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こくはん

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こくはん
曾國はん拼音: Zēng Guófān
こくはん
生年月日せいねんがっぴ (1811-11-26) 1811ねん11月26にちよしみけい16ねん10月11にち
出生しゅっしょう 清の旗 きよし湖南こなんしょうちょうすな湘郷けん白楊はくようつぼ現在げんざいそうみねけん荷葉かよう鎮)
ぼつ年月日ねんがっぴ 1872ねん3月12にちどう11ねん2がつ4にち
死没しぼつ 清の旗 きよし南京なんきん
出身しゅっしんこう 翰林院かんりんいん
ぜんしょく みちこう18ねんつちのえいぬ三甲第四十二名同進士出身
称号しょうごう ひかりろく大夫たいふおくふとしでん武英たけひで殿どのだい学士がくしりょうこう総督そうとく一等いっとうあつしいさみこう
親族しんぞく 麟書ちち
こくおとうと
さわ長男ちょうなん
きのひろし次男じなん
芬(ろくじょ

在任ざいにん期間きかん 1860ねん - 1868ねん
皇帝こうてい どうみかど

在任ざいにん期間きかん 1868ねん - 1870ねん
皇帝こうてい どうみかど

在任ざいにん期間きかん 1870ねん - 1872ねん
皇帝こうてい どうみかど
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こくはん
各種かくしゅ表記ひょうき
繁体字はんたいじ こくはん
簡体字かんたいじ こくはん
拼音 Zēng Guófān
ラテン Tseng1 Kuo2-fan1
和名わみょう表記ひょうき そう こくはん
発音はつおん転記てんき ゾン グゥォファン
英語えいごめい Zeng Guofan
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こくはん(そう こくはん、拼音: Zēng Guófānよしみけい16ねん10月11にち1811ねん11月26にち) - どう11ねん2がつ4にち1872ねん3月12にち))は、中国ちゅうごくきよしだい末期まっき軍人ぐんじん政治せいじはくはこごうは滌生(てきせい)、おくりな文正ふみまさ湖南こなんしょう湘郷けん出身しゅっしん弱体じゃくたいした清朝せいちょうぐんわり、湘軍組織そしきして太平たいへい天国てんごくらん鎮圧ちんあつ功績こうせきげた。

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

こくはんきょ

よしみけい16ねん(1811ねん)、湖南こなんしょう湘郷けん現在げんざいそうみねけん)にて麟書長男ちょうなんとして誕生たんじょうみちこう18ねん1838ねん)に進士しんしとなるが、咸豊2ねん1852ねん)にれいみぎさむらいろう在職ざいしょくちゅうはは死去しきょにより、ふくすため帰郷ききょう前年ぜんねんの咸豊元年がんねん1851ねん)に太平たいへい天国てんごくらん勃発ぼっぱつきよし正規せいきぐんであるはちはた鎮圧ちんあつにあたったが連戦れんせん連敗れんぱいであった。長年ながねんうちにはちはた貴族きぞく弱体じゃくたいしていた。このため清国きよくに政府せいふ各地かくちごうしんたちにごういさむばれる臨時りんじ軍隊ぐんたい徴募ちょうぼめいじた。いのちけたこくはん複数ふくすうだんねりをまとめごういさむ組織そしきさせた。これがこう湘軍であり、つよさを発揮はっきして最終さいしゅうてき太平たいへい天国てんごくぐんやぶった。

咸豊4ねん1854ねん)、湘軍はたけあきらおさむふくしたが、軍機ぐんき大臣だいじん祁寯が湘軍を危険きけんする奏上そうじょうをしたため、兵部ひょうぶさむらいろう待遇たいぐうただけだった。咸豊5ねん1855ねん)、太平たいへい天国てんごくぐんめられたけあきら陥落かんらく。そのみなみあきらで1ねんけて湘軍をなおした。咸豊7ねん1857ねん)のちち死去しきょたっては、非常時ひじょうじのためだつじょうおこりふくおこない、ふくさなかった。

