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台北 たいぺい 市 し (タイペイ/たいほく-し、繁体字 はんたいじ 中国語 ちゅうごくご : 臺北 たいぺい 市 し /台北 たいぺい 市 し 、英語 えいご : Taipei City )は、台湾 たいわん 島 とう 北部 ほくぶ にある中華民国 ちゅうかみんこく の直轄 ちょっかつ 市 し ・首都 しゅと [ 1] 。2024年 ねん 1月 がつ 時点 じてん での人口 じんこう は2,511,291人 にん [ 2] であり、市域 しいき 人口 じんこう では衛星 えいせい 都市 とし の新北 しんきた 市 し 、中部 ちゅうぶ の台 たい 中 ちゅう 市 し 、南部 なんぶ の高 こう 雄市 ゆういち に次 つ いで国内 こくない 4位 い だが、台湾 たいわん 最大 さいだい の都市 とし 圏 けん である台北 たいぺい 都市 とし 圏 けん の中枢 ちゅうすう 都市 とし であり、アジア 屈指 くっし の世界 せかい 都市 とし でもある。面積 めんせき は約 やく 272平方 へいほう キロメートル で四方 しほう を新北 しんきた 市 し に囲 かこ まれている。
日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい は「たいほく」と日本語 にほんご 読 よ みしていた。現在 げんざい でもNHK の放送 ほうそう では「たいほく」の呼称 こしょう を採用 さいよう している。国語 こくご の発音 はつおん では「タイベイ」 (Táiběi) 、台湾 たいわん 語 ご 発音 はつおん ではタイパッ (Tâi-pak) 、客 きゃく 家 か 語 ご 発音 はつおん ではトイべッである。
西門 にしもん 町 まち
中山 ちゅうざん 駅 えき 南西 なんせい 商圈 しょうけん
台北 たいぺい 捷 とし 運 うん
信義 しんぎ 計画 けいかく 区 く
台北 たいぺい 市 し は急速 きゅうそく な人口 じんこう 増加 ぞうか のため、台北 たいぺい 盆地 ぼんち の山際 やまぎわ にまで都市 とし 化 か が進展 しんてん している。北部 ほくぶ は夜 よる 市 し で有名 ゆうめい な士 し 林 りん 、山 やま の手 て 高級 こうきゅう 住宅 じゅうたく 地 ち の天 てん 母 はは 、温泉 おんせん で有名 ゆうめい な北 きた 投 とう から、地域 ちいき 内 ない には台北 たいぺい 最古 さいこ の寺 てら ・関 せき 渡 わたる 宮 みや が立地 りっち している関 せき 渡 わたる にいたる。中心 ちゅうしん 部 ぶ は古 ふる くから栄 さか えた地域 ちいき であり、日本 にっぽん 時代 じだい の建築 けんちく や清 きよし 時代 じだい の遺構 いこう が多 おお い。総統 そうとう 府 ふ 、台北 たいぺい 最古 さいこ の寺 てら の一 ひと つの龍山 たつやま 寺 てら 、古 ふる くからの繁華 はんか 街 がい ・西門 にしもん 町 まち もここにある。南部 なんぶ には茶 ちゃ の産地 さんち である木柵 もくさく を擁 よう する。
台北 たいぺい 市 し は台北 たいぺい 盆地 ぼんち に位置 いち し、大 だい 屯 たむろ 火山 かざん 群 ぐん が市 し 北部 ほくぶ 北部 ほくぶ に位置 いち し、市 し 南部 なんぶ の円山 まるやま 、大 だい 直 じき 、内 うち 湖 こ に向 む かって緩 ゆる やかな傾斜 けいしゃ を生 う み出 だ している。最高 さいこう 海抜 かいばつ は七 なな 星山 ほしやま の1,120mであり、続 つづ いて大 だい 屯 たむろ 山 さん の1092mが続 つづ いている。山間 さんかん 部 ぶ の中心 ちゅうしん は北 きた 投 とう の外延 がいえん に広 ひろ がる火山 かざん 地帯 ちたい である。市 し 東部 とうぶ の内 うち 湖 こ 、南港 なんこう 及 およ び南部 なんぶ の木柵 もくさく では丘陵 きゅうりょう 地帯 ちたい となっており、標高 ひょうこう 約 やく 300mの南港 なんこう 山系 さんけい (拇指 ぼし 山系 さんけい )が広 ひろ がっている。
台北 たいぺい 市内 しない は淡水 たんすい 河 かわ の流域 りゅういき に分類 ぶんるい される。淡水 たんすい 河 かわ は主流 しゅりゅう 以外 いがい に支流 しりゅう の新店 しんてん 渓 けい が大 だい 同区 どうく (大龍 おおたつ 峒、大 だい 稲 いね 埕 )、万 まん 華 はな 、公館 こうかん 、景 けい 美 び などの地域 ちいき を流 なが れている。
基 もと 隆 たかし 河 かわ は基 もと 隆 たかし 市 し 暖 だん 暖 だん 区 く や新北 しんきた 市 し 汐止 しおとめ 区 く 、南港 なんこう 、松山 まつやま 、内 うち 湖 こ 、大 だい 直 じき 、士 し 林 りん 、社 しゃ 子 こ を経 へ た後 のち 関 せき 渡 わたる 一帯 いったい にて淡水 たんすい 河 かわ で合流 ごうりゅう している。河 かわ 道 どう が湾曲 わんきょく していることから、かつては大雨 おおあめ ごとに水害 すいがい が発生 はっせい していたが、現在 げんざい は士 し 林 りん 、内 うち 湖 こ 、南港 なんこう の河 かわ 道 どう を修正 しゅうせい する工事 こうじ を行 おこな い水害 すいがい 被害 ひがい を防 ふせ ぐ治水 ちすい 事業 じぎょう が完成 かんせい している。
これ以外 いがい には景 けい 美 び 渓 けい は景 けい 美 び にて新店 しんてん 渓 けい より分岐 ぶんき し、景 けい 美 び 、木柵 もくさく を経 へ て新北 しんきた 市 し 深 ふか 坑 あな 区 く へと流 なが れている。双 そう 渓 けい は士 し 林 りん 、北 きた 投 とう 境界 きょうかい 一帯 いったい より基 もと 隆 たかし 河 かわ が分岐 ぶんき したものであり、磺渓 はその双 そう 渓 けい より分岐 ぶんき している。双 そう 渓 けい は芝山 しばやま 岩 いわ 、外 そと 双 そう 渓谷 けいこく (故 こ 宮 みや 博物 はくぶつ 院 いん 附近 ふきん )を流 なが れ、鉱 こう 渓 けい は石 いし 牌 ぱい 、天 てん 母 はは などを流域 りゅういき に含 ふく んでいる。
台北 たいぺい 市 し
雨 あめ 温 ゆたか 図 ず (説明 せつめい )
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
気温 きおん (°C )
総 そう 降水 こうすい 量 りょう (mm)
インペリアル 換算 かんさん
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12
気温 きおん (°F )
総 そう 降水 こうすい 量 りょう (in)
