ひかりいとぐちみかど

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ひかりいとぐちみかど あいしんさとし
きよし
だい11だい皇帝こうてい
王朝おうちょう きよし
在位ざいい期間きかん ひかりいとぐち元年がんねん1がつ20日はつか - ひかりいとぐち34ねん10月21にち
1875ねん2がつ25にち - 1908ねん11月14にち
せいいみな あいしんさとし(アイシンギョロ・ヅァイティヤン)
まんしゅう ᠠᡞᠰᡞᠨ ᡤᡞᠣᠷᠣ ᡯᠠᡞ ᠲᡞᠶᠠᠨ(aisin gioro dzai tiyan)
諡号しごう けい皇帝こうてい(ambalinggū hūwangdi)
どうてんたかしうん大中おおなかいたるせい経文きょうもんぬきたけ仁孝にんこう睿智はし倹寛つとむけい皇帝こうてい
びょうごう とくむね
生年せいねん どう10ねん6月28にち
1871ねん8がつ14にち
没年ぼつねん ひかりいとぐち34ねん10月21にち
1908ねん11月14にち
ちち あつし親王しんのう奕譞
はは 赫那ひしげ西にしふとしきさきいもうと
后妃こうひ こうていけい皇后こうごう隆裕たかひろ皇太后こうたいごう赫那ひしげ西にしふとしきさきめい
陵墓りょうぼ たかしりょう(wesihun munggan)
年号ねんごう ひかりいとぐち(badarangga doro): 1875ねん - 1908ねん

なし

養子ようしせんすべみかど

ひかりいとぐちみかど(こうしょてい、こうちょてい)は、きよしだい11だい皇帝こうてい在位ざいい1875ねん - 1908ねん)。いみな(さいてん、湉はさんずいに恬)。びょうごうとくむね(とくそう)。在世ざいせい元号げんごうひかりいとぐちってひかりいとぐちみかどばれる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ひかりいとぐちみかど読書どくしょぞう

みちこうみかどだい7あつし親王しんのう奕譞だい2としてまれる(嫡子ちゃくしよんにんのうち、ただ一人ひとり成長せいちょうした)。はは西にしふとしきさきいもうとである。従兄じゅうけいどうみかど早世そうせいしたのち権力けんりょく保持ほじねら伯母おば西にしふとしきさきによって擁立ようりつされた。即位そくいしたのは3さいときであり、実権じっけん西にしふとしきさきにぎたれすだれ聴政おこなわれた。当初とうしょあずまふとしきさきおしえよりつよ影響えいきょうけ(『おうどう日記にっき』)、伯父おじきょう親王しんのう奕訢政権せいけんになったが、ひかりいとぐち7ねん1881ねん)にあずまふとしきさき急死きゅうしひかりいとぐち10ねん1884ねん)に親政しんせいきょう親王しんのうがベトナムでの敗戦はいせんしんふつ戦争せんそう)の責任せきにん西にしふとしきさきらされ失脚しっきゃくさせられると西にしふとしきさきせんけんした。

どうみかどころからあったきよし衰退すいたいひかりいとぐちみかど治世ちせいでもつづき、どう10ねん1871ねん)のしん勃発ぼっぱつしたヤクブ・ベクのらん最中さいちゅうこったロシアイリ占拠せんきょひかりいとぐち元年がんねん1875ねん)の日本にっぽんによる朝鮮ちょうせん干渉かんしょう江華島こうかとう事件じけん)、ひかりいとぐち5ねん1879ねん)の日本にっぽん琉球りゅうきゅう併合へいごう琉球りゅうきゅう処分しょぶん)、ひかりいとぐち11ねん1885ねん)のしんふつ戦争せんそうによるベトナムへの影響えいきょうりょく喪失そうしつなどがげられる。それでも西にしふとしきさき信任しんにんあつ鴻章こうしうひだりはじめらによるようつとむ運動うんどうきよし経済けいざい技術ぎじゅつ発展はってんすすめられ、しん疆はひかりいとぐち3ねん1877ねん)までにひだりむね棠に平定へいていされ、ひかりいとぐち7ねん1881ねん)のイリ条約じょうやくでイリはロシアから返還へんかんされた。朝鮮ちょうせんめぐ日本にっぽんとの外交がいこう鴻章こうしうひかりいとぐち8ねん1882ねん)のみずのえうま事変じへんひかりいとぐち10ねん1884ねん)のきのえさる政変せいへんひかりいとぐち11ねん天津てんしん条約じょうやく朝鮮ちょうせん足場あしばきずき、ある程度ていど国力こくりょくなおした。

