ようつとむ運動うんどう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ようつとむ運動うんどう(ようむうんどう)は、中国ちゅうごくきよしあさ末期まっき1860年代ねんだい前半ぜんはん - 1890年代ねんだい前半ぜんはん)、ヨーロッパ近代きんだい文明ぶんめい科学かがく技術ぎじゅつ導入どうにゅうして清朝せいちょう国力こくりょく増強ぞうきょう目指めざした運動うんどうつよ運動うんどう(じきょううんどう)とも。清朝せいちょう高級こうきゅう官僚かんりょうであったこくはん鴻章こうしうひだりはじめりゅうめいでんちょうほららが推進すいしんしゃ

福建ふっけんしょうふくしゅう造船ぞうせんしょふくしゅうせん政局せいきょく

背景はいけい[編集へんしゅう]

1840ねんから1842ねんにかけてのアヘン戦争せんそう1856ねんから1860ねんにかけてのアロー戦争せんそうだいアヘン戦争せんそう)によって、清朝せいちょう近代きんだいヨーロッパの軍事ぐんじてき優位ゆうい痛感つうかんした。また、1851ねんより国内こくないこっていた太平たいへい天国てんごくらんでも、こくはん鴻章こうしうらが組織そしきしたごういさむ湘軍淮軍)や、列強れっきょう組織そしきされた「常勝じょうしょうぐん」が、清朝せいちょう正規せいきぐんであるはちはたわって鎮圧ちんあつ主力しゅりょくとなった。この時期じきげんは『海国かいこくこころざし』(1843ねん初版しょはん1852ねん増補ぞうほ)で「夷之えびすのちょうわざ以制えびす」(西洋せいようじんすすんだ技術ぎじゅつもちいて西洋せいようじんせいする)と主張しゅちょうし、馮桂芬は『こう邠廬抗議こうぎ』で「以中こくりん常名ひたなきょうため原本げんぽん、輔以諸国しょこく富強ふきょうじゅつ」(中国ちゅうごく倫理りんり基本きほんとして、諸国しょこく富強ふきょう技術ぎじゅつおぎなう)を主張しゅちょうした。太平たいへい天国てんごくでは、てんきょう事変じへんのち香港ほんこんから合流ごうりゅうしたひろしじんが、1859ねん天王てんのう洪秀全こうしゅうぜんに『せい新編しんぺん』を建議けんぎした。政治せいじ経済けいざい社会しゃかい全面ぜんめんてき近代きんだいうったえるこの建議けんぎしょ実行じっこううつされることはなかったが、てきがわこくはん幕僚ばくりょうちょうれつぶんらにつよ印象いんしょうのこした。

アロー戦争せんそう敗戦はいせん処理しょりあに咸豊みかどよりめいぜられ、えいふつとの交渉こうしょうおこない、1860ねんあき屈辱くつじょくてき北京ぺきん条約じょうやくむす当事とうじしゃとなったきょう親王しんのう奕訢は、咸豊10ねん12がつはついちにち1861ねん1がつ11にち)、敗戦はいせん処理しょりともった側近そっきんかつらりょう(グイリャン)・ぶんさち(ウェンシャン)とともに『つう籌夷つとむ全局ぜんきょくしゃくなずらえ章程しょうていろくじょう』を上奏じょうそうした。これがようつとむ運動うんどうはじまりである。上奏じょうそうぶんもとづいて総理そうり各国かっこく事務じむ衙門設立せつりつされ、きよし外交がいこう方針ほうしん一変いっぺんした。

同年どうねんなつ咸豊みかどぼっすると、きょう親王しんのう奕訢は西にしふとしきさきあずまふとしきさきらとともにクーデターをこして宮廷きゅうていない権力けんりょくにぎり(からしとり政変せいへん)、次期じき皇帝こうていどうみかど摂政せっしょうとして君臨くんりんようつとむ運動うんどう全面ぜんめんてきすすめることになった。

ようつとむ運動うんどうのスローガンは「ちゅうからだ西にしよう」。つまり、伝統でんとう中国ちゅうごく文化ぶんか制度せいど本体ほんたいとして、西洋せいよう機械きかい文明ぶんめい利用りよう目指めざす。日本にっぽん明治維新めいじいしん文明開化ぶんめいかいかにおける「かずたましい洋才ようさい」とどう趣旨しゅし言葉ことばである。なお、「ようつとむ」というかたりは、この運動うんどう元来がんらい海防かいぼう任務にんむとする外国がいこくじんたいする事務じむであったことに由来ゆらいしている。

