(Translated by https://www.hiragana.jp/)
曾國藩 - 維基大典 とべいたり內容

曾國はん

ぶん維基大典たいてん
曾文せい公國こうこくはん

曾國はん滌生湖南こなん湘鄉ひといえのうきよしみちこうじゅうはちねん進士しんし

書生しょせいりょうへい

[]

じゅうさんねん,以檢討けんとうてんためし四川しせん再轉さいてん侍讀じどくるい內閣學士がくしれいさむらいろうしょ兵部ひょうぶときふとつねてらきょうからかんこうがく京師けいしくにはんあずかやまとひとし廷棟、なにかつらちんげんごと治義はるよし理之まさゆきがくけんともうめ曾亮及邵懿辰、りゅうつたえ瑩諸じんため詞章ししょうこうよりどころゆうとめこころ天下てんか人才じんさい

咸豐はつ太平たいへい天國てんごくおこりごと清文せいぶんはじめみことのり群臣ぐんしんげん得失とくしつくにはんそうひね今日きょう急務きゅうむしゅざい用人ようにん人才じんさいゆう轉移てんいみちゆう培養ばいようこれかたゆう考察こうさつほうぶんむねしょう其剴切明きりあけべんひろ疏薦棠階、廷棟、おうけいくも嚴正げんせいもとこうただしげんにんふくじょうげん:「くによう不足ふそくへい不精ぶしょうしゃため天下でんか大患たいかん。於歲入さいにゅうつねがくがいまこと不可ふかべつもとめさがせ刮之じゅつぞう一分則民受一分之害。いたり歲出さいしゅつすうへい餉為鉅,みどりへいがくろくじゅうよんまんつねきょろくななまん以資きゅう軍用ぐんよういぬいたかしちゅう增兵ぞうへいおこりさい糜帑ひゃくあまりまん。其時だい學士がくしおもねかつらそくゆう其難まましよしみみちあいだ兩次りょうじさい及十よん,仍宜汰五まん復舊ふっきゅうがく開國かいこくはつへいしょう而國きょう,其後へいいよいよのりりょくいよいよじゃく,餉愈のりこくいよいよひんおう請皇じょう註意はたざいただし使つかいななじゅう一鎮中有十餘鎮足為心腹,のり緩急かんきゅう恃矣。」れきしょ刑部おさかべ吏部さむらいろうねんてんためし江西えにし中途ちゅうとひのとはは

さんねん太平たいへいぐんやぶこうやすしよりどころためきょうふんとうきたはん河南かなんちょく天下てんか騷動そうどう,而國はんやめぜんたてまつむね辦團ねりちょうすなはつこくはんよく疏請おわりせいかくたかし曰:「おおやけもときよし清之きよゆきかかえこんじょうこう,如君ちちなに?且墨絰從えびす古制こせい也。」とげふくあきら戚繼こうのこほうつの農民のうみんしらきじつ壯健そうけんしゃ朝夕ちょうせき訓練くんれん將領しょうりょうりつようしょせいみつる眾數逾五ひゃくごう「湘勇[いち]」。あがしょ遐邇,雖卑賤與ひとしれい山野さんやざい智之としゆきかん其誠,莫不往見,人人ひとびとみな以曾おおやけあずかげんごとよんさかい土匪どひはつ,聞警そく以湘勇往ゆうおうだてさんとうほう以煩府縣ふけんごく旬月じゅんげつちゅう,莠民猾胥,便宜べんぎひゃく餘人よにんそし讟四おこりじゅんなで道下とうげみなこころそしこれいたり盛暑せいしょねりみさおためしいたげしか見所みどころそう輒得褒答受主知しゅちゆう以難也。一日標兵與湘勇閧,いたりたけなわ入國にゅうこくはんぎょうだいくにはんおや訴諸じゅんなでじゅんなで漫謝不為ふため即日そくじつうつり營城がい避標へいある曰:「曷以聞?」くにはん歎曰:「大難だいなんやめわれじん敢以私憤しふん瀆君ちち乎?」

