常備 じょうび 軍 ぐん (じょうびぐん、英 えい : standing army )は、恒常 こうじょう 的 てき に編成 へんせい されている、多 おお くの場合 ばあい はプロフェッショナルな軍隊 ぐんたい のことである。志願 しがん 制 せい の場合 ばあい も徴兵 ちょうへい に基 もと づく場合 ばあい もあるが、いずれにせよ常勤 じょうきん の兵士 へいし で構成 こうせい されている。これは、長期 ちょうき 登録 とうろく されているが戦争 せんそう または自然 しぜん 災害 さいがい 時 とき にのみ召集 しょうしゅう される予備 よび 役 やく であるとか、戦争 せんそう または戦争 せんそう の脅威 きょうい が差 さ し迫 せま った場合 ばあい にのみ民間 みんかん 人 じん を徴集 ちょうしゅう して、戦争 せんそう または脅威 きょうい が去 さ ると解散 かいさん する一時 いちじ 的 てき な軍隊 ぐんたい とは異 こと なる。
通常 つうじょう 、常備 じょうび 軍 ぐん とは、よりよい装備 そうび を持 も ち、より高度 こうど に訓練 くんれん され、緊急 きんきゅう 時 じ の即応 そくおう 性 せい に優 すぐ れ、抑止 よくし 力 りょく としても効果 こうか 的 てき で、そして何 なに よりも戦争 せんそう に備 そな えている。西欧 せいおう でこの用語 ようご が生 う まれたのは1600年 ねん 頃 ころ だが、そのはるか以前 いぜん から常備 じょうび 軍 ぐん は存在 そんざい していた[1] 。
ヨーロッパ諸国 しょこく において、封建 ほうけん 社会 しゃかい が崩壊 ほうかい し市民 しみん 社会 しゃかい が成立 せいりつ する過程 かてい に現 あらわ れた絶対 ぜったい 王政 おうせい にあって、官僚 かんりょう 制 せい とともに制度 せいど を特徴付 とくちょうづ けるものとされる。
アッカド帝国 ていこく の創設 そうせつ 者 しゃ であるサルゴン 王 おう は、プロの軍隊 ぐんたい を組織 そしき したと考 かんが えられている[2] [3] 。しかし、最古 さいこ のはっきりとした記録 きろく が残 のこ っている常備 じょうび 軍 ぐん の創設 そうせつ 者 しゃ はアッシリア のティグラト・ピレセル3世 せい (在 ざい 紀元前 きげんぜん 745年 ねん ~紀元前 きげんぜん 727年 ねん )である[4] [5] 。ディグラト・ピレセル3世 せい は民兵 みんぺい を解散 かいさん させ、代 か わりにプロの兵士 へいし に給料 きゅうりょう を支払 しはら った。彼 かれ の軍隊 ぐんたい は主 おも にアッシリア兵 へい で構成 こうせい されていたが、外国 がいこく の傭兵 ようへい と属国 ぞっこく 兵 へい も補助 ほじょ 戦力 せんりょく としていた。彼 かれ が創設 そうせつ した常備 じょうび 軍 ぐん は、当時 とうじ の世界 せかい で最 もっと も洗練 せんれん された行政 ぎょうせい および経済 けいざい 機関 きかん でもあり、戦争 せんそう (による略奪 りゃくだつ )を利用 りよう したアッシリア経済 けいざい の原動力 げんどうりょく でもあった[6] 。
古代 こだい ギリシア では、都市 とし 国家 こっか (ポリス )の軍隊 ぐんたい は本質 ほんしつ は市民 しみん である民兵 みんぺい を集 あつ めたものだった[7] 。例外 れいがい は古代 こだい スパルタ で、常備 じょうび 軍 ぐん が(農閑期 のうかんき である夏 なつ だけでなく)一 いち 年 ねん 中 ちゅう 訓練 くんれん を行 おこな っていた。5世紀 せいき ものあいだ、雇 やと われた傭兵 ようへい を除 のぞ けば、彼 かれ らが古代 こだい ギリシャで唯一 ゆいいつ のプロの兵士 へいし だった。ただし、スパルタ軍 ぐん には普通 ふつう はスパルタ兵 へい (Spartiates )だけでなく、補助 ほじょ 兵力 へいりょく としてそれよりもずっと多数 たすう のヘイロタイ (農奴 のうど )の兵 へい が含 ふく まれており、多数 たすう のスパルタの同盟 どうめい 国 こく の軍 ぐん も伴 ともな っていた[8] 。
