曾文正 せい 公國 こうこく 藩 はん
曾國藩 はん ,字 じ 滌生 ,湖南 こなん 湘鄉 人 ひと 。家 いえ 世 よ 農 のう ,清 きよし 道 みち 光 こう 十 じゅう 八 はち 年 ねん 進士 しんし 。
二 に 十 じゅう 三 さん 年 ねん ,以檢討 けんとう 典 てん 試 ためし 四川 しせん ,再轉 さいてん 侍讀 じどく ,累 るい 遷內閣 學士 がくし 、禮 れい 部 ぶ 侍 さむらい 郎 ろう ,署 しょ 兵部 ひょうぶ 。時 とき 太 ふと 常 つね 寺 てら 卿 きょう 唐 から 鑑 かん 講 こう 學 がく 京師 けいし ,國 くに 藩 はん 與 あずか 倭 やまと 仁 ひとし 、吳 ご 廷棟、何 なに 桂 かつら 珍 ちん 嚴 げん 事 ごと 之 の ,治義 はるよし 理之 まさゆき 學 がく 。兼 けん 友 とも 梅 うめ 曾亮及邵懿辰、劉 りゅう 傳 つたえ 瑩諸人 じん ,為 ため 詞章 ししょう 考 こう 據 よりどころ ,尤 ゆう 留 とめ 心 こころ 天下 てんか 人才 じんさい 。
咸豐 初 はつ ,太平 たいへい 天國 てんごく 起 おこり 事 ごと ,清文 せいぶん 宗 はじめ 詔 みことのり 群臣 ぐんしん 言 げん 得失 とくしつ 。國 くに 藩 はん 奏 そう 陳 ひね 今日 きょう 急務 きゅうむ ,首 しゅ 在 ざい 用人 ようにん ,人才 じんさい 有 ゆう 轉移 てんい 之 の 道 みち ,有 ゆう 培養 ばいよう 之 これ 方 かた ,有 ゆう 考察 こうさつ 之 の 法 ほう 。文 ぶん 宗 むね 稱 しょう 其剴切明 きりあけ 辨 べん 。尋 ひろ 疏薦李 り 棠階、吳 ご 廷棟、王 おう 慶 けい 雲 くも 、嚴正 げんせい 基 もと 、江 こう 忠 ただし 源 げん 五 ご 人 にん 。復 ふく 上 じょう 言 げん :「國 くに 用 よう 不足 ふそく ,兵 へい 伍 ご 不精 ぶしょう ,二 に 者 しゃ 為 ため 天下 でんか 大患 たいかん 。於歲入 さいにゅう 常 つね 額 がく 外 がい ,誠 まこと 不可 ふか 別 べつ 求 もとめ 搜 さがせ 刮之術 じゅつ ,增 ぞう 一分則民受一分之害。至 いたり 歲出 さいしゅつ 之 の 數 すう ,兵 へい 餉為鉅,綠 みどり 營兵 へい 額 がく 六 ろく 十 じゅう 四 よん 萬 まん ,常 つね 虛 きょ 六 ろく 七 なな 萬 まん 以資給 きゅう 軍用 ぐんよう 。自 じ 乾 いぬい 隆 たかし 中 ちゅう 增兵 ぞうへい 議 ぎ 起 おこり ,歲 さい 糜帑二 に 百 ひゃく 餘 あまり 萬 まん 。其時大 だい 學士 がくし 阿 おもね 桂 かつら 即 そく 憂 ゆう 其難繼 ままし ,嘉 よしみ 、道 みち 間 あいだ 兩次 りょうじ 議 ぎ 裁 さい ,不 ふ 及十之 の 四 よん ,仍宜汰五萬 まん ,復舊 ふっきゅう 額 がく 。自 じ 古 こ 開國 かいこく 之 の 初 はつ ,兵 へい 少 しょう 而國強 きょう ,其後兵 へい 愈 いよいよ 多 た 則 のり 力 りょく 愈 いよいよ 弱 じゃく ,餉愈多 た 則 のり 國 こく 愈 いよいよ 貧 ひん 。應 おう 請皇上 じょう 註意將 はた 才 ざい ,但 ただし 使 つかい 七 なな 十 じゅう 一鎮中有十餘鎮足為心腹,則 のり 緩急 かんきゅう 可 か 恃矣。」歷 れき 署 しょ 刑部 おさかべ 、吏部 侍 さむらい 郎 ろう 。二 に 年 ねん ,典 てん 試 ためし 江西 えにし ,中途 ちゅうと 丁 ひのと 母 はは 憂 う 歸 き 。
三 さん 年 ねん ,太平 たいへい 軍 ぐん 破 やぶ 江 こう 寧 やすし ,據 よりどころ 為 ため 京 きょう ,分 ふん 黨 とう 北 きた 犯 はん 河南 かなん 、直 ちょく 隸 ,天下 てんか 騷動 そうどう ,而國藩 はん 已 やめ 前 ぜん 奉 たてまつ 旨 むね 辦團練 ねり 於長 ちょう 沙 すな 。初 はつ ,國 こく 藩 はん 欲 よく 疏請終 おわり 制 せい ,郭 かく 嵩 たかし 燾 曰:「公 おおやけ 素 もと 具 ぐ 澄 きよし 清之 きよゆき 抱 かかえ ,今 こん 不 ふ 乘 じょう 時 じ 自 じ 效 こう ,如君父 ちち 何 なに ?且墨絰從戎 えびす ,古制 こせい 也。」遂 とげ 不 ふ 復 ふく 辭 じ 。取 と 明 あきら 戚繼光 こう 遺 のこ 法 ほう ,募 つの 農民 のうみん 樸 しらき 實 じつ 壯健 そうけん 者 しゃ ,朝夕 ちょうせき 訓練 くんれん 之 の 。將領 しょうりょう 率 りつ 用 よう 諸 しょ 生 せい ,統 みつる 眾數不 ふ 逾五百 ひゃく ,號 ごう 「湘勇[一 いち ] 」。騰 あが 書 しょ 遐邇,雖卑賤與鈞 ひとし 禮 れい 。山野 さんや 材 ざい 智之 としゆき 士 し 感 かん 其誠,莫不往見,人人 ひとびと 皆 みな 以曾公 おおやけ 可 か 與 あずか 言 げん 事 ごと 。四 よん 境 さかい 土匪 どひ 發 はつ ,聞警即 そく 以湘勇往 ゆうおう 。立 だて 三 さん 等 とう 法 ほう ,不 ふ 以煩府縣 ふけん 獄 ごく 。旬月 じゅんげつ 中 ちゅう ,莠民猾胥,便宜 べんぎ 捕 と 斬 き 二 に 百 ひゃく 餘人 よにん 。謗 そし 讟四起 おこり ,自 じ 巡 じゅん 撫 なで 司 し 道下 とうげ 皆 みな 心 こころ 誹 そし 之 これ ,至 いたり 以盛暑 せいしょ 練 ねり 操 みさお 為 ため 虐 しいたげ 士 し 。然 しか 見所 みどころ 奏 そう 輒得褒答受主知 しゅち ,未 み 有 ゆう 以難也。一日標兵與湘勇閧,至 いたり 闌 たけなわ 入國 にゅうこく 藩 はん 行 ぎょう 台 だい 。國 くに 藩 はん 親 おや 訴諸巡 じゅん 撫 なで ,巡 じゅん 撫 なで 漫謝之 の ,不為 ふため 理 り ,即日 そくじつ 移 うつり 營城外 がい 避標兵 へい 。或 ある 曰:「曷以聞?」國 くに 藩 はん 歎曰:「大難 だいなん 未 み 已 やめ ,吾 われ 人 じん 敢以私憤 しふん 瀆君父 ちち 乎?」