嘗與かさ燾、ちゅうげんろん東南とうなんがた勢多せた阻水,よくたいららん治水ちすい不可ふか,乃奏請そうせいづくり戰艦せんかん衡州たくみそつあかつきせんせいしゃたん橈長槳,出自しゅつじせいおもえ,以人りょくかち風水ふうすいとげなり大小だいしょうひゃくよんじゅうかんつの水陸すいりくまんにん水軍すいぐん以褚なんじこう、楊載ぶく、彭玉麟領陸軍りくぐん以塔ひとしぬのさわみなみりょう太平たいへいぐん江西えにしじょう竄,さいおちいきゅうあんけいちゅうげん戰歿せんぼついおりしゅうぶん鎔督しゅうまたはいかんしつたけあきら戒嚴かいげん太平たいへいぐん复乘ぜい擾湖みなみくにはんするどほし太平たいへいぐんりつ水陸すいりくぐん東下ひがししもふね初出しょしゅつ大風おおかぜそんすうじゅうそうりくいたりたけしゅうぜんたいつぶせ退ずさ,引還ちょうすな太平たいへいぐんおちい湘潭,邀擊ようげきやすしこうまたはいくにはんいきどおとうすい幕下まくしたあきらことぶき麟掖おこりとく不死ふし。而同とうひとしぬのやぶてき於湘潭,くにはん營長すなだか峰寺みねでらじゅうせいぐん人人ひとびと捓揄ある增兵ぞうへいくにはん曰:「われ水陸すいりくまんにん,而遇ぞくそくつぶせたけしゅうはいみずこばめせんしゃおもんみ福一ふくいち營;湘潭たたかえりくとうひとしぬのみずぶくかくりょう營:以此へいせいしょかずらはい祁山,且謀げんへいそんしょくつとむもとめおのれ虛言きょげん也。且古じん用兵ようへいさきあかり功罪こうざい賞罰しょうばつこんみだれ賢人けんじん君子くんしみな潛伏せんぷくわれ以義ごえ倡導,どうくつ危亡。諸公しょこうはつしたがえわが以利どう也,於法また有難ありがたほどこせ,其致はいよし此。」しょしょう聞之みなふく

東南とうなん鏖戰

[]

りくすんでかつ湘潭,じゅんなで提督ていとくうえいさお,而國はん請罪。ぶんむね詰責きっせき提督ていとくあわびおこりひょうめん其官,以塔ひとしぬのだい太平たいへいぐんたけしゅうおちい常德じょうとく,旋北はしたけあきらさいしつくにはん引兵趨岳しゅうてき梟將きょうしょう曾天やしなえ連戰れんせん下城げじょうりょういそかい金口きんぐちはかりごとたけあきらさわみなみ沿江東こうとうきしおさむ花園はなぞのてきたむろとうひとしぬの伏兵ふくへいひろしさん福舟ふくぶねふか入寇にゅうこうたむろみなりつ避鉛まるたけあきらかん太平たいへいぐんもちきよしぐん雄壯ゆうそうよい遁,とげふくぐんくにはん以前いぜんやすしこうはい請奪かんいたり奏上そうじょうみことのりしょ湖北こほくめぐなでひろ兵部ひょうぶさむらいろう銜,かいしょにんいのちとく東下ひがししも