台北 たいぺい 市 し は北緯 ほくい 25度 ど 付近 ふきん の東 ひがし アジア大陸 たいりく と太平洋 たいへいよう のあいだに位置 いち し、シベリア高気圧 こうきあつ と温暖 おんだん 湿潤 しつじゅん な太平洋 たいへいよう 高気圧 こうきあつ の影響 えいきょう を受 う けた亜熱帯 あねったい 気候 きこう が特徴 とくちょう である。ケッペンの気候 きこう 区分 くぶん では温暖 おんだん 湿潤 しつじゅん 気候 きこう (Cfa) に属 ぞく する。台湾 たいわん では四季 しき の変化 へんか が顕著 けんちょ な地域 ちいき であり、一般 いっぱん に3~5月 がつ を春 はる 、6~8月 がつ を夏 なつ 、9~11月 がつ を秋 あき 、12~翌年 よくねん 2月 がつ を冬 ふゆ としている。
台北 たいぺい 市 し の気候 きこう
月 つき
1月 がつ
2月 がつ
3月 がつ
4月 がつ
5月
6月 がつ
7月 がつ
8月 がつ
9月
10月
11月
12月
年 とし
最高 さいこう 気温 きおん 記録 きろく °C (°F )
33.8 (92.8)
31.8 (89.2)
35.0 (95)
36.2 (97.2)
38.2 (100.8)
38.9 (102)
39.7 (103.5)
39.3 (102.7)
38.6 (101.5)
36.8 (98.2)
34.3 (93.7)
31.5 (88.7)
39.7 (103.5)
平均 へいきん 最高 さいこう 気温 きおん °C (°F )
19.6 (67.3)
20.7 (69.3)
22.9 (73.2)
26.7 (80.1)
30.1 (86.2)
32.9 (91.2)
35.0 (95)
34.4 (93.9)
31.6 (88.9)
27.8 (82)
24.9 (76.8)
21.1 (70)
27.3 (81.1)
日 にち 平均 へいきん 気温 きおん °C (°F )
16.6 (61.9)
17.2 (63)
19.0 (66.2)
22.5 (72.5)
25.8 (78.4)
28.3 (82.9)
30.1 (86.2)
29.7 (85.5)
27.8 (82)
24.7 (76.5)
22.0 (71.6)
18.2 (64.8)
23.49 (74.29)
平均 へいきん 最低 さいてい 気温 きおん °C (°F )
14.4 (57.9)
14.7 (58.5)
16.2 (61.2)
19.4 (66.9)
22.8 (73)
25.3 (77.5)
26.8 (80.2)
26.6 (79.9)
25.2 (77.4)
22.6 (72.7)
19.8 (67.6)
16.1 (61)
20.8 (69.4)
最低 さいてい 気温 きおん 記録 きろく °C (°F )
−0.1 (31.8)
−0.2 (31.6)
1.4 (34.5)
4.7 (40.5)
10.0 (50)
15.6 (60.1)
19.5 (67.1)
18.9 (66)
13.5 (56.3)
10.2 (50.4)
1.1 (34)
1.8 (35.2)
−0.2 (31.6)
降水 こうすい 量 りょう mm (inch)
93.8 (3.693)
129.4 (5.094)
157.8 (6.213)
151.4 (5.961)
245.2 (9.654)
354.6 (13.961)
214.2 (8.433)
336.5 (13.248)
336.8 (13.26)
162.6 (6.402)
89.3 (3.516)
96.9 (3.815)
2,368.5 (93.25)
平均 へいきん 降水 こうすい 日数 にっすう (≥0.1 mm)
13.6
12.0
14.1
14.5
14.5
15.7
11.8
14.6
13.8
12.8
12.5
13.1
163
% 湿度 しつど
77.2
77.8
76.1
74.9
74.7
75.3
70.2
72.1
73.9
74.4
75.0
75.9
74.8
平均 へいきん 月間 げっかん 日照 ひでり 時間 じかん
76.1
79.3
95.1
96.9
113.6
114.8
176.9
182.8
151.7
114.7
93.3
78.6
1,373.8
出典 しゅってん :中華民国 ちゅうかみんこく 交通 こうつう 部 ぶ 中央 ちゅうおう 氣象 きしょう 局 きょく (平均 へいきん 値 ち :1991年 ねん – 2020年 ねん 、極 きょく 値 ち :1896年 ねん – 現在 げんざい )[ 3]
初代 しょだい 台北 たいぺい 市 し 章 あきら (1920年 ねん - 1981年 ねん )
1920年 ねん - 日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい の行政 ぎょうせい 区域 くいき 改革 かいかく が実施 じっし され、艋舺 ・大稲 おおいね 埕 ・城内 きうち の3市街 しがい を基礎 きそ に、台北 たいぺい 庁 ちょう 直轄 ちょっかつ の艋舺区 く ・大稲 おおいね 埕区・大龍 おおたつ 峒区・古 こ 亭 ちん 村荘 そんそう 区 く が合併 がっぺい し、台北 たいぺい 州 しゅう 台北 たいぺい 市 し が設置 せっち される。
1938年 ねん - 台北 たいぺい 州 しゅう 七星 ななえ 郡 ぐん 松山 まつやま 庄 しょう を編入 へんにゅう 。
1945年 ねん - 中華民国 ちゅうかみんこく 国民 こくみん 政府 せいふ による台湾 たいわん 光 こう 復 ふく 後 ご 、台北 たいぺい 市 し は台湾 たいわん 省 しょう 行政 ぎょうせい 長官 ちょうかん 公 おおやけ 署 しょ の管轄 かんかつ 下 か の省 しょう 轄市 (現在 げんざい の市 し )となる。
1946年 ねん (10区 く )
文武 ぶんぶ 町 まち ・書院 しょいん 町 まち ・乃木 のぎ 町 まち ・栄 さかえ 町 まち ・大和 やまと 町 まち ・京町 きょうまち ・本町 ほんまち ・表 おもて 町 まち ・明石 あかし 町 まち ・北門 きたもん 町 まち ・樺山 かばやま 町 まち ・幸 さいわい 町 まち ・東門 ひがしもん 町 まち ・旭 あさひ 町 まち ・末広 すえひろ 町 まち ・寿 ことぶき 町 まち ・築地 つきじ 町 まち ・浜町 はまちょう の区域 くいき をもって、城中 じょうちゅう 区 く を設置 せっち 。
大橋 おおはし 町 まち 1丁目 ちょうめ ・永楽 えいらく 町 まち ・太平 おうひら 町 まち 1~6丁目 ちょうめ ・日新 にっしん 町 まち ・泉町 いずみちょう ・港 みなと 町 まち の区域 くいき をもって、延 のべ 平 たいら 区 く を設置 せっち 。
建 たて 成町 なるまち ・上 うえ 奎府町 まち ・下 しも 奎府町 まち の区域 くいき をもって、建 たて 成 しげる 区 く を設置 せっち 。
大龍 おおたつ 峒町・蓬莱 ほうらい 町 まち ・太平 おうひら 町 まち 7~9丁目 ちょうめ ・大橋 おおはし 町 まち 2~4丁目 ちょうめ ・河合 かわい 町 まち の区域 くいき をもって、大 だい 同区 どうく を設置 せっち 。
