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ミゲル・イダルゴ

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イダルゴのぞう
チワワしゅう政庁せいちょうのイダルゴの処刑しょけい場所ばしょえがかれた壁画へきが

ミゲル・イダルゴMiguel Hidalgo1753ねん5月8にち-1811ねん7がつ30にち)は、メキシコ独立どくりつ運動うんどうにおける初期しょき指導しどうしゃ独立どくりつ闘争とうそう途上とじょうらえられ処刑しょけいされた。「メキシコ独立どくりつちち」として評価ひょうかされる。かれ正式せいしき名前なまえMiguel Gregorio Antonio Ignacio Hidalgo y Costilla Gallaga Mandarte Villaseñorであるが、通常つうじょうミゲル・イダルゴ(Miguel Hidalgo)ミゲル・イダルゴ・イ・コスティージャ(Miguel Hidalgo y Costilla)短縮たんしゅくしてばれる。

ぜん半生はんせい

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1753ねん、メキシコのグアナフアトしゅう位置いちするペンハモ(Pénjamo)ちかくの農場のうじょうでその管理人かんりにん長男ちょうなんとしてまれた。いわゆるクリオーリョ植民しょくみんまれの白人はくじん)である。どう農場のうじょう教育きょういくけたあと、1765ねんからこの地域ちいき中心ちゅうしん都市としであるバリャドリッド(げんモレリアミチョアカンしゅう)にうつり、最初さいしょイエズスかい経営けいえいせいフランシスコ・ザビエルこう、イエズスかい追放ついほう(1767ねん)はせいニコラスこう神学しんがく中心ちゅうしんまなんだ[1]

イエズスかい経営けいえいするしょ学校がっこうは、当時とうじのメキシコとしては先進せんしんてき教育きょういく内容ないよう提供ていきょうしており、そこにはラテン語らてんごだけではなくフランス語ふらんすごなどのヨーロッパ俗語ぞくご先住民せんじゅうみん言語げんご教育きょういく、さらには客観きゃっかんてき教会きょうかい、メキシコの古代こだい歴史れきしなどもふくまれていた。こうした教育きょういくは、イダルゴにヨーロッパの先進せんしんてき文化ぶんか思想しそう関心かんしんいだかせるだけでなく、おさなころ農場のうじょう生活せいかつともにした先住民せんじゅうみんやその混血こんけつみんへの愛情あいじょうはぐくんだ[1]

1778ねん司祭しさい資格しかく獲得かくとくしたあとも、母校ぼこうせいニコラスこう教鞭きょうべんをとり、1790ねんには同校どうこう学長がくちょうとなり、教育きょういく改革かいかく尽力じんりょくした。 しかし、1792ねんには、学長がくちょうしょくしている。辞職じしょく理由りゆうあきらかではないが、推測すいそくされる理由りゆうとしては、学校がっこう財政ざいせい大幅おおはば赤字あかじをもたらしたこと、改革かいかく内容ないよう保守ほしゅ反感はんかんったこと、すうにん女性じょせい関係かんけいどもをませていること、賭博とばくきであることなどがげられる[2]

辞職じしょくのイダルゴは、周辺しゅうへん地域ちいきのいくつかの教区きょうく司祭しさいしょく歴任れきにんし、やがてドローレスむら司祭しさい着任ちゃくにんしている。このあいだかれ住居じゅうきょはフランスの文学ぶんがく議論ぎろんされ、演劇えんげき音楽おんがく、ダンスが披露ひろうされる場所ばしょになり、「ちいさなフランス」とばれるようになった[3]

また、書物しょもつからまなった実学じつがく知識ちしき活用かつようして、陶芸とうげい皮革ひかく加工かこう養蚕ようさんといった事業じぎょう推進すいしんしている。ドローレスむら位置いちするバヒオ地方ちほうは、グアナフアトぎん生産せいさんじく経済けいざい成長せいちょうをとげていたが、いっぽうで鉱山こうざん農業のうぎょう従事じゅうじする労働ろうどうしゃ賃金ちんぎんなどの収入しゅうにゅう減少げんしょうし、度重たびかさなる凶作きょうさくかさなって、かれらの生活せいかつ水準すいじゅん低下ていか傾向けいこうにあった。したがって、イダルゴの推進すいしんする事業じぎょうは、先住民せんじゅうみん混血こんけつみん中心ちゅうしんとした貧困ひんこんしゃおおくをめる教区きょうく住民じゅうみん経済けいざい状況じょうきょう改善かいぜんすることを目的もくてきとしていた[4]

いっぽう、イダルゴの社交しゃこう議論ぎろんこの性格せいかくときには周囲しゅうい人々ひとびととのあいだ軋轢あつれきをもたらした。フランス革命かくめい以降いこう啓蒙けいもう思想しそうなどの進歩しんぽてき思想しそうたいする警戒けいかいしんたかまっていたため、伝統でんとうてき神学しんがく改革かいかくをはかるかれ議論ぎろんは、しばしば保守ほしゅてき思想しそういだ人々ひとびと反発はんぱつまねいた。かれらのなかには、イダルゴを異端いたんとして告発こくはつするものもあらわれたため、異端いたん審問しんもんしょは1800ねんにはかれ素行そこう調査ちょうさをおこなっている。ただし、裁判さいばんそのものは実行じっこううつされていない[5]