とうみず奮厲まえ大破たいは太平たいへいぐん田家たや鎮,斃敵すうまんいたり於九こうぜんほこさきうすみずうみこうおさむうめしゅう敵壘てきるいした,駛入鄱湖。太平たいへいぐんちくるいみずうみこうだん其後,ふねとく,於是外江とのえ、內湖阻絕。外江とのえせんせんしょうてい太平たいへいぐんじょう舴艋夜襲やしゅう營,擲火しょうすわふね,​こくはんとべ而免,みずとげ大亂たいらんうえ疏請ざいみことのりむねひろしまぬかれいい於大おだいきょく無傷むきず也。ねん太平たいへいぐんさいおちい武漢ぶかん,擾荊じょうくにはんえびすはやしつばさとうぐんかえ援湖きたとうひとし布留ふるおさむきゅう,而躬いたりみなみあきらなでていみずこま內湖しゃさわみなみしたがえせい江西えにし,复弋,拔廣しんじやぶよしやすし,而塔ひとしぬのそつ於軍。くにはん在江あるえ西にしあずかじゅんなでちんあきら邁不相能あいのうさわみなみ奔命ほんめい往來おうらい上書うわがきこくはんげん東南とうなん大勢おおぜいざいたけあきら,請率所部ところぶ援鄂,くにはんしたがえこれまくきゃくりゅう蓉諫曰:「公所ぐぞ恃者とうこんとう將軍しょうぐんほろびまたとおぎょうだつゆうきゅうだれこらえ使者ししゃ?」くにはん曰:「われけいじゅく矣,東南とうなん大局たいきょくむべ如是にょぜ,俱困於此無為むい也。」かさみ燾祖はなむけさわみなみ曰:「曾公へいたん奈何いかん?」さわみなみ曰:「てん苟不ほろび本朝ほんちょうおおやけ必不。」きゅうがつ授兵さむらいろう

ろくねんつばさおうせきたちひらきよし湖北こほく入江いりえ西にしれんおちいはち一州いっしゅう湖南こなんきたごえいき相聞そうもんくにはんこまみなみあきらはたぶんたむろ要地ようちげき交馳,はい吟誦ぎんしょうさく水陸すいりくとくかちきょうぐんせんもり技藝ぎげいゆい營布ひねほううたしゃ感奮かんぷん,以殺てき敢死ためさかえ。顧眾寡,おわり不能ふのうだいくじけ太平たいへいぐんしゃそう請調さわみなみぐんぶんそう以武かんこうたれなり不可ふか棄。さわみなみ督戰とくせんえききゅうそつ於軍。たま麟聞江西えにし警,すすき鞋走千里せんり穿ほじてきちゅういたりみなみあきらじょもりはやしつばさやめため湖北こほくじゅんなでくにはんおとうと國華こっかくに葆用ちちいのち乞師はやしつばさはたせんにんおさむみずしゅう湖南こなんじゅんなで駱秉あきらまたこく荃兵援吉やす兄弟きょうだいみなかい行間ぎょうかん。而國はんまえしょ援湖きたしょぐん久之ひさゆきさいかつ武漢ぶかん直下ちょっかきゅうぞくまろうどはちせんにんぐん城東じょうとうぶくせんせんよんひゃくはくこうりょうきしこうやすし將軍しょうぐんきょうおもねうまたいあわびちょうたいちゅう小池こいけこう,凡數まんにんくにはんほん以憂懼治ぐんみなみあきらむかいろうぐんよう甚盛,えきさる儆告誡之。而是江南こうなんだい營潰,とくこうさかえ退ずさもり丹陽たんようそつ

ななねんがつくにはん聞父ゆう,迳歸。きゅうさんがつかりけん請終せいまことひらきさむらいろうかけはやしつばさ既定きてい湖北こほくしんかこえきゅうやぶみずうみこうみずぜっすうねんふくあいぶくれん拔望こうひがしりゅうあげふうやすけいかつどうりょうどろ汊,あずか江南えなぐんどおりゆかりこれ湘軍みずめい天下でんか[]はやしつばさ以此ぐん創始そうしこくはん,楊、彭皆其舊,請起こくはん。及陷きゅうせきたちひらき浙江せっこうひた福建ふっけんふんまた复犯江西えにしあさむねみことのりこくはんいずる浙江せっこう軍務ぐんむ