嘗與嵩 かさ 燾、忠 ちゅう 源 げん 論 ろん 東南 とうなん 形 がた 勢多 せた 阻水,欲 よく 平 たいら 亂 らん 非 ひ 治水 ちすい 師 し 不可 ふか ,乃奏請 そうせい 造 づくり 戰艦 せんかん 於衡州 。匠 たくみ 卒 そつ 無 む 曉 あかつき 船 せん 制 せい 者 しゃ ,短 たん 橈長槳,出自 しゅつじ 精 せい 思 おもえ ,以人力 りょく 勝 かち 風水 ふうすい ,遂 とげ 成 なり 大小 だいしょう 二 に 百 ひゃく 四 よん 十 じゅう 艦 かん 。募 つの 水陸 すいりく 萬 まん 人 にん ,水軍 すいぐん 以褚汝 なんじ 航 こう 、楊載福 ぶく 、彭玉麟領之 の ,陸軍 りくぐん 以塔齊 ひとし 布 ぬの 、羅 ら 澤 さわ 南 みなみ 領 りょう 之 の 。太平 たいへい 軍 ぐん 自 じ 江西 えにし 上 じょう 竄,再 さい 陷 おちい 九 きゅう 江 え 、安 あん 慶 けい 。忠 ちゅう 源 げん 戰歿 せんぼつ 廬 いおり 州 しゅう ,吳 ご 文 ぶん 鎔督師 し 黃 き 州 しゅう 亦 また 敗 はい 死 し 。漢 かん 陽 ひ 失 しつ ,武 たけ 昌 あきら 戒嚴 かいげん ,太平 たいへい 軍 ぐん 复乘勢 ぜい 擾湖南 みなみ 。國 くに 藩 はん 銳 するど 欲 ほし 討太平 たいへい 軍 ぐん ,率 りつ 水陸 すいりく 軍 ぐん 東下 ひがししも 。舟 ふね 師 し 初出 しょしゅつ 湖 こ ,大風 おおかぜ ,損 そん 數 すう 十 じゅう 艘 そう 。陸 りく 師 し 至 いたり 岳 たけ 州 しゅう ,前 ぜん 隊 たい 潰 つぶせ 退 ずさ ,引還長 ちょう 沙 すな 。太平 たいへい 軍 ぐん 陷 おちい 湘潭,邀擊 ようげき 靖 やすし 港 こう ,又 また 敗 はい ,國 くに 藩 はん 憤 いきどお 投 とう 水 すい ,幕下 まくした 士 し 章 あきら 壽 ことぶき 麟掖起 おこり 之 の ,得 とく 不死 ふし 。而同時 じ 塔 とう 齊 ひとし 布 ぬの 破 やぶ 敵 てき 於湘潭,國 くに 藩 はん 營長沙 すな 高 だか 峰寺 みねでら ,重 じゅう 整 せい 軍 ぐん 實 み ,人人 ひとびと 捓揄之 の 。或 ある 請增兵 ぞうへい ,國 くに 藩 はん 曰:「吾 われ 水陸 すいりく 萬 まん 人 にん 非 ひ 不 ふ 多 た ,而遇賊 ぞく 即 そく 潰 つぶせ 。岳 たけ 州 しゅう 之 の 敗 はい ,水 みず 師 し 拒 こばめ 戰 せん 者 しゃ 惟 おもんみ 載 の 福一 ふくいち 營;湘潭之 の 戰 たたかえ ,陸 りく 師 し 塔 とう 齊 ひとし 布 ぬの 、水 みず 師 し 載 の 福 ぶく 各 かく 兩 りょう 營:以此知 ち 兵 へい 貴 き 精 せい 不 ふ 貴 き 多 た 。故 こ 諸 しょ 葛 かずら 敗 はい 祁山,且謀減 げん 兵 へい 損 そん 食 しょく ,勤 つとむ 求 もとめ 己 おのれ 過 か ,非 ひ 虛言 きょげん 也。且古人 じん 用兵 ようへい ,先 さき 明 あかり 功罪 こうざい 賞罰 しょうばつ 。今 こん 世 よ 亂 みだれ ,賢人 けんじん 君子 くんし 皆 みな 潛伏 せんぷく ,吾 われ 以義聲 ごえ 倡導,同 どう 履 くつ 危亡。諸公 しょこう 之 の 初 はつ 從 したがえ 我 わが ,非 ひ 以利動 どう 也,故 こ 於法亦 また 有難 ありがた 施 ほどこせ ,其致敗 はい 由 よし 此。」諸 しょ 將 しょう 聞之皆 みな 服 ふく 。
陸 りく 師 し 既 すんで 克 かつ 湘潭,巡 じゅん 撫 なで 、提督 ていとく 上 うえ 功 いさお ,而國藩 はん 請罪。文 ぶん 宗 むね 詰責 きっせき 提督 ていとく 鮑 あわび 起 おこり 豹 ひょう ,免 めん 其官,以塔齊 ひとし 布 ぬの 代 だい 之 の 。太平 たいへい 軍 ぐん 自 じ 岳 たけ 州 しゅう 陷 おちい 常德 じょうとく ,旋北走 はし ,武 たけ 昌 あきら 再 さい 失 しつ 。國 くに 藩 はん 引兵趨岳州 しゅう ,斬 き 敵 てき 梟將 きょうしょう 曾天養 やしなえ ,連戰 れんせん ,下城 げじょう 陵 りょう 磯 いそ 。會 かい 師 し 金口 きんぐち ,謀 はかりごと 取 と 武 たけ 昌 あきら 。澤 さわ 南 みなみ 沿江東 こうとう 岸 きし 攻 おさむ 花園 はなぞの 敵 てき 屯 たむろ ,塔 とう 齊 ひとし 布 ぬの 伏兵 ふくへい 洪 ひろし 山 さん ,載 の 福舟 ふくぶね 師 し 深 ふか 入寇 にゅうこう 屯 たむろ ,士 し 皆 みな 露 ろ 立 りつ ,不 ふ 避鉛丸 まる 。武 たけ 昌 あきら 、漢 かん 陽 ひ 太平 たいへい 軍 ぐん 望 もち 清 きよし 軍 ぐん 雄壯 ゆうそう ,宵 よい 遁,遂 とげ 復 ふく 二 に 郡 ぐん 。國 くに 藩 はん 以前 いぜん 靖 やすし 港 こう 敗 はい ,自 じ 請奪官 かん ,至 いたり 是 ぜ 奏上 そうじょう ,詔 みことのり 署 しょ 湖北 こほく 巡 めぐ 撫 なで ,尋 ひろ 加 か 兵部 ひょうぶ 侍 さむらい 郎 ろう 銜,解 かい 署 しょ 任 にん ,命 いのち 督 とく 師 し 東下 ひがししも 。