内容ないよう[編集へんしゅう]

かん兵器へいき工場こうじょう

それまでの中国ちゅうごくは、対外たいがい関係かんけいにおいて儒学じゅがくもとづいたはなえびす秩序ちつじょ形成けいせいしていた。そのため、ヨーロッパにおける主権しゅけん国家こっか体制たいせいことなり、条約じょうやくつうじた対等たいとう国際こくさい関係かんけい形成けいせいしなかった。対等たいとう外交がいこう事務じむ正式せいしきおこな役所やくしょ存在そんざいせず、こうした業務ぎょうむおもはんいん管轄かんかつかれ、「えびすつとむ」としょうされた。しかし、アロー戦争せんそう敗北はいぼくにより主権しゅけん国家こっか体制たいせいまれたことで、外交がいこう管轄かんかつする総理そうり各国かっこく事務じむ衙門総理そうり衙門)が設置せっちされた。また、天津てんしん条約じょうやくにより公文こうぶんしょなどに「えびす」の使用しようみとめられなくなったため、「えびすつとむ」という表現ひょうげんも「ようつとむ」とあらためられた。

運動うんどうだいいち段階だんかい太平たいへい天国てんごく鎮圧ちんあつすることであり、大量たいりょう銃砲じゅうほう軍艦ぐんかん輸入ゆにゅうするだけでなく、ヨーロッパの近代きんだい軍備ぐんび自前じまえ整備せいびするために、上海しゃんはい江南こうなん製造せいぞうきょく代表だいひょうされる武器ぶき製造せいぞうしょう造船ぞうせんしょう各地かくち設置せっちした。ほかにも、電報でんぽうきょく製紙せいししょう製鉄せいてつしょうせんきょくや、陸海りくかいぐん学校がっこう西洋せいよう書籍しょせき翻訳ほんやくきょくなどが新設しんせつされた。

これらの改革かいかくは、時期じきはやさでも規模きぼおおきさでも日本にっぽん明治維新めいじいしんにまさっていた。たとえばにちしん戦争せんそう以前いぜん1888ねん編成へんせいされた清国きよくに北洋ほくよう艦隊かんたい北洋ほくようすい)は規模きぼしつにおいて日本にっぽん海軍かいぐん上回うわまわりアジア最大さいだい艦隊かんたいであった。長崎ながさき事件じけんきのえさる政変せいへんでは、日本にっぽんきよし外交がいこうてき軍事ぐんじてき敗北はいぼくしている。

しかし、ようつとむ運動うんどう明治維新めいじいしん決定的けっていてきちがいがあった。明治維新めいじいしん封建ほうけんせい否定ひていして西欧せいおう立憲りっけん君主くんしゅせい同様どうよう政治せいじ体制たいせい目指めざしたのにたいし、ようつとむ運動うんどう清朝せいちょう頂点ちょうてんとした儒教じゅきょうもとづいた政治せいじ体制たいせいをそのまま維持いじしようとした。宮廷きゅうていではようつとむつねやまとひとしひろしじょきりなど儒教じゅきょうもとづく秩序ちつじょ維持いじしようとする守旧しゅきゅう衝突しょうとつし、懸案けんあんであった科挙かきょ改革かいかくもままならなかった。鴻章こうしうどう13ねん(1874ねん)に人材じんざい育成いくせいのため科挙かきょ科学かがく工学こうがくなど実学じつがく提案ていあんをしたが、保守ほしゅだい反対はんたい挫折ざせつしたことを部下ぶかりゅう秉璋ててなげいている。1880年代ねんだいなか以降いこうきょう親王しんのう奕訢らの勢力せいりょく守旧しゅきゅう圧倒あっとうされ改革かいかくいきおいはおとろえた。1884ねんから1885ねんしんふつ戦争せんそうでの苦戦くせんしんぐん旧態きゅうたい依然いぜん体制たいせい時代遅じだいおくれとなっていることをしめし、1894ねんから1895ねんにちしん戦争せんそうでの敗戦はいせんを以って、30ねんあまりのようつとむ運動うんどう挫折ざせつあきらかとなった。

