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シモン・ボリバル

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シモン・ボリバル
Simón Bolívar


任期にんき 1813ねん8がつ7にち1814ねん7がつ16にち

任期にんき 1817ねん10月1819ねん12月17にち

だいコロンビア
初代しょだい 大統領だいとうりょう
任期にんき 1819ねん12月17にち1830ねん5月4にち
ふく大統領だいとうりょう フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル

任期にんき 1825ねん8がつ12にちどう12月29にち
ふく大統領だいとうりょう アントニオ・ホセ・デ・スクレ

任期にんき 1824ねん2がつ8にち1827ねん1がつ28にち
ふく大統領だいとうりょう アンドレス・デ・サンタ・クルス

出生しゅっしょう 1783ねん7がつ24にち
ベネズエラ総督そうとくりょうスペインばん カラカス
死去しきょ (1830-12-17) 1830ねん12月17にち(47さいぼつ
コロンビアの旗 コロンビア サンタ・マルタ
政党せいとう 無所属むしょぞく
配偶はいぐうしゃ マリア・テレサ・ロドリゲス・デル・トロ・イ・アライサ
署名しょめい

シモン・ボリバル (Simón Bolívar [siˈmom boˈliβべーたaɾ] ( 音声おんせいファイル))としてられるシモン・ホセ・アントニオ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ボリバル・パラシオス・ポンテ・イ・ブランコ[注釈ちゅうしゃく 1]Simón José Antonio de la Santísima Trinidad Bolívar Palacios Ponte y Blanco1783ねん7がつ24にち - 1830ねん12月17にち)は、南米なんべい大陸たいりくアンデス5ヵ国かこくスペインから独立どくりつみちびき、統一とういつしたコロンビア共和きょうわこくちたてようとした革命かくめい軍人ぐんじん政治せいじ思想家しそうかである。

ベネズエラカラカス南米なんべい大陸たいりく屈指くっし名家めいか男子だんしとしてまれたが、はやいうちにつまくしたことがきっかけとなって、その生涯しょうがいラテンアメリカ人々ひとびと解放かいほう統一とういつささげた。このため、ラテンアメリカでは「解放かいほうしゃ」 (El Libertador) ともばれる。

幼少ようしょう

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ボリバルは1783ねん現在げんざいベネズエラカラカスクリオーリョ名家めいかまれた。ボリバルは、16世紀せいきビスカヤからベネズエラに移住いじゅうしたバスクじん家系かけいである。おさなくして両親りょうしんくした[注釈ちゅうしゃく 2] が、アメリカ大陸あめりかたいりく有数ゆうすう資産しさんボリバル男子だんしとしてさまざまな家庭かてい教師きょうしけられた。このときの教師きょうし1人ひとりシモン・ロドリゲスのかんがえがボリバルにおおきな影響えいきょうあたえている[注釈ちゅうしゃく 3]。さらに教育きょういくけるため、1799ねんにスペインで任官にんかんしていたおじをたよってヨーロッパにわたり、修学しゅうがくのためヨーロッパを旅行りょこうしている。ドイツじん自然しぜん学者がくしゃアレクサンダー・フォン・フンボルト南米なんべい独立どくりつにかけるおもいをかたって一笑いっしょうされるなどの屈辱くつじょくてき経験けいけんもあったが、遊学ゆうがくちゅうにスペインでマリア (Maria Teresa Rodríguez del Toro y Alaysa) とうと、1802ねん現地げんち結婚けっこんし、彼女かのじょれてベネスエラに帰国きこくした。しかしよく1803ねん熱帯ねったい気候きこうえられなかったマリアは黄熱病おうねつびょうでその生涯しょうがいじ、以降いこうボリバルはふか喪失そうしつかんいて生涯しょうがい再婚さいこんすることはなかった。1804ねん傷心しょうしんのままヨーロッパにもどり、しばらくはナポレオンつかえたが、このころのみなみアメリカでのスペインからの独立どくりつ機運きうんに、祖国そこくベネズエラの独立どくりつこころざすようになったといわれている。