當 とう 是 ぜ 時 じ ,水 みず 師 し 奮厲無 む 前 まえ ,大破 たいは 太平 たいへい 軍 ぐん 田家 たや 鎮,斃敵數 すう 万 まん ,至 いたり 於九江 こう ,前 ぜん 鋒 ほこさき 薄 うす 湖 みずうみ 口 こう 。攻 おさむ 梅 うめ 家 か 洲 しゅう 敵壘 てきるい 不 ふ 下 した ,駛入鄱湖。太平 たいへい 軍 ぐん 築 ちく 壘 るい 湖 みずうみ 口 こう 斷 だん 其後,舟 ふね 不 ふ 得 とく 出 で ,於是外江 とのえ 、內湖阻絕。外江 とのえ 戰 せん 船 せん 無 む 小 しょう 艇 てい ,太平 たいへい 軍 ぐん 乘 じょう 舴艋夜襲 やしゅう 營,擲火燒 しょう 坐 すわ 船 ふね ,國 こく 藩 はん 跳 とべ 而免,水 みず 師 し 遂 とげ 大亂 たいらん 。上 うえ 疏請罪 ざい ,詔 みことのり 旨 むね 寬 ひろし 免 まぬかれ ,謂 いい 於大 おだい 局 きょく 無傷 むきず 也。五 ご 年 ねん ,太平 たいへい 軍 ぐん 再 さい 陷 おちい 武漢 ぶかん ,擾荊襄 じょう 。國 くに 藩 はん 遣 や 胡 えびす 林 はやし 翼 つばさ 等 とう 軍 ぐん 還 かえ 援湖北 きた ,塔 とう 齊 ひとし 布留 ふる 攻 おさむ 九 きゅう 江 え ,而躬至 いたり 南 みなみ 昌 あきら 撫 なで 定 てい 水 みず 師 し 之 の 困 こま 內湖者 しゃ 。澤 さわ 南 みなみ 從 したがえ 征 せい 江西 えにし ,复弋陽 ひ ,拔廣信 しんじ ,破 やぶ 義 よし 寧 やすし ,而塔齊 ひとし 布 ぬの 卒 そつ 於軍。國 くに 藩 はん 在江 あるえ 西 にし 與 あずか 巡 じゅん 撫 なで 陳 ちん 啟 あきら 邁不相能 あいのう ,澤 さわ 南 みなみ 奔命 ほんめい 往來 おうらい ,上書 うわがき 國 こく 藩 はん ,言 げん 東南 とうなん 大勢 おおぜい 在 ざい 武 たけ 昌 あきら ,請率所部 ところぶ 援鄂,國 くに 藩 はん 從 したがえ 之 これ 。幕 まく 客 きゃく 劉 りゅう 蓉諫曰:「公所 ぐぞ 恃者塔 とう 、羅 ら 。今 こん 塔 とう 將軍 しょうぐん 亡 ほろび ,羅 ら 又 また 遠 とお 行 ぎょう ,脫 だつ 有 ゆう 急 きゅう ,誰 だれ 堪 こらえ 使者 ししゃ ?」國 くに 藩 はん 曰:「吾 われ 計 けい 之 の 熟 じゅく 矣,東南 とうなん 大局 たいきょく 宜 むべ 如是 にょぜ ,俱困於此無為 むい 也。」嵩 かさみ 燾祖餞 はなむけ 澤 さわ 南 みなみ 曰:「曾公兵 へい 單 たん ,奈何 いかん ?」澤 さわ 南 みなみ 曰:「天 てん 苟不亡 ほろび 本朝 ほんちょう ,公 おおやけ 必不死 し 。」九 きゅう 月 がつ ,補 ほ 授兵部 ぶ 侍 さむらい 郎 ろう 。
六 ろく 年 ねん ,翼 つばさ 王 おう 石 せき 達 たち 開 ひらき 由 よし 湖北 こほく 入江 いりえ 西 にし ,連 れん 陷 おちい 八 はち 府 ふ 一州 いっしゅう ,湖南 こなん 北 きた 聲 ごえ 息 いき 不 ふ 相聞 そうもん 。國 くに 藩 はん 困 こま 南 みなみ 昌 あきら ,遣 や 將 はた 分 ぶん 屯 たむろ 要地 ようち ,羽 わ 檄 げき 交馳,不 ふ 廢 はい 吟誦 ぎんしょう 。作 さく 水陸 すいりく 師 し 得 とく 勝 かち 歌 か ,教 きょう 軍 ぐん 士 し 戰 せん 守 もり 技藝 ぎげい 、結 ゆい 營布陳 ひね 之 の 法 ほう ,歌 うた 者 しゃ 咸感奮 かんぷん ,以殺敵 てき 敢死為 ため 榮 さかえ 。顧眾寡,終 おわり 不能 ふのう 大 だい 挫 くじけ 太平 たいへい 軍 ぐん 。議 ぎ 者 しゃ 爭 そう 請調澤 さわ 南 みなみ 軍 ぐん ,文 ぶん 宗 そう 以武漢 かん 功 こう 垂 たれ 成 なり ,不可 ふか 棄。澤 さわ 南 みなみ 督戰 とくせん 益 えき 急 きゅう ,卒 そつ 死 し 於軍。玉 たま 麟聞江西 えにし 警,芒 すすき 鞋走千里 せんり ,穿 ほじ 敵 てき 中 ちゅう 至 いたり 南 みなみ 昌 あきら 助 じょ 守 もり 。林 はやし 翼 つばさ 已 やめ 為 ため 湖北 こほく 巡 じゅん 撫 なで ,國 くに 藩 はん 弟 おとうと 國華 こっか 、國 くに 葆用父 ちち 命 いのち 乞師林 はやし 翼 つばさ ,將 はた 五 ご 千 せん 人 にん 攻 おさむ 瑞 みず 州 しゅう 。湖南 こなん 巡 じゅん 撫 なで 駱秉章 あきら 亦 また 資 し 國 こく 荃兵援吉安 やす ,兄弟 きょうだい 皆 みな 會 かい 行間 ぎょうかん 。而國藩 はん 前 まえ 所 しょ 遣 や 援湖北 きた 諸 しょ 軍 ぐん ,久之 ひさゆき 再 さい 克 かつ 武漢 ぶかん ,直下 ちょっか 九 きゅう 江 え ,李 り 續 ぞく 賓 まろうど 八 はち 千 せん 人 にん 軍 ぐん 城東 じょうとう 。載 の 福 ぶく 戰 せん 船 せん 四 よん 百 ひゃく 泊 はく 江 こう 兩 りょう 岸 きし ,江 こう 寧 やすし 將軍 しょうぐん 都 と 興 きょう 阿 おもね 馬 うま 隊 たい 、鮑 あわび 超 ちょう 步 ふ 隊 たい 駐 ちゅう 小池 こいけ 口 こう ,凡數万 まん 人 にん 。國 くに 藩 はん 本 ほん 以憂懼治軍 ぐん ,自 じ 南 みなみ 昌 あきら 迎 むかい 勞 ろう ,見 み 軍 ぐん 容 よう 甚盛,益 えき 申 さる 儆告誡之。而是時 じ 江南 こうなん 大 だい 營潰,督 とく 師 し 向 こう 榮 さかえ 退 ずさ 守 もり 丹陽 たんよう ,卒 そつ 。