蜂起ほうき

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1808ねんに、スペイン本国ほんごくにナポレオンぐん侵攻しんこうし、国王こくおうフェルナンド7せい退位たいいさせ、ナポレオンのあにであるジョゼフ・ボナパルト即位そくいさせると、スペイン各地かくちでははんフランスぐん暴動ぼうどうがおこった(スペイン独立どくりつ戦争せんそう)。このニュースがメキシコにつたわると、メキシコやバジャドリッドなどでは自治じち目指めざ運動うんどうこっている。しかし、官僚かんりょうなどの本国ほんごく出身しゅっしんしゃのなかには自治じちによって自分じぶん権力けんりょく減退げんたいすることを憂慮ゆうりょする勢力せいりょくがあり、かれらによって自治じち運動うんどう武力ぶりょくてき阻止そしされている。

こうしたなかで、イダルゴは知己ちきのあったイグナシオ・アジェンデ勧誘かんゆうによって、ドローレスむらにほどちかケレタロ政治せいじサークルにかかわるようになる。このサークルにはケレタロやその近郊きんこうクリオーリョ参加さんかしており、その職業しょくぎょう軍人ぐんじん官僚かんりょう商人しょうにんなど多様たようであった。かれらは、自治じち運動うんどう反対はんたいするスペイン本国ほんごく出身しゅっしんしゃたちがナポレオンのスペインりょう支配しはい支持しじするのではないか、という危機ききかんをいだいていた。そのため、武装ぶそう蜂起ほうきによって、本国ほんごく出身しゅっしんしゃ排除はいじょひそかに画策かくさくするようになった。しかし、この計画けいかく事前じぜんれ、ケレタロではメンバーが次々つぎつぎ逮捕たいほされた。

このニュースが1810ねん9がつ16にち深夜しんやにドローレスむらつたわると、イダルゴは演説えんぜつおこない(「ドローレスのさけ」)、先住民せんじゅうみん混血こんけつみん中心ちゅうしんとする周辺しゅうへん住民じゅうみんひきいて武装ぶそう蜂起ほうきこした。演説えんぜつ正確せいかく内容ないようつたわっていないが、ナポレオン支配しはい否定ひていし、その代理だいりである植民しょくみん政府せいふ弾劾だんがいし、幽閉ゆうへいされているフェルナンド7せい復位ふくいもとめたようである。また、カトリック擁護ようご演説えんぜつ内容ないようふくまれていた。いっぽう、一般いっぱんてき演説えんぜつ内容ないようであるとしんじられている「ガチュピン(スペイン出身しゅっしん白人はくじん蔑称べっしょう)にを!」という表現ひょうげんはのちにくわえられた可能かのうせいたか[6]

蜂起ほうきはじまり、まずしい先住民せんじゅうみん混血こんけつみん多数たすう参加さんかして規模きぼおおきくなると、これらの参加さんかしゃする要求ようきゅうかかげられるようになった。たとえば、人頭じんとうぜい廃止はいし奴隷どれい制度せいど廃止はいし土地とち改革かいかくなどがこうした要求ようきゅうにあたる。また、グアナフアト攻略こうりゃくにみられるように、裕福ゆうふくなスペインじん虐殺ぎゃくさつ発生はっせいし、そのなかには本国ほんごく出身しゅっしんしゃのみならず地元じもと出身しゅっしんのクリオーリョもふくまれていたことをかんがえると、反乱はんらん本国ほんごくからの独立どくりつというよりも、まずしい先住民せんじゅうみん混血こんけつみん裕福ゆうふくなスペインじんたいする階級かいきゅう闘争とうそう性格せいかくびていたことがうかがえる。このため、クリオーリョそうのなかには、自分じぶんたちの立場たちば安全あんぜん危惧きぐし、反乱はんらんぐん支持しじしないひとびともおおかった。

やがて、イダルゴと盟友めいゆうイグナシオ・アジェンデとの意見いけん対立たいりつするようになり、メキシコシティ攻略こうりゃく失敗しっぱいして反乱はんらんぐん劣勢れっせいにたたされると、イダルゴはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくへの逃亡とうぼうはかった。しかし、1811ねんにスペインがわ逮捕たいほされ、チワワでアジェンデら3にん同志どうしとも銃殺じゅうさつけいしょされ、さらくびにされた。

その

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メキシコ独立どくりつかれとなえてドローレスはドローレス・イダルゴ改称かいしょうされた。イダルゴしゅうかれにちなむ。

また、フィリピン首都しゅとマニラには記念きねんてられている。アメリカのニューメキシコしゅうヒダルゴぐんとテキサスしゅうヒダルゴぐんかれとなえて命名めいめいされた。

メキシコの1000ペソ紙幣しへい肖像しょうぞう採用さいようされている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b Hugh M.Hamill Jr. The Hidalgo Revolt: Prelude to Mexican Independence. University of Florida Press, Gainesville, 1966, pp.53-57.
  2. ^ Hugh M.Hamill Jr. The Hidalgo Revolt: Prelude to Mexican Independence. University of Florida Press, Gainesville, 1966, pp.53-67.
  3. ^ Hugh M.Hamill Jr. The Hidalgo Revolt: Prelude to Mexican Independence. University of Florida Press, Gainesville, 1966, pp.67-80.
  4. ^ Hugh M.Hamill Jr. The Hidalgo Revolt: Prelude to Mexican Independence. University of Florida Press, Gainesville, 1966, pp.80-88.
  5. ^ Hugh M.Hamill Jr. The Hidalgo Revolt: Prelude to Mexican Independence. University of Florida Press, Gainesville, 1966, pp.53-88.
  6. ^ Hugh M.Hamill Jr. The Hidalgo Revolt: Prelude to Mexican Independence. University of Florida Press, Gainesville, 1966, pp.89-116.

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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