マケドニアのピリッポス2世 せい が、最初 さいしょ の本当 ほんとう のプロのギリシャ軍 ぐん を設立 せつりつ した。それまでの民兵 みんぺい 、つまり普段 ふだん は主 おも に自給自足 じきゅうじそく のために土地 とち を耕作 こうさく していて、遠征 えんせい のために臨時 りんじ 召集 しょうしゅう される兵士 へいし のかわりに、年間 ねんかん を通 とお して給料 きゅうりょう を支払 しはら われる兵士 へいし と騎兵 きへい を使 つか った[7] 。
古代 こだい 中国 ちゅうごく では、夏 なつ 、殷 いん 、周 しゅう の各 かく 王朝 おうちょう があり、それを守 まも るための軍隊 ぐんたい も有 ゆう していた。この軍 ぐん は貴族 きぞく が率 ひき いていたが、農民 のうみん と奴隷 どれい に大 おお きく依存 いぞん していた[9] 。西 にし 周 あまね は常備 じょうび 軍 ぐん を維持 いじ し、他 た の都市 とし 国家 こっか を効果 こうか 的 てき に支配 しはい し、影響 えいきょう 力 りょく を広 ひろ めることができた[10] 。西 にし 周 あまね とは異 こと なり、東 あずま 周 あまね は当初 とうしょ 、常備 じょうび 軍 ぐん がなかった。代 か わりに、彼 かれ らは約 やく 150の都市 とし 国家 こっか から民兵 みんぺい を徴兵 ちょうへい した。そんな中 なか 、晋 すすむ は紀元前 きげんぜん 678年 ねん に最初 さいしょ に常備 じょうび 軍 ぐん を持 も った[10] 。中国 ちゅうごく 史上 しじょう 最初 さいしょ のプロの軍隊 ぐんたい は、最初 さいしょ の中華 ちゅうか 帝国 ていこく である紀元前 きげんぜん 221年 ねん に成立 せいりつ した秦 はた 朝 ちょう によって創設 そうせつ された[11] 。秦 はた の下 した では、戦争 せんそう は農民 のうみん に頼 たよ るのではなく、訓練 くんれん を受 う けた職業 しょくぎょう 兵士 へいし によって戦 たたか われた[12] 。
古代 こだい インド では、戦争 せんそう はヴェーダ時代 じだい から存在 そんざい していた。しかし、その頃 ころ の戦争 せんそう は、主 おも にさまざまな氏族 しぞく と王国 おうこく の間 あいだ で、クシャトリヤ 階級 かいきゅう によってのみ争 あらそ われていた[12] 。インドの真 しん の常備 じょうび 軍 ぐん は、年間 ねんかん を通 とお して有給 ゆうきゅう のプロの兵士 へいし を基盤 きばん としていた十 じゅう 六 ろく 大国 たいこく の下 した で発展 はってん した[13] 。十 じゅう 六 ろく 大国 たいこく の中 なか で最 もっと も著名 ちょめい なのはマガダ 王国 おうこく だった。インドの最初 さいしょ の常備 じょうび 軍 ぐん は、支配 しはい 者 しゃ ビンビサーラ によってマガダで組織 そしき されたと認識 にんしき されている[14] 。この時期 じき の常備 じょうび 軍 ぐん の使用 しよう は、パーニニ の著作 ちょさく でも確認 かくにん されている。
ナンダ帝国 ていこく は南 みなみ アジアで最初 さいしょ の真 しん の帝国 ていこく を形成 けいせい したことが確認 かくにん されており、大 だい 規模 きぼ な常備 じょうび 軍 ぐん を維持 いじ することでそれを実現 じつげん した。プリニウス によれば、ナンダ帝国 ていこく はピーク時 じ に20万 まん の歩兵 ほへい 、2万 まん の騎兵 きへい 、3,000頭 とう の象 ぞう 、2,000両 りょう の戦車 せんしゃ を雇用 こよう していた。マウリヤ朝 あさ はナンダ朝 あさ を倒 たお し、当時 とうじ 最大 さいだい の常備 じょうび 軍 ぐん を結成 けっせい した[15] 。プリニウスによれば、彼 かれ らは当初 とうしょ 、多 た 民族 みんぞく の傭兵 ようへい に依存 いぞん し、最終 さいしゅう 的 てき には60万 まん の歩兵 ほへい 、3万 まん の騎兵 きへい 、9,000頭 とう の象 ぞう からなる大 だい 規模 きぼ なプロの軍隊 ぐんたい を編成 へんせい した。マウリヤ朝 あさ 時代 じだい 、カウティリヤ は著作 ちょさく 実利 じつり 論 ろん で常備 じょうび 軍 ぐん の構成 こうせい と役割 やくわり を詳述 しょうじゅつ した。実利 じつり 論 ろん によれば、マウリヤ朝 あさ の軍隊 ぐんたい では、過去 かこ 行 おこな われていたクシャトリヤのカーストだけでなく、他 た のカーストの人々 ひとびと も傭 やと っていた。
