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馮跋

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
文成ふみなりみかど 馮跋
きたつばめ
だい2だい天王てんのう
王朝おうちょう きたつばめ
在位ざいい期間きかん 409ねん - 430ねん
せいいみな 馮跋
ぶんおこり
諡号しごう 文成ふみなりみかど
びょうごう ふとし
生年せいねん しょう
没年ぼつねん 430ねん
ちち 馮安
年号ねんごう 太平たいへい : 409ねん - 430ねん
小名しょうみょうは乞直

ばつ(ふう ばつ)は、えびすじゅうろくこく時代じだいきたつばめだい2だい天王てんのう

かんぞく出身しゅっしんこうつばめ将軍しょうぐんであったが、慕容熙殺害さつがいして高句麗こうくり出身しゅっしん慕容くもこうくも)を擁立ようりつし、きたつばめてた。慕容くも近臣きんしんころされたのち、馮跋がきたつばめ天王てんのうくらいについた。南朝なんちょうそう入朝にゅうちょうした。

生涯しょうがい

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出自しゅつじ

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かんじんで、すすむ長楽ながらぐんしん都県とけん出身しゅっしんえいよしみらんきると祖父そふの馮和がうえとう移住いじゅうした。馮跋のちちの馮安は武勇ぶゆう器量きりょうがあり、西燕にしつばめ慕容ひさし将軍しょうぐんとなった。394ねんこうつばめ西燕にしつばめほろぼすと馮跋はひがしかずりゅうりゅうじょう)にうつされていえ長谷ながたににおいた。馮跋はおさなころから立派りっぱであまりしゃべらず、寬仁かんじん大度たいどがあった。馮跋のおとうとさんにん任侠にんきょうしゃ修行しゅぎょうであったが、ひとり馮跋は謹慎きんしん家業かぎょう手伝てつだったという[1][2]こうつばめ慕容たから即位そくいすると、そのなかまもる将軍しょうぐんとなった。慕容たから養子ようし慕容くも口数くちかずすくなくときひと愚人ぐじんわれたが、ただ馮跋だけはその度量どりょうみとめてともとした[3]

こうつばめ部将ぶしょう

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401ねん慕容熙即位そくいし、407ねんに馮跋とおとうとの馮素どる山沢やまさわげた。その理由りゆうとして『すすむしょ』にあるのは、慕容熙の即位そくいまえに、馮素どる従兄じゅうけいの馮まんどろむかしみずかぶ金龍きんりゅうつけてらえたというはなしき、慕容熙がそれをもとめると馮素どる黙秘もくひとしたためである[1]。慕容熙はひそかに馮跋兄弟きょうだい誅殺ちゅうさつしたいとかんがえ、のちに馮跋もつみたので、山沢やまさわげた。さがされてころされることをおそれた兄弟きょうだいは慕容熙への反乱はんらんはかった。これに従兄じゅうけいの馮まんどろちょうきょう同年どうねん反乱はんらん失敗しっぱいした苻進[3]ら22にんゆいはかりごとした[1]

馮跋とおとうと婦人ふじんくるまさせてりゅうじょう潜入せんにゅうすると北部ほくぶ司馬しばまごまもるいえかくまわれた。そして慕容熙が皇后こうごう苻訓えい葬儀そうぎのためにりゅうじょうると、ちょうきょうや苻進らがらんこした。馮跋は慕容くもをよくおもって君主くんしゅした。馮跋の従兄じゅうけいの馮乳ひねとう噪して弘光ひろみつもんすすむと禁衛きんえいみなげたので、馮跋は入城にゅうじょうして城門じょうもんめた[4]占拠せんきょ報告ほうこくとどくと、慕容熙はいそいで帰還きかんしてよるりゅうじょう北門きたもんめたが、てずに門外もんがいされた。慕容くも天王てんのう即位そくいして大赦たいしゃし、せいはじめ改元かいげんした。国号こくごうは「つばめ」のままだが、このときつばめほろんできたつばめになったとされる。ただし慕容くもこうつばめ皇族こうぞくで、実質じっしつてき建国けんこくしゃは馮跋であるため、こうくもこうつばめ最後さいご皇帝こうていとする場合ばあいもある[5][6]

