛矢・いし砮、其長せきゆう咫。先王せんおうよくあきら其令德之のりゆき致遠也、以示後人こうじん使つかいながかん焉、めい其栝曰『肅慎みつげ』、以分だいひめはいおそれえびすこう而封しょひねいにしえしゃぶん同姓どうせい以珍だまてんおや也;ぶん異姓いせい以遠いえんかたしょくみつげ使つかい忘服也。ぶんひね以肅まきみつぎ。……」(魯語)

ひねこく宮廷きゅうていはやぶさされてんでいるのがつかり、ひね君主くんしゅはこのことについて孔子こうしうた。)なか孔子こうし)は、「はやぶさとおくからきたのです。これ(はやぶささっている)は粛慎です。むかし、(しゅうの)たけおうしょうったとき、周辺しゅうへん民族みんぞくみちけ、各々おのおの(の民族みんぞく)に自分じぶん得意とくいなものを貢物みつぎものとしてってこさせることで、職能しょくのうわすれさせないようにしました。このとき、粛慎は(楛という)でできた石弓いしゆみってきました。(の)ながさは1しゃく1咫(およそ36cm)ありました。先王せんおうたけおうのこと)はその威令いれい人徳にんとく遠方えんぽうまでいたっているということをあきらかにしようとほっし、ひとしめすため、ながくこれを見定みさだめさせました。だからそのはしゆみつるにかけるところに『粛慎貢物みつぎものである』としるしました。そしてだいひめたけおうむすめ)に(弓矢ゆみやを)けて、おそれえびすこう結婚けっこんさせ、(おそれえびすこうを)ここひねふうじました(土地とちあたえたということ)。ふるくは、(おうと)せいおなしゃには、めずらしい宝物ほうもつあたえました。親戚しんせき重視じゅうししたからです。(おうと)せいことなるものにはとおくからの(それぞれの民族みんぞくの)生業せいぎょうおうじた貢物みつぎものあたえました。服従ふくじゅうすることをわすれさせないためです。(すなわち、遠方えんぽう民族みんぞくですら服従ふくじゅうするのであるから、せいことなるからといっても、服従ふくじゅうしなくてはならないとおもわせようとした)だからひね(というしゅう王室おうしつとはせいことなる諸侯しょこう)には粛慎貢物みつぎものあたえたのです。……」とった。

山海さんかいけい[編集へんしゅう]

肅慎くにざいしろみんきたゆうめい曰雄つね先入せんにゅうみかど、於此取。(海外かいがい西経せいけい

粛慎のくにしろみんきたにある。つねという名前なまえがある。
  • すすむかく璞のちゅうによると、粛慎の習慣しゅうかんとして、衣服いふくないが、中国ちゅうごくで、聖帝せいてい即位そくいすると、つねかわいで、衣服いふくにするとされている。

大荒おおあらちゅう有山ありやまめい曰不咸。ゆう肅慎くに。(だい荒北あらきたけい

大荒おおあらなか咸をいうやまがある。粛慎くにがある。

史記しきしゅう本紀ほんぎ[編集へんしゅう]

なりおうすんで東夷あずまえびすいきまきらいおうたまものさかえはくさくまかないいきまきいのち

しゅうなりおう東夷あずまえびす討伐とうばつすると、いきまき来朝らいちょう慶賀けいがべたので、なりおうさかえはくたまい「まかないいきまきいのち」をつくった。

こう漢書かんしょ東夷あずまえびすでん[編集へんしゅう]

及武おうめつ紂,肅慎らいけんじせき砮、楛矢。かん、蔡畔しゅう,乃招さそえ夷狄いてきしゅうこう征之まさゆきとげてい東夷あずまえびすかんおうとき,肅慎ふくいたり

しゅうたけおういん紂王ほろぼすと、粛慎朝貢ちょうこうしていし砮と楛矢を献上けんじょうした。かん叔鮮蔡叔しゅうに叛き、夷狄いてきまねさそうと、しゅうこうだんはこれを討伐とうばつし、つい東夷あずまえびす平定へいていした。かんおうとき、粛慎がふたたびいたる。

