つちのえいぬへんほう

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りょうあきらちょう弁髪べんぱつ姿すがた
ひかりいとぐちみかど

つちのえいぬへんほう(ぼじゅつのへんぽう、中国ちゅうごく: つちのえいぬ变法きゅう字体じたい: つちのえいぬへんほう)とは、中国ちゅうごく清朝せいちょう末期まっき1898ねん(=つちのえいぬとしひかりいとぐち24ねん)に実行じっこうされた、一連いちれん政治せいじ改革かいかく総称そうしょう明治維新めいじいしん同様どうよう立憲りっけん君主くんしゅせいによる近代きんだい革命かくめい維新いしんうえからの改革かいかく)を目指めざへんほうつよ運動うんどう集大成しゅうたいせいにあたる。運動うんどうになっていた康有為こうゆういりょうあきらちょうへんほうと、かれらをれたひかりいとぐちみかどによって、同年どうねん6がつ11にちから改革かいかく実行じっこうされた。しかしその改革かいかくきら西にしふとしきさきが、同年どうねん9がつ21にちクーデターつちのえいぬ政変せいへん)をこしたため、改革かいかく強制きょうせいてき中止ちゅうしされた。実行じっこうされた日数にっすう(103日間にちかん)のみじかさから「ひゃくにち維新いしん」ともばれる。

概要がいよう[編集へんしゅう]

きよし王朝おうちょう時代じだい中国ちゅうごくにおいて、ひかりいとぐち24ねん1898ねんつちのえいぬとし)の4がつ23にち太陽暦たいようれき6月11にち)から8がつ6にち9月21にち)にかけてひかりいとぐちみかど全面ぜんめんてき支持しじしたわか大夫たいふそうである康有為こうゆういりょうあきらちょうたん嗣同らのへんほうによっておこなわれた政治せいじ改革かいかく運動うんどう。これは3カ月かげつ西にしふとしきさきのクーデターにより挫折ざせつし、康有為こうゆういりょうあきらちょう日本にっぽん亡命ぼうめいした。

この時点じてんからやく30ねんまえ1861ねんからようつとむ運動うんどうおこなわれ、ちゅうからだ西にしようをスローガンにあらたな技術ぎじゅつ知識ちしきまなんだことにより清朝せいちょう国勢こくせい一時いちじてき回復かいふくしたが、きゅう体制たいせいえずに西洋せいよう技術ぎじゅつのみをれるようつとむ運動うんどうにちしん戦争せんそう敗北はいぼくにより限界げんかい露呈ろていする。

康有為こうゆういらがもちいた「へんほう」とはしょう鞅のへん法令ほうれいとう有名ゆうめい言葉ことばで、政治せいじ制度せいどふくめた統治とうち機構きこう全体ぜんたい変革へんかくす。具体ぐたいてきには、科挙かきょわる近代きんだいてき学制がくせい新式しんしき陸軍りくぐん訳書やくしょきょく制度せいどきょく創設そうせつ、懋勤殿どの開設かいせつ議会ぎかい制度せいど導入どうにゅう)など、おも明治めいじ日本にっぽんはんをとった改革かいかくあん上奏じょうそう布告ふこくされた。

改革かいかくは、康有為こうゆうい中心ちゅうしんとするみかどとうちょうほらぶん廷式、いむふくといった改革かいかく積極せっきょく推進すいしんしたが、次第しだいみかどとう性急せいきゅうさにより官吏かんりそう支持しじうしなわれると急進きゅうしん穏健おんけん路線ろせん対立たいりつふかまり、穏健おんけん急進きゅうしんてき施策しさく支持しじむずかしい状況じょうきょうとなる。急進きゅうしんてき改革かいかくによりみかどとう支持しじうしなわれると、西にしふとしきさきつちのえいぬ政変せいへんばれるクーデター決行けっこうひかりいとぐちみかど監禁かんきんされて実権じっけんうしない、へんほう主要しゅよう人物じんぶつ処刑しょけいへんほう運動うんどう完全かんぜん挫折ざせつした。