くにはんいたる江西えにしたむろたてあきらまたみことのり援閩。くにはん以閩寇不足ふそくおもんばか,而景德地とくじ衝要,はた援贛きたおさむけいとくくに荃追てきいたり浮梁,江西えにしれつじょう次第しだい复。どきせきたちひらきふくしん湖南こなんかこえたからけいぶんむねおもんばか四川しせん且有へんはやしつばさまた以湖きた餉倚かわしお;而國はんまた久治きゅうじへい疆寄,乃與かんぶんあい疏請こくはん援川。かい太平たいへいぐんいれ廣西ひろせうえゆう兵事へいじかい,而英おうちんたまなりさいやぶいおりしゅうぞくまろうど戰歿せんぼつさんかわはやしつばさ太平たいへいぐんづるいおりことぶきあいだおわりためすわえ患,乃改とめこくはんごうはかりごと皖。ぐんぶんさんみちかくまんにんくにはんゆかり宿やどまついしぱいぶんまわしやすけいたかしおもねあわびちょうたいきりじょうはやしつばさえい山鄉さんごう舒、ろくたかしおもねとうすんでやぶ太平たいへいぐん於小おちいたいせんさんとげぐんきりじょうくに荃率しょぐんかこえやすけいあずかきりじょうぐんしょう犄角。あんけい及下,而太平たいへいぐんおちい廣德ひろのりかさねやぶ杭州こうしゅう

ちゅうおう秀成ひでなりかい於建ひらめふんどう援江やすし江南こうなんだい營復つぶせつねしゅう蘇州そしゅうあいつぎしつ,咸豐じゅうねんうるうさんがつ也。ひだりはじめ聞而歎曰:「此勝敗しょうはい轉機てんき也!江南こうなんしょぐんはたあしなえへいつかれひさ矣。滌而清之きよゆき庶幾しょき後來こうらい藉手乎?」あるとい:「だれとうしゃ?」はやしつばさ曰:「朝廷ちょうてい以江みなみごとづけ曾公,天下てんか不足ふそくひら也。」於是ぶんそうまことせんそち,就加こくはん兵部ひょうぶ尚書しょうしょ銜,しょりょうこう總督そうとく,旋授欽差大臣だいじん時江ときえ、浙敵氛熾,ある請撤やすけいかこえさきしょきゅうくにはん曰:「やすけい一軍為克江寧張本,可動かどう也。」とげみなみわたる長江ながえちゅう祁門こう、浙官しんつげきゅうしょ日數にっすうじゅういたり,援蘇、援滬、援皖、援鎮江詔書しょうしょまたたたみくにはんいたる祁門數日すうじつ太平たいへいぐんおちいやすしこくおちい徽州ひがし南方なんぽうこま兵革へいかく,而えい吉利よしとしほうらん西にしふくしつこのみ,以兵いたりそうかくりんはい天津てんしんぶんむねかりねつかわくにはん聞警,請提へい北上ほくじょうかい和議わぎなり,乃止。

其冬,だいため太平たいへいぐんこま,一出祁門東陷婺源;一出祁門西陷景德;一入羊棧嶺攻大營。ぐんほうぜっ不通ふつうはた吏惵しかゆう憂色ゆうしょくかた請移營江いぬい就水くにはん曰:「退すさぐん兵家へいかしょ。」そつしたがえ使つかい人間にんげんぎょうげきあわびちょうちょうはこぶらん亟引へいかいざいぐんちゅう意氣いき如,あずかまろうどしゃくしゅ論文ろんぶんかんきょうあさそく日記にっきしょ言行げんこうくつ危困ややあいだくにはんちゅう祁門,ほん餉江西にし,及景とくしつしゃそうげん徽州どおり浙米。乃自はた大軍たいぐんきゅうやすし,值天はち營皆つぶせくさのこしょくよせちかい死守ししゅきゅうやすしてきむね棠破てき樂平よしひらうんどうどおり移駐いちゅうひがしりゅうたかし阿連あれはいてききりじょうあわびちょう一軍游擊無定居,はやしつばさふくはたじょこれじゅういちねんはちがつくに荃遂かつやすけいとし聞,而文むねくずれはやしつばさまたそつきよしむね即位そくい慈安慈禧りょうふとしきさきたれすだれこくはん太子たいししょう銜,いのち節制せっせい江蘇ちぁんすー安徽あんき江西えにし浙江せっこうよんしょう

