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コスタリカ

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コスタリカ共和きょうわこく
República de Costa Rica
コスタリカの国旗 コスタリカの国章
国旗こっき くにあきら
くに標語ひょうご:なし
国歌こっかNoble patria tu hermosa bandera(スペイン
高貴こうき故国ここくうつくしきはた
コスタリカの位置
公用こうよう スペイン
首都しゅと サンホセ
最大さいだい都市とし サンホセ
政府せいふ
大統領だいとうりょう ロドリゴ・チャベス・ロブレス
だいいちふく大統領だいとうりょう英語えいごばん ステファン・ブルナー英語えいごばん
だいふく大統領だいとうりょう英語えいごばんマリー・ムニベ英語えいごばん
面積めんせき
総計そうけい 51,100km2125
水面すいめんせきりつ 0.9%
人口じんこう
総計そうけい2020ねん 509まん4000[1]ひと118
人口じんこう密度みつど 99.8[1]ひと/km2
GDP自国じこく通貨つうか表示ひょうじ
合計ごうけい2020ねん 36ちょう1743おく500まん[2]コスタリカ・コロン
GDP(MER
合計ごうけい2020ねん618おく3300まん[2]ドル(77
1人ひとりあたり 12,056.957[2]ドル
GDP(PPP
合計ごうけい2020ねん1039おく4600まん[2]ドル(91
1人ひとりあたり 20,268.743[2]ドル
独立どくりつ
 - 日付ひづけ
スペインより
1821ねん9月15にち
通貨つうか コスタリカ・コロンCRC
時間じかんたい UTC-6 (DST:なし)
ISO 3166-1 CR / CRI
ccTLD .cr
国際こくさい電話でんわ番号ばんごう 506

コスタリカ共和きょうわこく(コスタリカきょうわこく、スペイン: República de Costa Rica)、通称つうしょうコスタリカは、中央ちゅうおうアメリカ南部なんぶ位置いちする共和きょうわせい国家こっかきたニカラグア南東なんとうパナマ国境こっきょうせっしており、みなみ太平洋たいへいようきたカリブ海かりぶかいめんしている。首都しゅとサンホセである。国土こくど面積めんせきは51,060 km2で、人口じんこうやく500まんにん[3][4]である。首都しゅとであり最大さいだい都市としであるサンホセには推定すいてい333,980にんんでおり、周辺しゅうへん都市としけんにはやく200まんにんんでいる。

概要がいよう

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中央ちゅうおうアメリカにおいては数少かずすくない、長年ながねんにわたり安定あんていした民主みんしゅ主義しゅぎ政治せいじ維持いじしているくにで、たか教育きょういくけた労働ろうどうしゃおおいことでもられている[5]教育きょういく予算よさん国家こっか予算よさんめる割合わりあいは、世界せかい平均へいきんが4.4%であるのにたいし、同国どうこくはおよそ6.9%(2016ねん)である[6]。かつては農業のうぎょうおおきく依存いぞんしていたが、現在げんざい金融きんゆう外資がいしけい企業きぎょうけサービス、製薬せいやくエコツーリズムなど多角たかくてき経済けいざい活動かつどうおこなっている。コスタリカの自由じゆう貿易ぼうえき地域ちいき(FTZ)には、おおくの外資がいしけい製造せいぞうぎょうやサービスぎょう進出しんしゅつしており、投資とうし税制ぜいせいじょう優遇ゆうぐう措置そち恩恵おんけいけている[7]

コスタリカは16世紀せいきスペイン支配しはいはいるまで、先住民せんじゅうみんんでいた。そのだいいちメキシコ帝国ていこく一部いちぶとして独立どくりつし、中央ちゅうおうアメリカ連邦れんぽう共和きょうわこく一員いちいんとなり1847ねん正式せいしき独立どくりつ宣言せんげんするまで帝国ていこく周辺しゅうへん植民しょくみんとして存続そんぞくした。1948ねん短期間たんきかんのコスタリカ内戦ないせんのち、1949ねん恒久こうきゅうてき機関きかんとしての陸軍りくぐん廃止はいしし、常備じょうびぐんたない数少かずすくない主権しゅけん国家こっかの1つとなった[8][9][10]

人間にんげん開発かいはつ指数しすう(HDI)ではつね良好りょうこう成績せいせきおさめており、2020ねん時点じてん世界せかいだい62、ラテンアメリカだい5国連こくれん開発かいはつ計画けいかく(UNDP)からも、おな所得しょとく水準すいじゅん他国たこくよりもはるかにたか人間にんげん開発かいはつ達成たっせいしており、人間にんげん開発かいはつおよび不平等ふびょうどうについては地域ちいき中央ちゅうおうよりも記録きろくっていると引用いんようされている。また民主みんしゅ主義しゅぎ状態じょうたい報道ほうどう自由じゆう主観しゅかんてき幸福こうふく比較ひかくでも成績せいせきしめしている。報道ほうどう自由じゆうランキングでは7世界せかい自由じゆう指数しすうでは37世界せかい幸福こうふく報告ほうこくでは12幸福こうふくくにである。一方いっぽう中南米ちゅうなんべいおおくのくに同様どうようカトリック影響えいきょうつよく、人工じんこう妊娠にんしん中絶ちゅうぜつ母親ははおや健康けんこういのちまも以外いがい場合ばあいみとめられないくにである[11]

国名こくめい

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正式せいしき名称めいしょうは、República de Costa Rica通称つうしょうCosta Rica公式こうしき英語えいご表記ひょうきは、Republic of Costa Rica通称つうしょうCosta Rica

日本語にほんご表記ひょうきは、コスタリカ共和きょうわこく通称つうしょうコスタリカ国名こくめいのCosta Ricaがいちつづりの単語たんごではないため、コスタ・リカや、コスタ・リーカ表記ひょうきされることもある。

コスタリカとはスペインで「ゆたかな(Rica)海岸かいがん(Costa)」の意味いみであり、クリストファー・コロンブスがこの上陸じょうりくしたときに、遭遇そうぐうしたインディヘナかね細工ざいく装飾そうしょくひんにつけていたことからこの名前なまえがついた。

歴史れきし

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さきコロンブス

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紀元前きげんぜん900ねんから紀元前きげんぜん300ねんごろの遺跡いせき確認かくにんされている。メソ・アメリカ一部いちぶであり、チブチャけい民族みんぞくナウアトル文化ぶんか交錯こうさくする地帯ちたいであった。13世紀せいきまでには神官しんかん中心ちゅうしんとする階級かいきゅうせい社会しゃかいきずかれていた。そのアステカ帝国ていこく服属ふくぞくし、ゆるやかな支配しはいけるかたち中央ちゅうおうアメリカとみなみアメリカ交易こうえき仲介ちゅうかい地点ちてんとなった。また、カリブじん定住ていじゅうしていた。16世紀せいきはじめごろにはやく40まんにん先住民せんじゅうみん居住きょじゅうしていたと推測すいそくされている。

スペイン植民しょくみん時代じだい

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17世紀せいきまつ教会きょうかいあとカルタゴ

1502ねん9月18にちクリストファー・コロンブスがリモンわん付近ふきん上陸じょうりくし、ヨーロッパじんとしてはじめてこの渡来とらいした。1524ねん征服せいふくしゃフランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバにより、内陸ないりくスペイン支配しはいはいった。1538ねんパナマアウディエンシア管轄かんかつかれ、1542ねんヌエバ・エスパーニャふくおうりょう下位かい行政ぎょうせい組織そしきだった、グアテマラ総督そうとくりょう辺境へんきょうとして編入へんにゅうされた。1564ねん中央ちゅうおう盆地ぼんちカルタゴ建設けんせつされ、以降いこう独立どくりつまでコスタリカの政治せいじ経済けいざい中心ちゅうしんとなった。