現代げんだいでは、技術ぎじゅつてきめんのみんで旧弊きゅうへい政治せいじ制度せいど軍制ぐんせいまもろうとし、合理ごうり主義しゅぎなどのヨーロッパ近代きんだい思想しそうむことに失敗しっぱいしたために結局けっきょく頓挫とんざしたと評価ひょうかされる。しかしたとえばちょうほら製鉄せいてつところ鉱山こうざん鉄道てつどう整備せいびなど、後代こうだいにつながる成果せいかのこしているものもおおく、中国ちゅうごく技術ぎじゅつ経済けいざい通信つうしん教育きょういくなどの近代きんだいはじまりとなった。

外交がいこう[編集へんしゅう]

1861ねん3月11にちには清朝せいちょう政府せいふ外交がいこう機関きかんである総理そうり各国かっこく事務じむ衙門が設置せっちされた。また対外たいがい関係かんけいのうち、通商つうしょう事務じむには、天津てんしんかれた三口みつくち通商つうしょう大臣だいじん1870ねん北洋ほくよう通商つうしょう大臣だいじん改称かいしょうされちょく隷総とく兼任けんにんするようになった)があたった。また1844ねん広州こうしゅう設立せつりつされたくち通商つうしょう大臣だいじん衙門が上海しゃんはいうつされ、華中かちゅう華南かなん対外たいがい通商つうしょうにあたった(1866ねんには南洋なんよう通商つうしょう大臣だいじんとなりりょうこう総督そうとく兼任けんにんした)。

関税かんぜいなどを管理かんりするだいきよしすめらぎうみせきそう税務ぜいむ現在げんざい中国ちゅうごく税関ぜいかん前身ぜんしん)は1859ねんりょうこう総督そうとくなにかつらきよしがイギリスじんホレーショ・ネルソン・レイ中国ちゅうごくめいやすしこく)をそう税務ぜいむ任命にんめいし、機能きのうしていなかった上海しゃんはい税関ぜいかん機能きのう再建さいけんしたことからはじまった。1861ねんにはそう税務ぜいむ清朝せいちょう政府せいふ中央ちゅうおうみとめる機関きかんとなり、1865ねんには北京ぺきん移転いてんしている。

1870ねん鴻章こうしう北洋ほくよう通商つうしょう大臣だいじんにんじられたのちは、総理そうり衙門の機能きのう次第しだい縮小しゅくしょうし、外交がいこう事務じむ天津てんしんにいる鴻章こうしう処理しょりするようになった。1881ねん以降いこう朝鮮ちょうせんとの外交がいこうも、朝貢ちょうこうこくとの関係かんけいあつかれいから北洋ほくよう通商つうしょう大臣だいじんへと移管いかんされ、さつふう体制たいせいではひかえられていた朝鮮ちょうせん内政ないせい外交がいこうへの干渉かんしょうつよめられ属国ぞっこくすすむようになった。

軍事ぐんじ工業こうぎょう[編集へんしゅう]

ようつとむは「つよし」をスローガンとし、重工業じゅうこうぎょう技術ぎじゅつ西洋せいようかられるほか積極せっきょくてき技術ぎじゅつしゃ登用とうようし、各省かくしょう最新さいしん軍事ぐんじ工場こうじょう兵器廠へいきしょう造船ぞうせんしょなど)を成立せいりつさせた。太平たいへい天国てんごくらん最中さいちゅうの1861ねんに、湘軍のこくはん安徽あんきしょうあんけいきずいたやすけいないぐん械所は、西洋せいようからの技術ぎじゅつ移転いてんなしに設立せつりつされた最初さいしょ軍事ぐんじ工場こうじょうで、砲弾ほうだん蒸気じょうき機関きかんなどをつく太平おうひら天国てんごくぐんとの戦争せんそうささえた。1864ねん南京なんきん陥落かんらくすると工場こうじょう南京なんきんうつされ、のちかねりょう機器きき製造せいぞうきょく合流ごうりゅうした。そのたかしあつし天津てんしん設立せつりつした天津てんしん機器きき製造せいぞうきょく1867ねん)、鴻章こうしう上海しゃんはいつくった江南こうなん製造せいぞうきょく(1865ねん)と南京なんきんつくったきむりょう機器きき製造せいぞうきょくふくしゅうひだりはじめ沈葆楨らがつくったふくしゅうせん政局せいきょく(1866ねん)、ひだりはじめ棠が西安しーあんつくった西安しーあん機器きききょく(1867ねん設立せつりつ1869ねん完成かんせい)などが1860年代ねんだいおも軍需ぐんじゅ工場こうじょうである。