湘軍は咸豊8ねん1858ねん)にはきゅうを、咸豊10ねん1860ねん)にはあんけい包囲ほういしてよく11ねん1861ねん)に陥落かんらくさせた。同年どうねん政府せいふこくはんたいしておそれをいだきつつも、政府せいふぐんではどうすることも出来できず、戸部とべ尚書しょうしょ粛順こくはんりょうこう総督そうとく江蘇ちぁんすーしょう安徽あんきしょう江西えにししょうの3つをわせた地方ちほう軍政ぐんせい民政みんせい両方りょうほう担当たんとうする長官ちょうかん)、欽差大臣だいじんとした。また、江蘇ちぁんすーしょう上海しゃんはいのぞ太平たいへい天国てんごく占拠せんきょされたため、救援きゅうえんとして部下ぶか鴻章こうしう安徽あんきしょう派遣はけんさせた。鴻章こうしうはそこでこくはんおなじく既存きそんだんねりもとごういさむ組織そしきして淮軍つくり、どう元年がんねん1862ねん)に上海しゃんはいかい太平たいへい天国てんごくたたかった[1]

鴻章こうしうどう元年がんねんからどう3ねん1864ねん)にかけて江蘇ちぁんすーしょう大半たいはん奪回だっかいし、こくはん安徽あんきしょうから太平たいへい天国てんごくはさちに出来でき態勢たいせいととのえ、どう3ねんてんきょうおさむ防戦ぼうせん激戦げきせんすえ太平たいへい天国てんごくぐん首都しゅとてんきょう南京なんきん)を陥落かんらくさせ、太平たいへい天国てんごく滅亡めつぼうさせた。この功績こうせきにより侯爵こうしゃくとされる。らん、その功績こうせき兵力へいりょくおおきさにより政府せいふから警戒けいかいされるようになるが、湘軍を解散かいさんさせることでこれをける。ようつとむ運動うんどうにも参加さんかし、洋式ようしき兵器へいき工場こうじょう設立せつりつ留学生りゅうがくせい派遣はけんなどをおこなった。また後進こうしん育成いくせいにもちからそそぎ、幕下まくしたから鴻章こうしうひだりはじめなどおおくの人材じんざい輩出はいしゅつした。

どう4ねん1865ねん)にねじぐん対処たいしょたっていたセンゲリンチンはいすると討伐とうばつめいじられたが、成果せいかげられなかったためよく5ねん1866ねん)に鴻章こうしう交代こうたいした。どう7ねん1868ねん)、清朝せいちょうつかえるかん民族みんぞくとしてははじめて、地方ちほうかんとしては最高さいこうたるちょく隷総とくとなった。在任ざいにんちゅうどう9ねん1870ねん)には「天津てんしん教案きょうあん」が発生はっせいし、その処理しょりたっている。同年どうねんりょうこう総督そうとくうましん暗殺あんさつされると、こくはんりょうこう総督そうとく復帰ふっきした(ちょく隷総とく鴻章こうしうゆずる)。どう11ねん(1872ねん)、脳溢血のういっけつにより在職ざいしょくのまま60さい死去しきょ[2]

こくはん文人ぶんじんとしても一流いちりゅうであり、その作品さくひんは『文正ふみまさおおやけ全集ぜんしゅう』・『文正ふみまさおおやけ手書しゅしょ日記にっき』にまとめられている。また朱子学しゅしがくものとしても著名ちょめいであった。

おとうと国華こっかこくさだみきは湘軍にくわわり太平おうひら天国てんごくたたかい、国華こっかさだみき戦没せんぼつしたが、のこったこく荃はりょうこう総督そうとく任命にんめいされた。また、長男ちょうなんさわ外交がいこうかんとして出世しゅっせしていった。そのまごこくはんからて4せいたるきのみのり中華民国ちゅうかみんこく台湾たいわん)の教育きょういくしゃ外交がいこうかんとして活躍かつやくしながら、太平たいへい天国てんごく将軍しょうぐんちゅうおう)としてこくはんにより処刑しょけいされた秀成ひでなりしるした『秀成ひでなりじゅつ』を刊行かんこうし、つたわっていた肉筆にくひつほん台北たいぺい国立こくりつみや博物はくぶついん寄贈きぞうしている。