統治とうち機構きこう近代きんだいにより王朝おうちょうなおすことに失敗しっぱいくわえて義和よしかずだんらんをめぐる清朝せいちょう醜態しゅうたいくわわり、1911ねんからし革命かくめいへの機運きうんたかまる。

経緯けいい[編集へんしゅう]

にちしん戦争せんそう敗戦はいせん[編集へんしゅう]

1895ねん3月、にちしん戦争せんそう敗戦はいせんほうけて、清朝せいちょう知識ちしきじんたちは様々さまざま反応はんのうしめした[1]。なかでも、ちょうど科挙かきょ試験しけんかいためし)のため北京ぺきんあつまっていた受験生じゅけんせいうち603めいは、講和こうわ拒否きょひ制度せいど改革かいかくもとめる上書うわがきひかりいとぐちみかどへの意見いけんしょ)を連署れんしょしるし、下関しものせき条約じょうやく批准ひじゅん翌日よくじつの5がつ3にち提出ていしゅつした[2]。この出来事できごとおおやけしゃ上書うわがき中国語ちゅうごくごばんという。このおおやけしゃ上書うわがき主導しゅどうしたのが、広東かんとんからていた受験生じゅけんせい康有為こうゆういとその友人ゆうじんりょうあきらちょうだった。康有為こうゆうい前歴ぜんれきとして、1888ねんにも上書うわがき提出ていしゅつしていた(だいいち上書うわがき[3]。したがって、おおやけしゃ上書うわがき度目どめ上書うわがきだった(だい上書うわがき)。なお、上書うわがきはそのも1898ねんまですうかいおこなわれた。

おおやけしゃ上書うわがきだい上書うわがき)は結局けっきょく政府せいふこばまれてひかりいとぐちみかどとどくことはなかったが、書物しょもつとして刊行かんこうされてひろまれた[2]。また政府せいふ内部ないぶにも、おうどうのように康有為こうゆうい親和しんわてき改革かいかく官僚かんりょうもいた[4]

おおやけしゃ上書うわがきわったのちも、康有為こうゆういらは北京ぺきんまり、政治せいじ団体だんたいつよ学会がっかい結成けっせいした。つよ学会がっかいは、上海しゃんはい支部しぶつくられたが、会報かいほうにおいて年号ねんごう孔子こうし紀年きねん併記へいきしていたひとし理由りゆうから政府せいふ弾圧だんあつけ、1896ねん1がつ解散かいさんしてしまう。しかし、このつよ学会がっかい関係かんけいしゃたちが、そのへんほうつよ運動うんどう主導しゅどうしていくことになる。

へんほうつよ運動うんどう[編集へんしゅう]

1895ねんから1898ねんにかけて、へんほうつよ運動うんどうへんほう運動うんどう)とばれる運動うんどう展開てんかいされた。へんほう運動うんどう言論げんろん活動かつどうじくにして展開てんかいされた。すなわち、上記じょうきつよ学会がっかいのような学会がっかい発行はっこうする会報かいほうや、出版しゅっぱんしゃほうかん)が発行はっこうする雑誌ざっし新聞しんぶんおも媒体ばいたいとして、様々さまざま改革かいかくあん提示ていじするかたち展開てんかいされた[5]。そのような媒体ばいたい代表だいひょうれいとして、つよ学会がっかいの『中外ちゅうがい中国語ちゅうごくごばん』『つよしがくほう』、時務じむほうかんの『時務じむほう中国語ちゅうごくごばん』などがある。これらの媒体ばいたいは、都市としでの輿論よろん形成けいせい寄与きよするとともに、国際こくさい情勢じょうせい紹介しょうかいする役割やくわりになった[5]