大正 たいしょう 町 まち ・三橋 みつはし 町 まち ・御成 おなり 町 まち ・宮前 みやまえ 町 まち ・円山 まるやま 町 まち ・大宮 おおみや 町 まち 、大字 だいじ 大 だい 直 ただし ・西新 にしじん 庄子 しょうこ ・中 なか 庄子 しょうこ ・下 しも 埤頭・朱 しゅ 厝崙・上 うえ 埤頭の区域 くいき をもって、中山 ちゅうざん 区 く を設置 せっち 。
錦 にしき 町 まち ・福住 ふくすみ 町 まち ・昭和 しょうわ 町 まち 、大字 だいじ 大安 たいあん ・下 した 内 ない 埔・六 ろく 張 ちょう 犁の区域 くいき をもって、大安 だいあん 区 く を設置 せっち 。
新栄 しんえい 町 まち ・千歳 ちとせ 町 まち ・児玉 こだま 町 まち ・佐久間 さくま 町 まち ・南 みなみ 門 かど 町 まち ・龍口 りゅうぐち 町 まち ・馬場 うまば 町 まち ・川端 かわばた 町 まち ・古 こ 亭 ちん 町 まち ・水道 すいどう 町 まち ・富田 とみた 町 まち の区域 くいき をもって、古 こ 亭 ちん 区 く を設置 せっち 。
八甲 はっこう 町 まち ・老松 おいまつ 町 まち ・若竹 わかたけ 町 まち ・新 しん 起 おこし 町 まち ・西門 にしもん 町 まち ・元 もと 園 その 町 まち ・入船 にゅうせん 町 まち ・有明 ありあけ 町 まち ・龍山 たつやま 寺町 てらまち ・新富 しんとみ 町 まち の区域 くいき をもって、龍山 たつやま 区 く を設置 せっち 。
東園 ひがしぞの 町 まち ・西園 にしぞの 町 まち ・堀江 ほりえ 町 まち ・緑町 みどりちょう ・柳 やなぎ 町 まち の区域 くいき をもって、双 そう 園 その 区 く を設置 せっち 。
大字 だいじ 松山 まつやま ・頂 いただき 東勢 ひがしせい ・下 した 塔 とう 悠 ゆう ・上 うえ 塔 とう 悠 ゆう ・旧 きゅう 里 さと 族 ぞく ・中 ちゅう 坡・五 ご 分 ふん 埔・三 さん 張 ちょう 犁・興 おき 雅 みやび ・中 ちゅう 崙の区域 くいき をもって、松山 まつやま 区 く を設置 せっち 。
1967年 ねん 7月 がつ 1日 にち - 省 しょう 轄市から直轄 ちょっかつ 市 し へ昇格 しょうかく 。(10区 く )
1968年 ねん 7月 がつ 1日 にち - 台北 たいぺい 県 けん 景 けい 美 び 鎮・南港 なんこう 鎮・木柵 もくさく 郷 きょう ・内 うち 湖 こ 郷 きょう 、台北 たいぺい 県 けん 陽明 ようめい 山 さん 管理 かんり 局 きょく 士 し 林 りん 鎮・北 きた 投 とう 鎮を編入 へんにゅう 。(16区 く )
1990年 ねん 3月12日 にち - 台北 たいぺい 市 し の行政 ぎょうせい 区域 くいき 調整 ちょうせい が実施 じっし され、16区 く を12区 く に統合 とうごう 。(12区 く )
龍山 たつやま 区 く ・双 そう 園 その 区 く および城中 じょうちゅう 区 く ・古 こ 亭 ちん 区 く の各 かく 一部 いちぶ が合併 がっぺい し、万 まん 華 はな 区 く が発足 ほっそく 。
城中 じょうちゅう 区 く の残部 ざんぶ ・古 こ 亭 ちん 区 く の一部 いちぶ が合併 がっぺい し、中正 ちゅうせい 区 く が発足 ほっそく 。
景 けい 美 び 区 く ・木柵 もくさく 区 く が合併 がっぺい し、文 ぶん 山 やま 区 く が発足 ほっそく 。
建 たて 成 しげる 区 く ・延 のべ 平 たいら 区 く が大 だい 同区 どうく に編入 へんにゅう 。
松山 まつやま 区 く の一部 いちぶ が分立 ぶんりつ し、信義 しんぎ 区 く となる。
古 こ 亭 ちん 区 く の残部 ざんぶ が大安 だいあん 区 く に編入 へんにゅう 。
日本 にっぽん 時代 じだい 台北 たいぺい 市 し の町名 ちょうめい 一覧 いちらん [ 編集 へんしゅう ]
景 けい 福 ぶく 門 もん
台北 たいぺい はもともと平 ひら 埔族と呼 よ ばれる原住民 げんじゅうみん (ケタガラン族 ぞく )の住 す む土地 とち であったが、明 あきら 代 だい の初 はじ め頃 ごろ より漢 かん 民族 みんぞく が居住 きょじゅう するようになった。大 だい 航海 こうかい 時代 じだい になると、オランダ の統治 とうち が及 およ んでいなかった台北 たいぺい 市 し 郊外 こうがい にある淡水 たんすい にスペイン が要塞 ようさい を作 つく り、一時期 いちじき スペインの活動 かつどう 拠点 きょてん の一 ひと つとなった。1662年 ねん 、鄭 てい 成功 せいこう はオランダ勢力 せいりょく を台湾 たいわん より駆逐 くちく し、台湾 たいわん 北部 ほくぶ に進出 しんしゅつ したが、基 もと 隆 たかし や淡水 たんすい を拠点 きょてん としたに過 す ぎなかった。
龍山 たつやま 寺 てら
1683年 ねん に清 きよし による台湾 たいわん 統治 とうち が開始 かいし されても、清 きよし 政府 せいふ は「化 か 外 がい の地 ち 」として台湾 たいわん 島 とう への渡航 とこう 自体 じたい を制限 せいげん し、当初 とうしょ は台北 たいぺい が開発 かいはつ されることはなかった。やがてうやむやのうちに制限 せいげん は解除 かいじょ され、漢 かん 民族 みんぞく の移住 いじゅう は活発 かっぱつ 化 か し、台北 たいぺい は「一 いち 府 ふ 二鹿 ふたしか 三 さん 艋舺」と三 さん 大都市 だいとし の一 ひと つに数 かぞ えられるほど栄 さか えるようになった。「府 ふ 」とは清朝 せいちょう 統治 とうち の中心 ちゅうしん であった台 たい 南 みなみ 、「鹿 しか 」とは台湾 たいわん 中部 ちゅうぶ の鹿 しか 港 こう 、艋舺 とは台北 たいぺい (厳密 げんみつ には現在 げんざい の万 まん 華 はな 地区 ちく 周辺 しゅうへん の古称 こしょう )のことである。字 じ が示 しめ すように、元々 もともと 台北 たいぺい は水運 すいうん から発達 はったつ した。
台 たい 南 みなみ と比 くら べると都市 とし 形成 けいせい の点 てん で後進 こうしん 的 てき であった台北 たいぺい であるが清末 きよすえ には都市 とし 化 か が進行 しんこう し、1875年 ねん には清 きよし 政府 せいふ による台北 たいぺい 府 ふ の設置 せっち と台北 たいぺい 城 じょう の建設 けんせつ が始 はじ まった。1882年 ねん に方形 ほうけい の城壁 じょうへき が張 は り巡 めぐ らされ、1885年 ねん には台湾 たいわん 省 しょう が設置 せっち されて台北 たいぺい はその省 しょう 都 と となるなど台北 たいぺい は中国 ちゅうごく 的 てき 近代 きんだい 都市 とし として成長 せいちょう を遂 と げた。巡 じゅん 撫 なで として派遣 はけん された劉 りゅう 銘 めい 伝 でん は電灯 でんとう 、電報 でんぽう 、鉄道 てつどう などのインフラを整備 せいび し、また都市 とし 整備 せいび のため大陸 たいりく の商人 しょうにん 資本 しほん を集 あつ めて興 おき 市 し 公司 こうし を設立 せつりつ するなどの政策 せいさく を次々 つぎつぎ と遂行 すいこう し、ここに「清国 きよくに 人 じん の都市 とし としての」台北 たいぺい は着々 ちゃくちゃく と発展 はってん していった。現在 げんざい 台北 たいぺい 市 し の行政 ぎょうせい 区 く を囲 かこ むように点在 てんざい する四 よっ つの城門 じょうもん は、当時 とうじ を偲 しの ばせるものであるが、福建 ふっけん 様式 ようしき の一 ひと つを除 のぞ いた残 のこ りの門 もん は国民 こくみん 政府 せいふ 以降 いこう に作 つく られたため北京 ぺきん 様式 ようしき である。