すすむしょよんえびすでん[編集へんしゅう]

肅慎いちめい挹婁,ざい咸山きたおっとあまりろくじゅうにちぎょう東濱ひがしはま大海おおうみ西にしせっ寇漫あせこく北極ほっきょくじゃくすい.其土かいこう袤數千里せんりきょ深山みやまきゅうだに,其路險阻けんそ車馬しゃば不通ふつうなつそくふゆそくあなしょ父子ふしためくんちょう無文むもんすみ,以言ためやく有馬ありまじょうただし以為財産ざいさん而已.うしひつじ畜豬,しょく其肉,ころも其皮,績毛以為ぬのゆうめい雒常,わか中國ちゅうごくゆう聖帝せいていだいりつのり其木生皮なまかわころもかまどさくかわら鬲,受四しょう以食.すわすなわちうずくま,以足はさみにく而啖こおにくすわ其上れいだんしおてつしょうさくはい,灌取じる而食ぞくみなへんかみ,以布さく襜,みちじゃくあまり,以蔽前後ぜんこうはたよめめとおとこ以毛插女あたまじょ和則かずのり持歸もちかえしかこう致禮娉之.さだ而女いんたけし而賤おい死者ししゃ其日そくそう於野,交木さくしょう槨,ころせ豬積其上,以為死者ししゃかてせいきょう悍,以無ゆうあいしょうなお父母ちちはは男子だんし哭泣,哭者いいたけしあいぬすめ竊,多少たしょうみなころせこれ雖野しょ而不しょうはんゆうせき砮,かわこつきのえだんゆみさんしゃくすん,楛矢ちょうせきゆう咫.其國東北とうほく有山ありやま出石いずし,其利にゅうてつはたこれ,必先いのりしん

しゅうたけしおうけんじ其楛いし砮.逮於しゅうこう輔成おうふく使つかいにゅう爾後じごせんねん,雖秦かんもり,莫之致也.及文みかどさくしょう景元かげもとまつ來貢らいこう楛矢、いし砮、ゆみかぶとてんがわぞくみかどみことのり於相たまもの其王傉雞、にしき罽、綿めん帛.いたりたけみかど元康もとやすはつふくらい貢獻こうけんもとみかど中興ちゅうこうまたまいこうひだりみつぎ其石砮.いたりなりみかどつうみつぎ於石りゅうよんねんかたたちりゅうといとう曰「まいこう牛馬ぎゅうばこう西南せいなんねむりしゃさんねん矣,ゆう大國たいこく所在しょざいうん