征服せいふく過程かていでの疫病えきびょうなどにより、先住民せんじゅうみん人口じんこうは17世紀せいき初頭しょとうにはやく1まんにんになり、労働ろうどうりょく金銀きんぎんなどの鉱物こうぶつ資源しげんりなかったためにスペインじん入植にゅうしょくしゃかずすくなく、コスタリカはスペイン植民しょくみんさい辺境へんきょうとして孤立こりつした。カカオプランテーションきずかれ、時折ときおり海賊かいぞく襲撃しゅうげきがあったものの、植民しょくみん時代じだいおおきな変化へんかはないままごすことになる。また、時期じきさだかではないが、中央ちゅうおうアメリカでもっとはやく19世紀せいき初頭しょとうまでには確実かくじつコーヒーまれていた。

独立どくりつ

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中米ちゅうべい連邦れんぽう擁護ようごしゃ フランシスコ・モラサン。1842ねんにコスタリカ大統領だいとうりょうになり、中米ちゅうべい連邦れんぽう再興さいこうのための遠征えんせい準備じゅんびをしていたところを同年どうねん暗殺あんさつされた。

1789ねんフランス革命かくめいこり、ヨーロッパ政情せいじょう不安定ふあんていになるとその影響えいきょうはインディアス植民しょくみんにもおよんだ。1808ねんにナポレオンのフランスぐんがスペイン本国ほんごく進駐しんちゅう国王こくおうフェルナンド7せい退位たいいさせ、フランス皇帝こうていナポレオン・ボナパルトあにジョゼフ・ボナパルトがスペインおうホセ1せい即位そくいすると、スペインでははんフランス暴動ぼうどうがやがてスペイン独立どくりつ戦争せんそうへと発展はってんし、インディアス植民しょくみんにせおうへの忠誠ちゅうせい拒否きょひした。

その各地かくちクリオーリョいたるがラテンアメリカ解放かいほうのためにがり、メキシコミゲル・イダルゴホセ・マリア・モレーロスらによって、南米なんべい大陸たいりくシモン・ボリーバルホセ・デ・サン・マルティンらによって解放かいほう戦争せんそうつづけられ、おおくの共和きょうわこく独立どくりつたすと、中米ちゅうべいでも1821ねん9がつ15にちにグアテマラ総監そうかんりょう中央ちゅうおうアメリカ連合れんごうしゅうとして独立どくりつした。この国家こっか1821ねん9月16にち独立どくりつしたアグスティン・デ・イトゥルビデ皇帝こうていだいいちメキシコ帝国ていこくにより、1822ねん中米ちゅうべい諸国しょこくとも併合へいごうされた。

中央ちゅうおうアメリカ連邦れんぽう共和きょうわこく1823ねん - 1839ねん

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しかし、1823ねんのメキシコ帝国ていこく崩壊ほうかいともなってチアパスしゅうのぞきゅうグアテマラ総監そうかんりょうしゅうふたた中央ちゅうおうアメリカ連邦れんぽうとして独立どくりつした。コスタリカしゅう代表だいひょうだったフアン・モラ・フェルナンデススペインばん英語えいごばん連邦れんぽうへの積極せっきょくてき加盟かめいすすめたが、この過程かていなかで、それまでコスタリカの中心ちゅうしんだったカルタゴが内戦ないせんすえにサン・ホセぐんやぶれたため、以降いこうサン・ホセがコスタリカの中心ちゅうしんとなった。連邦れんぽうにおいてはエル・サルバドル出身しゅっしんマヌエル・ホセ・アルセスペインばん英語えいごばん中米ちゅうべい連邦れんぽう初代しょだい大統領だいとうりょうとなるが、自由じゆう主義しゅぎしゃフランシスコ・モラサンをはじめとするエル・サルバドルと、保守ほしゅ主義しゅぎしゃラファエル・カレーラをはじめとするグアテマラ内戦ないせんすえに、1838ねんしょしゅう独立どくりつ宣言せんげんして中米ちゅうべい連邦れんぽう崩壊ほうかいした。

さい独立どくりつ国民こくみん戦争せんそう

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リバスのたたか英語えいごばんスペインばん活躍かつやくしたマクシモ・ブランコスペインばん将軍しょうぐん

1839ねんにこのもコスタリカ共和きょうわこくとしてさい独立どくりつたした。その1842ねんホンジュラス出身しゅっしんもと中米ちゅうべい連邦れんぽう大統領だいとうりょうフランシスコ・モラサン大統領だいとうりょうとなり中米ちゅうべい連邦れんぽう再興さいこうのためにニカラグア侵攻しんこうくわだてたが、同年どうねんにモラサンは暗殺あんさつされた。

1856ねん隣国りんごくニカラグアで アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく南部なんぶひと傭兵ようへいようへい隊長たいちょうウィリアム・ウォーカー大統領だいとうりょうとなった。中米ちゅうべい四国しこくはウォーカー排除はいじょ決意けついし、このウォーカーのひきいるニカラグアぐんとの国民こくみん戦争せんそうスペインばんにおいて、コスタリカぐんは、はんウォーカーだったイギリスアメリカヴァンダービルト財閥ざいばつなどの支援しえん中米ちゅうべい連合れんごうぐんなか主要しゅよう役割やくわりたした。同年どうねん4がつにはリバスのたたか英語えいごばんスペインばんでウォーカーぐんやぶった。なお、この戦争せんそう壮絶そうぜつ戦死せんしげたムラートへいフアン・サンタマリーアスペインばん英語えいごばん現在げんざい国民こくみんてき英雄えいゆうとなっている。

国民こくみん戦争せんそう、1870ねん自由じゆう主義しゅぎしゃトマス・グアルディアスペインばん英語えいごばん将軍しょうぐんクーデター政権せいけんにぎった。グアルディアの主導しゅどうにより、一院制いちいんせい議会ぎかいつよ大統領だいとうりょうけんみとめられた1871ねん憲法けんぽう制定せいていされた。以降いこう1948ねんまでのコスタリカは基本きほんてきにこの路線ろせん沿って発展はってんすることになり、ラテンアメリカ全体ぜんたいでも特異とくいなコスタリカの民主みんしゅてき社会しゃかい成立せいりつする素地そじとなった。

1882ねんにグアルディアが死去しきょしてからは、自由じゆう主義しゅぎながれをいでベルナルド・ソトスペインばん英語えいごばん支配しはいつづいたが、1889ねんカトリック教会きょうかいむすんだ保守ほしゅホセ・ロドリゲススペインばん英語えいごばん選挙せんきょとデモによってソトがやぶれ、自由じゆう主義しゅぎ政権せいけん終焉しゅうえんしゅうえんむかえた。

アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく進出しんしゅつ

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1870年代ねんだいからはじまった自由じゆう主義しゅぎ時代じだいにそれまでと同様どうようしゅ産業さんぎょうだったコーヒー・プランテーション拡大かくだいされ、コーヒーを基盤きばん経済けいざい発展はってんし、1890ねんには輸出ゆしゅつの80%がコーヒーとなっていた。ただし、コスタリカの土地とち所有しょゆう形態けいたい植民しょくみん時代じだいからの中小ちゅうしょう独立どくりつ自営じえい農民のうみんによる中規模ちゅうきぼ土地とち所有しょゆう主体しゅたいであったため、中米ちゅうべい諸国しょこくブラジルのようなだいプランテーションは発達はったつしなかった。また、コスタリカは中米ちゅうべいもっとはやくコーヒー栽培さいばい開始かいしされたため、コスタリカをとおしてグアテマラエルサルバドルにコーヒーの生産せいさん技術ぎじゅつ伝播でんぱすることとなった。この時期じきブエノスアイレスカラカスをはじめとするほかラテンアメリカおおくのくに首都しゅとがそうなったように、エリートによって首都しゅとサン・ホセパリふう改造かいぞうされ、カリブ・ヴィクトリアあさ真似まね邸宅ていたくならんだ。