へんほう運動うんどう中心ちゅうしん人物じんぶつである康有為こうゆういは、上記じょうきだいいち上書うわがき失敗しっぱいして以来いらい儒学じゅがくしゃ廖平つねしゅう学派がくは)の影響えいきょうのもと、儒学じゅがく思想しそう応用おうようした体制たいせい変革へんかくろん孔子こうしあらためせいせつ大同だいどう思想しそう)を構築こうちくしていた[2][6]。また、康有為こうゆういふくへんほう運動うんどうになたちは、在家ありいえ仏教ぶっきょうがくもの楊文かい影響えいきょうのもと、仏教ぶっきょうにも傾倒けいとうしていた[7]

へんほう運動うんどう時期じきには、当時とうじ最先端さいせんたん思想しそうである社会しゃかい進化しんかろん紹介しょうかいおこなわれた。とりわけ、天津てんしん発行はっこうされた『くに聞報中国語ちゅうごくごばん』では、社会しゃかい進化しんかろんしゃT.H.ハクスリーしょ論文ろんぶんが、いむふく翻訳ほんやくつうじて連載れんさいされた[8]1898ねんには、それらの連載れんさい論文ろんぶんふく書籍しょせきてんえんじろん中国語ちゅうごくごばん』が発行はっこうされ、後世こうせいえびすてきらに影響えいきょうあたえた[9]

へんほう運動うんどう時期じきには、女性じょせい解放かいほう運動うんどう中国ちゅうごくにおけるフェミニズム)の草分くさわけにあたる運動うんどう展開てんかいされた[10][注釈ちゅうしゃく 1]。とりわけ、上海しゃんはい結成けっせいされた「おんな学会がっかい」の会報かいほうおんながくほう』では、女性じょせい教育きょういく女性じょせい参政さんせいけん男女だんじょ平等びょうどうについて発信はっしんするとともに、女性じょせい編集へんしゅうしゃ一個人いっこじんとしてフルネームで記名きめいした[10]。あるいは、へんほう運動うんどうまえからすでに、プロテスタント宣教師せんきょうしアリシア・リトル英語えいごばん(リトル夫人ふじん)によって纏足てんそく廃止はいし運動うんどう展開てんかいされていた[12]

へんほう運動うんどうになおおくは、日本にっぽん明治維新めいじいしん模範もはんとしていた。とりわけ遵憲は、1877ねん日本にっぽん清朝せいちょう公使館こうしかん開設かいせつされたさいまいりさんかんとして訪日ほうにちしており、そのときの見聞けんぶんをもとに『日本国にっぽんこくこころざし』をあらわしている[13]同書どうしょでは、明治維新めいじいしん分析ぶんせきや、よりゆき山陽さんようの『日本にっぽん外史がいし』を参照さんしょうした日本にっぽん叙述じょじゅつおこなわれている[13]。『日本国にっぽんこくこころざし』は、1877ねん完成かんせいして総理そうり衙門鴻章こうしうちょうほらおくられたが、そのときかならずしも話題わだいにならなかった[13]一方いっぽうで、1895ねんりょうあきらちょう序文じょぶんをつけて出版しゅっぱんすると、にちしん戦争せんそうにより日本にっぽんへの関心かんしんたかまっていたこともあり話題わだいになった[13]。1898ねんだいろく上書うわがきでは、康有為こうゆういが『日本国にっぽんこくこころざし』をもとにあらわした『日本にっぽんへんせいこう』が添付てんぷされた[13]。なお、明治維新めいじいしんだけでなくピョートル1せいのような啓蒙けいもう専制せんせい君主くんしゅ模範もはんとされており、おなじくだいろく上書うわがきでは『だいかれとくへんせい』(だいピョートルへんせい)も添付てんぷされている[14]