最初 さいしょ のローマ皇帝 こうてい アウグストゥス の治下 ちか 、ロ ろ ーマ帝国 まていこく では正規 せいき の給料 きゅうりょう を受 う け取 と るプロの常備 じょうび 軍 ぐん が次第 しだい に整備 せいび されていった。軍団 ぐんだん 兵 へい のプロの軍隊 ぐんたい は維持 いじ するのにも費用 ひよう がかかったが、戦闘 せんとう 部隊 ぶたい としてだけでなく、属 ぞく 州 しゅう の警察 けいさつ 、土建 どけん 事業 じぎょう の担 にな い手 て (英語 えいご 版 ばん ) 、護衛 ごえい としても帝国 ていこく を支 ささ えた[16] 。軍団 ぐんだん 兵 へい は、25年間 ねんかん の名誉 めいよ ある軍務 ぐんむ ののちには除隊 じょたい 報奨 ほうしょう 金 きん を受 う け取 と る資格 しかく のある市民 しみん 志願 しがん 兵 へい だった。正規 せいき 軍団 ぐんだん を補完 ほかん するアウクシリア は市民 しみん 権 けん を持 も たない属 ぞく 州民 しゅうみん の補助 ほじょ 兵力 へいりょく であり、通常 つうじょう は軍務 ぐんむ に対 たい する報酬 ほうしゅう として市民 しみん 権 けん を獲得 かくとく した。
中世 ちゅうせい と近世 きんせい の歴史 れきし [ 編集 へんしゅう ]
中世 ちゅうせい のヨーロッパで最初 さいしょ の近代 きんだい 常備 じょうび 軍 ぐん は、1363年 ねん にオスマン帝国 ていこく のスルタン ムラト1世 せい の下 した で編成 へんせい されたイェニチェリ だった[17] [18] 。
西 にし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の崩壊 ほうかい 以後 いご で、封建 ほうけん 契約 けいやく による軍務 ぐんむ の代 か わりに、給料 きゅうりょう で維持 いじ される最初 さいしょ のキリスト教 きりすときょう 国 こく の常備 じょうび 軍 ぐん は、百 ひゃく 年 ねん 戦争 せんそう がまだ激 はげ しさを増 ま している時期 じき 、1430年代 ねんだい にフランス王 おう シャルル7世 せい の下 した で創設 そうせつ された。王 おう は、当時 とうじ 進行 しんこう 中 ちゅう だった戦争 せんそう 、それに将来 しょうらい 起 お きるであろう紛争 ふんそう では、プロの信頼 しんらい できる軍隊 ぐんたい が必要 ひつよう だと気 き づいた。この部隊 ぶたい は、軍役 ぐんえき の期間 きかん 、編成 へんせい および給与 きゅうよ を規定 きてい する「勅 みことのり 令 れい 」を発 はっ することで生 う まれた。これら勅 みことのり 令 れい 中隊 ちゅうたい (英語 えいご 版 ばん ) は[注釈 ちゅうしゃく 1] 、15世紀 せいき 後半 こうはん から16世紀 せいき 初頭 しょとう にヨーロッパの戦場 せんじょう を支配 しはい し、フランス大陸 たいりく 軍 ぐん (Gendarme )の中核 ちゅうかく となった。部隊 ぶたい はフランス全土 ぜんど に駐屯 ちゅうとん し、必要 ひつよう に応 おう じて駐屯 ちゅうとん 地 ち から呼 よ び出 だ され、より大 おお きな部隊 ぶたい の一部 いちぶ となった。非 ひ 貴族 きぞく 階級 かいきゅう を出自 しゅつじ とする自由 じゆう 射手 しゃしゅ (英語 えいご 版 ばん ) と歩兵 ほへい の部隊 ぶたい も準備 じゅんび されたが、それらの部隊 ぶたい は百 ひゃく 年 ねん 戦争 せんそう の終 お わりに解 かい 隊 たい となった[20] 。