七 なな 年 ねん 二 に 月 がつ ,國 くに 藩 はん 聞父憂 ゆう ,迳歸。給 きゅう 三 さん 月 がつ 假 かり 治 ち 喪 も ,堅 けん 請終制 せい ,允 まこと 開 ひらき 侍 さむらい 郎 ろう 缺 かけ 。林 はやし 翼 つばさ 既定 きてい 湖北 こほく ,進 しん 圍 かこえ 九 きゅう 江 え ,破 やぶ 湖 みずうみ 口 こう ,水 みず 師 し 絕 ぜっ 數 すう 年 ねん 復 ふく 合 あい 。載 の 福 ぶく 連 れん 拔望江 こう 、東 ひがし 流 りゅう ,揚 あげ 風 ふう 過 か 安 やす 慶 けい ,克 かつ 銅 どう 陵 りょう 泥 どろ 汊,與 あずか 江南 えな 軍 ぐん 通 どおり ,由 ゆかり 是 これ 湘軍 水 みず 師 し 名 めい 天下 でんか [二 に ] 。林 はやし 翼 つばさ 以此軍 ぐん 創始 そうし 國 こく 藩 はん ,楊、彭皆其舊部 ぶ ,請起國 こく 藩 はん 視 し 師 し 。及陷九 きゅう 江 え ,石 せき 達 たち 開 ひらき 奔浙江 せっこう ,浸 ひた 及福建 ふっけん ,分 ふん 股 また 复犯江西 えにし ,朝 あさ 旨 むね 詔 みことのり 國 こく 藩 はん 出 いずる 辦浙江 せっこう 軍務 ぐんむ 。
國 くに 藩 はん 至 いたる 江西 えにし ,屯 たむろ 建 たて 昌 あきら ,又 また 詔 みことのり 援閩。國 くに 藩 はん 以閩寇不足 ふそく 慮 おもんばか ,而景德地 とくじ 衝要,遣 や 將 はた 援贛北 きた ,攻 おさむ 景 けい 德 とく 。國 くに 荃追敵 てき 至 いたり 浮梁,江西 えにし 列 れつ 城 じょう 次第 しだい 复。時 どき 石 せき 達 たち 開 ひらき 復 ふく 進 しん 湖南 こなん ,圍 かこえ 寶 たから 慶 けい 。文 ぶん 宗 むね 慮 おもんばか 四川 しせん 且有變 へん ,林 はやし 翼 つばさ 亦 また 以湖北 きた 餉倚川 かわ 鹽 しお ;而國藩 はん 又 また 久治 きゅうじ 兵 へい ,無 む 疆寄,乃與官 かん 文 ぶん 合 あい 疏請國 こく 藩 はん 援川。會 かい 太平 たいへい 軍 ぐん 入 いれ 廣西 ひろせ ,上 うえ 游 ゆう 兵事 へいじ 解 かい ,而英王 おう 陳 ちん 玉 たま 成 なり 再 さい 破 やぶ 廬 いおり 州 しゅう ,續 ぞく 賓 まろうど 戰歿 せんぼつ 三 さん 河 かわ ,林 はやし 翼 つばさ 以太平 たいへい 軍 ぐん 蔓 づる 廬 いおり 、壽 ことぶき 間 あいだ ,終 おわり 為 ため 楚 すわえ 患,乃改議 ぎ 留 とめ 國 こく 藩 はん 合 ごう 謀 はかりごと 皖。軍 ぐん 分 ぶん 三 さん 道 みち ,各 かく 萬 まん 人 にん 。國 くに 藩 はん 由 ゆかり 宿 やど 松 まつ 、石 いし 牌 ぱい 規 ぶんまわし 安 やす 慶 けい ,多 た 隆 たかし 阿 おもね 、鮑 あわび 超 ちょう 出 で 太 たい 湖 こ 取 と 桐 きり 城 じょう ,林 はやし 翼 つばさ 自 じ 英 えい 山鄉 さんごう 舒、六 ろく 。多 た 隆 たかし 阿 おもね 等 とう 既 すんで 破 やぶ 太平 たいへい 軍 ぐん 於小池 ち ,陷 おちい 太 たい 湖 こ 、潛 せん 山 さん ,遂 とげ 軍 ぐん 桐 きり 城 じょう 。國 くに 荃率諸 しょ 軍 ぐん 圍 かこえ 安 やす 慶 けい ,與 あずか 桐 きり 城 じょう 軍 ぐん 相 しょう 犄角。安 あん 慶 けい 未 み 及下,而太平 たいへい 軍 ぐん 陷 おちい 廣德 ひろのり ,襲 かさね 破 やぶ 杭州 こうしゅう 。
忠 ちゅう 王 おう 李 り 秀成 ひでなり 會 かい 師 し 於建平 ひらめ ,分 ふん 道 どう 援江寧 やすし ,江南 こうなん 大 だい 營復潰 つぶせ ,常 つね 州 しゅう 、蘇州 そしゅう 相 あい 繼 つぎ 失 しつ ,咸豐十 じゅう 年 ねん 閏 うるう 三 さん 月 がつ 也。左 ひだり 宗 はじめ 棠 聞而歎曰:「此勝敗 しょうはい 之 の 轉機 てんき 也!江南 こうなん 諸 しょ 軍 ぐん ,將 はた 蹇 あしなえ 兵 へい 疲 つかれ 久 ひさ 矣。滌而清之 きよゆき ,庶幾 しょき 後來 こうらい 可 か 藉手乎?」或 ある 問 とい :「誰 だれ 可 か 當 とう 者 しゃ ?」林 はやし 翼 つばさ 曰:「朝廷 ちょうてい 以江南 みなみ 事 ごと 付 づけ 曾公,天下 てんか 不足 ふそく 平 ひら 也。」於是文 ぶん 宗 そう 慎 まこと 選 せん 帥 そち ,就加國 こく 藩 はん 兵部 ひょうぶ 尚書 しょうしょ 銜,署 しょ 理 り 兩 りょう 江 こう 總督 そうとく ,旋授欽差大臣 だいじん 。是 ぜ 時江 ときえ 、浙敵氛熾,或 ある 請撤安 やす 慶 けい 圍 かこえ 先 さき 所 しょ 急 きゅう 。國 くに 藩 はん 曰:「安 やす 慶 けい 一軍為克江寧張本,不 ふ 可動 かどう 也。」遂 とげ 南 みなみ 渡 わたる 長江 ながえ ,駐 ちゅう 祁門 。江 こう 、浙官紳 しん 告 つげ 急 きゅう 書 しょ 日數 にっすう 十 じゅう 至 いたり ,援蘇、援滬、援皖、援鎮江 詔書 しょうしょ 亦 また 疊 たたみ 下 か 。國 くに 藩 はん 至 いたる 祁門未 み 數日 すうじつ ,太平 たいへい 軍 ぐん 陷 おちい 寧 やすし 國 こく ,陷 おちい 徽州 。東 ひがし 南方 なんぽう 困 こま 兵革 へいかく ,而英 えい 吉利 よしとし 、法 ほう 蘭 らん 西 にし 復 ふく 失 しつ 好 このみ ,以兵至 いたり 。僧 そう 格 かく 林 りん 沁敗 はい 績天津 てんしん ,文 ぶん 宗 むね 狩 かり 熱 ねつ 河 かわ 。國 くに 藩 はん 聞警,請提兵 へい 北上 ほくじょう ,會 かい 和議 わぎ 成 なり ,乃止。