人事じんじ経理けいり契約けいやくなどの生産せいさん管理かんり方式ほうしき清朝せいちょう官僚かんりょう主義しゅぎもとづく旧式きゅうしき管理かんり方法ほうほうで、くわえて生産せいさんされたしな政府せいふだけが使用しようするため採算さいさん度外視どがいしされていた。こうした軍事ぐんじ工場こうじょうから利潤りじゅんはほとんどられず、施設しせつ維持いじ拡大かくだい生産せいさん継続けいぞくするための資本しほん蓄積ちくせきできなかった。

海軍かいぐん建設けんせつ[編集へんしゅう]

ようつとむ官僚かんりょうイギリスフランスドイツアメリカなどへと派遣はけんして兵器へいき軍事ぐんじ装備そうび購入こうにゅうし、4つの近代きんだい海軍かいぐん北洋ほくようすい南洋なんようすいこう東水ひがしみずぶく建水けんすい)を建設けんせつした。とく鴻章こうしう建設けんせつした北洋ほくようすい北洋ほくよう艦隊かんたい)は旅順りょじゅんおよび威海衛いかいえい要塞ようさいし、てつかぶと戦艦せんかんていとお」および「鎮遠」をドイツから購入こうにゅうした。これらは極東きょくとうにおいてトン数とんすう火力かりょくとも最大さいだい艦船かんせんであり、これに匹敵ひってきする戦艦せんかんたなかった日本にっぽんでは脅威きょういとらえられた。

だが、総理そうり海軍かいぐん事務じむ衙門海軍かいぐん統括とうかつすると予算よさん問題もんだい発生はっせい海軍かいぐん衙門は頤和えん建造けんぞう予算よさん使つかんだため、北洋ほくよう艦隊かんたい設備せつび更新こうしん艦隊かんたい新規しんき購入こうにゅう出来でき老朽ろうきゅうした。にちしん戦争せんそう北洋ほくよう艦隊かんたい黄海こうかい海戦かいせん日本にっぽん海軍かいぐん連合れんごう艦隊かんたい大敗たいはい威海衛いかいえいんだがそこも日本にっぽん陸軍りくぐん占領せんりょうされ、威海衛いかいえいたたか北洋ほくよう艦隊かんたい壊滅かいめつした。敗戦はいせんによりようつとむ運動うんどう失敗しっぱいあきらかとなり、鴻章こうしう責任せきにんわれ失脚しっきゃくしたが、3つの海軍かいぐんのこされのち巡洋艦じゅんようかんたい長江ながえ艦隊かんたい統合とうごうされた。

みんよう工業こうぎょう[編集へんしゅう]

ようつとむ運動うんどう開始かいし当初とうしょ軍事ぐんじ工業こうぎょう建設けんせつは、大量たいりょうぎんとうじたものの官僚かんりょう主義しゅぎてき管理かんりわざわいして経済けいざいてき成功せいこうおさめず、さらに軍事ぐんじ工業こうぎょう必要ひつようとする原料げんりょうもたちまち不足ふそくした。1870年代ねんだい以降いこうようつとむ今度こんどは「もとめとみ」をスローガンとし、軍事ぐんじ工業こうぎょうささえるみんよう工業こうぎょう振興しんこうするためふたた資金しきんあつめをはじめた。市場いちば需要じゅようおうじるため、みんよう工業こうぎょう産品さんぴん非常ひじょうおおく、さらに近代きんだい資本しほん主義しゅぎ工業こうぎょう特徴とくちょうそなえるようになった。