粛慎いちめい挹婁(ゆうろう)といい、咸山(白頭山はくとうさん)のきたり、おっとあまりから60にちばかりの行程こうていである。ひがし大海おおうみ日本海にほんかい)に沿い、西にしは寇漫あせこくせっし、きたじゃくみずアムールがわ)にまでたっしている。その領域りょういき東西とうざい南北なんぼくともにすう千里せんりにおよび、人々ひとびと奥深おくふかさんだにんでいる。そのみち険阻けんそであり、車馬しゃばかよわない。なつあいだうえみ、ふゆあいだ地下ちかあななか生活せいかつする。父子ふし代々だいだいくんちょうとなる。文字もじはなく、口頭こうとうでもって約束やくそくごとをおこなった。うまがいるがらず、ただ財産ざいさんとするだけである。うしひつじはいないが、おおくの豬(ブタ)をっており、そのにくべ、そのかわころもとする。つむいでぬのとする。名前なまえに雒常(らくじょう)というものがあり、中国ちゅうごく聖帝せいていあらたに帝位ていいにつくときには、そのかわしょうじるのでころもとすることができた。井戸いどかまど(かまど)はなく、かわら鬲(がれき:土釜どがま)をつくり、それに4・5しょうってべる。すわかた両足りょうあしばしてすわり、あしをもってにくをつかんでべ、こおったにくれば、そのうえすわってあたためる。そのにはしおてつがなく、いてはいつくり、みずそそいでしるり、それをくえした。人々ひとびとはみなかみみ、ぬので襜(せん:まえだれ)をつくった。そのおおきさはみちいちしゃくあまりであり、それで身体しんたい前後ぜんごおおった。結婚けっこんしようとするときには、おとこおんなあたま毛羽けばし、おんな結婚けっこん承諾しょうだくすれば毛羽けばいえかえり、しかのちれいをつくしておんなめとる。婦人ふじん貞淑ていしゅくであるが、おんなはほしいままにふるまう。人々ひとびと壮者そうしゃたっとび、老人ろうじんを賤しむ。死者ししゃはそののうちにほうむられ、わせてちいさな槨(かく:ひつぎ)をつくり、豬をころしてそのうえみ、死者ししゃかてとする。性格せいかくはあらあらしく、うれかなしまないことをもってたがいにひさしんだ。父母ちちははんでも男子だんしさけんだりしない。さけぶようなもの壮者そうしゃとはわない。ぬすめ竊したものはその多少たしょうにかかわらずみなこれをころすので、あたりにほうしていてもぬすものはいない。武器ぶきいし砮・かわこつかぶと、3しゃく5すんだんゆみながさ1しゃくすう咫の楛矢[2]がある。そのくに東北とうほくにはいし産出さんしゅつするやまがあり、そのいし鋭利えいりさはてつをもしのぐほどである。これを採取さいしゅするときにはかならずそのまえかみいのるのである。
しゅうおうとき、その楛矢,せき砮を献上けんじょうした。しゅうこうだんなりおう補佐ほさすると、ふたたび使者ししゃつかわしてにゅうした。それからせんねんはたかんさかんになると、使者ししゃおくって朝貢ちょうこうすることはなかった。ぶんみかど司馬しばあきら)がたかし丞相じょうしょうとなったころ景元かげもと260ねん - 264ねん)のすえに粛慎来貢らいこうして楛矢・いし砮・ゆみかぶとてんがわなどを献上けんじょうした。みかど曹奐)はみことのりして献上けんじょうぶつあい[3]おくり、粛慎おうには傉鶏(じょくけい)・にしき罽(きんけい)・綿めん帛(めんばく)をあたえた。すすむたけみかど在位ざいい265ねん - 289ねん)のふとやすし280ねん - 289ねん[4]はじめにいたり、ふたたび来朝らいちょうして献上けんじょうした。もとみかど在位ざいい317ねん - 322ねん)がすすむあさ中興ちゅうこうすると、またこうひだり江東こうとうすなわちたてやすし)にもうでてそのいし砮を献上けんじょうした。なりみかど在位ざいい325ねん - 342ねん)のときいたり、こうちょういしりゅう朝貢ちょうこうするようになり、4ねん到達とうたつできた。りゅうはこれをい、粛慎の使者ししゃこたえてった「たえず牛馬ぎゅうば様子ようすていましたところ、西南せいなんかってねむることが3ねんつづきました。これによって大国たいこくちょう)の所在しょざいることができましたので、やってまいりました」と。

※『すすむしょよんえびすでん記述きじゅつ挹婁時代じだいのものである。

発掘はっくつ調査ちょうさでも史書ししょ記述きじゅつ裏付うらづける竪穴たてあな建物たてもの確認かくにんされているが、これは防寒ぼうかん保温ほおん目的もくてきとして地中ちちゅうあな形態けいたいになったとかんがえられる。また石鏃せきぞくてつ鏃も発掘はっくつされているが、これも鋭利えいり加工かこうされきのみぞきざまれるなど史書ししょ記述きじゅつとよく合致がっちする。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 史記しきみかど本紀ほんぎには「しゅんきたはついきまき」とあり、『たけしょ紀年きねん』にはしゅんの25ねんいきまきしゅん弓矢ゆみや献上けんじょうしたとある。
  2. ^ にんじんあかの楛でつくった
  3. ^ 丞相じょうしょう役所やくしょ、ここでは司馬しばあきらす。
  4. ^ 原文げんぶんでは元康もとやすであるが、元康もとやすめぐみみかど年号ねんごうなので、あやまりだとおもわれる。なお、たけみかど本紀ほんぎには咸寧ねん279ねん)に粛慎が楛矢・いし砮をけんじたことがみえている。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]