ひかりいとぐちみかどは16さいになったひかりいとぐち13ねん1887ねん)に朝政ちょうせい開始かいししたが、西にしふとしきさき監督かんとく政治せいじおこなくんせいというかたち西にしふとしきさきせんけん継続けいぞくひかりいとぐち15ねん1889ねん)の結婚けっこんともな形式けいしきてきには正式せいしき親政しんせい開始かいしした[1]

親政しんせいによりおうどうひろし側近そっきんひかりいとぐちみかど抜擢ばってきした。ひかりいとぐち20ねん1894ねん)のにちしん戦争せんそう敗北はいぼくによる鴻章こうしう淮軍北洋ほくよう艦隊かんたい壊滅かいめつよく21ねん1895ねん)の下関しものせき条約じょうやく明記めいきされた朝鮮ちょうせんへの影響えいきょうりょく喪失そうしつなど、相次あいつ自国じこく不甲斐ふがいなさをひかりいとぐちみかどなげき、国勢こくせい回復かいふく切望せつぼうするようになった。それゆえにちしん戦争せんそう鴻章こうしう罷免ひめん康有為こうゆういりょうあきらちょうらによるへんほう運動うんどうへの興味きょうみつよつようになり、西にしふとしきさき傀儡かいらいからだっし、みずからの親政しんせいによりきよし中興ちゅうこうげようとひかりいとぐち24ねん1898ねん)に体制たいせい抜本ばっぽんてき改革かいかく宣言せんげんした(つちのえいぬへんほう)。

しかし西にしふとしきさき旧来きゅうらい大官たいかん西にしふとしきさき政治せいじ継続けいぞくはかり、西にしふとしきさき当初とうしょいまさきこととしてクーデターを準備じゅんびしていたが、へんほう一部いちぶもクーデターにたいする先手せんて企図きとして西にしふとしきさき幽閉ゆうへい計画けいかくへんほう同調どうちょうしていた袁世凱西にしふとしきさき寵臣ちょうしんさかえろく突然とつぜん訪問ほうもんけて大勢おおぜいさとり、計画けいかくさかえろく自白じはくした。西にしふとしきさきはクーデターをこしてひかりいとぐちみかど監禁かんきんし、へんほう弾圧だんあつした(つちのえいぬ政変せいへん)。西にしふとしきさきひかりいとぐちみかど廃位はいいかんがえ、ひかりいとぐちみかどしたがえおいみずからのだいおいでもあるはしぐんおう溥儁だいおもね哥(皇太子こうたいし)にてたが、列強れっきょう反対はんたいにあいひかりいとぐちみかど廃位はいい断念だんねんした(おのれけんもうか中国語ちゅうごくごばん[2]。すべての政治せいじてき爆風ばくふうひかりいとぐちみかど伊藤いとう博文ひろぶみ引見いんけんした直後ちょくごたという。おうあきらしょうこう)にいたっては「勿以中日ちゅうにち合邦がっぽうめいため不美ふみ」と上奏じょうそうでいいはって日本にっぽんへの亡命ぼうめい余儀よぎなくされた。

ひかりいとぐち26ねん1900ねん)、義和よしかずだんらん勃発ぼっぱつはちカ国かこく連合れんごうぐん北京ぺきんせまると、西にしふとしきさきれられて西安しーあんまでびた。アメリカ大統領だいとうりょう国書こくしょおく諸国しょこく連合れんごうぐん侵攻しんこうまえ平和へいわ工作こうさく斡旋あっせんたのんだ。実際じっさい北京ぺきん陥落かんらくしたさい軍紀ぐんきかったのはアメリカぐんみやまもった日本にっぽんぐんであった。また京師けいし大学だいがくどうかんがく北京ぺきん大学だいがく校長こうちょう)のしょくにいたもとけいきよしにぎ大使館たいしかん保護ほご外国がいこくつたわるようさとしたが西にしふとしきさき一喝いっかつされ内廷ないていもどされた。

