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こうつばめ

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こうつばめ
つばめ
前秦 384ねん1がつ - 407ねん7がつ 北燕
後燕の位置
こうつばめ領域りょういき
公用こうよう 漢語かんご中国ちゅうごく
首都しゅと 中山なかやまりゅうじょう
つばめおう皇帝こうてい庶民しょみん天王てんのう
384ねん1がつ - 396ねん4がつ 慕容たれ
396ねん4がつ - 398ねん5月慕容たから
398ねん7がつ - 401ねん7がつ慕容もり
401ねん7がつ - 407ねん7がつ慕容熙
変遷へんせん
建国けんこく 384ねん1がつ
きたつばめ移行いこう407ねん7がつ

こうつばめ(こうえん、拼音:Hòu-yàn)は、中国ちゅうごくえびすじゅうろくこく時代じだい存在そんざいしたくに384ねん - 407ねん)。華北かほく統一とういつしたぜんはた383ねん淝水のたたかあずますすむ大敗たいはいしたのちぜんつばめ将軍しょうぐんだった慕容たれによって建国けんこくされた。中山なかやま現在げんざい河北かほくしょうていしゅう)にし、華北かほく東部とうぶりょう西にし領有りょうゆうした。

歴史れきし

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建国けんこく

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こうつばめ始祖しそである慕容たれぜんつばめ皇族こうぞくで、ぜんつばめ初代しょだい皇帝こうてい慕容皝なんである[1]ぜんつばめが慕容たれ叔父おじ慕容ひょう執政しっせいによりみだれて衰退すいたいすると、あずますすむ桓温攻撃こうげきけて連敗れんぱいし、一時いちじ皇帝こうてい慕容暐りゅうじょうへのかえ検討けんとうするまでになるが[2]、慕容たれつばめぐんひきいてあずますすむぐん撃破げきはしたので、一躍いちやくぜんつばめ台頭たいとうするようになった。ところがこの功績こうせきを慕容ひょう嫉視しっしして謀殺ぼうさつたくらんだため、ぜんしん苻堅した亡命ぼうめいし、泉州せんしゅうこうふうじられ、ぜんつばめ攻撃こうげきにも貢献こうけんした[1]。383ねんの淝水のたたかいでぜんしんぐん大敗たいはいすると、慕容たれは苻堅を保護ほごして撤退てったいした[1]。そのさい、慕容たれは苻堅に河内かわうち方面ほうめん鎮撫ちんぶ提言ていげんし、みとめられて同地どうちいたるが、当時とうじ同地どうち支配しはいしていた苻堅の庶長子ちょうし苻丕からは敬遠けいえんされ、ちょうれい鎮定ちんていめいじられた[3]祖廟そびょう拝謁はいえつゆるされず不満ふまんいた慕容たれは、苻丕の命令めいれいしたがちょうれいしたがえて3まん兵力へいりょくようするようになると、これを背景はいけいにして384ねん1がつつばめおう自称じしょうし、つばめはじめという独自どくじ年号ねんごうてて独立どくりつし、こうつばめ建国けんこくした[3]

ただし、慕容たれ本人ほんにん河北かわきた一帯いったい支配しはいして勢力せいりょく確立かくりつするも、形式けいしきてきにはなおもぜんしん配下はいかしょうしていた[3]臣下しんからがいくら進言しんげんしても皇帝こうてい即位そくいすることは拒否きょひしており、これはおいもと皇帝こうていの慕容暐がまだ存命ぞんめいしていたことと西燕にしつばめとの関係かんけい、また苻堅にたいする恩義おんぎから遠慮えんりょしていたといわれている[3]。その、慕容暐が384ねん12月にころされ、385ねん8がつに苻堅が殺害さつがいされると、386ねん1がつになって慕容たれ中山ちゅうざん皇帝こうてい自称じしょうした[3]