しかしながら、日 にち 清 しん 戦争 せんそう 敗北 はいぼく によって清国 きよくに が台湾 たいわん 割譲 かつじょう を余儀 よぎ なくされるとこうした流 なが れは一転 いってん し、台北 たいぺい は日本 にっぽん 的 てき 近代 きんだい 都市 とし として新 あら たな成長 せいちょう 期 き を迎 むか えることとなった。
台湾 たいわん 総督 そうとく 府 ふ 庁舎 ちょうしゃ (現 げん :総統 そうとう 府 ふ )
1895年 ねん に日本 にっぽん による統治 とうち が始 はじ まると、日本 にっぽん は独立 どくりつ 派 は の勢力 せいりょく が強 つよ く、日本 にっぽん からも遠 とお い台 だい 南 みなみ を嫌 きら って台北 たいぺい に台湾 たいわん 総督 そうとく 府 ふ を設置 せっち 、台北 たいぺい の本格 ほんかく 的 てき 発展 はってん はこの時点 じてん から始 はじ まった。初代 しょだい 民政 みんせい 長官 ちょうかん に就任 しゅうにん した後藤 ごとう 新平 しんぺい は、清朝 せいちょう が築 きず いた市街 しがい の城壁 じょうへき を撤去 てっきょ 、街路 がいろ を建設 けんせつ し、また上下水道 じょうげすいどう を整備 せいび するなど近代 きんだい 都市 とし 建設 けんせつ を進 すす めた。1901年 ねん に台風 たいふう 被害 ひがい があり、在来 ざいらい 建造 けんぞう 物 ぶつ が壊滅 かいめつ 的 てき 被害 ひがい を受 う けると、それを機 き に中国 ちゅうごく 式 しき 建築 けんちく が一掃 いっそう されて代 か わりにレンガ造 づく り・石造 いしづく りの官庁 かんちょう ・学校 がっこう ・銀行 ぎんこう ・会社 かいしゃ などが林立 りんりつ し、市街 しがい の光景 こうけい を一変 いっぺん させた。その後 ご も市域 しいき の拡大 かくだい や周辺 しゅうへん 農地 のうち の治水 ちすい ・開墾 かいこん が進 すす められ、日本 にっぽん 本土 ほんど からの移住 いじゅう 者 しゃ も多数 たすう にのぼった。さらに経済 けいざい 的 てき にも軽工業 けいこうぎょう や農産物 のうさんぶつ の生産 せいさん などにより次第 しだい に影響 えいきょう 力 りょく を強 つよ めた。このような中 なか 、市民 しみん 生活 せいかつ も豊 ゆた かになり西門 にしもん 町 まち では数 すう 多 おお くの映画 えいが 館 かん が立 た ち並 なら び、また台北 たいぺい 郊外 こうがい の北 きた 投 とう 温泉 おんせん は、日本 にっぽん 有数 ゆうすう の温泉 おんせん 地 ち として整備 せいび され台湾 たいわん の内外 ないがい から多 おお くの湯治 とうじ 客 きゃく ・観光 かんこう 客 きゃく を集 あつ め、1923年 ねん には皇太子 こうたいし 裕仁 ひろひと 親王 しんのう (のちの昭和 しょうわ 天皇 てんのう )も行啓 ぎょうけい した(天皇 てんのう が来訪 らいほう した温泉 おんせん 場 じょう も現存 げんそん する)。このように日本 にっぽん 統治 とうち 下 か において台北 たいぺい は台湾 たいわん の政治 せいじ ・経済 けいざい ・観光 かんこう ・軍事 ぐんじ の中心 ちゅうしん 地 ち として栄 さか えた。
太平洋戦争 たいへいようせんそう (大 だい 東亜 とうあ 戦争 せんそう )が始 はじ まると、台湾 たいわん は南進 なんしん 基地 きち として利用 りよう され、台北 たいぺい には内地 ないち からの軍隊 ぐんたい が往来 おうらい するようになった。それを狙 ねら って米 べい 軍 ぐん による空爆 くうばく も開始 かいし され、市民 しみん は疎開 そかい を余儀 よぎ なくされた。
2017年 ねん 台北 たいぺい 市 し の夜景 やけい 。
日本 にっぽん の降伏 ごうぶく 後 ご 、蔣介石 せき 率 ひき いる中華民国 ちゅうかみんこく 国民 こくみん 政府 せいふ が台湾 たいわん を接収 せっしゅう (台湾 たいわん 光 こう 復 ふく )し、国民 こくみん 革命 かくめい 軍 ぐん (中国 ちゅうごく 国民党 こくみんとう 軍 ぐん )が駐留 ちゅうりゅう するようになった。大戦 たいせん 後 ご 、日本人 にっぽんじん が引 ひ き上 あ げ る代 か わりに国民党 こくみんとう が兵士 へいし やその家族 かぞく を引 ひ き連 つ れて居留 きょりゅう したため、台北 たいぺい の人口 じんこう は一気 いっき に跳 は ね上 あ がった。国民党 こくみんとう は中華 ちゅうか 文化 ぶんか を称揚 しょうよう する政策 せいさく をとり、台北 たいぺい の日本 にっぽん 建築 けんちく は中華 ちゅうか 式 しき のものに立 た て替 か えられたり、中 なか 正紀 まさき 念 ねん 堂 どう や国立 こくりつ 故 こ 宮 みや 博物 はくぶつ 院 いん 、円山 まるやま 大 だい 飯店 はんてん などの中華 ちゅうか 様式 ようしき のモニュメント的 てき 建築 けんちく が建 た てられた。栄 さかえ 町 まち ・旭 あさひ 町 まち 、勅使 ちょくし 街道 かいどう などの日本 にっぽん 式 しき の名前 なまえ を持 も っていた町 まち や通 どお りも、中 ちゅう 山路 やまじ ・民族 みんぞく 路 ろ などの中華 ちゅうか 式 しき のものに改 あらた められた。
その後 ご 、中華民国 ちゅうかみんこく 国軍 こくぐん が国共 こっきょう 内戦 ないせん で人民 じんみん 解放 かいほう 軍 ぐん (中国共産党 ちゅうごくきょうさんとう 軍 ぐん )に敗 やぶ れ、中華民国 ちゅうかみんこく が中国 ちゅうごく 大陸 たいりく を失 うしな うと、大陸 たいりく にある南京 なんきん 市 し の代替 だいたい 地 ち として台北 たいぺい に戦時 せんじ 首都 しゅと [ 4] (臨時 りんじ 首都 しゅと )が置 お かれた(時期 じき は不明 ふめい だが、後 のち に臨時 りんじ という扱 あつか いではなくなる)。