レジナルド・ジョンストン宦官かんがんからいたはなしによると、当時とうじ皇帝こうていは、むらさき禁城きんじょう脱出だっしゅつしようと目論もくろんだけれども、宮中きゅうちゅう宦官かんがんめられたという[3]。そのさいひかりいとぐちみかどちょうちん西にしふとしきさきいのちにより井戸いどまれて殺害さつがいされた。西にしふとしきさき復帰ふっきさせた鴻章こうしう列強れっきょう交渉こうしょうよく27ねん1901ねん)にからしうしやく締結ていけつ事件じけん処分しょぶん直接ちょくせつ首謀しゅぼうしゃだけにかぎられ、北京ぺきん帰還きかん実権じっけん西にしふとしきさきにぎつづけた。その西にしふとしきさき主導しゅどうで、かつてのつちのえいぬへんほうなかから議院ぎいんないかくせい立憲りっけん君主くんしゅせい排除はいじょした、部分ぶぶんてき人事じんじ制度せいど変更へんこうとどまったひかりいとぐち新政しんせい展開てんかいされるが、ひかりいとぐちみかど西にしふとしきさき死亡しぼうするまで終生しゅうせいわた幽閉ゆうへいされたまま殺害さつがいされた。

ひかりいとぐち34ねん(1908ねん)10がつ21にち崩御ほうぎょ宝算ほうさん37。翌日よくじつの22にち西にしふとしきさき崩御ほうぎょきよし西陵せいりょう陵墓りょうぼがある。西にしふとしきさき遺命いめいおい溥儀ふぎせんすべみかどとして即位そくい実父じっぷひかりいとぐちみかどおとうとであるあつし親王しんのう摂政せっしょういたが、長年ながねん西にしふとしきさきせんけんによりきよしは3ねんせんすべ3ねんから4ねん1911ねん - 1912ねん)にかけてこったからし革命かくめい滅亡めつぼうした[4]

にまつわるなぞ[編集へんしゅう]

ひかりいとぐちみかど半身はんしんぞう素描そびょう

死因しいんについては毒殺どくさつせつ自然しぜんせつ両方りょうほう存在そんざいし、当時とうじから砒素ひそ毒殺どくさつされたといううわさがあった。

1980ねんひかりいとぐちみかど陵墓りょうぼ発掘はっくつさい遺体いたい調査ちょうさでは頸椎・毛髪もうはついずれにも中毒ちゅうどく痕跡こんせき見出みだせず外傷がいしょう存在そんざいしなかったこと、ひかりいとぐちみかどかんするカルテおよ薬品やくひん処方しょほうといった史料しりょう現在げんざいみやのこされており書籍しょせき出版しゅっぱんされていることなどから、病死びょうし可能かのうせい濃厚のうこうかんがえられてきた[5]

しかしながら2003ねんより中国ちゅうごく国家こっか清史きよし編纂へんさん委員いいんかい原子力げんしりょく科学かがく研究けんきゅういんなどからるプロジェクトチームが結成けっせいされ死因しいん調査ちょうさおこなった結果けっか2007ねん頭髪とうはつ集中しゅうちゅうして通常つうじょうの1000~2000ばい砒素ひそ検出けんしゅつされたと報道ほうどうされ[6]「これこそいち大量たいりょう砒素ひそ投与とうよされた証拠しょうこだ」とし、ふたた砒素ひそによる毒殺どくさつ可能かのうせいがクローズアップされてきた。

その調査ちょうさすすこういとぐちみかど遺髪いはつ衣服いふくなどを調査ちょうさした結果けっか致死ちしりょうをはるかに上回うわまわ猛毒もうどくさん酸化さんか砒素ひそ検出けんしゅつされた。吐瀉としゃぶつ遺骨いこつとくこう濃度のうどであった残留ざんりゅうじょうきょう文献ぶんけん記録きろくなどから慢性まんせい中毒ちゅうどくではないとして委員いいんかい2008ねんひかりいとぐちみかど死因しいん急性きゅうせい胃腸いちょうせい砒素ひそ中毒ちゅうどくであり毒殺どくさつされたものと結論けつろんけた[7][8]研究けんきゅう成果せいかは、編纂へんさんちゅう清史きよし反映はんえいされる予定よてい

西にしふとしきさき宦官かんがんさむらいまもるによって厳重げんじゅう監視かんし軟禁なんきんしていたひかりいとぐちみかどを、閉鎖へいさ空間くうかんであり厳重げんじゅう警備けいびされたむらさき禁城きんじょうない毒殺どくさつした犯人はんにんについては以下いかせつがあり、真相しんそうあきらかになっていない。