戦争 せんそう のための歩兵 ほへい の大 だい 部分 ぶぶん は、依然 いぜん として都市 とし と地方 ちほう からの民兵 みんぺい によって賄 まかな われた。地元 じもと で戦 たたか うため、地方 ちほう 単位 たんい または都市 とし 単位 たんい で編成 へんせい され、募集 ぼしゅう 地 ち にちなんで名付 なづ けられた。徐々 じょじょ にこれらの部隊 ぶたい は恒久 こうきゅう 的 てき なものとなっていき、1480年代 ねんだい にスイス人 じん の教官 きょうかん が採用 さいよう され、いくつかの「バンド」(民兵 みんぺい )が組 く み合 あ わされて最大 さいだい 9000人 にん の一時 いちじ 的 てき な「軍団 ぐんだん 」が編成 へんせい された。彼 かれ らは給料 きゅうりょう をもらって契約 けいやく し、訓練 くんれん を受 う けることになった。
アンリ2世 せい はさらに、民兵 みんぺい 組織 そしき に取 と って代 か わる歩兵 ほへい 連隊 れんたい を編成 へんせい することにより、フランス軍 ぐん を正規 せいき 軍 ぐん 化 か した。
最初 さいしょ の連隊 れんたい 、ピカルディ、ピエモンテ、ナバラ、シャンパーニュは、Les Vieux Corps (古 こ 軍団 ぐんだん )と呼 よ ばれていた。戦争 せんそう が終 お わった後 のち 、コストを節約 せつやく するために連隊 れんたい を解散 かいさん させることは通常 つうじょう の方針 ほうしん だった。古 こ 軍団 ぐんだん と国王 こくおう の直轄 ちょっかつ 兵 へい であるメゾン・デュ・ロイ(Maison du roi )だけが生 い き残 のこ った。
1462年 ねん にハンガリー国王 こくおう マーチャーシュ1世 せい によって設立 せつりつ された黒 くろ 軍 ぐん は、最初 さいしょ の中央 ちゅうおう /東 ひがし ヨーロッパの常備 じょうび 軍 ぐん だった[21] 。しかし、黒 くろ 軍 ぐん は確 たし かに最初 さいしょ の野戦 やせん 部隊 ぶたい の常備 じょうび 軍 ぐん だったが、実際 じっさい には、ハンガリーは1420年代 ねんだい から国境 こっきょう 要塞 ようさい の駐屯 ちゅうとん 兵 へい というかたちで恒久 こうきゅう 的 てき な軍隊 ぐんたい を維持 いじ していた[22] 。
スペイン帝国 ていこく のテルシオ は、プロの兵士 へいし で構成 こうせい された最初 さいしょ のスペインの常設 じょうせつ 部隊 ぶたい だった。彼 かれ らのパイクと銃 じゅう (英語 えいご 版 ばん ) 編成 へんせい は、16世紀 せいき から17世紀 せいき 前半 ぜんはん までのヨーロッパの戦場 せんじょう での優位 ゆうい 性 せい を保証 ほしょう した。他 た の諸 しょ 勢力 せいりょく もテルシオ編成 へんせい を採用 さいよう したが、それらの軍隊 ぐんたい はスペイン兵 へい の恐 おそれ るべき評判 ひょうばん の域 いき に達 たっ しなかった。この、プロの兵士 へいし からなるスペイン軍事 ぐんじ 力 りょく の中核 ちゅうかく には、他国 たこく が対抗 たいこう するのが難 むずか しかった[23] 。
サハラ以南 いなん のアフリカ [ 編集 へんしゅう ]
サハラ砂漠 さはらさばく 南 みなみ 縁 えん のサヴァンナ(サヘル地帯 ちたい )では、軍事 ぐんじ に専従 せんじゅう する戦士 せんし を中核 ちゅうかく とした軍隊 ぐんたい を持 も つ、軍事 ぐんじ 的 てき に強力 きょうりょく な国家 こっか が現 あらわ れることがあった[24] :32 。ソンガイ はそのうちのひとつである[24] :32 。史料 しりょう 『スーダーンの歴史 れきし (英語 えいご 版 ばん ) 』が伝 つた えるところによれば、アスキヤ・ムハンマド (在位 ざいい :1493年 ねん –1529年 ねん )が王権 おうけん を受 う け継 つ いだころのソンガイは、その同盟 どうめい 国 こく や征服 せいふく した国 くに から徴募 ちょうぼ した兵 へい と、近衛 このえ 騎兵 きへい (常備 じょうび 軍 ぐん )を持 も っていた[24] :32 。