独立どくりつ戦争せんそう

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ベネズエラ独立どくりつ運動うんどう

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1806ねんにベネズエラ出身しゅっしんもとスペイン軍人ぐんじんフランシスコ・デ・ミランダがベネズエラ解放かいほうのための戦争せんそうはじめると、ボリバルはこれに興味きょうみいだき、1807ねんにベネズエラに帰国きこくした。みなみアメリカは1,400まんにん人口じんこうようし、ヨーロッパじん現地げんちじん混血こんけつすすんでいた[1]。 その1808ねんにナポレオンがスペインに侵入しんにゅうしてあにジョゼフ・ボナパルトをスペインおうホセ1せいとして擁立ようりつしたさい、ボリバルははん王政おうせい愛国あいこく連盟れんめい)にくわわった。1810ねん4がつ19にち、カラカスは植民しょくみん自治じち実行じっこうするための議会ぎかい設置せっち。ボリバルはイギリス革命かくめい支持しじけるために派遣はけんされた。イギリスでの活動かつどう目的もくてきは、スペイン植民しょくみん独立どくりつ運動うんどう説明せつめいまんいち場合ばあい武器ぶきなどの支援しえんけられるようにはたらきかけることであった。資産しさん以外いがいなんうしたてもなかったボリバルのイングランド説得せっとく成功せいこうわったが、ボリバルはイギリスの政治せいじ制度せいどからおおくをまなび、後年こうねん世界せかいもっとすぐれた政治せいじ体制たいせい君主くんしゅせいのぞいてイギリスのものだとかたっている。

ボリバルは1811ねんにベネズエラに帰国きこく、3月にひらかれた制憲せいけん会議かいぎ演説えんぜつおこなった。同年どうねん7がつに、制憲せいけん会議かいぎがベネズエラの独立どくりつ宣言せんげん。ボリバルはベネズエラ国軍こくぐん入隊にゅうたいした。ボリバルはプエルト・カベロの要塞ようさい守備しゅびをしていたが、将校しょうこう裏切うらぎりにより要塞ようさいがスペインぐんわたってしまった。さらに同年どうねんこったカラカス地震じしんによる被害ひがいおおきく、1812ねん7がつ、カラカスはふたたびスペインぐん占領せんりょうされてしまう。これをおもたミランダはスペインと休戦きゅうせん事実じじつじょう降伏ごうぶく)したが、ボリバルは徹底てってい抗戦こうせんちかって裏切うらぎもののミランダをスペインぐんわたし、12月にはヌエバ・グラナダ連合れんごうしゅう英語えいごばん1810ねん - 1816ねん)が支配しはいしていたげんコロンビアカリブ海かりぶかい沿岸えんがん都市としカルタヘナむかった。

カルタヘナ宣言せんげん

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ヌエバ・グラナダのカルタヘナで、スペインへの徹底てってい抗戦こうせんちかカルタヘナ宣言せんげん発表はっぴょう。これに共感きょうかんしたヌエバ・グラナダの市民しみんはボリバルをベネズエラ解放かいほう遠征えんせいぐん司令しれいかん任命にんめいサンタフェ・デ・ボゴタ中心ちゅうしんとするクンディナマルカ共和きょうわこくスペインばん英語えいごばん1810ねん - 1815ねん)の指導しどうしゃアントニオ・ナリーニョ支援しえん1813ねん、ボリバルはベネズエラ進攻しんこう指揮しきして5がつ23にちにメリダにはいり、El Libertador解放かいほうしゃ)とばれた。8月6にちにカラカスを奪回だっかいし、ベネスエラだい共和きょうわこく英語えいごばん1813ねん - 1814ねん)の成立せいりつ宣言せんげんした。

兵力へいりょく劣勢れっせい共和きょうわ成功せいこうしたのは、軽快けいかい機動きどうりょくすぐれた戦術せんじゅつによるものであった。だがカラカスにはいむと、ボリバルのあししばられた。強力きょうりょくおう党派とうはぐんはたいしてっておらず、白人はくじんクリオーリョへの反感はんかん利用りようして地方ちほうメスティーソインディオなどの民衆みんしゅうからへいあつめ、カラカスをげた。そのうえ、スペイン本国ほんごくにおいても1814ねんスペイン独立どくりつ戦争せんそう終結しゅうけつしてフェルナンド7せい復位ふくいしたため、植民しょくみん独立どくりつぐん鎮圧ちんあつする体制たいせいととのえられるようになった。カラカス市民しみん共和きょうわ支持しじ鮮明せんめいにしており、そのころくるっていたおう党派とうは虐殺ぎゃくさつからのがれてきた難民なんみんでカラカスの人口じんこうふくがった。そのような情勢じょうせい軽々かるがるしく放棄ほうきすると、味方みかた市民しみんころされるおそれがあった。1814ねん共和きょうわぐん防衛ぼうえいせん消耗しょうもうしたあげく、かれて脱出だっしゅつした。ボリバルが市民しみんきつれてひがし脱出だっしゅつすると、スペインぐんふたたびカラカスを占領せんりょうした。