国民党 こくみんとう は開発 かいはつ 独裁 どくさい を敷 し き、軍事 ぐんじ や経済 けいざい 発展 はってん を優先 ゆうせん したため、台湾 たいわん 経済 けいざい は飛躍 ひやく 的 てき に発展 はってん し、中心 ちゅうしん 地 ち である台北 たいぺい も人口 じんこう 増 ぞう が相次 あいつ いだ。だが、民生 みんせい は後回 あとまわ しにされていたため、台北 たいぺい の交通 こうつう 渋滞 じゅうたい や公害 こうがい 問題 もんだい は悪化 あっか していった。それを解決 かいけつ するために台北 たいぺい 駅 えき の地下 ちか 化 か 、地下鉄 ちかてつ 建設 けんせつ 、排気 はいき 規制 きせい などが計画 けいかく されたが、ほとんど実行 じっこう されなかった。
これらの政策 せいさく が実行 じっこう に移 うつ されるようになったのは、民主 みんしゅ 化 か の進 すす んだ1990年代 ねんだい 前後 ぜんご からであり、台北 たいぺい の都市 とし 環境 かんきょう は飛躍 ひやく 的 てき に整備 せいび されるようになった。
IT経済 けいざい 化 か 、さらにバイオなどの知識 ちしき 集約 しゅうやく 経済 けいざい 化 か を進 すす める台湾 たいわん では、台北 たいぺい を中心 ちゅうしん とした地域 ちいき の重要 じゅうよう 性 せい がさらに高 たか まっている。しかし、台北 たいぺい 市内 しない には余剰 よじょう 空間 くうかん が不足 ふそく しているため都市 とし の発展 はってん は周辺 しゅうへん 部 ぶ に波及 はきゅう し、台北 たいぺい 都市 とし 圏 けん を形成 けいせい している。特 とく に台北 たいぺい から新北 しんきた 市 し 板橋 いたばし 区 く 、台湾 たいわん 桃園 ももぞの 国際 こくさい 空港 くうこう へ至 いた る回廊 かいろう は人口 じんこう が密集 みっしゅう し、移動 いどう 人数 にんずう に対処 たいしょ するため台北 たいぺい 捷 とし 運 うん 各線 かくせん や桃園 ももぞの 機 き 場 じょう 捷 とし 運 うん が運行 うんこう しているほか、追加 ついか の路線 ろせん も建設 けんせつ または計画 けいかく されている。2015年 ねん までの台北 たいぺい 大都市 だいとし 圏 けん (台北 たいぺい 市 し 、新北 しんきた 市 し 、基 もと 隆 たかし 市 し )の人口 じんこう は704万 まん 人 にん を数 かぞ え、香港 ほんこん と同 どう 規模 きぼ の都市 とし 圏 けん を形成 けいせい している。日本 にっぽん の民間 みんかん 研究所 けんきゅうじょ が2016年 ねん に発表 はっぴょう した「世界 せかい の都市 とし 総合 そうごう 力 りょく ランキング」では、世界 せかい 33位 い と評価 ひょうか された[ 5] 。また、アメリカのシンクタンク が2016年 ねん に発表 はっぴょう した世界 せかい 都市 とし ランキングにおいて、世界 せかい 43位 い と評価 ひょうか された[ 6] 。
また、台北 たいぺい 市 し 南部 なんぶ には台湾 たいわん に出稼 でかせ ぎにきたフィリピン ・ミャンマー 人 ひと らが密集 みっしゅう して居住 きょじゅう する地域 ちいき が存在 そんざい している。これらの地域 ちいき は従来 じゅうらい 交通 こうつう 不便 ふべん 地 ち であったが、交通 こうつう インフラの整備 せいび により急速 きゅうそく にベッドタウン化 か が進 すす んでいる。
2006年 ねん には高 こう 雄市 ゆういち との間 あいだ の高速 こうそく 鉄道 てつどう の完成 かんせい に伴 ともな い、それまで工業 こうぎょう 都市 とし として発展 はってん していた高雄 たかお 地区 ちく が工場 こうじょう の海外 かいがい 移転 いてん 及 およ び脱 だつ 工業 こうぎょう 化 か にともない産業 さんぎょう が空洞 くうどう 化 か したことで、高雄 たかお 都市 とし 圏 けん の人口 じんこう を吸収 きゅうしゅう する可能 かのう 性 せい も指摘 してき されている。2009年 ねん には台北 たいぺい デフリンピックも開催 かいさい され、台湾 たいわん で初 はつ の国際 こくさい 総合 そうごう スポーツ大会 たいかい となった。
歴代 れきだい 市長 しちょう
台北 たいぺい 市役所 しやくしょ (現 げん 行政 ぎょうせい 院 いん )
台北 たいぺい 市 し 尹 いん (1920年 ねん )
台北 たいぺい 市長 しちょう (1940年 ねん )
台北 たいぺい 市庁 しちょう (台北 たいぺい 市 し 政府 せいふ )
官選 かんせん 省 しょう 轄市長 しちょう
民選 みんせん 省 しょう 轄市長 しちょう
官選 かんせん 直轄 ちょっかつ 市長 しちょう
民選 みんせん 直轄 ちょっかつ 市長 しちょう
アジア・大洋 たいよう 州 しゅう
北米 ほくべい
中南米 ちゅうなんべい
欧州 おうしゅう
中東 ちゅうとう ・アフリカ
内 うち 湖 みずうみ 科学 かがく 技術 ぎじゅつ 園 その 区 く
台北 たいぺい 市 し は台湾 たいわん 経済 けいざい の中 なか で金融 きんゆう 、メディア、通信 つうしん の中心 ちゅうしん 地 ち としての地位 ちい を占 し めている。2011年 ねん 9月、英国 えいこく のシンクタンク のZ/Yenグループにより、世界 せかい 第 だい 23位 い の国際 こくさい 金融 きんゆう センター と評価 ひょうか されている[ 9] 。産業 さんぎょう 方面 ほうめん では経済 けいざい の急速 きゅうそく な発展 はってん により市民 しみん の所得 しょとく が増大 ぞうだい し、高 たか い消費 しょうひ 能力 のうりょく とそれに付随 ふずい する産業 さんぎょう の発展 はってん が特徴 とくちょう であり、サービス業 ぎょう などの第 だい 三 さん 次 じ 産業 さんぎょう が台北 たいぺい 経済 けいざい の9割 わり を占 し めるようになっている。その中 なか には卸売 おろしう り、小売 こうり 、貿易 ぼうえき 、飲食 いんしょく 、金融 きんゆう サービス、物流 ぶつりゅう サービス、通信 つうしん 事業 じぎょう 、インターネット関連 かんれん 、そしてSOHOを含 ふく んでおり、特 とく に小売 こうり 業 ぎょう では人口 じんこう 当 あ たりのコンビニの店舗 てんぽ 数 すう が世界一 せかいいち となっている。また台北 たいぺい 市 し のテクノロジー関連 かんれん でも整備 せいび が進 すす み情報 じょうほう ハイウェイ(資 し 訊高速 そく 公 おおやけ 路 ろ 、 Information Infrastructure )を目指 めざ す台湾 たいわん のコンピューター通信 つうしん 網 もう は世界 せかい でも先端 せんたん の設備 せつび 率 りつ を有 ゆう している。
博愛 はくあい 特区 とっく
台北 たいぺい で最 もっと も高 たか い超 ちょう 高層 こうそう 建築 けんちく である台北 たいぺい 101