『スーダーンの歴史 れきし 』の著者 ちょしゃ サァディー (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) によると、スンニ・アリ (在位 ざいい :1464年 ねん –1492年 ねん )の頃 ころ は「誰 だれ もが戦士 せんし 」であったが、アスキヤ・ムハンマドは「文民 ぶんみん と戦士 せんし を区別 くべつ した」という[24] :32 。1506年 ねん にソンガイは南方 なんぽう のボルグ (英語 えいご 版 ばん ) に攻 せ め入 はい るが、多数 たすう の近衛 このえ 騎兵 きへい を失 うしな った[24] :32 。このときムハンマドの弟 おとうと が「あなたはソンガイを滅亡 めつぼう させた」と言 い うとムハンマドは「彼 かれ らがいる限 かぎ りソンガイに平和 へいわ は訪 おとず れなかった」と答 こた えた[24] :32 。Thornton (1999) によれば、近衛 このえ 騎兵 きへい の指揮 しき 官 かん には王 おう の親族 しんぞく が配 はい され、強 つよ い王 おう には固 かた い忠誠 ちゅうせい を持 も つものの、その軍事 ぐんじ 力 りょく で王 おう を廃 はい してしまう場合 ばあい もあり、アスキヤ・ムハンマドはこうした近衛 このえ 騎兵 きへい に対 たい して醒 さ めた目 め で見 み ていた可能 かのう 性 せい がある[24] :32 。
オリバー・クロムウェル の登場 とうじょう 以前 いぜん 、イングランドは常備 じょうび 軍 ぐん を欠 か いており、代 か わりに地方 ちほう の役人 やくにん たちによって組織 そしき された民兵 みんぺい 、貴族 きぞく によって動員 どういん された私兵 しへい 、およびヨーロッパ大陸 たいりく から傭 やと った傭兵 ようへい などに頼 たよ っていた。これは、イングランド内戦 ないせん でクロムウェルが5万 まん 人 にん のニューモデル軍 ぐん を組織 そしき し、変化 へんか した。このプロ兵士 へいし の集団 しゅうだん は、訓練 くんれん を受 う けていない民兵 みんぺい よりも効果 こうか 的 てき であることが証明 しょうめい され、彼 かれ が国 くに を支配 しはい することを可能 かのう にした。軍 ぐん は1660年 ねん のイングランド王政 おうせい 復古 ふっこ のあとで議会 ぎかい によって解散 かいさん された。クロムウェルのモデルは当初 とうしょ 、軍 ぐん のさまざまな兵站 へいたん 的 てき および政治 せいじ 的 てき 問題 もんだい のために失敗 しっぱい と見 み なされていた[25] 。
1661年 ねん の民兵 みんぺい 法 ほう (The King's Sole Right over the Militia Act 1661 )は、地方 ちほう 当局 とうきょく が国王 こくおう の承認 しょうにん なしに民兵 みんぺい を編成 へんせい することを禁止 きんし した。これは地方 ちほう の役人 やくにん が彼 かれ ら自身 じしん の戦闘 せんとう 部隊 ぶたい を編成 へんせい するインセンティブを弱 よわ めた。チャールズ2世 せい はその後 ご 、通常 つうじょう の予算 よさん から支出 ししゅつ された122,000ポンドの費用 ひよう で、歩兵 ほへい と騎兵 きへい の4個 こ 連隊 れんたい を組織 そしき して近衛 このえ と呼 よ んだ。これが恒久 こうきゅう 的 てき なイギリス軍 ぐん の基礎 きそ となった。1685年 ねん までに、それは野戦 やせん 部隊 ぶたい の連隊 れんたい で7,500名 めい の兵力 へいりょく に成長 せいちょう し、1,400名 めい が駐屯 ちゅうとん 地 ち に恒久 こうきゅう 的 てき に駐屯 ちゅうとん した。1685年 ねん のモンマスの反乱 はんらん はジェームズ2世 せい に部隊 ぶたい の規模 きぼ を2万 まん 人 にん に増 ふ やす口実 こうじつ を与 あた え、1688年 ねん には37,000名 めい がいた。1689年 ねん 、ウィリアム3世 せい は軍 ぐん を74,000名 めい に拡大 かくだい し、1694年 ねん には94,000名 めい に拡大 かくだい した。王 おう 個人 こじん の指揮 しき 下 か にある大 だい 兵力 へいりょく の存在 そんざい によって、王 おう が力 ちから を持 も ちすぎることを警戒 けいかい した議会 ぎかい は、1697年 ねん に基幹 きかん 人員 じんいん を7,000名 めい に減 へ らした。