また、内陸ないりくからのコーヒー輸送ゆそうのためにアメリカじんマイナー・C・キース英語えいごばんによって鉄道てつどう建設けんせつされ、積出つみだみなととしてカリブ海かりぶかいがわリモン発展はってんした。鉄道てつどう建設けんせつ負債ふさいおぎなうために1871ねんパナマ地峡ちきょうからバナナ導入どうにゅうされ、キースはその熱帯ねったい雨林うりんひらいた跡地あとちでのバナナのプランテーション栽培さいばいちかられた。バナナはそれまでのしゅ産業さんぎょうだったコーヒーをいて、1905ねんごろには輸出ゆしゅつの60%をめるにいたり、1899ねんにキースにより設立せつりつされたユナイテッド・フルーツしゃ中央ちゅうおうアメリカの事実じじつじょう支配しはいしゃとなった。

20世紀せいきはいってもコスタリカはバナナとコーヒーのモノカルチャー経済けいざいした発展はってんつづいたが、だいいち世界せかい大戦たいせんによる輸出ゆしゅつ収入しゅうにゅうげんにより、1916ねん所得しょとくぜい導入どうにゅうされると、1917ねんフェデリコ・ティノコ・グラナードススペインばん英語えいごばん将軍しょうぐんがクーデターをこすが、アメリカのあつりょくにより1919ねん独裁どくさいせい崩壊ほうかいした。

1921ねんにはアメリカの支持しじした隣国りんごくパナマとコト戦争せんそうこし、パナマから領土りょうどた。

1929ねん世界せかい恐慌きょうこうはコスタリカのモノカルチャー経済けいざいだい打撃だげきあたえ、コーヒー価格かかく低落ていらくのために社会しゃかい不安定ふあんていした。1936ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょでは国民こくみん共和党きょうわとう(PRN)からファシズム傾倒けいとうしたレオン・コルテスが大統領だいとうりょうになった。

なお、1935ねんほり義貴よしたか初代しょだいちゅうコスタリカ日本にっぽん公使こうし着任ちゃくにんし、日本にっぽんとのあいだ正式せいしき外交がいこう関係かんけい成立せいりつした[12]

1940ねんおこなわれた大統領だいとうりょう選挙せんきょでは社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎカルデロン・グアルディアスペインばん英語えいごばん政権せいけん誕生たんじょうし、グアルディア政権せいけん内政ないせいでは労働ろうどうほう制定せいてい(1940ねん)や、社会しゃかい保障ほしょう制度せいど、コスタリカ国立こくりつ大学だいがく創設そうせつなど労働ろうどうしゃちゅうあいだそうよりの政策せいさくすすめる一方いっぽうで、外交がいこうでは1941ねん真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきにより、太平洋戦争たいへいようせんそう勃発ぼっぱつすると、合衆国がっしゅうこく先駆さきがけて枢軸すうじくこく宣戦せんせん布告ふこくし、敵性てきせい国民こくみんとなったドイツけい地主じぬし資産しさん接収せっしゅうされた。

1944ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょではテオドロ・ピカード・ムチャイスキスペインばん英語えいごばん大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。

1948ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょ与党よとうのカルデロンと野党やとうオティリオ・ウラテスペインばん英語えいごばんいちとなり、開票かいひょう結果けっかウラテの勝利しょうり確定かくていしたが、与党よとうはこの選挙せんきょ結果けっか無効むこうとした。こうしたなかで、グアテマラ大統領だいとうりょうフアン・ホセ・アレバロ支援しえんけた野党やとうホセ・フィゲーレス・フェレールによる反乱はんらんへの準備じゅんびすすんでいった。

1948ねん内戦ないせん常備じょうびぐん廃止はいし以降いこう

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中米ちゅうべい紛争ふんそう解決かいけつ尽力じんりょくしたオスカル・アリアス・サンチェス大統領だいとうりょう

1948ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょ結果けっか不正ふせいであることがあきらかになると、野党やとうホセ・フィゲーレス・フェレール反乱はんらんこし、コスタリカ内戦ないせん英語えいごばん勃発ぼっぱつした。6週間しゅうかん内戦ないせんのちにフィゲーレスは政府せいふぐんやぶって勝利しょうりした。

翌年よくねん1949ねん憲法けんぽう英語えいごばん施行しこうされるとカルデロンぜん大統領だいとうりょう多数たすうめていた常備じょうびぐん廃止はいしされ(だい12じょう 常設じょうせつてき機関きかんとしての軍隊ぐんたい禁止きんしする。)、それまでぐんになっていた役割やくわり警察けいさつ移管いかんされた。フィゲーレスは民兵みんぺい予備よびやくへい組織そしきし、反攻はんこうふせいだ。また、女性じょせい黒人こくじん政治せいじ参加さんかみとめられた。この常備じょうびぐん廃止はいしにより、コスタリカは以降いこうのラテンアメリカ諸国しょこくひろげられたような軍事ぐんじクーデターはこらなくなった。1953ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょではフィゲーレスの国民こくみん解放かいほうとう(PLN)が勝利しょうりし、フィゲーレス政権せいけんは「兵士へいしかずだけ教師きょうしを」を合言葉あいことばに、軍事ぐんじ予算よさん教育きょういく予算よさんまわ教育きょういく国家こっか転換てんかんした。

1955ねん1がつもとコスタリカ大統領だいとうりょうだったテオドロ・ピカード・ムチャイスキスペインばん英語えいごばん息子むすこ、ピカード2せいふたたびソモサに支援しえんされた傭兵ようへいぐん(そのなかには軍服ぐんぷくいだニカラグア国家こっか警備けいびたい隊員たいいんもいた)とともにニカラグアからコスタリカに侵攻しんこうしてきた。りくむなしおよそ1,000にんほどのピカード2せいぐんはいくつかの都市とし攻略こうりゃくしたものの、コスタリカ武装ぶそう警察けいさつ反撃はんげきと、OAS仲介ちゅうかいにより同年どうねん2がつ停戦ていせんし、侵攻しんこうぐん武装ぶそう解除かいじょした。

このようにして国難こくなんえると、1949ねん憲法けんぽうによる政治せいじ安定あんてい国家こっか成長せいちょうたすけ、コスタリカ経済けいざいはこの時期じき伝統でんとうてきなバナナ、コーヒーの輸出ゆしゅつくわえて、外資がいしによる工業こうぎょうをも達成たっせいすることになった。1960ねん中米ちゅうべい共同きょうどう市場いちば発足ほっそくすると、コスタリカは中米ちゅうべい四国しこくおくれて1962ねんにこれに加盟かめいした。1965ねん4がつドミニカ共和国どみにかきょうわこく内戦ないせんき、リンドン・ジョンソン大統領だいとうりょう反共はんきょうかかげてアメリカ海兵かいへいたい主体しゅたいとしたぐんをドミニカに派遣はけんすると、コスタリカもブラジルぐん主体しゅたいとしたドミニカ占領せんりょうぐん警備けいびたい派遣はけんした。

国家こっかとしては反共はんきょうでありながらもこのような事情じじょうからニカラグアのソモサ王朝おうちょうきらっていたコスタリカじんは、1978ねんサンディニスタ民族みんぞく解放かいほう戦線せんせん(FSLN)が全面ぜんめん蜂起ほうきするとこれを全面ぜんめんてき支援しえんし、ニカラグア革命かくめいささえた。そのサンディニスタないでの路線ろせん対立たいりつによりFSLNの司令しれいかんだったエデン・パストラ亡命ぼうめいすると、パストラを司令しれいかんにしてコントラ一派いっぱ民主みんしゅ革命かくめい同盟どうめい(ARDE)が組織そしきされ、コスタリカはアメリカによるたいニカラグア作戦さくせん基地きちとなり、中立ちゅうりつ原則げんそく一時いちじらいだ。1983ねんにはルイス・アルベルト・モンへ英語えいごばん大統領だいとうりょうが「コスタリカの永世えいせいてき積極せっきょくてき武装ぶそうてき中立ちゅうりつかんする大統領だいとうりょう宣言せんげん」をおこなっている。