台北 たいぺい には1900年代 ねんだい より多 おお くの日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい の建築 けんちく が残 のこ されている。その中 なか でも特 とく に、台北 たいぺい の中心 ちゅうしん 地 ち にあり、台湾 たいわん の政治 せいじ ・経済 けいざい の中枢 ちゅうすう を担 にな う中央 ちゅうおう 官衙 かんが (中正 ちゅうせい 区 く ないし博愛 はくあい 特区 とっく )は、総統 そうとう 府 ふ (旧 きゅう 台湾 たいわん 総督 そうとく 府 ふ )、台北 たいぺい 賓 まろうど 館 かん (旧 きゅう 台湾 たいわん 総督 そうとく 官邸 かんてい )、司法 しほう 院 いん (旧 きゅう 総督 そうとく 府 ふ 高等法院 こうとうほういん )、監察 かんさつ 院 いん (旧 きゅう 台北 たいぺい 州 しゅう 庁 ちょう )、台湾 たいわん 銀行 ぎんこう などが立 た ち並 なら びコロニアル 調 しらべ の風情 ふぜい を感 かん じさせる建築 けんちく 群 ぐん として知 し られており、台北 たいぺい のシンボルにもなっている。
他 ほか にも多 おお くの日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい の建築 けんちく が点在 てんざい している。1920年代 ねんだい の日本人 にっぽんじん の住宅 じゅうたく 地 ち である「昭和町 しょうわちょう 」(現 げん ・青田 あおた 街 がい )の日本 にっぽん 家屋 かおく も残 のこ っている。都市 とし 化 か が進 すす むなか貴重 きちょう な文化 ぶんか 資産 しさん として、残存 ざんそん するおよそ60棟 むね のうち10棟 むね ほどが文芸 ぶんげい 施設 しせつ やレストランとして改築 かいちく され保存 ほぞん されている[ 10] 。市内 しない 郊外 こうがい の北 きた 投 とう 温泉 おんせん 街 がい も日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい の建築 けんちく 群 ぐん の一 いち 例 れい である。士 し 林 りん 夜市 やじ の近 ちか くには台北 たいぺい 市内 しない 現存 げんそん する唯一 ゆいいつ の神社 じんじゃ の円山 まるやま 水神 すいじん 社 しゃ も残 のこ っている。
一方 いっぽう 、台北 たいぺい 市 し の東部 とうぶ にある信義 しんぎ 区 く の副 ふく 都心 としん は、高層 こうそう ビルや商業 しょうぎょう 施設 しせつ が立 た ち並 なら び、急速 きゅうそく に発展 はってん を遂 と げる地区 ちく である。台北 たいぺい 市 し 政府 せいふ が移転 いてん し、2004年 ねん 完成 かんせい の台北 たいぺい 101 を中心 ちゅうしん とする新 あたら しい高層 こうそう ビル群 ぐん が立 た ち並 なら び、国際 こくさい 都市 とし としてインフラ整備 せいび が実施 じっし されている。台北 たいぺい 101は、2004年 ねん に当時 とうじ 世界 せかい 第 だい 1位 い の高 たか さとなる超 ちょう 高層 こうそう ビル (地上 ちじょう 492m、階数 かいすう 101階 かい )として完成 かんせい し、地上 ちじょう 449mの高 たか さにある91階 かい には屋外 おくがい 展望 てんぼう 台 だい がある。
中国 ちゅうごく との関係 かんけい 改善 かいぜん が進 すす むに連 つ れて、中国 ちゅうごく からの投資 とうし 資金 しきん が流入 りゅうにゅう し、住宅 じゅうたく 価格 かかく が高騰 こうとう している。一般人 いっぱんじん の年収 ねんしゅう の約 やく 15倍 ばい に達 たっ しており、住民 じゅうみん の年収 ねんしゅう 比 ひ での住宅 じゅうたく 価格 かかく は世界一 せかいいち との指摘 してき もある。2013年 ねん の住宅 じゅうたく 価格 かかく は、2003年 ねん の倍 ばい にのぼる[ 11] 。
2006年 ねん 3月 がつ 現在 げんざい 、15歲 さい 以上 いじょう の民間 みんかん 人口 じんこう は約 やく 213万 まん 、実質 じっしつ 労働 ろうどう 人口 じんこう は118万 まん 6千 せん である。就業 しゅうぎょう 者 しゃ 数 すう は114万 まん 、失業 しつぎょう 者 しゃ 数 すう は4万 まん 7千 せん であり、失業 しつぎょう 率 りつ は3.9%である。また外国 がいこく 人 じん 労働 ろうどう 者 しゃ はいわゆるホワイトカラーが約 やく 2万 まん 9千 せん 人 にん 、ブルーカラーが4万 まん 3千 せん 人 にん 就業 しゅうぎょう している。
台北 たいぺい 市 し に本部 ほんぶ を置 お く大学 だいがく
台湾 たいわん 大学 だいがく
台湾 たいわん 師範 しはん 大学 だいがく
各区 かっく の教育 きょういく 欄 らん を参照 さんしょう の事 こと
松山 まつやま 空港 くうこう
台北 たいぺい 市内 しない の都心 としん 部 ぶ に近 ちか い松山 まつやま 区 く に台北 たいぺい 松山 まつやま 空港 くうこう (松山 まつやま 機 き 場 じょう )が存在 そんざい する。ある。1979年 ねん の中正 ちゅうせい 国際 こくさい 空港 くうこう (現 げん 桃園 ももぞの 国際 こくさい 空港 くうこう )開港 かいこう 以降 いこう は、中華民国 ちゅうかみんこく の国内線 こくないせん 専用 せんよう 空港 くうこう として運用 うんよう されてきたが、2010年 ねん に再 さい 国際 こくさい 化 か し、日本 にっぽん の羽田空港 はねだくうこう との間 あいだ に定期 ていき 便 びん が就航 しゅうこう した。都心 としん 部 ぶ との距離 きょり が近 ちか いため、都心 としん 部 ぶ との交通 こうつう 手段 しゅだん として台北 たいぺい 捷 とし 運内 うんない 湖 こ 線 せん がターミナル直下 ちょっか に乗 の り入 い れるほか、路線 ろせん バスやタクシーなどの連絡 れんらく 手段 しゅだん も利用 りよう される。また、近郊 きんこう の基 もと 隆 たかし 市 し 、桃園 ももぞの 市 し 桃園 ももぞの 区 く 、中 ちゅう 壢区 への高速 こうそく バスや、桃園 ももぞの 国際 こくさい 空港 くうこう へのリムジンバスも運行 うんこう されている。
台北 たいぺい 松山 まつやま 空港 くうこう 発着 はっちゃく 以外 いがい の多 おお くの国際線 こくさいせん は桃園 ももぞの 市 し 大園 おおぞの 区 く にある桃園 ももぞの 国際 こくさい 空港 くうこう が最寄 もよ りとなる。台北 たいぺい 市 し との連絡 れんらく 手段 しゅだん は、高速 こうそく 道路 どうろ 1号 ごう 経由 けいゆ のリムジンバスとタクシーに限 かぎ られていたが、2017年 ねん に空港 くうこう と台北 たいぺい 市内 しない を連絡 れんらく する桃園 ももぞの 捷 とし 運 うん 機 き 場 じょう 線 せん が開業 かいぎょう し、台北 たいぺい 駅 えき から35分 ぶん のアクセスとなり、連絡 れんらく 状 じょう 況 きょう が向上 こうじょう した。
台北 たいぺい 駅 えき 、台湾 たいわん 鉄路 てつろ 管理 かんり 局 きょく の本部 ほんぶ が設置 せっち されている