西にしふとしきさき犯人はんにんせつ
『慈禧大伝だいでんおよび『たかしりょうでんしんろくならびに『きよしひえるい鈔』とうとなえる。死去しきょ直前ちょくぜん西にしふとしきさき毒殺どくさつめいじたというせつ西にしふとしきさきひかりいとぐちみかど死亡しぼう時間じかんちかいのは、自分じぶん死期しきさとった西にしふとしきさきが、自分じぶんよりもひかりいとぐちみかど長生ながいきさせないために毒殺どくさつしたとしるしている。
袁世凱犯じんせつ
西にしふとしきさき皇帝こうてい任命にんめいした溥儀ふぎ自伝じでんの『わが半生はんせい』でとなえる。かつてつちのえいぬへんほうひかりいとぐちみかど裏切うらぎった袁世凱にとって、西にしふとしきさき死去しきょしてひかりいとぐちみかど復権ふっけんすることは、自身じしんへの報復ほうふく意味いみしていた。「西にしふとしきさき死期しきちかいという情報じょうほうった袁世凱が、宦官かんがん利用りようし、先手せんてってひかりいとぐちみかど暗殺あんさつした、という論理ろんりである[9]
れんえい犯人はんにんせつ
西にしふとしきさき寵臣ちょうしんであったとくよわいの『瀛台泣血』がとなえる。長年ながねん西にしふとしきさきつかえていた宦官かんがんれんえい毒殺どくさつしたというせつ西にしふとしきさき死去しきょみずからのうしたてうしない、報復ほうふくされるのをおそれて暗殺あんさつしたという論理ろんりである。西にしふとしきさきつかえていたとくよわいが、西にしふとしきさき横暴おうぼうきわめていたれんえいが、ひかりいとぐちみかど復権ふっけんにより報復ほうふくけることをおそれてひかりいとぐちみかど殺害さつがいしたとしている。
その毒殺どくさつせつ
いっけいとうにある、侍医じい毒殺どくさつしたというせつなど。

后妃こうひ[編集へんしゅう]