ところが、1986ねんにモンヘ大統領だいとうりょうやぶ就任しゅうにんしたアリアス大統領だいとうりょうはアメリカのたいニカラグア強硬きょうこう政策せいさく追随ついずいすることをしとせず、アリアス大統領だいとうりょうによって国内こくないのARDEの基地きち撤去てっきょされ、さらに中米ちゅうべい紛争ふんそうそのものの解決かいけつのためにも尽力じんりょくした。この中米ちゅうべい和平わへい実現じつげんのための努力どりょくたいして、アリアスには1987ねんノーベル平和へいわしょうあたえられた。

1990ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょによって、中道右派ちゅうどううはキリスト教きりすときょう社会しゃかい連合れんごうとう(PUSC)からラファエル・アンヘル・カルデロン・フルニエル大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。

1994ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょによって、中道ちゅうどう左派さは野党やとう国民こくみん解放かいほうとう(PLN)からホセ・フィゲーレス・フェレールの息子むすこホセ・マリア・フィゲーレススペインばん英語えいごばん大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。

1998ねん2がつ大統領だいとうりょう選挙せんきょによって、PUSCのミゲル・アンヘル・ロドリゲス大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたが、ロドリゲス大統領だいとうりょうメキシコ実業じつぎょうカルロス・ハンク・ゴンサレスからの不正ふせい献金けんきんっていたことが1999ねんにスキャンダルとなった。2001ねん9.11テロこうは、アメリカのアフガニスタン攻撃こうげき支持しじした[13]

2002ねん大統領だいとうりょう選挙せんきょによって、PUSCからアペル・パチェーコ大統領だいとうりょう就任しゅうにんした。パチェーコ大統領だいとうりょうは、アフガニスタン攻撃こうげきつづいて2003ねん3がつイラク戦争せんそう開始かいしたってアメリカのブッシュ政権せいけん支持しじする声明せいめい署名しょめいした。これは常備じょうびぐん廃止はいしした同国どうこく平和へいわ憲法けんぽう精神せいしん国際こくさいほう違反いはんしていると、当時とうじコスタリカ大学だいがく学生がくせい最高裁さいこうさい憲法けんぽう法廷ほうてい提訴ていそした。よく2004ねん12月に最高裁さいこうさい大統領だいとうりょう声明せいめい無効むこうとし、支援しえんこくのリストからはずれるようにめいじた。しかし政府せいふ支援しえん停止ていしすることはしなかった[13]。また、同年どうねんカルデロンとロドリゲスの二人ふたりもと大統領だいとうりょう汚職おしょくによって逮捕たいほされた。

2006ねんからは再任さいにんした(連続れんぞく再任さいにんではない)アリアス大統領だいとうりょう大統領だいとうりょうしょくつとめた。

2010ねん2がつ7にち大統領だいとうりょう選挙せんきょおこなわれ国民こくみん解放かいほうとう(PLN)のラウラ・チンチージャぜんふく大統領だいとうりょう大差たいさ当選とうせんしコスタリカではつ女性じょせい大統領だいとうりょうとなった。なお2市民しみん行動こうどうとう(PAC)のソリス候補こうほ、3自由じゆう主義しゅぎ運動うんどう(ML)のゲバラ候補こうほつづいている[14]

政治せいじ

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2022ねん就任しゅうにんしたロドリゴ・チャベス・ロブレス大統領だいとうりょう

コスタリカは大統領だいとうりょう元首げんしゅとする共和きょうわせい国家こっかであり、行政ぎょうせいけん大統領だいとうりょうぞくしている。大統領だいとうりょう任期にんき4ねんで、連続れんぞく再選さいせん禁止きんしされている(8ねん以上いじょう期間きかんひらいていれば可能かのう)。立法りっぽうけん一院制いちいんせい立法りっぽう議会ぎかいぞくし、議員ぎいん定数ていすうは57にん任期にんきは4ねんである。国会こっかい議員ぎいん連続れんぞく再選さいせん禁止きんしである。投票とうひょうけんあたえられるのは18さいからである。大統領だいとうりょう選挙せんきょにおいては得票とくひょうりつが40%以下いか場合ばあい決選けっせん投票とうひょうおこなわれる。司法しほうけん最高さいこう裁判所さいばんしょぞくしている。現行げんこう憲法けんぽうは1949ねん憲法けんぽうである。

主要しゅよう政党せいとうには国民こくみん解放かいほうとう(PLN)、社会しゃかい民主進歩党みんしゅしんぽとう(PPSD)、キリスト教きりすときょう社会しゃかい連合れんごうとう(PUSC)、しん共和党きょうわとう(PNR)などがある。

国家こっか安全あんぜん保障ほしょう

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コスタリカは19世紀せいき以来いらいだい規模きぼ軍縮ぐんしゅくおこなっており、中米ちゅうべい最大さいだいといわれたコスタリカぐん内戦ないせんにはわずか1個いっこ大隊だいたいにまで減少げんしょうしていた[15]。1947ねん内戦ないせん勝利しょうりしたホセ・フィゲーレス・フェレール大統領だいとうりょうは、1948ねん憲法けんぽう英語えいごばんにより常設じょうせつぐん廃止はいししている[16]。これはカルデロンぜん大統領だいとうりょう勢力せいりょく復活ふっかつおさえる効果こうかがあり、また政治せいじ勢力せいりょくとしての軍部ぐんぶ拡張かくちょうや、隣国りんごくニカラグアの策動さくどうおさえる効果こうかがあった[16]

しかし、この武装ぶそう政策せいさく有事ゆうじさい国家こっかおよび国民こくみんそと勢力せいりょくからの侵略しんりゃくたいして無抵抗むていこう甘受かんじゅすることをみとめたものではない。コスタリカ共和きょうわこく憲法けんぽうだい12じょうでは「大陸たいりくあいだ協定きょうていにより、もしくは国防こくぼうのためにのみ、軍隊ぐんたい組織そしきすることができる。」とし、集団しゅうだんてき自衛じえいけん行使こうし自衛じえいけん行使こうしなどの非常時ひじょうじには軍隊ぐんたい組織そしき徴兵ちょうへいせいくことをみとめている。しかし、有事ゆうじとなってから臨時りんじ民間みんかんじん訓練くんれんして対応たいおうさせることは、現代げんだい高度こうど専門せんもんされた軍事ぐんじにおいては事実じじつじょう不可能ふかのうひとしく、このような手続てつづきを厳密げんみつまもって創設そうせつされた「正規せいきぐん」が国防こくぼう手段しゅだんとして機能きのうすることはほとんどないと意見いけんもある[16]

2015ねん5がつ現在げんざいでは、対外たいがいてき国防こくぼうをもっぱらの目的もくてきとした組織そしき存在そんざいしない。国境こっきょう紛争ふんそうかかえるニカラグアはコスタリカが「『ぐん』を展開てんかいしている」としばしば非難ひなんしている[17]

コスタリカは1983ねん永世えいせい武装ぶそう中立ちゅうりつをモンヘ大統領だいとうりょう宣言せんげんしている。1980年代ねんだいとおしてひろげられた隣国りんごくニカラグアの内戦ないせんのときに民兵みんぺい部隊ぶたい組織そしきされるなど武装ぶそう原則げんそく一時いちじらいだが、アリアス大統領だいとうりょうによってなおされた。

一方いっぽう米州べいしゅう機構きこう加盟かめいこくであるため、地域ちいきない安保あんぽ外交がいこうてき安保あんぽ集団しゅうだんてき自衛じえいけん両方りょうほう加盟かめいこく協調きょうちょう関係かんけいにあり、1965ねんドミニカ共和国どみにかきょうわこくきたドミニカ内戦ないせんときにはOAS平和へいわ維持いじぐん一員いちいんとして武装ぶそう警察けいさつ派遣はけんしている。反共はんきょう大義たいぎしたアメリカぐんブラジルぐん主導しゅどうする占領せんりょうぐん参加さんかし(アメリカぐんによるドミニカ共和国どみにかきょうわこく占領せんりょう_(1965ねん-1966ねん))、社会しゃかい改革かいかくもとめたフアン・ボッシュ立憲りっけん)の政権せいけん打倒だとう協力きょうりょくした[18]