台北 たいぺい は台湾 たいわん の鉄道 てつどう の発祥 はっしょう の地 ち であり、清 しん 代 だい には大稲 おおいね 埕から基 もと 隆 たかし 及 およ び新 しん 竹 たけ 間 あいだ での運行 うんこう がされていた。日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい には清 しん 代 だい の鉄道 てつどう 路線 ろせん を変更 へんこう し、今 いま の萬 まん 華 はな ・板橋 いたばし を経由 けいゆ した。また、台北 たいぺい 市内 しない に市電 しでん を建設 けんせつ する計画 けいかく もあったが、財政難 ざいせいなん のため計画 けいかく のみで中止 ちゅうし されている。
プラットホーム(台北 たいぺい 駅 えき )
台北 たいぺい と高雄 たかお とを結 むす ぶ高速 こうそく 鉄道 てつどう 。日本 にっぽん の新幹線 しんかんせん 技術 ぎじゅつ が導入 どうにゅう され、台北 たいぺい ・高雄 たかお 間 あいだ の345kmを最高 さいこう 速度 そくど 300km/h、所要 しょよう 時間 じかん 約 やく 1時 じ 間 あいだ 30分 ふん で結 むす んでいる。
台 たい 鉄 てつ 縦貫 じゅうかん 線 せん
台湾 たいわん 鉄路 てつろ 管理 かんり 局 きょく の縦貫 じゅうかん 線 せん は南港 なんこう 駅 えき 、松山 まつやま 駅 えき 、台北 たいぺい 駅 えき 、万 まん 華 はな 駅 えき の4駅 えき が市内 しない に設 もう けられており、その中 なか でも台北 たいぺい 駅 えき は台湾 たいわん 交通 こうつう の中心 ちゅうしん 地 ち の一 ひと つとなっている。市内 しない の台 たい 鉄 てつ の線路 せんろ は、慢性 まんせい 的 てき な渋滞 じゅうたい 解消 かいしょう のため、すべて地下 ちか 化 か が完了 かんりょう している。
以前 いぜん は、台北 たいぺい 駅 えき より分岐 ぶんき する淡水 たんすい 線 せん 及 およ び万 まん 華 はな 駅 えき より分岐 ぶんき する新店 しんてん 線 せん があったが、淡水 たんすい 線 せん は1988年 ねん に捷 とし 運 うん (台北 たいぺい 捷 とし 運 うん 淡水 たんすい 線 せん )の転換 てんかん 工事 こうじ のため廃止 はいし 、新店 しんてん 線 せん は巨額 きょがく の累積 るいせき 赤字 あかじ に加 くわ え道路 どうろ 拡張 かくちょう 工事 こうじ の必要 ひつよう 性 せい から1965年 ねん に廃止 はいし されている。
淡水 たんすい 線 せん
板橋 いたばし 線 せん ・西門 にしもん 駅 えき
台湾 たいわん で初 はじ めて整備 せいび された捷 とし 運 うん システム (MRT, Mass Rapid Transit ) であり、新北 しんきた 市 し と連絡 れんらく し、台北 たいぺい 都市 とし 圏 けん の交通 こうつう の基幹 きかん となっている。現在 げんざい 開通 かいつう している路線 ろせん は下記 かき の通 とお り:
路線 ろせん 一覧 いちらん
台北 たいぺい 捷 とし 運 うん 路線 ろせん 図 ず
桃園 ももぞの 国際 こくさい 空港 くうこう と台北 たいぺい 駅 えき を35分 ふん で結 むす ぶ。
バス路線 ろせん は台北 たいぺい 市内 しない を網羅 もうら し、市内 しない 交通 こうつう の毛細血管 もうさいけっかん としての役割 やくわり を担 にな う重要 じゅうよう な交通 こうつう 機関 きかん である。渋滞 じゅうたい の影響 えいきょう を避 さ け定時 ていじ 運行 うんこう を実現 じつげん するため、市内 しない の主要 しゅよう 道路 どうろ である松江 まつえ 路 ろ 、信義 しんぎ 路 ろ 、仁愛 じんあい 路 ろ 、新生 しんせい 南 みなみ 路 ろ 、民権 みんけん 東西 とうざい 路 ろ 、南京 なんきん 東西 とうざい 路 ろ 、羅 ら 斯福路 ろ 、忠孝 ちゅうこう 東西 とうざい 路 ろ (未 み 供用 きょうよう )及 およ び敦 あつし 化 か 南北 なんぼく 路 ろ (一方 いっぽう のみの設置 せっち )にはバス専用 せんよう レーン が設置 せっち されている。市内 しない を走 はし るバスは大 おお きく下記 かき の3種類 しゅるい に分類 ぶんるい することができる。
聯 れん 営公車 しゃ
台北 たいぺい 市 し 聯 れん 営公車 しゃ 管理 かんり 処 しょ は1977年 ねん に成立 せいりつ し、台北 たいぺい 市 し 及 およ び新北 しんきた 市内 しない で運行 うんこう される聯 れん 営公車 しゃ 路線 ろせん を一元 いちげん 管理 かんり している。旧 きゅう 台北 たいぺい 市 し 公共 こうきょう 汽車 きしゃ 管理 かんり 処 しょ が会社 かいしゃ として再編 さいへん され、大 だい 都会 とかい 客 きゃく 運 うん 等 ひとし の15業者 ぎょうしゃ が共同 きょうどう あるいは個別 こべつ に路線 ろせん を経営 けいえい している。また、一部 いちぶ 市内 しない バス路線 ろせん は新北 しんきた 市 し 交通 こうつう 局 きょく により管理 かんり されており、こちらは「県 けん 管 かん 公 おおやけ 車 しゃ 」と称 しょう されている。台北 たいぺい 市民 しみん の足 あし として利用 りよう され、また、捷 とし 運 うん 交通 こうつう を補完 ほかん する役割 やくわり も担 にな っている。
地方 ちほう 客 きゃく 運 うん
聯 れん 営公車 しゃ に加盟 かめい している事業 じぎょう 者 しゃ が運行 うんこう する一部 いちぶ 路線 ろせん は交通 こうつう 部 ぶ 公 おおやけ 路 ろ 総局 そうきょく の管理 かんり とされている。また、聯 れん 営公車 しゃ に加盟 かめい していない皇 すめらぎ 家 か 客 きゃく 運 うん の路線 ろせん もこのように称 しょう されている。
中 なか ・長距離 ちょうきょり バス
国光 くにみつ 客 きゃく 運 うん や統 すべ 聯 れん 客 きゃく 運 うん など約 やく 30事業 じぎょう 主 ぬし からなる高速 こうそく バス事業 じぎょう 主 ぬし は全 すべ て台北 たいぺい に運行 うんこう 拠点 きょてん を有 ゆう している。主 おも な運行 うんこう 拠点 きょてん は、市民 しみん 大道 だいどう と重慶 たーちん 北 きた 路 ろ の交差点 こうさてん の「台北 たいぺい 転 てん 運 うん 駅 えき 」に集中 しゅうちゅう しており、国光 くにみつ 客 きゃく 運 うん は台北 たいぺい 駅 えき に隣接 りんせつ するバスターミナルを有 ゆう している。
20世紀 せいき 中 ちゅう まで淡水 たんすい 河 かわ を利用 りよう した水運 すいうん が発達 はったつ していた台北 たいぺい だが、時代 じだい の経過 けいか とともに水運 すいうん は衰退 すいたい し、現在 げんざい では淡水 たんすい 河 かわ と基 もと 隆 たかし 河 かわ に「藍色 あいいろ 公 おおやけ 路 ろ (ブルーラインバス)」と称 しょう される観光 かんこう 路線 ろせん が残 のこ るのみである。