へんほう運動うんどう進展しんてんするなか、中央ちゅうおう政府せいふ先立さきだって、湖南こなんしょう地方ちほう政府せいふにおいて改革かいかく実践じっせんされる[15]。その湖南こなん改革かいかくになった官僚かんりょうとして、ちんたからこうしるべ中国語ちゅうごくごばん遵憲からざいつねらがいる[15]。また、湖南こなん代表だいひょうするごうしんで、著名ちょめい儒学じゅがくしゃでもあるおうさきけんは、自身じしん院長いんちょうつとめる書院しょいんたけふもと書院しょいん」で、上記じょうきの『時務じむほう』を学生がくせい推奨すいしょうするとともに、1896ねんにはごうしんとともに「時務じむ学堂がくどう中国語ちゅうごくごばん」を創設そうせつした[15]おうさきけんはさらに、湖南こなん出身しゅっしんたん嗣同斡旋あっせんりょうあきらちょう湖南こなん招聘しょうへいし、1898ねんには時務じむがくどう拠点きょてんとする学会がっかいみなみ学会がっかい」を結成けっせいする[15]。このみなみ学会がっかいにおいて、りょうあきらちょうらは纏足てんそく廃止はいし議会ぎかい開設かいせつなどの言論げんろん発信はっしんした[15]。しかしながら、おなじく湖南こなんごうしん儒学じゅがくしゃとくてるらは、そのようなりょうあきらちょう言論げんろん反発はんぱつし、伝統でんとう儒学じゅがく立場たちばから批判ひはん展開てんかいした[15]。そのようなとくてるふくへんほう批判ひはんしゃたちの言論げんろんは、のちに『つばさきょうくさむらへん中国語ちゅうごくごばん』として書物しょもつにまとめられた。

つちのえいぬとし[編集へんしゅう]

つちのえいぬへんほう[編集へんしゅう]

1898ねん6がつ11にち朝廷ちょうていない保守ほしゅ筆頭ひっとうだったきょう親王しんのう奕訢などをきっかけとして、ひかりいとぐちみかどは「あきらかに国是こくぜさだめる」という詔勅しょうちょくあきらてい国是こくぜみことのり中国語ちゅうごくごばん)をくだした[4]。そして同日どうじつから9がつ21にちまでの103日間にちかん康有為こうゆういらを中心ちゅうしんてき官僚かんりょうとして、憲法けんぽう制定せいてい国会こっかい開設かいせつ科挙かきょ改革かいかく京師けいし大学だいがくどう北京ぺきん大学だいがく前身ぜんしんとなる近代きんだいてき大学だいがく)の設置せっちぐん近代きんだい工業こうぎょうといった様々さまざま改革かいかく、すなわち「つちのえいぬへんほう」が実行じっこうされた[4]

つちのえいぬ政変せいへん[編集へんしゅう]

クーデターにいた経緯けいい[編集へんしゅう]

へんほうは、あまりに急激きゅうげき全般ぜんぱんてき改革かいかくであったために、改革かいかくたい周囲しゅういから危惧きぐ懸念けねんこえ相次あいついだ。批判ひはん背後はいごには、改革かいかく進行しんこうによって手放てばなさざるをなくなる政治せいじ権力けんりょく既得きとく権益けんえきたいする危機ききかんがあった。すなわち西にしふとしきさきには、康有為こうゆういらが導入どうにゅう目指めざ憲法けんぽう議会ぎかい制度せいどは、みずからの政治せいじ権力けんりょく掣肘せいちゅうくわえるものとしてえいじたであろうし、明治めいじ日本にっぽんならった官庁かんちょう統廃合とうはいごう官僚かんりょう頭数とうすう整理せいりでもあるため、官僚かんりょうそう反発はんぱつまねくものであった。