国際こくさい関係かんけい

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コスタリカが外交がいこう使節しせつ派遣はけんしている諸国しょこく一覧いちらん

政治せいじ外交がいこう基本きほん方針ほうしんはアメリカとの協調きょうちょう、および反共はんきょう主義しゅぎである。このため1941ねん真珠湾しんじゅわん攻撃こうげきさいしてはアメリカに先駆さきがけて枢軸すうじくこくがわ宣戦せんせん布告ふこくおこなっている。レーガン政権せいけんによるニカラグアのサンディニスタ民族みんぞく解放かいほう戦線せんせん政権せいけんたいするはん政府せいふ組織そしきコントラエデン・パストラ創設そうせつしたARDE)の基地きちのコスタリカない設置せっち、およびパナマ政権せいけん打倒だとうをめざすはん政府せいふ武装ぶそう組織そしき訓練くんれん基地きち設置せっちをコスタリカないみとめた。モンヘ大統領だいとうりょう武装ぶそう中立ちゅうりつ宣言せんげんは、この実態じったいたいする批判ひはんをかわす必要ひつようせいからしょうじた、政治せいじてきなポーズであったとされる。その見返みかえりとしてアメリカは潤沢じゅんたく援助えんじょあたえ、1983ねんから1985ねんあいだ、アメリカのたいコスタリカ経済けいざい援助えんじょは、コスタリカ政府せいふ予算よさんの1/3にたっしたとされる。のちにモンへ大統領だいとうりょう自身じしん当時とうじコスタリカの実態じったい中立ちゅうりつではなかったと言明げんめいしていたとされる[19]一方いっぽうではパレスチナ問題もんだいにおいてはおおむねパレスチナを支持しじする多数たすうぞくしており、イスラエル基本きほんてき支持しじするアメリカとは立場たちばことなる[20]

また反共はんきょう主義しゅぎ観点かんてんから中国ちゅうごくキューバ国交こっこうっていなかったが、2007ねん6がつ中国ちゅうごく国交こっこう樹立じゅりつすると同時どうじ台湾たいわん断交だんこうした。これに関連かんれんして、アリアス大統領だいとうりょう地元じもとのラジオで「1990年代ねんだい以来いらい台湾たいわん発展はってん途上とじょうこくたいする資金しきん援助えんじょがくすくない状況じょうきょうつづいたので、中国ちゅうごくとの国交こっこうひらいた」と明言めいげんしている[* 1]。その中国ちゅうごくがコスタリカの国債こくさい3おくあめりかドルぶん購入こうにゅうする覚書おぼえがきわされていたことが判明はんめいした。

1948ねん内戦ないせん以降いこう、ラテンアメリカからのおおくの政治せいじ亡命ぼうめいしゃ民主みんしゅ主義しゅぎ活動かつどう避難ひなんしょとなった。代表だいひょうてき人物じんぶつとしては軍政ぐんせいわれていたベネズエラロムロ・ベタンクール民主みんしゅ行動こうどうとう設立せつりつしゃ)や、ペルーアヤ・デ・ラ・トーレアメリカ人民じんみん革命かくめい同盟どうめい創設そうせつしゃ)がげられ、エルネスト・ラファエル・ゲバラ・デ・ラ・セルナ(チェ・ゲバラ)や、フィデル・カストロ一時いちじコスタリカに滞在たいざいしていた。

一方いっぽうでコスタリカ外交がいこうではしばしば「中立ちゅうりつ政策せいさく」が国策こくさくとしてあげられている。ただしコスタリカの中立ちゅうりつ政策せいさくはあくまで「民主みんしゅ主義しゅぎがわにつく」ものであり、同盟どうめい政策せいさくとはことなる[21]。2005ねん年報ねんぽうでは、外交がいこう原則げんそくを「平和へいわ人権じんけん促進そくしん」であると規定きていしている[22]

現在げんざい中米ちゅうべい諸国しょこくをはじめとするラテンアメリカ諸国しょこくからの外交がいこうかん研修生けんしゅうせい養成ようせいしている。また国際こくさい連合れんごう平和へいわ構築こうちくのための専門せんもん人材じんざい養成ようせいするために設立せつりつした研究けんきゅう機関きかん平和へいわ大学だいがく本部ほんぶもコスタリカにかれている。

たいニカラグア関係かんけい

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ニカラグアはコスタリカにとって唯一ゆいいつ直接的ちょくせつてき軍事ぐんじてき脅威きょういとなりうる国家こっかであり[15]、コスタリカ内戦ないせんなどしばしば侵攻しんこうけることもあった。現在げんざいでもサン・フアンがわ河口かこうにあるポルティージョとう英語えいごばん[* 2](ニカラグアめい・ハーバーヘッド)の帰属きぞくをめぐる領土りょうど問題もんだい解決かいけつしていない[23]。ニカラグアはコスタリカの武装ぶそう警察けいさつを「ぐん」であると明言めいげんしており、しばしば非難ひなんおこなっている[17]。ただしこの地域ちいき緊張きんちょううすく、両国りょうこく国民こくみん国境こっきょう自由じゆう往来おうらいしている[24]

地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶん

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コスタリカは7つのしゅう(Provincias)にかれ、しゅうはさらに合計ごうけい81のカントン(cantones)にかれる。

コスタリカのしゅう
  しゅう 州都しゅうと カントン 地区ちく 面積めんせき (km2 人口じんこう2016ねん[25]
1 アラフエラしゅう アラフエラ 15 108 9,757.53 975,000
2 カルタゴしゅう カルタゴ 8 48 3,124.67 525,700
3 グアナカステしゅう リベリア 11 59 10,140.71 371,400
4 エレディアしゅう エレディア 10 46 2,656.98 497,800
5 リモンしゅう リモン 6 27 9,188.52 439,000
6 プンタレナスしゅう プンタレナス 11 57 11,265.69 474,300
7 サン・ホセしゅう サン・ホセ 20 118 4,965.90 1,607,200

主要しゅよう都市とし

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主要しゅよう都市としにはサンホセ首都しゅと)、リモンがある。

地理ちり

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タラマンカさんのサン・ヘルナンド・デ・ドカの真下ましたにある、リオ・サベグレがわ
コスタリカの地理ちり
地形ちけい

自然しぜんゆたかで、独立どくりつ当初とうしょ国土こくどの95%が密林みつりんおおわれていた。現在げんざい森林しんりん面積めんせき国土こくどの40%以下いかとなっている。

コスタリカは太平洋たいへいようから大西おおにしひろしまで、もっとせまいところで119km、もっとひろいところでも226kmしか距離きょりがなく、細長ほそなが国土こくどだが、国土こくど中央ちゅうおうをグアナカステ山脈さんみゃく、ティララン山脈さんみゃく中央ちゅうおう山脈さんみゃく、タラマンカ山脈さんみゃくつらぬき、国土こくど中央ちゅうおうには標高ひょうこう2000mにたっする中央ちゅうおう盆地ぼんち存在そんざいする。国内こくない最高峰さいこうほうチリポやま(3901m)。

カリブ海岸かいがん低地ていち熱帯ねったいせい気候きこうあめおおい。

太平洋たいへいようがんにはニコヤ半島はんとうや、ニコヤわんがあるグアナカステ低地ていちと、オサ半島はんとうやドゥルセわんのある低地ていちがあり、気候きこう太平洋たいへいようがん南北なんぼくことなる。

生態せいたいけい植生しょくせい

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地球ちきゅうじょうすべての生物せいぶつしゅのうち5%が生息せいそくするとわれ、「環境かんきょう保護ほご先進せんしんこく」として名高なだかい。国立こくりつ公園こうえん自然しぜん保護ほごそう面積めんせきぜん国土こくどの1/4をえる。