皇后こうごう1人ひとり側室そくしつが2にんいたが、いずれの女性じょせいあいだにも子供こどもまれなかった。

  • こうていけい皇后こうごう(hiyoošungga toktonggo ambalinggū hūwangheo)(どう7ねん1868ねん) - みんこく2ねん1913ねん))。西にしふとしきさきおとうとかつらさち(グイシャン)のむすめで、西にしふとしきさきめいにあたる。せんしゅうおんな参加さんかして入選にゅうせんし、1889ねんひかりいとぐちみかど皇后こうごうてられる。西にしふとしきさきひかりいとぐちみかど対立たいりつしたため、ひかりいとぐちみかどうとまれ夫婦ふうふなかはよくなかったという。溥儀ふぎせんすべみかどとして即位そくいすると嫡母ちゃくぼとなり、隆裕たかひろ皇太后こうたいごう(wesihun elgiyen hūwang taiheo)と徽号される。からし革命かくめいでは清朝せいちょう内部ないぶ主戦しゅせん和平わへい論争ろんそうきるが、最終さいしゅうてきには隆裕たかひろ皇太后こうたいごう和平わへいかたむき、皇帝こうてい退位たいい決断けつだんをした。そのためみんこく時代じだいには、古代こだい禅譲ぜんじょうした帝王ていおうにたとえられ、「おんななかの堯舜」とばれた。1913ねん2がつ死去しきょしたさいにはみんこく政府せいふから国葬こくそうきゅう待遇たいぐうけ、だい規模きぼ国民こくみん哀悼あいとうかい開催かいさいされた。また、かん西陵せいりょう埋葬まいそうするさいには、おおくのみんこく政府せいふ官僚かんりょう西陵せいりょうまで参列さんれつした。諡号しごうこうていけい皇后こうごう西陵せいりょうたかしりょうひかりいとぐちみかどとともにほうむられている。隆裕たかひろ本名ほんみょうについては西にしふとしきさき#西にしふとしきさき名前なまえについて参照さんしょう
  • ぬるやすしすめらぎとうとどう13ねん1874ねん) - みんこく13ねん1924ねん)):タタラ(Tatala、ひしげちょうじょむすめいもうととともにせんしゅうおんな参加さんかして入選にゅうせん。瑾嬪となりに瑾妃(gincihiyangga fei)にすすむ。いもうとちん西にしふとしきさきいかりにふれたため、一時期いちじき貴人きじんとされるが、のちに瑾妃に復帰ふっき溥儀ふぎ即位そくいすると皇考こうこう瑾貴尊称そんしょうされた。みんこく年間ねんかんにははしやすしすめらぎとうとの徽号がおくられた。いわゆるよんふとし1人ひとり隆裕たかひろ皇太后こうたいごう死後しごは、実家じっかが袁世凱に賄賂わいろおくったためによんふとしのなかで主導しゅどうてき地位ちいにつき、むらさき禁城きんじょうおくきを仕切しきった。溥儀ふぎの『わが半生はんせい』によると、少年しょうねん時代じだい溥儀ふぎ生活せいかつ干渉かんしょうしたためけむたい存在そんざいだったようだ。1924ねん死去しきょおくりなぬるやすしすめらぎとうと
  • つとむじゅんすめらぎとうとひかりいとぐち2ねん1876ねん) - 26ねん1900ねん)):タタラちょうじょむすめで瑾妃の異母いぼいもうとあねとともにせんしゅうおんな参加さんかして入選にゅうせんちん嬪となりちん(ujengge fei)にすすむ。ひかりいとぐちみかどもっと寵愛ちょうあいされた。西にしふとしきさき不満ふまんい、貴人きじんとされるが、のちちん復帰ふっきつちのえいぬ政変せいへんではひかりいとぐちみかど賛同さんどうはげましたためふたた西にしふとしきさき不興ふきょうい、むらさき禁城きんじょうない一室いっしつ幽閉ゆうへいされる。義和よしかずだんらんで8ヶ国かこく連合れんごうぐん北京ぺきん占領せんりょうしたさい西にしふとしきさき命令めいれい井戸いどとされて殺害さつがいされた。翌年よくねん西にしふとしきさきらが北京ぺきんもどるとようやく井戸いどからげられて葬儀そうぎおこなわれ、つとむじゅんすめらぎとうと諡号しごうおくられた。清朝せいちょう公式こうしき発表はっぴょうでは、8ヶ国かこく連合れんごうぐんせまぶしまもるために自殺じさつしたとされている。瑾妃、ちん姉妹しまいはか西陵せいりょうたかしりょうえんにある。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 並木なみき、P232 - P235、加藤かとう、P176 - P178、P182 - P199、岡本おかもと、P118 - P156。
  2. ^ 並木なみき、P235 - P242、P253 - P258、加藤かとう、P204 - P232、岡本おかもと、P171 - P193。
  3. ^ 完訳かんやく むらさき禁城きんじょう黄昏たそがれ じょう中山なかやまやく渡部わたなべ昇一しょういち監修かんしゅう祥伝社しょうでんしゃ祥伝社しょうでんしゃ黄金おうごん文庫ぶんこ〉、2008ねん10がつISBN 978-4-396-31468-2https://www.sun.s-book.net/slib/slib_detail?isbn=9784396314682 ,p.83。
  4. ^ 並木なみき、P298 - P302、P314 - P317、加藤かとう、P232 - P267、岡本おかもと、P193 - P201。
  5. ^ 加藤かとう、P264 - P265。
  6. ^ 最新さいしん科学かがくで100ねんなぞ解明かいめい!清朝せいちょう11だい皇帝こうていこういとぐちみかど死因しいんヒ素ひそによる毒殺どくさつか?―香港ほんこん. レコードチャイナ. (2007ねん12月5にち). https://www.recordchina.co.jp/b13391-s0-c70-d0000.html 2011ねん2がつ14にち閲覧えつらん 
  7. ^ 犯人はんにん西にしふとしきさきか?ひかりいとぐちみかど突然とつぜんヒ素ひそ中毒ちゅうどく確定かくてい中国ちゅうごく. レコードチャイナ. (2008ねん11月4にち). https://www.recordchina.co.jp/b25475-s0-c70-d0000.html 2011ねん2がつ14にち閲覧えつらん 
  8. ^ 清朝せいちょう末期まっきひかりいとぐちみかど死因しいんヒ素ひそ中毒ちゅうどく中国ちゅうごく各紙かくしつたえる 読売新聞よみうりしんぶん(2008ねん11月3にち
  9. ^ 溥儀ふぎてき前半ぜんはんせい群衆ぐんしゅう出版しゅっぱんしゃ、1964ねん、20-21ぺーじ邦訳ほうやく小野おのしのぶほかやく、『わが半生はんせい:「満州まんしゅうこく皇帝こうてい自伝じでん筑摩書房ちくましょぼう、1977ねん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが

テレビドラマ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]