其冬,大 だい 為 ため 太平 たいへい 軍 ぐん 困 こま ,一出祁門東陷婺源;一出祁門西陷景德;一入羊棧嶺攻大營。軍 ぐん 報 ほう 絕 ぜっ 不通 ふつう ,將 はた 吏惵然 しか 有 ゆう 憂色 ゆうしょく ,固 かた 請移營江乾 いぬい 就水師 し 。國 くに 藩 はん 曰:「無 む 故 こ 退 すさ 軍 ぐん ,兵家 へいか 所 しょ 忌 き 。」卒 そつ 不 ふ 從 したがえ ,使 つかい 人間 にんげん 行 ぎょう 檄 げき 鮑 あわび 超 ちょう 、張 ちょう 運 はこぶ 蘭 らん 亟引兵 へい 會 かい 。身 み 在 ざい 軍 ぐん 中 ちゅう ,意氣 いき 自 じ 如,時 じ 與 あずか 賓 まろうど 佐 さ 酌 しゃく 酒 しゅ 論文 ろんぶん 。自 じ 官 かん 京 きょう 朝 あさ ,即 そく 日記 にっき 所 しょ 言行 げんこう ,後 ご 履 くつ 危困無 な 稍 やや 間 あいだ 。國 くに 藩 はん 駐 ちゅう 祁門,本 ほん 資 し 餉江西 にし ,及景德 とく 失 しつ ,議 ぎ 者 しゃ 爭 そう 言 げん 取 と 徽州通 どおり 浙米。乃自將 はた 大軍 たいぐん 次 じ 休 きゅう 寧 やすし ,值天雨 う ,八 はち 營皆潰 つぶせ ,草 くさ 遺 のこ 囑 しょく 寄 よせ 家 か ,誓 ちかい 死守 ししゅ 休 きゅう 寧 やすし 。適 てき 宗 むね 棠破敵 てき 樂平 よしひら ,運 うん 道 どう 通 どおり ,移駐 いちゅう 東 ひがし 流 りゅう 。多 た 隆 たかし 阿連 あれ 敗 はい 敵 てき 桐 きり 城 じょう ,鮑 あわび 超 ちょう 一軍游擊無定居,林 はやし 翼 つばさ 復 ふく 遣 や 將 はた 助 じょ 之 これ 。十 じゅう 一 いち 年 ねん 八 はち 月 がつ ,國 くに 荃遂克 かつ 安 やす 慶 けい 。捷 とし 聞,而文宗 むね 崩 くずれ ,林 はやし 翼 つばさ 亦 また 卒 そつ 。穆 きよし 宗 むね 即位 そくい ,慈安 、慈禧 兩 りょう 太 ふとし 后 きさき 垂 たれ 簾 すだれ ,加 か 國 こく 藩 はん 太子 たいし 少 しょう 保 ほ 銜,命 いのち 節制 せっせい 江蘇 ちぁんすー 、安徽 あんき 、江西 えにし 、浙江 せっこう 四 よん 省 しょう 。
清 しん 軍 ぐん 克復 こくふく 江 こう 寧 やすし 圖 ず
當 とう 是 ぜ 時 じ ,天王 てんのう 洪秀全 こうしゅうぜん 建 けん 號 ごう 東南 とうなん ,李 り 秀成 ひでなり 等 とう 犯 はん 蘇 そ 、滬,侍 さむらい 王 おう 李 り 世 よ 賢 けん 等 ひとし 陷 おちい 浙杭,輔王楊輔清 きよし 等 とう 屯 たむろ 寧 やすし 國 こく ,康 かん 王 おう 汪 ひろし 海洋 かいよう 窺江西 にし ,陳 ちん 玉 たま 成 なり 屯 たむろ 廬 いおり 州 しゅう ,捻 ねじ 首 くび 苗 なえ 霈霖出入 でいり 潁、壽 ことぶき ,與 あずか 玉 たま 成合 なれあい ,圖 ず 攻 おさむ 山東 さんとう 、河南 かなん ,眾皆號 ごう 數 すう 十 じゅう 萬 まん 。國 くに 藩 はん 與國 よこく 荃策進取 しんしゅ ,國 くに 荃曰:「急 きゅう 搗江寧 やすし ,則 のり 寇必以全力 りょく 護 まもる 巢 す 穴 あな ,而後蘇 そ 、杭 くい 可 か 圖 ず 也。」國 くに 藩 はん 然 しか 之 これ 。乃以江 こう 寧 やすし 事 こと 付 づけ 國 こく 荃,以浙江 せっこう 事 ごと 付 づけ 宗 むね 棠,而以江蘇 ちぁんすー 事 ごと 付 づけ 李 り 鴻章 こうしう 。鴻章 こうしう 故 こ 出國 しゅっこく 藩 はん 門 もん ,以編修 へんしゅう 為 ため 幕僚 ばくりょう ,改 あらため 道 どう 員 いん ,至 いたり 是 ぜ 令 れい 從 したがえ 淮上募 つの 勇 いさみ 八 はち 千 せん ,選良 せんりょう 將 しょう 付 づけ 之 の ,號 ごう 「淮軍」。同 どう 治 ち 元年 がんねん ,拜 はい 協 きょう 辦大學士 がくし ,督 とく 諸 しょ 軍 ぐん 進 しん 討。於是國 こく 荃有搗江寧 やすし 之 これ 師 し ,鴻章 こうしう 有 ゆう 徵 しるし 蘇 そ 、滬之師 し ,載 の 福 ぶく 、玉 たま 麟有肅清 しゅくせい 下 か 游 ゆう 之 これ 師 し ;大江 おおえ 以北 いほく ,多 た 隆 たかし 阿 おもね 有 ゆう 取 と 廬 いおり 州 しゅう 之 の 師 し ,續 ぞく 宜 よろし 有 ゆう 援潁州 しゅう 之 の 師 し ;大江 おおえ 以南 いなん ,鮑 あわび 超 ちょう 有 ゆう 攻 おさむ 寧 やすし 國之 くにゆき 師 し ,運 うん 蘭 らん 有 ゆう 防 ぼう 剿徽州 しゅう 之 の 師 し ,宗 そう 棠有規 ぶんまわし 復 ふく 全 ぜん 浙之師 し :十 じゅう 道 みち 並 なみ 出 で ,皆 みな 受成於國藩 はん 。