そして世界せかいで1ばん昆虫こんちゅうおおくにとしてられている。

経済けいざい

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首都しゅとサンホセ街並まちな

IMFによると、2013ねんのコスタリカのGDPやく496おくドルであり、日本にっぽん愛媛えひめけんとほぼおな経済けいざい規模きぼである[26]一人ひとりたりのGDPは10,528ドルで、世界せかい平均へいきんとほぼおな水準すいじゅんにある。

植民しょくみん時代じだいには世界せかいでももっとまずしい地域ちいきひとつだったが、だい世界せかい大戦たいせんからは「中米ちゅうべい優等生ゆうとうせい」とばれ、19世紀せいき以来いらいコーヒーバナナ輸出ゆしゅつ背景はいけいに、政治せいじ安定あんていとあいまって経済けいざい成長せいちょうつづいた。1960年代ねんだい以降いこう外資がいし導入どうにゅうによる工業こうぎょうすすみ、現在げんざいでは農業のうぎょうこくから工業こうぎょうこくとなって中米ちゅうべいでパナマのつぎゆたかなくにとなっている。しかし、1990年代ねんだい以降いこうは、南米なんべい大陸たいりく麻薬まやく北米ほくべい欧州おうしゅうにわたるさい中継ちゅうけい地点ちてんとされた影響えいきょうで、麻薬まやく一大いちだい消費しょうひとなってしまっており(444まんにん国民こくみんのうち、20まんにん以上いじょうコカイン中毒ちゅうどくしゃ)、治安ちあん悪化あっか社会しゃかい不安定ふあんていすすんでいる[27]

おも輸出ゆしゅつひんは、コーヒー、バナナ、サトウキビパイナップルメロン、コンピュータ部品ぶひんなどである。コンピュータ部品ぶひんは1990年代ねんだい後半こうはんインテルしゃ進出しんしゅつによるところがおおきい。

2021ねん、OECDに加盟かめいした[28]

交通こうつう

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航空こうくう

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おも国際こくさい空港くうこうとしてはサンホセのフアン・サンタマリーア国際こくさい空港くうこうと、リベリアダニエル・オドゥベール国際こくさい空港くうこうふたつがある。

鉄道てつどう

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19世紀せいきにコーヒーやバナナのしのためにアメリカ資本しほんによって建設けんせつされた鉄道てつどうは、現在げんざい観光かんこうようとしてのこされているもの以外いがいはほとんどはいせんとなっている。

観光かんこう

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はねかわかすアンインガ

1980年代ねんだいから2008ねんあたりまではエコツアー人気にんきたかまりとともに観光かんこうきゃくおよび観光かんこう収入しゅうにゅう増加ぞうかしている[29]。しかし、首都しゅとサンホセと周辺しゅうへん地域ちいきでは麻薬まやくがらみの犯罪はんざい窃盗せっとう強盗ごうとう)が多発たはつするなどの課題かだいもある[27]

サンホセ市内しない

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コスタリカ国立こくりつ劇場げきじょう
国立こくりつ劇場げきじょう
サンホセの中心ちゅうしん位置いちする1897ねん建設けんせつされたルネサンス様式ようしき劇場げきじょう
文化ぶんか広場ひろば
国立こくりつ劇場げきじょう隣接りんせつした広場ひろばで、大道芸だいどうげいじんのパフォーマンスや音楽家おんがくかのコンサートがひらかれ、市民しみんいこいのとなっている。
黄金おうごん博物館はくぶつかん
文化ぶんか広場ひろば地下ちか位置いちし、2まんてんにのぼるコスタリカの先住民せんじゅうみんたちのかね細工ざいくおさめられている[30]
独立どくりつ記念きねんとうナシオナル公園こうえん
コスタリカの独立記念日どくりつきねんび、9月15にちには盛大せいだいなパレードがおこなわれる。

カルタゴ市内しない

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カルタゴだい聖堂せいどう
1926ねん再建さいけんされたビザンチン様式ようしきだい聖堂せいどう。コスタリカの守護しゅご聖徒せいとロスアンヘレスたてまつ[31]
カテドラル・カルタゴ
カルタゴだい聖堂せいどうまえにある1823ねんイラス火山かざん噴火ふんか破壊はかいされてしまった教会きょうかい遺跡いせき
ランカスターガーデン
コスタリカに自生じせいする800しゅ以上いじょうランがコレクションされているランえん[32]
オロシ教会きょうかい
1735ねん建設けんせつされたコスタリカ最古さいこ教会きょうかい[31]
グアヤボ国立こくりつ考古学こうこがく公園こうえん(ウハラス教会きょうかいあと
17世紀せいきにスペインじんによっててられたコスタリカ最初さいしょ教会きょうかいがあった場所ばしょで、現在げんざい公園こうえんとして開放かいほうされている[31]
イラス火山かざん国立こくりつ公園こうえん
イラス火山かざん山頂さんちょうからは太平洋たいへいようカリブ海かりぶかい同時どうじのぞむことができる。

国民こくみん

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1961ねん-2003ねんまでのコスタリカの人口じんこうグラフ

コスタリカ国民こくみんみずからをティコ Tico(男性だんせい)またはティカ Tica(女性じょせい)とぶ。

コスタリカ国民こくみんは、中米ちゅうべい諸国しょこくとはことなり白人はくじん割合わりあいおおいとされ、人種じんしゅ構成こうせい白人はくじん94%、黒人こくじん3%、インディヘナ1%、中国ちゅうごくけい華人かじん1%、その1%)だとされている。独立どくりつイタリアじんドイツじんユダヤじんポーランドじんなどの白人はくじん移民いみんや、ジャマイカ黒人こくじん移民いみんがあった。

しかし、植民しょくみん時代じだいのコスタリカは人口じんこう希薄きはく地帯ちたいである以前いぜんに、そもそもヨーロッパじん入植にゅうしょくしゃ絶対ぜったいすうすくなく、いちとしてインディヘナや黒人こくじん総数そうすう上回うわまわったことはなかった[33]。つまりコスタリカの白人はくじん人口じんこうおおさにかんしては、生活せいかつ様式ようしき言語げんごがスペインしたメスティーソムラートが、ある時期じきみずからを白人はくじんであると認識にんしきするようになったとかんがえるのが妥当だとうである[33]

19世紀せいきなかばに鉄道てつどう建設けんせつのために、サトウキビから経済けいざい転換てんかんはかったジャマイカの黒人こくじんや、中国人ちゅうごくじん導入どうにゅうされ、ジャマイカ黒人こくじんカリブ海かりぶかいがわのリモンに定住ていじゅうした。一方いっぽう中国ちゅうごくけい華僑かきょう)は台湾たいわんじん香港ほんこんじんをはじめとして現在げんざいもコスタリカ社会しゃかい流入りゅうにゅうつづけ、都市としでの飲食いんしょくてんなどにおける存在そんざいかんたかい。しかし、コスタリカでの黄色おうしょくじん蔑視べっしつよい。

インディヘナは居留きょりゅう保護ほご)が指定していされ、事実じじつじょう隔離かくり政策せいさく適用てきようされているが、それでもコスタリカ社会しゃかいてきているひとおおい。インディヘナには1992ねんにようやく選挙せんきょけん付与ふよされた。

コスタリカはおおくの難民なんみんれており、おおくは隣国りんごくニカラグアと、コロンビアからの難民なんみんである。とくにニカラグアにかんしてはコスタリカ人口じんこうの10-15%をめているとされている。近年きんねんペルーベネズエラからの難民なんみんおおい。また、1970年代ねんだいから1980年代ねんだい軍政ぐんせいくるしむチリアルゼンチンからの難民なんみんおおかった。

人口じんこう

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独立どくりつに65,000にんほどだった人口じんこうは、1892ねん時点じてんでも240,000にんほどにすぎなかった。その20世紀せいきとおして順調じゅんちょう人口じんこうぞうつづき、1960年代ねんだいには100まんにんえ、1950年代ねんだい以降いこう乳幼児にゅうようじ死亡しぼうりつ改善かいぜんや、難民なんみん流入りゅうにゅうなどにより急速きゅうそく人口じんこう増加ぞうかし、2003ねん3がつ時点じてんで415まんにん[34]人口じんこう密度みつどは80にん/平方へいほうキロ。都市としへの人口じんこう集中しゅうちゅうすすんでおり、やく65%が都市とし居住きょじゅうしている。