めつひろしひらめねじ

[]
しんぐん克復こくふくこうやすし

とう天王てんのう洪秀全こうしゅうぜんけんごう東南とうなん秀成ひでなりとうはん、滬,さむらいおうけんひとしおちい浙杭,輔王楊輔きよしとうたむろやすしこくかんおうひろし海洋かいよう窺江西にしちんたまなりたむろいおりしゅうねじくびなえ霈霖出入でいり潁、ことぶきあずかたま成合なれあいおさむ山東さんとう河南かなん,眾皆ごうすうじゅうまんくにはん與國よこく荃策進取しんしゅくに荃曰:「きゅう搗江やすしのり寇必以全りょくまもるあな,而後くい也。」くにはんしかこれ。乃以こうやすしことづけこく荃,以浙江せっこうごとづけむね棠,而以江蘇ちぁんすーごとづけ鴻章こうしう鴻章こうしう出國しゅっこくはんもん,以編修へんしゅうため幕僚ばくりょうあらためどういんいたりれいしたがえ淮上つのいさみはちせん選良せんりょうしょうづけごう「淮軍」。どう元年がんねんはいきょう辦大學士がくしとくしょぐんしん討。於是こく荃有搗江やすしこれ鴻章こうしうゆうしるし、滬之ぶくたま麟有肅清しゅくせいゆうこれ大江おおえ以北いほくたかしおもねゆういおりしゅうぞくよろしゆう援潁しゅう大江おおえ以南いなんあわびちょうゆうおさむやすし國之くにゆきうんらんゆうぼう剿徽しゅうそう棠有ぶんまわしふくぜん浙之じゅうみちなみみな受成於國はん

洪秀全こうしゅうぜんこうやすしかたちくごうるい,餉械あし,猝不可ふか拔。及疫やまし大作たいさく將士しょうし死亡しぼう山積さんせきいく不能ふのうぐんくにはん以德うす,請簡大臣だいじんはせ赴軍,俾分おのれせめりょうみやゆうみことのり慰勉いい:「天災てんさい流行りゅうこうあにきょういちにんとがめしゃ朝廷ちょうていせいかけしつわが君臣くんしんとうつとむ禳救,ためみん請命。且環顧中がい才力さいりょくりょう逾卿しゃ時勢じせい艱難かんなんややたゆ也。」くにはん讀詔感泣かんきゅうとき洪秀全こうしゅうぜんかこえひさし,召秀成ひでなりけん悉眾來援らいえんごうろくじゅうまんかこえ花台かだいぐんくに荃拒せんろくじゅうよんにちほどけさんねんがつみずかつきゅう洑洲,こうやすしじょうごうかこえじゅうがつ鴻章こうしうかつ蘇州そしゅうよんねんがつそう棠克杭州こうしゅうくにはん以江やすしひさしした,請鴻あきら來會らいかい未發みはつくに荃攻えききゅう克之かつゆき[さん]こうやすしひらめきよし廷褒こう太子たいしふとしでんふう一等いっとうあつしいさみこうしょう雙眼そうがん翎,ぶんしんふうこうはじめ也。いたり東南とうなんだいじょうたっ湘軍、すすむ淮軍,而ねじぐんことおこり