全盛期ぜんせいき

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慕容たれは苻丕とあらそいながら勢力せいりょく拡大かくだいし、河北かわきた一帯いったい支配しはいした[3]。また、おとうと慕容とく慕容麟中枢ちゅうすう起用きようして内部ないぶかため、392ねん6がつには翟魏を、394ねん8がつにはぜんつばめ継承けいしょうけんをめぐって抗争こうそうしていた同族どうぞく西燕にしつばめほろぼし、さらにあずますすむたたかって山東さんとう半島はんとう奪回だっかいし、西にし山西さんせいからひがし山東さんとう遼東りゃおとんいた広大こうだい勢力せいりょくけんをきずきあげ、かつてのぜんつばめをもしの最大さいだい版図はんと形成けいせいした[3]

きたたかしとの対立たいりつ

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慕容たれきたたかしとは最初さいしょ友好ゆうこう関係かんけいきずいたが、これは匈奴きょうどりゅうあらわ西燕にしつばめとのたたかいで連携れんけいするためであった[4]。この両国りょうこく頻繁ひんぱん使節しせつ交換こうかんおこなったが、391ねん7がつに慕容たれきたたかしたいして名馬めいば要求ようきゅうしたのを拒絶きょぜつし、きたたかし西燕にしつばめ接近せっきんしたことから両国りょうこく国交こっこう断絶だんぜつし、こうそう状態じょうたいはいった[4]。慕容たれ西燕にしつばめほろぼしたのち395ねん5月、皇太子こうたいし慕容たからに10まんへいあづけてきたたかし攻撃こうげきさせた[4]大軍たいぐん侵攻しんこうきたたかしオルドスまで撤退てったいして対峙たいじしたが、気候きこう条件じょうけん悪化あっかのためつばめぐんまいりあい陂に後退こうたい、そして11月に天候てんこう急変きゅうへんもあり、きたぐん奇襲きしゅうけたのちつばめぐんさんあい陂のたたか大敗たいはいし、びたのは皇太子こうたいしをはじめ2わりほどの将兵しょうへいといわれるほどの壊滅かいめつてき大敗たいはいきっした[4]。この大敗たいはいで、それまで優勢ゆうせいだったのちつばめきたたかしちから関係かんけい完全かんぜん逆転ぎゃくてんした[4]

慕容たれ頽勢たいせい挽回ばんかいのため、396ねん3がつおやせいしてきたぐん平城ひらじろやぶり、同地どうち平定へいていした[4]。しかし4がつ帰途きとにおいて慕容たれ急病きゅうびょうにより陣没じんぼつした[4]

内訌ないこう分裂ぶんれつ衰退すいたい滅亡めつぼう

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慕容たれ死後しご皇位こうい皇太子こうたいしの慕容たからいだ[4]まいりあい陂のたたかいでの大敗たいはいからもわかるように、慕容たからちちみかど比較ひかくするとあきらかに力不足ちからぶそくであった。ぎゃくきたたかし強敵きょうてきんだのを好機こうきとばかり、9月には現在げんざい山西さんせいしょう全土ぜんど制圧せいあつし、さらにこうつばめ首都しゅと中山ちゅうざんせまいきおいをせた[4]。しかも397ねん2がつにはこうつばめ内部ないぶ内紛ないふん発生はっせい慕容しょうや慕容たからおとうとの慕容麟が相次あいついで反乱はんらんこし、さらに慕容たから暗殺あんさつ計画けいかく発生はっせいするなどした[4]。慕容しょうは9月に慕容麟にほろぼされたが、この内紛ないふんをさらなる好機こうききたたかしは、10月に慕容麟をやぶって中山ちゅうざん平定へいてい、また12月には慕容たからりゅうじょう遷都せんとしてきた鋭鋒えいほうけた[5]。これによりのちつばめは、中原なかはら領土りょうど完全かんぜん喪失そうしつした[5]