洪秀全 こうしゅうぜん 都 と 江 こう 寧 やすし ,堅 かた 築 ちく 壕 ごう 壘 るい ,餉械足 あし ,猝不可 ふか 拔。及疫疾 やまし 大作 たいさく ,將士 しょうし 死亡 しぼう 山積 さんせき ,幾 いく 不能 ふのう 軍 ぐん 。國 くに 藩 はん 自 じ 以德薄 うす ,請簡大臣 だいじん 馳 はせ 赴軍,俾分己 おのれ 責 せめ ,兩 りょう 宮 みや 優 ゆう 詔 みことのり 慰勉之 の ,謂 いい :「天災 てんさい 流行 りゅうこう ,豈 あに 卿 きょう 一 いち 人 にん 之 の 咎 とがめ ?意 い 者 しゃ 朝廷 ちょうてい 政 せい 多 た 缺 かけ 失 しつ ,我 わが 君臣 くんしん 當 とう 勉 つとむ 圖 ず 禳救,為 ため 民 みん 請命。且環顧中外 がい ,才力 さいりょく 、氣 き 量 りょう 無 む 逾卿者 しゃ !時勢 じせい 艱難 かんなん ,無 む 稍 やや 懈 たゆ 也。」國 くに 藩 はん 讀詔感泣 かんきゅう 。時 とき 洪秀全 こうしゅうぜん 被 ひ 圍 かこえ 久 ひさし ,召李 り 秀成 ひでなり 、李 り 世 よ 賢 けん 悉眾來援 らいえん ,號 ごう 六 ろく 十 じゅう 萬 まん ,圍 かこえ 雨 う 花台 かだい 軍 ぐん ,國 くに 荃拒戰 せん 六 ろく 十 じゅう 四 よん 日 にち ,解 ほどけ 去 ざ 。三 さん 年 ねん 五 ご 月 がつ ,水 みず 師 し 克 かつ 九 きゅう 洑洲,江 こう 寧 やすし 城 じょう 合 ごう 圍 かこえ 。十 じゅう 月 がつ ,鴻章 こうしう 克 かつ 蘇州 そしゅう 。四 よん 年 ねん 二 に 月 がつ ,宗 そう 棠克杭州 こうしゅう 。國 くに 藩 はん 以江寧 やすし 久 ひさし 不 ふ 下 した ,請鴻章 あきら 來會 らいかい 師 し ,未發 みはつ ,國 くに 荃攻益 えき 急 きゅう ,克之 かつゆき [三 さん ] 。江 こう 寧 やすし 平 ひらめ ,清 きよし 廷褒功 こう ,加 か 太子 たいし 太 ふとし 傅 でん ,封 ふう 一等 いっとう 毅 あつし 勇 いさみ 侯 こう ,賞 しょう 雙眼 そうがん 翎,文 ぶん 臣 しん 封 ふう 侯 こう 自 じ 是 ぜ 始 はじめ 也。至 いたり 是 ぜ 東南 とうなん 大 だい 定 じょう ,裁 たっ 湘軍、進 すすむ 淮軍 ,而捻 ねじ 軍 ぐん 事 こと 起 おこり 。
捻 ねじ 軍 ぐん 始 はじめ 於山東 さんとう 遊民 ゆうみん 相 しょう 聚,其後剽 ひょうげ 掠 かすめ 光 こう 、固 かた 、潁、亳、淮、徐 じょ 之 の 間 あいだ ,捻 ねじ 紙 し 燃 もえ 脂 あぶら ,故 こ 謂 いい 之 の 「捻 ねじ 」。有 ゆう 眾數十 じゅう 萬 まん ,馬 うま 數 すう 万 まん ,蹂躪數 すう 千里 せんり ,分合 ぶんごう 不 ふ 常 つね 。捻 ねじ 首 くび 四 よん 人 にん ,曰張總 そう 愚 ぐ 、任 にん 柱 ばしら 、牛 ぎゅう 洪 ひろし 、賴 よりゆき 文光 ぶんこう 。僧 そう 格 かく 林 りん 沁征討 せいとう 數 すう 年 ねん ,亦 また 未 み 能 のう 大 だい 創 そう 之 の 。國 くに 藩 はん 聞僧軍 ぐん 輕 けい 騎 き 追 おい 捻 ねじ 軍 ぐん ,一 いち 日 にち 夜 よる 三 さん 百 ひゃく 餘 あまり 裡 うら ,曰:「此於兵法 ひょうほう ,必蹶上 じょう 將軍 しょうぐん 。」未 み 幾 いく 而王果 はて 戰歿 せんぼつ 曹州,兩 りょう 宮 みや 聞大驚 おどろき ,詔 みことのり 國 こく 藩 はん 赴山東 さんとう 剿捻,節制 せっせい 直 ちょく 隸、山東 さんとう 、河南 かなん 三省 みつよし ,而鴻章代 あきよ 為 ため 總督 そうとく ,廷旨日 び 促出師 し 。國 くに 藩 はん 上 じょう 言 げん :「楚 すわえ 軍 ぐん 裁 さい 撤殆盡 つき ,今 いま 調 しらべ 劉 りゅう 松山 まつやま 一軍 いちぐん 及劉 りゅう 銘 めい 傳 でん 淮勇尚 なお 不足 ふそく 。當 とう 更 さら 募 つの 徐 じょ 州 しゅう 勇 いさむ ,以楚軍 ぐん 之 の 規模 きぼ ,開 ひらけ 齊 ひとし 、兗之風氣 かざけ ;又 また 增 ふえ 募 つの 馬 うま 隊 たい 及黃河水 こうすい 師 し ,皆 みな 非 ひ 旦夕 たんせき 可 か 就。直 ちょく 隸宜自 じ 籌防兵 へい ,分 ふん 守 もり 河岸 かわぎし ,不 ふ 宜 よろし 令 れい 河南 かなん 之 の 兵 へい 兼 けん 顧河北 きた 。僧 そう 格 かく 林 りん 沁嘗週 しゅう 曆 れき 五 ご 省 しょう ,臣 しん 不能 ふのう 也。如以徐 じょ 州 しゅう 為 ため 老 ろう 營,則 すなわち 山 さん 東之 ひがしの 兗、沂、曹、濟 すみ ,河南 かなん 之 の 歸 き 、陳 ちん ,江 こう 甦 よみがえ 之 これ 淮、徐 じょ 、海 うみ ,安徽 あんき 之 これ 廬 いおり 、鳳 おおとり 、潁、泗,此十 じゅう 三府州責之臣,而以其餘責 せめ 各 かく 督 とく 撫 なで 。汛地有 ゆう 專屬 せんぞく ,則 のり 軍務 ぐんむ 乃漸有 ゆう 歸 き 宿 やど 。」又 また 奏 そう :「扼要駐 ちゅう 軍 ぐん 臨淮關 せき 、周 しゅう 家 か 口 こう 、濟 すみ 寧 やすし 、徐 じょ 州 しゅう ,為 ため 四 よん 鎮。