台北 たいぺい 市 し は現在 げんざい 高速 こうそく 道路 どうろ 1号 ごう 及 およ びその高架 こうか 支線 しせん (汐止 しおとめ —五 ご 股 また 間 あいだ )、国道 こくどう 5号 ごう (蔣渭水 すい 高速 こうそく 公 おおやけ 路 ろ )台北 たいぺい 市 し から宜 むべ 蘭 あららぎ 県 けん を結 むす ぶ高速 こうそく 道路 どうろ 、そして国道 こくどう 3号 ごう (第 だい 二 に 高速 こうそく 公 おおやけ 路 ろ )及 およ びその支線 しせん である国道 こくどう 3号 ごう 甲 かぶと 線 せん (台北 たいぺい 聯絡 れんらく 線 せん )が台北 たいぺい 市 し を貫 つらぬ いて建設 けんせつ されている。また、信義 しんぎ 快速 かいそく 道路 どうろ は国道 こくどう 三甲 さんこう と信義 のぶよし 再 さい 開発 かいはつ 区 く を連絡 れんらく する主要 しゅよう 動脈 どうみゃく となっている。
これ以外 いがい に新生 しんせい 高架 こうか 道路 どうろ 、建国 けんこく 高架 こうか 道路 どうろ 、環 たまき 河南 かなん 北 きた 快速 かいそく 道路 どうろ 、水源 すいげん 快速 かいそく 道路 どうろ 、東西 とうざい 向 こう 快速 かいそく 道路 どうろ (市民 しみん 大道 だいどう )、天 てん 母 はは 快速 かいそく 道路 どうろ (堤 つつみ 頂 いただき 大道 だいどう 平面 へいめん 段 だん )、環 たまき 東大 とうだい 道 どう (国道 こくどう 3号 ごう 福 ぶく 高 だか 連結 れんけつ )及 およ び洲 しま 美 よし 快速 かいそく 道路 どうろ が台北 たいぺい 市内 しない で供用 きょうよう されている。
市民 しみん 大道 だいどう
水源 すいげん 快速 かいそく 道路 どうろ
重陽 ちょうよう 橋 きょう
人口 じんこう が集中 しゅうちゅう している台北 たいぺい では密度 みつど の高 たか い道路 どうろ 網 もう が構築 こうちく されている。1900年代 ねんだい から1980年代 ねんだい にかけて中華 ちゅうか 路 ろ 、忠孝 ちゅうこう 東路 あずまじ 、仁愛 じんあい 路 ろ 、羅 ら 斯福路 ろ 、基 もと 隆 たかし 路 ろ 等 とう の高 こう 規格 きかく 道路 どうろ が建設 けんせつ されたが、それを補完 ほかん すべき補助 ほじょ 道路 どうろ の整備 せいび が遅 おく れ、特 とく に旧 きゅう 市内 しない では極 きわ めて狭隘 きょうあい な道路 どうろ が出現 しゅつげん し、交通 こうつう 動 どう 線 せん を阻害 そがい するものとなっていた。1970年代 ねんだい 後半 こうはん より路地 ろじ に駐車 ちゅうしゃ しやすいスクーターが市民 しみん の足 あし として活用 かつよう されるようになると、車道 しゃどう をスクーターが占 し める特殊 とくしゅ な景観 けいかん を生 う み出 だ す原因 げんいん となっている。スクーターに乗 の っていると口 くち 回 まわ りが真 ま っくなるためマスクをして乗 の っている人 ひと が多 おお い。
台北 たいぺい 市内 しない の主要 しゅよう な道路 どうろ は中国 ちゅうごく の地名 ちめい (ウルムチ の漢 かん 名 めい にちなむ迪 すすむ 化 か 街 がい 、長安 ながやす 西 にし 路 ろ )、政治 せいじ 上 じょう の人名 じんめい (孫 まご 文 ぶん にちなむ中山北 なかやまきた 路 ろ 、フランクリン・ルーズベルト にちなむ羅 ら 斯福路 ろ など)、古典 こてん (四 よん 維八徳 とく )により命名 めいめい されるのが原則 げんそく となっている。しかし新 あたら しく建設 けんせつ された道路 どうろ ではその地域 ちいき の名称 めいしょう 、美 よし 雅 みやび 字 じ 、自然 しぜん 景観 けいかん や建築 けんちく 物 ぶつ の名称 めいしょう により命名 めいめい されている。この他 ほか 、信義 しんぎ 区 く の再 さい 開発 かいはつ 地域 ちいき では、以前 いぜん は松山 まつやま 区 く に属 ぞく していたことから「松 まつ 」を冠 かん した道路 どうろ 名 めい や、文 ぶん 山 やま 区 く の景 けい 美 び 地区 ちく では、以前 いぜん は景 けい 美 び 区 く に属 ぞく したことから「景 けい 」を冠 かん した道路 どうろ 名 めい が使用 しよう されている。
2004年 ねん より、台北 たいぺい 市 し 政府 せいふ は国際 こくさい 化 か と外国 がいこく 人 じん 観光 かんこう 客 きゃく の利便 りべん を考慮 こうりょ し東西 とうざい 南北 なんぼく に漢字 かんじ 名 めい とは無関係 むかんけい に番号 ばんごう による道路 どうろ 表記 ひょうき を開始 かいし し、同時 どうじ に東西 とうざい 南北 なんぼく を付 ふ すことで表記 ひょうき を行 おこな っている。この方法 ほうほう によれば南北 なんぼく に第 だい 1大道 だいどう から第 だい 10大道 だいどう 、東西 とうざい に第 だい 1大 だい 街 まち から第 だい 14大 だい 街 まち と表記 ひょうき することが定 さだ められたが、台湾 たいわん 人 じん のあいだで定着 ていちゃく しているとは言 い えない状態 じょうたい となっていたため、結局 けっきょく 廃止 はいし された。
橋梁 きょうりょう
台北 たいぺい 市 し は淡水 たんすい 河 かわ に囲 かこ まれている立地 りっち から新北 しんきた 市 し との交通 こうつう には橋梁 きょうりょう に依拠 いきょ した交通 こうつう となっている。橋梁 きょうりょう の名称 めいしょう は道路 どうろ 名 めい 、人名 じんめい 、古典 こてん 、河川 かせん 、地名 ちめい によりつけられている。市内 しない より新北 しんきた 市 し へ移動 いどう する際 さい には道路 どうろ 名 めい に加 くわ え橋梁 きょうりょう 名 めい により経路 けいろ を示 しめ すことが一般 いっぱん 的 てき であり、タクシーなどでも橋梁 きょうりょう を指定 してい することが多 おお い。
台北 たいぺい 市立 しりつ 美術館 びじゅつかん
鳳 おおとり 甲 かぶと 美術館 びじゅつかん - 絵画 かいが 、書画 しょが 、刺繍 ししゅう 、彫刻 ちょうこく など[ 13]
台北 たいぺい 当代 とうだい 芸術 げいじゅつ 館 かん - 現代 げんだい 美術館 びじゅつかん 。建物 たてもの は日本 にっぽん 統治 とうち 時代 じだい の建 たて 成 しげる 小学校 しょうがっこう を改装 かいそう したもの。[ 14]
士 し 林 りん 夜市 やじ
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