指導しどうてき立場たちば康有為こうゆういが、経学けいがく傍流ぼうりゅうであるこんぶんおおやけひつじがくであったのも孤立こりつまねいた一因いちいんかもしれない。当初とうしょへんほう好意こういてきであったりょうこう総督そうとくりゅうひつじさるいちみずうみこう総督そうとくちょうほらまご朝廷ちょうていない支援しえんてき立場たちばれなくなってゆく。かれらは、康有為こうゆういこんぶんこうひつじがく先鋭せんえいてきぎると警告けいこくしながらも、へんほう賛同さんどうしたのであるが、性急せいきゅうかつ極端きょくたん京師けいし大学だいがくどう教育きょういく内容ないよう孔子こうし紀年きねんをめぐって批判ひはんたかまった康有為こうゆういから次第しだい距離きょりき、朝臣あそんおよ政府せいふ高官こうかんとしての立場たちばからちょうほらちゅうからだ西にしようてき改革かいかく思想しそう集大成しゅうたいせいともいえる『勧学かんがくへん』を急遽きゅうきょ刊行かんこうし、そのなか康有為こうゆうい批判ひはんしている。

へんほう開始かいし冒頭ぼうとうに、ひかりいとぐちみかど家庭かてい教師きょうしでもあり、改革かいかく背後はいごからささえていたそうしょ大臣だいじんおうどうが、西にしふとしきさきによって無理矢理むりやり解職かいしょく引退いんたいさせられていることからもあきらかなように、ひかりいとぐちみかどとうへんほうはもとから政治せいじてき劣勢れっせいであった。それにくわえて、在京ざいきょう地方ちほう大官たいかんたちがへんほうから距離きょりくようになれば、ひかりいとぐちみかどとうへんほう西にしふとしきさき一派いっぱとの権力けんりょくバランスが一気いっきくずれるのはるよりあきらかであったといえよう。ひかりいとぐち24ねん陰暦いんれき7がつ・8がつ時点じてんでクーデターはだれにも時間じかん問題もんだいとしてとらえられていたのである。

クーデター[編集へんしゅう]

西にしふとしきさきさかえろく首都しゅと軍隊ぐんたいひきいさせクーデターを準備じゅんびしてたが、へんほう対抗たいこうして軍隊ぐんたいによって西にしふとしきさき拘束こうそくし、実権じっけんにぎったうえでの改革かいかく実行じっこう立案りつあんした。新建しんたけ陸軍りくぐん指揮しきかんであり、へんほうにもはやくから理解りかいしめしていた袁世凱(かれ一時いちじ康有為こうゆうい政治せいじ団体だんたいであるつよ学会がっかい所属しょぞくしていた)を昇進しょうしんさせるとう準備じゅんびおこなっている。8月3にち9月18にちたん嗣同が袁の私邸してい説得せっとくおこない、袁も了承りょうしょうした。

ところが8がつ5にち9がつ20日はつか)、西にしふとしきさき側近そっきんさかえろくが袁世凱を詰問きつもんすると情報じょうほうをリークした。西にしふとしきさき翌日よくじつからへんほう官僚かんりょうだい粛清しゅくせいおこなった。康有為こうゆういりょうあきらちょうらはいちはや逃亡とうぼうして日本にっぽん亡命ぼうめいした。しかしひかりいとぐちみかど幽閉ゆうへいされ、たん嗣同ら6にん官僚かんりょうは8がつ13にち9月28にち)、北京ぺきん城内じょうのうちさいこう処刑しょけいされた。たん嗣同は逃亡とうぼうすすめをことわり、「改革かいかくいしずえになる」とみずからわれ処刑しょけいされたという。このとき処刑しょけいされた主要しゅようへんほう6にんたん嗣同・はやしあさひ楊鋭りゅうひかりだい楊深しゅう康広やすひろひとし)は「つちのえいぬろく君子くんし」とばれる[16]

その[編集へんしゅう]

すめらぎ[編集へんしゅう]

りょうあきらちょう(1903ねん日本にっぽん

へんほう失敗しっぱいした康有為こうゆういりょうあきらちょうらは、日本にっぽん亡命ぼうめいした。以降いこうかれらは「すめらぎ」とばれる[注釈ちゅうしゃく 2]すめらぎとは、清朝せいちょう皇帝こうてい制度せいど)を維持いじしたまま、憲法けんぽう制定せいていとう改革かいかくによって、中国ちゅうごく近代きんだいなおしをはかるべきとかんがえる立場たちば人々ひとびとのことであり、まごぶんあきら炳麟ら「革命かくめい」とたいになる言葉ことばである。