スコットランドとアイルランドは理論 りろん 的 てき には別々 べつべつ の軍事 ぐんじ 資産 しさん を持 も っていたが、事実 じじつ 上 じょう はイギリス軍 ぐん として合併 がっぺい していた。
権利 けんり の章典 しょうてん によって、公式 こうしき に、常備 じょうび 軍 ぐん に対 たい する国王 こくおう の権限 けんげん も、議会 ぎかい の同意 どうい なくしては行使 こうし できないようになった[26] [27] 。
アダム・スミス は、その最 もっと も影響 えいきょう を与 あた えた著作 ちょさく である国富 こくふ 論 ろん で、常備 じょうび 軍 ぐん は社会 しゃかい の近代 きんだい 化 か の兆候 ちょうこう であると述 の べている[28]
アメリカのイギリスの13植民 しょくみん 地 ち では、文民 ぶんみん 統制 とうせい 下 か にない常備 じょうび 軍 ぐん に対 たい する強 つよ い不信 ふしん 感 かん があった[29] [30] 。アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の憲法 けんぽう (第 だい 1条 じょう 第 だい 8項 こう )は、連邦 れんぽう 予算 よさん を2年 ねん に制限 せいげん し、大統領 だいとうりょう ではなく議会 ぎかい に財政 ざいせい 的 てき 管理 かんり を委 ゆだ ねている。ただし、大統領 だいとうりょう は、最高 さいこう 司令 しれい 官 かん として、軍隊 ぐんたい が召集 しょうしゅう された場合 ばあい には軍隊 ぐんたい の指揮 しき 権 けん を保持 ほじ する。フィラデルフィア憲法 けんぽう 制定 せいてい 会議 かいぎ に結集 けっしゅう した人々 ひとびと が抱 だ いていた常備 じょうび 軍 ぐん に対 たい する不信 ふしん 感 かん は、上院 じょういん が高位 こうい の士官 しかん の任命 にんめい と昇進 しょうしん を承認 しょうにん するという憲法 けんぽう 上 じょう の要件 ようけん に反映 はんえい されている[31] 。1787年 ねん の憲法 けんぽう 制定 せいてい 会議 かいぎ では、エルブリッジ・ゲリー は大 だい 規模 きぼ な常備 じょうび 軍 ぐん に対 たい する批判 ひはん を行 おこな っている:「内 うち での平穏 へいおん は約束 やくそく されるが、外 そと での冒険 ぼうけん を企 くわだ てる危険 きけん な誘惑 ゆうわく ともなる」[注釈 ちゅうしゃく 2] [32]
米 べい 英 えい 戦争 せんそう 中 なか に起 お きた1814年 ねん のブラーデンスバーグの戦 たたか い では、メリーランド民兵 みんぺい とバージニア民兵 みんぺい がイギリス軍 ぐん に完全 かんぜん に敗北 はいぼく した。ジェームズ・マディソン 大統領 だいとうりょう は、次 つぎ のような言葉 ことば を残 のこ している。「この日 ひ 、目撃 もくげき した光景 こうけい なしには、私 わたし は民兵 みんぺい と正規 せいき 軍 ぐん との間 あいだ にこれほど大 おお きな違 ちが いがあったとは信 しん じられなかっただろう」[33]
^ コンパニー・ドルドナンスとも[19] 。
^ 原文 げんぶん は「A standing army is like a standing member. It's an excellent assurance of domestic tranquility, but a dangerous temptation to foreign adventure.」(ウィキクオート より)で、この場合 ばあい のstanding memberとは体 からだ の器官 きかん の生理 せいり 反応 はんのう の遠回 とおまわ しな表現 ひょうげん である。
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