ねじぐんはじめ山東さんとう遊民ゆうみんしょう聚,其後ひょうげかすめこうかた、潁、亳、淮、じょあいだねじもえあぶらいいねじ」。ゆう眾數じゅうまんうますうまん,蹂躪すう千里せんり分合ぶんごうつねねじくびよんにん,曰張そうにんばしらぎゅうひろしよりゆき文光ぶんこうそうかくりん征討せいとうすうねんまたのうだいそうくにはん聞僧ぐんけいおいねじぐんいちにちよるさんひゃくあまりうら,曰:「此於兵法ひょうほう,必蹶じょう將軍しょうぐん。」いく而王はて戰歿せんぼつ曹州,りょうみや聞大おどろきみことのりこくはん山東さんとう剿捻,節制せっせいちょく隸、山東さんとう河南かなん三省みつよし,而鴻章代あきよため總督そうとく,廷旨促出くにはんじょうげん:「すわえぐんさい撤殆つきいま調しらべりゅう松山まつやま一軍いちぐんりゅうめいでん淮勇なお不足ふそくとうさらつのじょしゅういさむ,以楚ぐん規模きぼひらけひとし、兗之風氣かざけまたふえつのうまたい及黃河水こうすいみな旦夕たんせき就。ちょく隸宜籌防へいふんもり河岸かわぎしよろしれい河南かなんへいけん顧河きたそうかくりん沁嘗しゅうれきしょうしん不能ふのう也。如以じょしゅうためろう營,すなわちさん東之ひがしの兗、沂、曹、すみ河南かなんちんこうよみがえこれ淮、じょうみ安徽あんきこれいおりおおとり、潁、泗,此じゅう三府州責之臣,而以其餘せめかくとくなで。汛地ゆう專屬せんぞくのり軍務ぐんむ乃漸ゆう宿やど。」またそう:「扼要ちゅうぐん臨淮せきしゅうこうすみやすしじょしゅうためよん鎮。いちしょゆうきゅうさんしょ往援。こんぞくやめなりりゅう寇,わかぞくりゅう而我あずかこれ俱流,必致つかれ於奔いのちしん堅持けんじはつ,以有定之さだゆきへいせい定之さだゆき寇,じゅうむかい剿,重尾しげおおい。」しかとく年餘ねんよねじはせ突如とつじょ將士しょうしみないい苦戰くせん而苦奔逐,乃起ちょうあき抵清こうちくちょう牆,憑運河うんがこれ未成みせい而捻竄襄、鄧間,よしうつり而西,おさむすなかわ、賈魯かわひらきごうおけもり分地ぶんちはじめじょう,而捻衝河みなみ汛地,复突而東。とき頗咎こくはんけい迂闊うかつしかまたじゅつせいねじ也。

山東さんとう河南かなんみん習見そうかくりん沁戰,みなかいこくはん以督へい大臣だいじん安坐あんざじょしゅうそしみつるくにはんざいぐんひさしえきまき用兵ようへいはつだてちゅうぐんよん鎮之しつらえ扼守黃河こうがこれさくすんですうためげんしょ劾,また以防かわ無效むこう朝廷ちょうていかた起用きようこく荃,乃奏請そうせい鴻章こうしう以江とくちゅうじょしゅうあずか魯撫かい辦東こく荃以鄂撫ちゅうじょうあずかなでかい辦西:而自ちゅうしゅうこう策應さくおうあるまた劾其驕妄,於是こくはんねんけん不可ふかひさしょえきゆう讒畏そしこれこころ矣。匈病かりすうがつつぎ請開かけ,以散いんとめぐん效力こうりょくまた請削ふう爵,みなもと

ねんふゆかえにん江南こうなん,而鴻章代あきよとくぐんときぎゅうひろしちょうそう陝西せんせいにんばしらよりゆき文光ぶんこう竄湖きた有東うとう西にしねじこれごうろくねん,就補だい學士がくし留治とめじしょひがしねじゆかり河南かなん竄登、萊、あお鴻章こうしうりゅうちょうたすく建議けんぎあいよんしょう兵力へいりょく運河うんがねじふく引而西にしえつにかわ、萊、河南かなん入海いりうみしゅうきよし軍陣ぐんじんにんばしらよりゆき文光ぶんこうはしあげしゅう以東いとうねじひらめこくはんくもじょうしょく西にしねじにゅう陝後,ため松山まつやましょはいがた渡河とか山西さんせいにゅうちょく隸,はんじょう天津てんしん松山まつやまにょうねじまえやぶこれ於獻けんしょそち勤王きんのうだいいたりねじぐんえつ運河うんが竄東あきらたけじょう鴻章こうしううつりとくしゅうかわ水盛みずもりみなぎ,扼河以困くにはんつばさます領水りょうすいじょ剿,大破たいはねじ於荏たいらちょうそう赴水,而西ねじひらた。凡防かわさくみなこくはんほんはかりごと也。ねん武英たけひで殿どのだい學士がくし調しらべちょく隸總とく