かれらが亡命ぼうめいちゅう1899ねんに、「すめらぎかい」(zh)こと「すくいだいきよし皇帝こうていかい」が設立せつりつされたことからすめらぎ名前なまえ定着ていちゃくする。また、「立憲りっけん」「改良かいりょう」「へんほう」との範囲はんいちがいや時期じきてき使つかけも存在そんざいするようであるが(これらの言葉ことばは、上記じょうき亡命ぼうめいまえから使つかわれており、たとえば、亡命ぼうめいは、これらの言葉ことば使つかわれないとするかんがかたもあるが)、厳密げんみつなものでも、明確めいかくなものでもない。なお、ひかりいとぐちみかど死後しごは、皇帝こうてい擁立ようりつするかんがかたりをひそめ、「すめらぎ」ではなく「立憲りっけん」などとばれるようになる。

すめらぎぞくするものとしては上記じょうき康有為こうゆういりょうあきらちょう以外いがいはくどうから瓊昌らがいる。中華民国ちゅうかみんこくだい総統そうとう袁世凱中華ちゅうか帝国ていこく皇帝こうてい即位そくいさせた楊度すめらぎのイデオローグであった。

ひかりいとぐち新政しんせい[編集へんしゅう]

1900ねんから1911ねん、すなわち義和よしかずだんらん終了しゅうりょうからきよし帝国ていこく滅亡めつぼうまで。 

みんこく初期しょき[編集へんしゅう]

1911ねんからし革命かくめい中華民国ちゅうかみんこく成立せいりつすると、康有為こうゆういりょうあきらちょうらは亡命ぼうめい生活せいかつえて、れて帰国きこくする。しかしそのも、袁世凱にたいする政争せいそう籌安かい護国ごこく戦争せんそう)や、儒教じゅきょうをもとにした宗教しゅうきょうみんこく国教こっきょうにしようとする運動うんどうあなきょう運動うんどう)や、ちょういさお復辟ふくへき清朝せいちょう復興ふっこう未遂みすい事件じけん)に関与かんよしていくことになる[17]

研究けんきゅう[編集へんしゅう]

中国ちゅうごくきん現代げんだいにおけるへんほう位置付いちづけは、学者がくしゃによって様々さまざま見解けんかいがある。

定説ていせつとしては、「ようつとむへんほう革命かくめい」というさん段階だんかいろん、すなわち、ようつとむ挫折ざせつしてへんほうに、へんほう挫折ざせつして革命かくめい移行いこうした、と説明せつめいされることがおお[18]

人物じんぶつ一覧いちらん[編集へんしゅう]

康有為こうゆうい
たん嗣同
宦官かんがんかつがれた御輿みこし西にしふとしきさき

つちのえいぬろく君子くんし[編集へんしゅう]

