ちんたから

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ちん たから(ちん ほうしん、Chen Baozhen1831ねん - 1900ねん)は、きよしすえへんほう官僚かんりょうみぎめい

江西えにししょうみなみあきらよしやすししゅう現在げんざい江西えにししょうきゅうおさむみずけん出身しゅっしん1851ねんきょじんとなった。だんねりひきいて太平たいへい天国てんごくぐんたたかい、よしやすししゅうじょう回復かいふくこうがあったため、けん候補こうほげられた。1862ねんあんけいこくはん面会めんかいし、「海内かいだい奇士きし」としょうされた。ようつとむ運動うんどう時期じきには、こくはんのもとで軍備ぐんび強化きょうか尽力じんりょくした。1895ねん湖南こなんじゅんなで就任しゅうにん当時とうじ湖南こなんしょうでは遵憲こうしるべじょひとしおうちゅうくぐいくままれよわいりょうあきらちょうからざいつねたん嗣同かわすずみずひねさんだてなどがへんほうとして活動かつどうしていた。かれ自身じしんへんほう積極せっきょくてきにかかわり、湖南こなんしょう各州かくしゅうけんに『湘学ほう』を定期ていき購読こうどくするようにめいじた。1897ねんにはちょうすな時務じむ学堂がくどう建設けんせつされるのを援助えんじょし、1898ねん2がつにはみなみ学会がっかい講演こうえんおこなっている。こうして湖南こなみしょうへんほう重要じゅうよう拠点きょてんとなった。そのため守旧しゅきゅうから攻撃こうげきされ、楊深しゅう弁護べんごことなきをたこともあった。ひねたから箴は「湖南こなん開化かいかおのれ任務にんむとしていた」(りょうあきらちょう)のである。しかしつちのえいぬ政変せいへんがおきると、ちんたから箴はりゅうひかりだい楊鋭推薦すいせんしたことで「奸邪を招引した」として罷免ひめんされた。江西えにししょうみなみあきら引退いんたいし、1900ねん南京なんきん転居てんきょしたがそのとし死去しきょした。

詩人しじんひねさんだてまご画家がかちん衡恪歴史れきし学者がくしゃちんとらつとむである。

先代せんだい
徳寿とくじゅ(デシェウ)
湖南こなんめぐなで
1895-1898
次代じだい
兪廉さん