かつらりょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

かつらりょう(けいりょう、グイリャン、まんしゅう: ᡤᡠᠢᠯᠢᠠᠩ転写てんしゃ:guiliang、1785ねん - 1862ねん)は、きよし官僚かんりょうつばめさん満州まんしゅうせいべにはたじん。グワルギャ(gūwalgiya hala、ふりしかけい)。閩浙総督そうとくたまとく(ユデ)の

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

捐納かんにつき、河南かなん按察使四川しせん広東かんとん江西えにしぬのせい使歴任れきにんした。みちこう14ねん1834ねん)、河南かなんめぐなで抜擢ばってきされ、天理教てんりきょうながれをくむ「なま老母ろうぼ信仰しんこう弾圧だんあつした。みちこう19ねん1839ねん)にみずうみこう総督そうとく閩浙総督そうとくよくみちこう20ねん1840ねん)にくも総督そうとく転任てんにんとなった。くも総督そうとくとしてしゅうしょうミャオぞく反乱はんらん鎮圧ちんあつした。

みちこう25ねん1845ねん)、兵部ひょうぶ尚書しょうしょけんせい白旗しらはたかんぐんみやこみつるとなる。そのねつ河都かわとみつる転出てんしゅつしたが、みちこう28ねん1848ねん)に北京ぺきんもどされ鑲紅はたかんぐんみやこみつるとなり、むすめみちこうみかどだい6皇子おうじ奕訢とつがせている。咸豊元年がんねん1851ねん)に吏部尚書しょうしょふくしゅう将軍しょうぐんとなり、よく咸豊2ねん1852ねん)には兵部ひょうぶ尚書しょうしょとなった。

咸豊3ねん1853ねん)、太平たいへい天国てんごくきたぐん北京ぺきんせまると、ちょく隷総とくネルギンゲ(訥爾けいがく)の援護えんごにあたったが、ネルギンゲが敗北はいぼくかさねたため解任かいにんかつらりょうちょく隷総とくとなった。かつらりょうみやこみつる勝保かつやす(シェンバオ)・ホルチンぐんおうセンゲリンチン(senggerincin、そうかくりん沁)と協力きょうりょくして、防衛ぼうえい成功せいこうした。咸豊6ねん1856ねん)にひがしかくだい学士がくしこうむせいあいはたみやこみつるとなった。

咸豊8ねん1858ねん)、アロー戦争せんそうイギリスフランス連合れんごうぐん天津てんしんせまると、和議わぎおもむいて天津てんしん条約じょうやく調印ちょういんした。しかし朝廷ちょうていない主戦しゅせんろん増大ぞうだいすると戦争せんそう再開さいかいされ、咸豊10ねん1860ねん)にイギリス・フランス連合れんごうぐん北京ぺきん占領せんりょう咸豊みかどねつかわのがれると、ぶんさちきょう親王しんのう奕訢ととも事後じご処理しょりにあたり、北京ぺきん条約じょうやく調印ちょういんした。

咸豊11ねん1861ねん)、総理そうり各国かっこく事務じむ衙門設置せっちされるとその大臣だいじんとなり、外交がいこう通商つうしょう事務じむにあたった。同年どうねんの咸豊みかど死後しごからしとり政変せいへんではきょう親王しんのうあずまふとしきさき西にしふとしきさきのグループを支持しじしたため、どうみかど即位そくいすると軍機ぐんき大臣だいじん任命にんめいされ、ようつとむ運動うんどう推進すいしんした。死後しごぶんはし諡号しごうおくられた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

先代せんだい
はやしのりじょ
みずうみこう総督そうとく
1839ねん
次代じだい
しゅう天爵てんしゃく
先代せんだい
しゅう天爵てんしゃく
閩浙総督そうとく
1839ねん - 1840ねん
次代じだい
鄧廷楨
先代せんだい
鄧廷楨
くも総督そうとく
1840ねん - 1845ねん
次代じだい
ちょうよわい
先代せんだい
テデンゲとくとうがく
兵部ひょうぶまん尚書しょうしょ
1852ねん - 1853ねん
次代じだい
アリンガおもねれいおもね
先代せんだい
ネルギンゲ(訥爾けいがく
ちょく隷総とく
1853ねん - 1856ねん
次代じだい
たん廷襄