言語げんご

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言語げんごは、スペイン公用こうようである[34]。コスタリカのスペインには標準ひょうじゅんコスタリカ方言ほうげんとニコヤ方言ほうげんふたつの方言ほうげんがあり、ニコヤ方言ほうげんはニカラグアの方言ほうげんとアクセントがとても似通にかよっている。

19世紀せいきジャマイカから黒人こくじん移民いみんしてきたカリブ海かりぶかいがわには、ジャマイカ英語えいごはな人々ひとびともいる。

宗教しゅうきょう

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グレシア金属きんぞく教会きょうかい
カルタゴのふるだい聖堂せいどう

宗教しゅうきょうは、カトリック教会きょうかいが85%、プロテスタントが14%、そのが1%である。1949ねん憲法けんぽうでカトリックが国教こっきょうとして保障ほしょうされた敬虔けいけんなカトリックのくに[34]いまだにカトリック教会きょうかい政治せいじりょくつよく、妊娠にんしん中絶ちゅうぜつ不可ふかや、家族かぞく制度せいど問題もんだい性教育せいきょういく拒否きょひなどコスタリカ社会しゃかいおおきな影響えいきょうあたえている。

アジア中東ちゅうとうからの移民いみんによってまれた仏教ぶっきょう(40,000にんちか中国ちゅうごくけいんだ)や、イスラームきょうユダヤきょうヒンドゥーきょうなども信仰しんこうされている。

末日まつじつ聖徒せいとイエス・キリスト教会きょうかい(モルモンきょう)も1960年代ねんだいから地道じみち拡大かくだいつづけており、中央ちゅうおうアメリカにふたつしかない教会きょうかいうちひとつが、エレディアけんのサン・アントニオ・デ・ベレンに存在そんざいする。

教育きょういく

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1-2ねん就学しゅうがくぜん教育きょういくえたのち、6年間ねんかん初等しょとう教育きょういく、3年間ねんかん前期ぜんき中等ちゅうとう教育きょういくがあり、この9年間ねんかん無償むしょう義務ぎむ教育きょういくとなっている。その後期こうき中等ちゅうとう教育きょういく技術ぎじゅつ学術がくじゅつ分岐ぶんきし、技術ぎじゅつは3ねん学術がくじゅつは2ねん修了しゅうりょうする。学術がくじゅつ卒業そつぎょうすると大学だいがくへの進学しんがくみちける。コスタリカは現行げんこうの1949ねん憲法けんぽう教育きょういく予算よさん国民総生産こくみんそうせいさん(GNP)の6%以上いじょうてることを義務付ぎむづけており、国公立こっこうりつ教育きょういく機関きかんでの教育きょういく初等しょとう教育きょういくから高等こうとう教育きょういくいたるまで無料むりょうである。

国民こくみん識字しきじりつは95.5%[34]であり、アルゼンチンの97%、キューバの99%とならび、中南米ちゅうなんべいつうじて非常ひじょうたかい。

高等こうとう教育きょういくかんしては、最初さいしょ大学だいがくコスタリカ大学だいがく)が設立せつりつされたのが1940ねんおそかったため歴史れきしあさいが、それでも現在げんざいまでにコスタリカ工科こうか大学だいがく(1971ねん)や、ナシオナル大学だいがく(1973ねん)、国立こくりつ遠隔えんかく大学だいがくスペインばん(1977ねん)などのおおくの大学だいがく設立せつりつされている。

現在げんざいのところ目下もっか問題もんだい教室きょうしつ不足ふそく教員きょういんへの給料きゅうりょう遅配ちはい教育きょういくとカトリック教会きょうかい関係かんけいなどである。

人権じんけん

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「コスタリカ市民しみんいのち平和へいわ人権じんけん環境かんきょういつくしむことの大切たいせつさをおしえる教育きょういく成果せいかで、ひとおもいやり尊重そんちょうする意識いしきひときずつけない意識いしき世界せかいでトップレベルである。コスタリカは福祉ふくし医療いりょう治安ちあんのレベルが世界せかいでトップレベルであり、戦争せんそう犯罪はんざい貧富ひんぷ格差かくさなどの人間にんげん社会しゃかい問題もんだい解決かいけつされて、市民しみんだれもが他人たにん蹴落けおとして自分じぶんだけがつことをかんがえる競争きょうそう社会しゃかいくし平和へいわしあわせにらしている。」というかんがえも存在そんざいする[35]

だが、現実げんじつのコスタリカはだい世界せかい大戦たいせんいくかの戦争せんそうまれ、1965ねんドミニカ共和国どみにかきょうわこく内戦ないせんでは主体しゅたいてき紛争ふんそう警備けいびたい派遣はけんしたこともあった。またコスタリカのジニ係数けいすう国際こくさい連合れんごう調査ちょうさで0.499とけっしてひくくはない。黒人こくじん先住民せんじゅうみん、アジアけい市民しみん、ニカラグアじん難民なんみんたいしての偏見へんけん差別さべついまだに根強ねづよいとされ、保護ほごへの隔離かくり政策せいさくられたために1990年代ねんだいまで先住民せんじゅうみん公民こうみんけん存在そんざいしなかった。また、国家こっかとカトリック教会きょうかいむすびつきのつよさや、そこから宗教しゅうきょうてき倫理りんりつよさは間接かんせつてき私生児しせいじ増加ぞうかなどのしょ問題もんだい影響えいきょうしている。これらはコスタリカにとって解決かいけつされるべきしょ課題かだいであるとの意見いけんもある。

2018ねん、コスタリカの憲法けんぽう裁判所さいばんしょは、同性どうせいこんさまたげる国内こくない法律ほうりつ違憲いけんであるとの判断はんだんくだした。これをけて2020ねん5月26にち、コスタリカ国内こくないでは同性どうせいこん合法ごうほうされた。中米ちゅうべい同性どうせいこんみとめられたのははじめて[36]

治安ちあん

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司法しほう警察けいさつ発表はっぴょうした犯罪はんざい統計とうけいによれば、コスタリカのおもつみ種別しゅべつ殺人さつじん446けん強盗ごうとう12,009けん強姦ごうかん471けん侵入しんにゅうぬすめ住宅じゅうたく)7,149けんなど依然いぜんとして犯罪はんざいりつたか[27]

常備じょうびぐん廃止はいししたわりに十分じゅうぶん警察けいさつりょくゆうするコスタリカは一般いっぱん中南米ちゅうなんべい地域ちいきなかでは政治せいじ経済けいざいとともに治安ちあん安定あんていしたくにとみられていたが、1990年代ねんだい以降いこう不法ふほう滞在たいざいしゃ増加ぞうか組織そしき犯罪はんざいグループの流入りゅうにゅうじゅう所持しょじしゃ増加ぞうか麻薬まやく蔓延まんえんなどにより治安ちあん悪化あっかし、首都しゅとサン・ホセおよびカリブ海かりぶかい沿いのリモン中心ちゅうしん犯罪はんざい多発たはつしている。首都しゅとサン・ホセでは犯罪はんざいしゃ集団しゅうだん同士どうし銃撃じゅうげきせん勃発ぼっぱつしているほか、拳銃けんじゅう利用りようした強盗ごうとう多発たはつするなど、銃器じゅうき氾濫はんらんしている[37]

コスタリカはコロンビアなど南米なんべいからの麻薬まやく欧州おうしゅうやアメリカにはこばれるさい中継ちゅうけい地点ちてんであるだけでなく、麻薬まやく集積しゅうせきおよび消費しょうひにもなっている。とくコカイン押収おうしゅうりょう年々ねんねん増加ぞうか傾向けいこう辿たどっており、いちすうひゃくキログラム単位たんい押収おうしゅうされることおおい。麻薬まやく組織そしき直接ちょくせつ関与かんよする犯罪はんざいのほか、麻薬まやく購入こうにゅう資金しきんしさにこる強盗ごうとう殺人さつじん増加ぞうか問題もんだいになっている[37][38]