一 いち 處 しょ 有 ゆう 急 きゅう ,三 さん 處 しょ 往援。今 こん 賊 ぞく 已 やめ 成 なり 流 りゅう 寇,若 わか 賊 ぞく 流 りゅう 而我與 あずか 之 これ 俱流,必致疲 つかれ 於奔命 いのち 。故 こ 臣 しん 堅持 けんじ 初 はつ 議 ぎ ,以有定之 さだゆき 兵 へい ,制 せい 無 む 定之 さだゆき 寇,重 じゅう 迎 むかい 剿,不 ふ 重尾 しげお 追 おい 。」然 しか 督 とく 師 し 年餘 ねんよ ,捻 ねじ 馳 はせ 突如 とつじょ 故 こ 。將士 しょうし 皆 みな 謂 いい 不 ふ 苦戰 くせん 而苦奔逐,乃起張 ちょう 秋 あき 抵清江 こう 築 ちく 長 ちょう 牆,憑運河 うんが 御 ご 之 これ ,未成 みせい 而捻竄襄、鄧間,因 よし 移 うつり 而西,修 おさむ 沙 すな 河 かわ 、賈魯河 かわ ,開 ひらき 壕 ごう 置 おけ 守 もり 。分地 ぶんち 甫 はじめ 定 じょう ,而捻衝河南 みなみ 汛地,复突而東。時 とき 議 ぎ 頗咎國 こく 藩 はん 計 けい 迂闊 うかつ ,然 しか 亦 また 無 む 他 た 術 じゅつ 可 か 制 せい 捻 ねじ 也。
山東 さんとう 、河南 かなん 民 みん 習見僧 そう 格 かく 林 りん 沁戰,皆 みな 怪 かい 國 こく 藩 はん 以督兵 へい 大臣 だいじん 安坐 あんざ 徐 じょ 州 しゅう ,謗 そし 議 ぎ 盈 みつる 路 ろ 。國 くに 藩 はん 在 ざい 軍 ぐん 久 ひさし ,益 えき 慎 まき 用兵 ようへい 。初 はつ 立 だて 駐 ちゅう 軍 ぐん 四 よん 鎮之議 ぎ ,次 じ 設 しつらえ 扼守黃河 こうが 之 これ 策 さく 。既 すんで 數 すう 為 ため 言 げん 路 ろ 所 しょ 劾,亦 また 自 じ 以防河 かわ 無效 むこう ,朝廷 ちょうてい 方 かた 起用 きよう 國 こく 荃,乃奏請 そうせい 鴻章 こうしう 以江督 とく 出 で 駐 ちゅう 徐 じょ 州 しゅう ,與 あずか 魯撫會 かい 辦東路 ろ ;國 こく 荃以鄂撫出 で 駐 ちゅう 襄 じょう 陽 ひ ,與 あずか 豫 よ 撫 なで 會 かい 辦西路 ろ :而自駐 ちゅう 周 しゅう 家 か 口 こう 策應 さくおう 之 の 。或 ある 又 また 劾其驕妄,於是國 こく 藩 はん 念 ねん 權 けん 位 い 不可 ふか 久 ひさ 處 しょ ,益 えき 有 ゆう 憂 う 讒畏譏 そし 之 これ 心 こころ 矣。匈病假 かり 數 すう 月 がつ ,繼 つぎ 請開缺 かけ ,以散員 いん 留 とめ 軍 ぐん 效力 こうりょく ,又 また 請削封 ふう 爵,皆 みな 不 ふ 許 もと 。
五 ご 年 ねん 冬 ふゆ ,還 かえ 任 にん 江南 こうなん ,而鴻章代 あきよ 督 とく 軍 ぐん 。時 とき 牛 ぎゅう 洪 ひろし 死 し ,張 ちょう 總 そう 愚 ぐ 竄陝西 せんせい ,任 にん 柱 ばしら 、賴 よりゆき 文光 ぶんこう 竄湖北 きた ,自 じ 是 ぜ 有東 うとう 、西 にし 捻 ねじ 之 これ 號 ごう 。六 ろく 年 ねん ,就補大 だい 學士 がくし ,留治 とめじ 所 しょ 。東 ひがし 捻 ねじ 由 ゆかり 河南 かなん 竄登、萊、青 あお ,李 り 鴻章 こうしう 、劉 りゅう 長 ちょう 佑 たすく 建議 けんぎ 合 あい 四 よん 省 しょう 兵力 へいりょく 堵 と 運河 うんが 。捻 ねじ 復 ふく 引而西 にし ,越 えつ 膠 にかわ 、萊、河南 かなん 入海 いりうみ 州 しゅう 。清 きよし 軍陣 ぐんじん 斬 き 任 にん 柱 ばしら ,賴 よりゆき 文光 ぶんこう 走 はし 死 し 揚 あげ 州 しゅう 。以東 いとう 捻 ねじ 平 ひらめ ,加 か 國 こく 藩 はん 雲 くも 騎 き 尉 じょう 世 よ 職 しょく 。西 にし 捻 ねじ 入 にゅう 陝後,為 ため 松山 まつやま 所 しょ 敗 はい 。乘 の 堅 がた 冰渡河 とか 竄山西 さんせい ,入 にゅう 直 ちょく 隸,犯 はん 保 ほ 定 じょう 、天津 てんしん 。松山 まつやま 繞 にょう 出 で 捻 ねじ 前 まえ ,破 やぶ 之 これ 於獻縣 けん 。諸 しょ 帥 そち 勤王 きんのう 師 し 大 だい 至 いたり ,捻 ねじ 軍 ぐん 越 えつ 運河 うんが 竄東昌 あきら 、武 たけ 定 じょう 。鴻章 こうしう 移 うつり 師 し 德 とく 州 しゅう ,河 かわ 水盛 みずもり 漲 みなぎ ,扼河以困之 の 。國 くに 藩 はん 遣 や 黃 き 翼 つばさ 升 ます 領水 りょうすい 師 し 助 じょ 剿,大破 たいは 捻 ねじ 於荏平 たいら 。張 ちょう 總 そう 愚 ぐ 赴水死 し ,而西捻 ねじ 平 ひらた 。凡防河 かわ 之 の 策 さく ,皆 みな 國 こく 藩 はん 本 ほん 謀 はかりごと 也。是 ぜ 年 ねん 授武英 たけひで 殿 どの 大 だい 學士 がくし ,調 しらべ 直 ちょく 隸總督 とく 。
一等毅勇侯曾國藩像