きたつばめおおやけ

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された慕容熙はりゅうあがえんりゅうじょう攻撃こうげきそなえた。しかし慕容熙は不可解ふかかい理由りゆうった。慕容抜がりゅうじょう攻撃こうげきしたが、へいが慕容熙がげたことをると動揺どうようし、慕容抜は馮跋にころされた。同日どうじつ、慕容熙は庶民しょみんけてはやしなかかくれていたのがつかり、慕容くもとどけられた。慕容くもは慕容熙のつみかぞえて諸子しょしともころした[4]。このとき名前なまえこうせいもどした。こうくもは馮跋の傀儡かいらいであった[7]。馮跋をさむらいちゅうみやこただし中外ちゅうがいしょ軍事ぐんじせいきた大将軍だいしょうぐん開府かいふどうさんろく尚書しょうしょごとたけ邑公、馮まんどろ尚書しょうしょれい、馮素どるあきらはじむいん、馮跋のおとうと馮弘せい東大とうだい将軍しょうぐんまごまもる尚書しょうしょひだりぼくしゃちょうきょうを輔国大将軍だいしょうぐんとした[4]

即位そくい

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こうくも即位そくいさいみずからは功徳くどくりないとかんじて内患ないかん危惧きぐし、はなれはんももじん禁衛きんえい重用じゅうようして厚遇こうぐうしていた。しかしはなれはんももじんはなお不満ふまんつのらせて、409ねんせいはじめ3ねんふゆ東堂とうどうにおいてこうくもころした。馮跋は弘光ひろみつもんらん傍観ぼうかんしていたが配下はいかちょうやすしくわはなれはんももじんころした。こうして馮跋がしゅう推戴すいたいされてせいはじめ3ねんあきらはじむ天王てんのうしょうした。きゅう国号こくごうけずに「つばめ」のままとし、境内けいだい大赦たいしゃして太平たいへい改元かいげんした。前述ぜんじゅつとおり、馮跋はきたつばめ初代しょだい天王てんのうとも代目だいめともされる。馮跋はこうくもめぐみ皇帝こうていおくりなした。

馮跋は政事せいじつとめ、農耕のうこう奨励しょうれいし、ぜいやくかるくしたので市民しみんだいよろこびしたという。きたたかし南境みなみざかいおかされながらその治世ちせいじゅうねんつづいた。太平たいへい22ねんに馮跋は病死びょうしし、太子たいしの馮翼にくにまかせた。しかしそう夫人ふじん自分じぶん王位おういにつけるため、馮弘に馮翼をころさせてその諸子しょしちゅうした[1]

宗室そうしつ

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祖父そふ

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  • 馮和

父母ちちはは

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  • 馮安 - ちち
  • ちょうふとしきさき - はは

后妃こうひ

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  • まご皇后こうごう - らくなみ公主こうしゅ生母せいぼ
  • そう夫人ふじん - 馮受きょ生母せいぼ
  • いくひさ閭夫じん

兄弟きょうだい

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  • 馮素どる - ちょうおとうと
  • 馮弘 - おとうと
  • 馮丕 - おとうと
  • まんどろ - 従兄じゅうけい叔父おじの馮栄の
  • 馮買 - 従兄じゅうけい
  • 馮覩 - 従弟じゅうてい

子女しじょ

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  • 馮永 - 409ねん太子たいしてられ、426ねん死亡しぼう
  • 馮翼 - 426ねん太子たいしてられ、430ねんに馮弘にころされる。
  • 馮受きょ - 430ねんに馮弘にころされる。
  • らくなみ公主こうしゅ - 411ねんいくひさ閭斛りつ結婚けっこんする。

したがえ子女しじょ

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後裔こうえい

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d すすむしょ』「馮跋まき125
  2. ^ しょまき97
  3. ^ a b すすむしょまき124「慕容くも
  4. ^ a b c どおりかんまき114
  5. ^ 三崎みさきえびすじゅうろくこく中国ちゅうごく史上しじょう民族みんぞくだい移動いどう』、P109
  6. ^ すすむしょ』『しょとう
  7. ^ 三崎みさきえびすじゅうろくこく中国ちゅうごく史上しじょう民族みんぞくだい移動いどう』、P110

参考さんこう文献ぶんけん

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