鴻章こうしう河北かほくしょう開平かいへい現在げんざい唐山からやま)につくった開平かいへい炭鉱たんこう1878ねん)、ちょうほら湖北こほくしょうたけあきらつくった湖北こほくぬのきょくかんつくったかんてつしょう(1894ねん完成かんせい)、ひだりはじめ棠が甘粛かんせいしょうあららぎしゅうつくったあららぎしゅう製造せいぞうきょく西安しーあん機器きききょく1872ねんあららぎしゅう移転いてんしたもの、別名べつめい甘粛かんせい製造せいぞうきょく)とあららぎしゅう機器きき呢局別名べつめいあま粛織呢総きょく)などがこの時期じき民需みんじゅ企業きぎょうであり、これらの工場こうじょうさんする繊維せんい製品せいひん機械きかいなどは中国ちゅうごく経済けいざい全体ぜんたいからはわずかな規模きぼにすぎなかったものの、外国がいこく資本しほん輸出ゆしゅつひん中国ちゅうごく市場いちば制圧せいあつすることを一定いってい程度ていどしとどめることに成功せいこうした。また鴻章こうしう外国がいこくじん独占どくせんしていた蒸気じょうきせんによる内陸ないりく沿岸えんがん水運すいうん中国人ちゅうごくじん運営うんえいするため、民間みんかん資金しきんあつめて上海しゃんはい中国ちゅうごくはつ近代きんだいてき海運かいうん企業きぎょうせん招商きょく(1872ねん)をつくった。開平かいへい炭鉱たんこうせん招商きょく典型てんけいてきなように、官僚かんりょう経営けいえいはせず監督かんとくをし、だい商人しょうにんなどの民間みんかん出資しゅっしして経営けいえいする「かんとくしょうべん」という半官半民はんかんはんみん経営けいえい形態けいたいおおくとられるようになった。

教育きょういく事業じぎょう[編集へんしゅう]

ようつとむ中国ちゅうごく各地かくちに30ヵ所かしょあまりの近代きんだい新式しんしき学校がっこう建設けんせつし、科学かがく軍事ぐんじ翻訳ほんやくなどの人材じんざい育成いくせいした。ふくしゅうひらかれた海軍かいぐん学校がっこうふねせい学堂がくどう1866ねん設立せつりつ)は卒業生そつぎょうせい北洋ほくようすいなどへおくした。また著名ちょめい翻訳ほんやく機関きかんには京師けいし同文どうぶんかん1862ねん設立せつりつ)がある。こうした教育きょういく機関きかん研究けんきゅう機関きかんが「万国ばんこく公法こうほう」(国際こくさいほう概説がいせつしょ)など西洋せいよう書物しょもつ翻訳ほんやく出版しゅっぱんし、「西にしがく」の普及ふきゅうつとめた。これらの書物しょもつ幕末ばくまつ明治めいじ初期しょき近代きんだい模索もさくする日本にっぽんにもおおきな影響えいきょうあたえた。さらに1872ねんから1875ねんまでの4年間ねんかん毎年まいとしアメリカに30めい少年しょうねん平均へいきん年齢ねんれい12さい)を留学りゅうがくさせた。この事業じぎょうは4ねんわり、当初とうしょ15年間ねんかん予定よていしていた留学りゅうがく期間きかん短縮たんしゅくされ1881ねん全員ぜんいん帰国きこく命令めいれいしている。しかしかれらはアメリカで言葉ことばかべ体制たいせいちがいをえてすぐれた成績せいせきおさ大学だいがくにもすすんでおり、おおくがのち中国ちゅうごく政界せいかい産業さんぎょうかいなどで活躍かつやくした。

通信つうしん事業じぎょう[編集へんしゅう]

ようつとむ1879ねんに、天津てんしんだいあいだ中国ちゅうごく最初さいしょ電信でんしん路線ろせん敷設ふせつし、電報でんぽう事業じぎょうはじめた。電報でんぽう事業じぎょうおこすことを鴻章こうしう提言ていげんしたもりせんふところにより、1881ねんには電報でんぽう総局そうきょく開設かいせつされ、上海しゃんはいから天津てんしんまでの電信でんしんせん建設けんせつされた。

ようつとむ運動うんどうかかわった人々ひとびと[編集へんしゅう]

中央ちゅうおう[編集へんしゅう]

地方ちほう[編集へんしゅう]

在外ざいがい官僚かんりょう[編集へんしゅう]

外国がいこくじん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]