よんたいよん訣(したいしふけつ)[編集へんしゅう]

座右ざゆうめいたいひえたいたいはんたい閑、げき躁、きそえ不随ふずい、以成ごと」はのち安岡やすおか正篤まさあつ著書ちょしょ紹介しょうかいされ、日本にっぽんでもられている。豊田とよだ章一郎しょういちろう座右ざゆうめいとしていたという[3]

著作ちょさくリスト[編集へんしゅう]

  • 文正ふみまさおおやけ全集ぜんしゅう』(瀚章へん鴻章こうしう校勘こうかん文海ぶんかい出版しゅっぱんしゃ1976ねん
  • 文正ふみまさおおやけ手書しゅしょ日記にっき』()
  • こくはんしょ』()
  • 井土いど霊山れいざん和訳わやくこくはんろんしょ」『書道しょどう及画どうだいさんかんだいきゅうごう

評価ひょうか[編集へんしゅう]

中華民国ちゅうかみんこく時代じだい以来いらい民生みんせいためくし近代きんだい推進すいしんした、清朝せいちょう後期こうき傑出けっしゅつした国家こっか柱石ちゅうせき評価ひょうかされている。しかし、太平たいへい天国てんごくたおしたことについては評判ひょうばんわるく、天津てんしん教案きょうあん解決かいけつ尽力じんりょく外国がいこく妥協だきょうしたけんわせ、満州まんしゅうぞく打倒だとうがったはん体制たいせい討伐とうばつ列強れっきょう抵抗ていこうしなかった、あわせててんきょうおさむ防戦ぼうせん大量たいりょうかんじん虐殺ぎゃくさつしたことにより漢奸かんかんとされ非難ひなんさらされたこともある。近年きんねんになり評価ひょうか見直みなおされると、混乱こんらんしず平和へいわ維持いじ尽力じんりょくしたてん人材じんざい登用とうよう注目ちゅうもくされている[4]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 並木なみき、P103 - P109、岡本おかもと(2011)、P30 - P58。
  2. ^ 並木なみき、115 - P117、P162 - P166、P292 - P295、平野ひらの、P274 - P276、岡本おかもと(2011)、P58 - P60、P68 - P74、P78 - P79、P86 - P93。
  3. ^ 東京とうきょう新聞しんぶん2023ねん2がつ15にち朝刊ちょうかん3めん
  4. ^ 加藤かとう、P156 - P158、平野ひらの、P274 - P276、P367。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 並木なみきよりゆき寿ことぶき井上いのうえ裕正ひろまさ世界せかい歴史れきし19 中華ちゅうか帝国ていこく危機きき中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1997ねん中公ちゅうこう文庫ぶんこ再刊さいかん、2008ねん
  • 加藤かとうとおる西にしふとしきさき だいきよし帝国ていこく最後さいご光芒こうぼう中公新書ちゅうこうしんしょ、2005ねん
  • 平野ひらのさとし興亡こうぼう世界せかい17 だいきよし帝国ていこく中華ちゅうか混迷こんめい講談社こうだんしゃ、2007ねん
  • 岡本おかもと隆司たかし鴻章こうしう ひがしアジアの近代きんだい岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみ新書しんしょ〉、2011ねん11月、218+6ぺーじISBN 9784004313403全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:22027605 
  • 范文瀾『漢奸かんかん劊子しゅ曾國はんてき一生いっしょう人民じんみん出版しゅっぱんしゃ、1944ねん

伝記でんき[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
なにかつらきよし
りょうこう総督そうとく
1860ねん - 1868ねん
次代じだい
うましん
先代せんだい
かんぶん(グワンウェン)
ちょく隷総とく
1868ねん - 1870ねん
次代じだい
鴻章こうしう
先代せんだい
うましん
りょうこう総督そうとく
1870ねん - 1872ねん
次代じだい
なに