文化ぶんか

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コスタリカ国立こくりつ劇場げきじょう内部ないぶ

コスタリカじんメソ・アメリカ文化ぶんかみなみアメリカ文化ぶんか結節けっせつてんだったことからなる、自国じこく多様たよう文化ぶんかほこる。16世紀せいきにスペインのコンキスタドールがやってきたときには、国土こくど北西ほくせいのニコヤ半島はんとうナウアトル文化ぶんか影響えいきょうけており、国土こくど中央ちゅうおう南部なんぶはチブチャの影響えいきょうけていた。しかし、インディヘナはスペインじんによる疫病えきびょう酷使こくしによりほとんどがんでしまったため、近代きんだいにおいてコスタリカ文化ぶんか影響えいきょうあたえたことはすくなかった。

大西洋たいせいようがわには17世紀せいきから18世紀せいきとおして黒人こくじん奴隷どれい労働ろうどうりょくとして移入いにゅうされた。しかしながら、おおくのアフリカけいコスタリカじんは19世紀せいきに、カリブ海かりぶかいのリモンから中央ちゅうおう盆地ぼんちかう鉄道てつどう建設けんせつのため移入いにゅうされたジャマイカけい黒人こくじんである。イタリアけい中国ちゅうごくけい人々ひとびともこの時期じき鉄道てつどう建設けんせつのためにやってきた。このような多様たよう人種じんしゅにより、コスタリカの文化ぶんかはぐくまれた。

また、1930ねんごろに国内こくない密林みつりん巨石きょせきだまぐん発見はっけんされた。この巨石きょせきは、最大さいだいのものは直径ちょっけいが2.5m以上いじょう重量じゅうりょうが20トン以上いじょうあり、数個すうこから40ぐらいがまとまっていた。

しょく文化ぶんか

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トウモロコシ文化ぶんかけんくにである。べいまめトルティーヤなどがおもべられている。

音楽おんがく

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よくられている「トリニダードとうカリプソ」とはちが土着どちゃくの「カリプソ」が存在そんざいする。ロックサルサソカメレンゲクンビアなども人気にんきである。

世界せかい遺産いさん

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コスタリカ国内こくないには、ユネスコ世界せかい遺産いさんリストに登録とうろくされた自然しぜん遺産いさんが3けん(うち1けんはパナマと共有きょうゆう)、文化ぶんか遺産いさんが1けん存在そんざいしている(2016ねんだい40かい世界せかい遺産いさん委員いいんかい終了しゅうりょう時点じてん)。

祝祭日しゅくさいじつ

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祝祭日しゅくさいじつ
日付ひづけ 日本語にほんご表記ひょうき 現地げんち表記ひょうき 備考びこう
1がつ1にち 元日がんじつ Año nuevo
3月から4がつ せい木曜日もくようび Jueves Santo
3月から4がつ せい金曜日きんようび Viernes Santo
移動いどう祝祭日しゅくさいじつ おも復活ふっかつ日曜日にちようび Domingo de Resurrección
4がつ11にち リバス戦勝せんしょう記念きねん Día de Juan Santamaría
5月1にち メーデー Día de los trabajadores
6がつ ちち Día del Padre
7がつ25にち ニコヤたいによるコスタリカ併合へいごう Anexión del Partido de Nicoya a Costa Rica
8がつ2にち 処女しょじょ天使てんしスペインばん Día de la Virgen de los Ángeles
8がつ15にち はは Día de la Madre
8がつ24にち 国立こくりつ公園こうえん Día de los Parques Nacionales
9月12にち 子供こども Día del Niño(a)
9月15にち 独立記念日どくりつきねんび Dia de la Independencia
10月12にち クリストファー・コロンブスによるアメリカ大陸あめりかたいりく発見はっけん Descubrimiento de América por Cristóbal Colón
11月8にち 死者ししゃ Día de los difuntos
12月25にち クリスマス Día de la familia

スポーツ

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サッカー

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コスタリカたいウルグアイ(2014ねんブラジルWはい

コスタリカ国内こくないでもラテンアメリカ諸国しょこく同様どうようサッカー圧倒的あっとうてきに1ばん人気にんきスポーツとなっており、1921ねんにプロリーグのプリメーラ・ディビシオン創設そうせつされた。おもなクラブとしては、デポルティーボ・サプリサLDアラフエレンセCSエレディアーノなどがげられる。著名ちょめい選手せんしゅとしては、名門めいもんレアル・マドリードパリ・サンジェルマンで100試合しあい以上いじょう出場しゅつじょうしたゴールキーパーケイロル・ナバス世界せかいてきられている[39]

コスタリカサッカー連盟れんめい英語えいごばんによって構成こうせいされるサッカーコスタリカ代表だいひょうは、これまでFIFAワールドカップには5出場しゅつじょうれきがあり、1990ねん大会たいかいはつ出場しゅつじょうしてグループリーグを突破とっぱしベスト16に進出しんしゅつした。2014ねん大会たいかいではグループリーグで、コスタリカ以外いがいの3カ国かこく優勝ゆうしょう経験けいけんくみはいったものの見事みごと突破とっぱし、ラウンド16でもギリシャ代表だいひょう勝利しょうり過去かこ最高さいこうとなるベスト8の成績せいせきおさめた。

CONCACAFゴールドカップでは1963ねん大会たいかい1969ねん大会たいかい1989ねん大会たいかいメキシコ代表だいひょうアメリカ代表だいひょうぐ3優勝ゆうしょうほこり、コパ・セントロアメリカーナでは大会たいかい最多さいた8優勝ゆうしょう達成たっせいしている。さらに南米なんべい選手権せんしゅけんコパ・アメリカには5かい参加さんかしており、2001ねん大会たいかい2004ねん大会たいかいではベスト8に進出しんしゅつするなど、北中きたじゅうまいにおけるサッカー強豪きょうごうこくとして名高なだかい。

著名ちょめい出身しゅっしんしゃ

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 「1996ねんプレバルハイチ大統領だいとうりょう就任しゅうにんしきさい台湾たいわん当局とうきょくしゃに『米州べいしゅうもっとまずしいくにハイチ)にたいして、年間ねんかんたった2000まんドルの支援しえんとはどういうことか。本当ほんとう支援しえんのぞむなら、年間ねんかん2おくドルをすべきだ。台湾たいわんにとってはなんでもないことだ』『アメリカは国内こくないそう生産せいさんの0.1%を外国がいこく援助えんじょてているのに、台湾たいわんは0.0001%さえもしていない』とげた」「台湾たいわんが30カ国かこくたないくに外交がいこう関係かんけいつのなら、もっと寛大かんだいになるべきだという意味いみにおいて、わたし台湾たいわん批判ひはんてきだ」とべた。コスタリカの大型おおがたプロジェクトなどにたいする台湾たいわん資金しきん提供ていきょうについては「あまり評価ひょうかしない」と発言はつげんした。--2007ねん6がつ8にち時事通信じじつうしん
  2. ^ カレロとう砂州さすでつながっているため、カレロとう一部いちぶであるともされる

出典しゅってん

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  2. ^ a b c d e World Economic Outlook Database, October 2021” (英語えいご). IMF (2021ねん10がつ). 2021ねん11月9にち閲覧えつらん
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  4. ^ World Population Prospects 2022: Demographic indicators by region, subregion and country, annually for 1950-2100” (XSLX). 国際こくさい連合れんごう経済けいざい社会しゃかいきょく人口じんこう. July 17, 2022閲覧えつらん
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  6. ^ Amazon invests in Costa Rica as tiny nation carves out profitable niche in world economy” (11 March 2017). 2020ねん4がつ9にち閲覧えつらん
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  8. ^ El Espíritu del 48. “Abolición del Ejército” (スペイン). 9 March 2008閲覧えつらん
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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政府せいふ
日本にっぽん政府せいふ
観光かんこうその

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