ようつとむ紛擾ふんじょう

[]
一等毅勇侯曾國藩像

くにはんため政務せいむ大體だいたいぶんまわしぜんいきおい。其策西にしごとさききよし隴寇而後せき;籌滇、黔,以蜀、湘二しょうため根本こんぽんみなはつたて一議いちぎすうねんそつ如其せつ泰西たいせいじんにゅう清國きよくに交涉こうしょうごとしげるこうやすししたにわかよしえいほうみな請以兵助へいすけくにはん婉拒。及廷購機おけせん械,のりりょくさん其成,ふく建議けんぎせん學童がくどう習藝おうしゅうまいじょうやくあきら,輒詔といもと不可ふかもとくにはん以為そう彼我ひがきょしゃもと,其奪われ民生みんせいけいしゃ勿許也。すんでいたりちょく隸,以練へい、飭吏、かわさんはしため要務ようむ次第しだいきょうかわしつらえきよし訟局、れいけんかん政教せいきょうだいぎょう

きゅうねんよんがつ天津てんしんみんげきころせほう領事りょうじゆたか大業おおわざ,毀きょうどうきずきょうみんすうじゅうにん通商つうしょう大臣だいじんたかしあつげん懲之,みん不服ふふくくにはんかたびょうみことのりそく赴津,乃務ひらきょくじゅうななにんまた戍府けん吏。くにはんはついたり也,みんいい必反たかしあつ所為しょい,備兵以抗ほうしかとううみ內初じょう,湘軍やめ天津てんしん咫尺しせき京畿けいきみんきょう相關そうかん,此小事しょうじ不足ふそくけいへいはし,而津みんそう怨之。平生ひらお故舊こきゅうだか論者ろんしゃにちうつりしょ譙讓,しょうかんいたり毀所しょ楹帖,而國はんふかし維中がいへいいきおい強弱きょうじゃく和戰わせん利害りがいおもんみ引咎,不一ふいつべん也。ちょうにちあきらいん上奏じょうそう曰:「局外きょくがい議論ぎろんりょうきょくちゅう艱苦かんくいちひゃくまたあし以熒じょう聽,たわわ大計たいけいそつことぜい決裂けつれつ國家こっか受無きゅうるい,而局がいあずか其禍,はんとく力持ちからもちきよししんつう!」

くにはんすんでまけおもそしやましえきげき,乃召おおとり章治しょうじ其獄,踰月ごとじょう,如初かいりょうこうかけとげ調ちょう江南えな,而以鴻章こうしうとくちょく隸。くにはん以亂經籍けいせき就熸,しつらえかんしょきょく印行いんこうこうかんみなせいしんれい聘名儒為書院しょいんやまちょう,其幕府ばくふまたごく一時いちじえらべ江南こうなん文化ぶんかとげ隆盛りゅうせいどうじゅういちねん,歿於ねんろくじゅうこと聞,きよし廷震悼,みことのり輟朝さんにちおくふとしでんおくりな文正ふみまさまつ京師けいしあきらただし賢良けんりょうほこら

引據

[]
  1. John King Fairbank, Merle Goldman China: a new history  ; Harvard University Press,せんゆうろくねん; ISBN 0-674-01828-1
  2. Pamela Kyle Crossley Orphan warriors: three Manchu generations and the end of the Qing world  だいいちひゃくじゅうぺーじ; Princeton University Press,いちせんきゅうひゃくきゅうじゅういちねん; ISBN 0-691-00877-9
  3. The Taiping Rebellion: A Military Assessment of Revolution and Counterrevolution, in A Military History of China 149 (David A. Graff & Robin Higham eds., 2002)