國 くに 藩 はん 為 ため 政務 せいむ 持 じ 大體 だいたい ,規 ぶんまわし 全 ぜん 勢 いきおい 。其策西 にし 事 ごと ,議 ぎ 先 さき 清 きよし 隴寇而後出 で 關 せき ;籌滇、黔,議 ぎ 以蜀、湘二省 しょう 為 ため 根本 こんぽん 。皆 みな 初 はつ 立 たて 一議 いちぎ ,後 ご 數 すう 年 ねん 卒 そつ 如其說 せつ 。自 じ 泰西 たいせい 人 じん 入 にゅう 清國 きよくに ,交涉 こうしょう 事 ごと 日 び 繁 しげる 。江 こう 寧 やすし 未 み 下 した ,俄 にわか 、美 よし 、英 えい 、法 ほう 皆 みな 請以兵助 へいすけ ,國 くに 藩 はん 婉拒之 の 。及廷議 ぎ 購機輪 わ ,置 おけ 船 せん 械,則 のり 力 りょく 贊 さん 其成,復 ふく 建議 けんぎ 選 せん 學童 がくどう 習藝歐 おう 洲 しゅう 。每 まい 定 じょう 約 やく 章 あきら ,輒詔問 とい 可 か 許 もと 不可 ふか 許 もと ,國 くに 藩 はん 以為爭 そう 彼我 ひが 之 の 虛 きょ 儀 ぎ 者 しゃ 可 か 許 もと ,其奪吾 われ 民生 みんせい 計 けい 者 しゃ 勿許也。既 すんで 至 いたり 直 ちょく 隸,以練兵 へい 、飭吏、治 ち 河 かわ 三 さん 端 はし 為 ため 要務 ようむ ,次第 しだい 興 きょう 革 かわ ,設 しつらえ 清 きよし 訟局、禮 れい 賢 けん 館 かん ,政教 せいきょう 大 だい 行 ぎょう 。
九 きゅう 年 ねん 四 よん 月 がつ ,天津 てんしん 民 みん 擊 げき 殺 ころせ 法 ほう 領事 りょうじ 豐 ゆたか 大業 おおわざ ,毀教 きょう 堂 どう ,傷 きず 教 きょう 民 みん 數 すう 十 じゅう 人 にん 。通商 つうしょう 大臣 だいじん 崇 たかし 厚 あつ 議 ぎ 嚴 げん 懲之,民 みん 不服 ふふく 。國 くに 藩 はん 方 かた 病 びょう 目 め ,詔 みことのり 速 そく 赴津,乃務持 じ 平 ひら 保 ほ 和 わ 局 きょく ,斬 き 十 じゅう 七 なな 人 にん ,又 また 遣 や 戍府縣 けん 吏。國 くに 藩 はん 之 の 初 はつ 至 いたり 也,津 つ 民 みん 謂 いい 必反崇 たかし 厚 あつ 所為 しょい ,備兵以抗法 ほう 。然 しか 當 とう 是 ぜ 時 じ ,海 うみ 內初定 じょう ,湘軍已 やめ 散 ち 遣 や ,天津 てんしん 咫尺 しせき 京畿 けいき ,民 みん 、教 きょう 相關 そうかん ,此小事 しょうじ 不足 ふそく 啟 けい 兵 へい 端 はし ,而津民 みん 爭 そう 怨之。平生 ひらお 故舊 こきゅう 持 じ 高 だか 論者 ろんしゃ ,日 にち 移 うつり 書 しょ 譙讓,省 しょう 館 かん 至 いたり 毀所署 しょ 楹帖,而國藩 はん 深 ふかし 維中外 がい 兵 へい 勢 いきおい 強弱 きょうじゃく ,和戰 わせん 利害 りがい ,惟 おもんみ 自 じ 引咎,不一 ふいつ 辯 べん 也。丁 ちょう 日 にち 昌 あきら 因 いん 上奏 じょうそう 曰:「自 じ 古 こ 局外 きょくがい 議論 ぎろん ,不 ふ 諒 りょう 局 きょく 中 ちゅう 艱苦 かんく ,一 いち 唱百 ひゃく 和 わ ,亦 また 足 あし 以熒上 じょう 聽,撓 たわわ 大計 たいけい 。卒 そつ 之 の 事 こと 勢 ぜい 決裂 けつれつ ,國家 こっか 受無窮 きゅう 之 の 累 るい ,而局外 がい 不 ふ 與 あずか 其禍,反 はん 得 とく 力持 ちからもち 清 きよし 議 ぎ 之 の 名 な ,臣 しん 實 み 痛 つう 之 の !」
國 くに 藩 はん 既 すんで 負 まけ 重 おも 謗 そし ,疾 やまし 益 えき 劇 げき ,乃召鴻 おおとり 章治 しょうじ 其獄,踰月事 ごと 定 じょう ,如初議 ぎ 。會 かい 兩 りょう 江 こう 缺 かけ 出 で ,遂 とげ 調 ちょう 補 ほ 江南 えな ,而以鴻章 こうしう 督 とく 直 ちょく 隸。國 くに 藩 はん 以亂後 ご 經籍 けいせき 就熸,設 しつらえ 官 かん 書 しょ 局 きょく 印行 いんこう ,校 こう 刊 かん 皆 みな 精 せい 審 しん 。禮 れい 聘名儒為書院 しょいん 山 やま 長 ちょう ,其幕府 ばくふ 亦 また 極 ごく 一時 いちじ 之 の 選 えらべ ,江南 こうなん 文化 ぶんか 遂 とげ 比 ひ 隆盛 りゅうせい 時 じ 。同 どう 治 ち 十 じゅう 一 いち 年 ねん ,歿於位 い ,年 ねん 六 ろく 十 じゅう 。事 こと 聞,清 きよし 廷震悼,詔 みことのり 輟朝三 さん 日 にち 。贈 おく 太 ふとし 傅 でん ,諡 おくりな 文正 ふみまさ ,祀 まつ 京師 けいし 昭 あきら 忠 ただし 、賢良 けんりょう 祠 ほこら 。
↑ John King Fairbank, Merle Goldman China: a new history ; Harvard University Press,二 に 千 せん 有 ゆう 六 ろく 年 ねん ; ISBN 0-674-01828-1
↑ Pamela Kyle Crossley Orphan warriors: three Manchu generations and the end of the Qing world :第 だい 一 いち 百 ひゃく 二 に 十 じゅう 五 ご 頁 ぺーじ ; Princeton University Press,一 いち 千 せん 九 きゅう 百 ひゃく 九 きゅう 十 じゅう 一 いち 年 ねん ; ISBN 0-691-00877-9
↑ The Taiping Rebellion: A Military Assessment of Revolution and Counterrevolution, in A Military History of China 149 (David A. Graff & Robin Higham eds., 2002)