この混乱こんらんにより、398ねん1がつには慕容たからからこうつばめ南部なんぶ支配しはいけんまかされていたくるま大将軍だいしょうぐん叔父おじ慕容とく滑台すべりだい現在げんざい河南かなんしょう安陽あんようなめらけん)でつばめおうしょうして自立じりつみなみつばめてたため、こうつばめ分裂ぶんれつした[6]。2月、慕容たから無謀むぼう中山なかやま奪還だっかん敢行かんこうしてきたぐん大敗たいはいし、5月にりゅうじょうにおいてらんあせ殺害さつがいされた[5]らんあせあきらはじむおう自称じしょうしており、慕容皇族こうぞくでもないため、こうつばめはいったん滅亡めつぼうしたことになるが[5]、7がつに慕容たからの庶長子ちょうし慕容もりらんあせ殺害さつがいし、長楽ながらおうとして即位そくいしてこうつばめ再興さいこうした[5]。慕容もりは10がつ皇帝こうてい即位そくいしたが、このころになると内紛ないふんきたたかしあつりょくにより、こうつばめ遼東りゃおとんりょう西にし支配しはいするだけの小国しょうこく没落ぼつらくしており、慕容もり国力こくりょく増強ぞうきょう目指めざすも実現じつげんせず、400ねん1がつにはみずか庶民しょみん天王てんのうを貶号するほどだった[5]

401ねん7がつ、慕容もりきんぐん反乱はんらんにより殺害さつがいされたため、しん天王てんのうには叔父おじ慕容熙皇太后こうたいごうちょうによりむかえられた[5]こうつばめきた外圧がいあつつづ[5]高句麗こうくりちぎり遠征えんせいかえして国力こくりょく消耗しょうもうした[6]

407ねん7がつ、慕容熙は漢人かんどなかまもる将軍しょうぐんである馮跋殺害さつがいされた[6]。これにより、こうつばめ完全かんぜん滅亡めつぼうした[6]

ただし馮跋は、つぎ皇帝こうていに慕容たから養子ようしの慕容くもこうくも)を擁立ようりつしており、また国号こくごうつばめきたつばめ)としたことから、こうつばめ滅亡めつぼうきたつばめ建国けんこくが馮跋自身じしん即位そくいした409ねんとされることもある[7]

年表ねんぴょう

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こうつばめ皇帝こうてい

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  1. なりたけみかど慕容たれ)(つばめおう384ねん - 386ねん皇帝こうてい:386ねん - 396ねん)…慕容皝なん
  2. れつそうめぐみ愍帝(慕容たから)(皇帝こうてい:396ねん - 398ねんころせ)…慕容たれよんなん
    • 開封かいふうこう慕容しょう)(397ねんころせ)…中山ちゅうざん皇帝こうてい僭称せんしょうする。
    • ちょうおう慕容麟)(397ねん)…慕容しょうころして皇帝こうてい僭称せんしょうする。
  3. あきらはじむおうらんあせ)(398ねんころせ)…慕容たからころして即位そくい
  4. ちゅうそう昭武あきたけみかど慕容もり)(皇帝こうてい:398ねん - 400ねん庶民しょみん天王てんのう:400ねん - 401ねんころせ)…慕容たから長男ちょうなんらんあせころして即位そくい
  5. 昭文あきふみみかど慕容熙)(皇帝こうてい:401ねん - 407ねん)…慕容たれ末子まっし

年号ねんごう

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  1. つばめはじめ384ねん - 386ねん
  2. けんきょう(386ねん - 396ねん
  3. えいやすし(396ねん - 398ねん
  4. あおりゅう(398ねん
  5. けんひらた(398ねん
  6. 長楽ながら399ねん - 401ねん
  7. ひかりはじめ(401ねん - 406ねん
  8. たてはじめ407ねん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 三崎みさき 2002, p. 103.
  2. ^ 三崎みさき 2002, p. 76.
  3. ^ a b c d e f g 三崎みさき 2002, p. 104.
  4. ^ a b c d e f g h i j 三崎みさき 2002, p. 105.
  5. ^ a b c d e f g h 三崎みさき 2002, p. 106.
  6. ^ a b c d 三崎みさき 2002, p. 107.
  7. ^ 三崎みさき 2002, p. 109.

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
ぜんはた
こうつばめ
384ねん - 409ねん
次代じだい
きたつばめ