その[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 中国ちゅうごくにおけるフェミニズムはじまりについては諸説しょせつある[11]
  2. ^ すめらぎ」という言葉ことばは、現代げんだい中国語ちゅうごくごけんでは、「おう党派とうは」あるいは「守旧しゅきゅう」といった意味いみで、様々さまざま文脈ぶんみゃくもちいられている(zh:すめらぎ)。香港ほんこん立法りっぽうかいおよ議会ぎかいにおけるけんせいばれる北京ぺきん中央ちゅうおう政府せいふ忠実ちゅうじつ親中しんちゅうてき勢力せいりょく民主みんしゅから「すめらぎとう」(なかすめらぎとう)ともばれている(香港ほんこん政党せいとう一覧いちらん)。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 川島かわしま 2010, p. 10.
  2. ^ a b c 川島かわしま 2010, p. 28.
  3. ^ 川島かわしま 2010, p. 27.
  4. ^ a b c 川島かわしま 2010, p. 34.
  5. ^ a b 川島かわしま 2010, p. 29-32.
  6. ^ 坂元さかもと 2017, p. 34.
  7. ^ 川島かわしま 2017, p. 28.
  8. ^ 坂元さかもと 2017, p. 43.
  9. ^ りゅうそういむふく翻訳ほんやく : 主体性しゅたいせいと「いたるまい」の限界げんかいせいについて」『愛知あいち : φιλοσοφια』だい29かん、2017ねん、35ぺーじdoi:10.24546/81010342 
  10. ^ a b 川島かわしま 2010, p. 29.
  11. ^ 関西かんさい中国ちゅうごく女性じょせい研究けんきゅうかい へん増補ぞうほ改訂かいていばん 中国ちゅうごく女性じょせい入門にゅうもん おんなたちのいまむかし人文書院じんぶんしょいん、2014ねんISBN 9784409510544  だい3しょう女性じょせい解放かいほう
  12. ^ 坂元さかもと 2017, p. 48.
  13. ^ a b c d e 川島かわしま 2010, p. 32-33.
  14. ^ 坂元さかもと 2017, p. 49.
  15. ^ a b c d e f 川島かわしま 2010, p. 31-32.
  16. ^ つちのえいぬろく君子くんし-1415615』 - コトバンク
  17. ^ 川島かわしま 2010, p. 166.
  18. ^ 川島かわしま 2010, p. 26.

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

史料しりょう[編集へんしゅう]

概説がいせつ[編集へんしゅう]

  • 川島かわしましん近代きんだい国家こっかへの模索もさく 1894-1925 シリーズ中国ちゅうごくきん現代げんだい2』岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、2010ねんISBN 978-4004312505 
  • 菊池きくち秀明ひであき中国ちゅうごく歴史れきし10 ラストエンペラーと近代きんだい中国ちゅうごく 清末きよすえ中華民国ちゅうかみんこく講談社こうだんしゃ、2005ねんISBN 978-4062740609 
  • 坂元さかもとひろ中国ちゅうごく近代きんだい思想しそう文化ぶんか岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、2016ねんISBN 978-4004316077 

研究けんきゅう[編集へんしゅう]

  • しょう野川のがわ秀美ひでみ清末きよすえ政治せいじ思想しそう研究けんきゅう平凡社へいぼんしゃ東洋文庫とうようぶんこ、2009ねん 初出しょしゅつ: 1960ねん京都大学きょうとだいがく人文じんぶん科学かがく研究所けんきゅうじょ報告ほうこく、1969ねんみすず書房しょぼうだい1かん: ISBN 978-4582807912 だい2かん: ISBN 978-4582807936
  • 深澤ふかざわ秀男ひでおつちのえいぬへんほう運動うんどう研究けんきゅう国書刊行会こくしょかんこうかい、2000ねんISBN 978-4336041500 
  • 藤谷ふじたにひろしえつつちのえいぬ政変せいへん衝撃しょうげき日本にっぽん にちちゅう聯盟れんめいろん模索もさく展開てんかいけんぶん出版しゅっぱん、2015ねんISBN 978-4876363995 
  • みや古文こぶんひろ清末きよすえ政治せいじさい構成こうせいにちしん戦争せんそうからつちのえいぬ政変せいへんまで―』汲古書院しょいん、2017ねんISBN 978-4762960437 
  • かみなりきよしちから狂瀾きょうらん つちのえいぬ政変せいへんしんさがせまんかんろう台湾たいわん)、2004、ISBN 957-739-507-4
  • かみなりきよししつ落的真相しんそう ばんきよしつちのえいぬ政変せいへん事新ことあたらしさがせみなみ台湾たいわん)、2016、ISBN 978-957-11-8811-9

文学ぶんがく作品さくひん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]