さらにそのころヌエバ・グラナダでは、トゥンハ首都しゅと連邦れんぽうせい主張しゅちょうするヌエバ・グラナダ連合れんごうしゅうとボゴタに拠点きょてん中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせい目指めざすクンディナマルカ共和きょうわこく対立たいりつし、独立どくりつ勢力せいりょく同士どうし内戦ないせん状態じょうたいとなっていた。ボリバルはカルタヘナへともどると、ヌエバ・グラナダ連合れんごうしゅうぐんひきいて1814ねんにボゴタを攻略こうりゃく[2]りょう勢力せいりょく統合とうごうした。ヌエバ・グラナダ連合れんごうしゅう首都しゅとをボゴタにうつし、さらにサンタ・マルタのスペインぐん包囲ほういするが、根拠地こんきょちだったカルタヘナできたおう党派とうは蜂起ほうきやぶれたため、1815ねんにイギリスりょうジャマイカへと亡命ぼうめいした。亡命ぼうめい、スペインぐん兵力へいりょく増強ぞうきょうして独立どくりつぐん拠点きょてん次々つぎつぎ陥落かんらくさせ、1815ねんにはカルタヘナも陥落かんらくした。

ジャマイカ書簡しょかん

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ジャマイカにのがれたボリバルは、みなみアメリカ諸国しょこく[3] をイギリスの立憲りっけん君主くんしゅせいのような政治せいじシステムで自由じゆう構想こうそうもとに、ジャマイカ書簡しょかんばれる著作ちょさく執筆しっぴつした。この書簡しょかん使つかってイギリスの援助えんじょもとめたが、イギリスはこれを黙殺もくさつした。

1815ねんにボリバルはイスパニョーラとうわたり、南西なんせいハイチ共和きょうわこく支配しはいしていたアレクサンドル・ペション軍事ぐんじてき援助えんじょもとめた。解放かいほう戦争せんそう終了しゅうりょう黒人こくじん奴隷どれい解放かいほうすることを条件じょうけんにペションはこれをみとめ、物心ぶっしんども援助えんじょあたえた。

ボヤカのたたか

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ボヤカのたたか

1816ねんにハイチの援助えんじょてボリバルはベネズエラに上陸じょうりくふたたびスペインとの戦闘せんとう開始かいしした。ここで奴隷どれいせい廃止はいしし、その解放かいほうした奴隷どれいたちを自軍じぐん兵士へいし一進一退いっしんいったいたたかいをつづけたが、ジャネーロ英語えいごばんLlanero)を説得せっとくし、アンゴストゥーラを攻略こうりゃくしたところで劣勢れっせいになり、ふたたびハイチに亡命ぼうめいした。1817ねんなつふたたびベネズエラに上陸じょうりくし、アンゴストゥーラ(現在げんざいシウダ・ボリバル)を攻略こうりゃくすると、今度こんどはアンゴストゥーラをベネスエラだいさん共和きょうわこくスペインばん1817ねん - 1819ねん)の臨時りんじ首都しゅと宣言せんげんした。さらにジャネーロの頭目とうもくカウディーリョホセ・アントニオ・パエス英語えいごばん協力きょうりょくけることに成功せいこうし、イギリスは独立どくりつ勢力せいりょく公然こうぜん援助えんじょすることはなかったが、このころイギリス・スペイン関係かんけい冷却れいきゃくしていたためイギリスじんやスコットランドじんやアイルランドじん義勇ぎゆうへいぐんくわわってきた。

ベネズエラでの作戦さくせんちゅう、1816ねんにボゴタが陥落かんらくし、ヌエバ・グラナダの独立どくりつ勢力せいりょく完全かんぜん崩壊ほうかいした。1819ねん、ボリバルはまもりのかたいカラカスをやりごしてヌエバ・グラナダにとってかえす作戦さくせん立案りつあんした。部隊ぶたいけ、いちたい平野へいや(ジャノ)に進撃しんげきさせ、ボリバルひきいる本隊ほんたいアンデス山脈あんですさんみゃくえてヌエバ・グラナダへ進撃しんげきするというものであった。ボリバルひきいる本隊ほんたいは、風雨ふうう寒気さむけにさらされて多数たすう死者ししゃしたが、スペインぐんうら見事みごといて、同年どうねん8がつ7にちボヤカのたたか勝利しょうり[4]、8がつ10日とおかボゴタにさい入城にゅうじょうした。

だいコロンビア

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1819ねん12月、ボリバルはアンゴストゥーラ議会ぎかいスペインばん英語えいごばんでヌエバ・グラナダ共和きょうわこく大統領だいとうりょうぐん指揮しきかんになった。ボリバルは議会ぎかいにヌエバ・グラナダとベネズエラを合併がっぺいしたあたらしい国家こっか創設そうせつ要請ようせいした。ただちに現在げんざいのベネズエラ・コロンビア・パナマエクアドルわせた地域ちいきがコロンビア共和きょうわこく後世こうせいばれるだいコロンビア)として宣言せんげんされた。しかし、ベネズエラとキトグアヤキル依然いぜんとしてスペインの支配しはいであった。

1820ねんにボリバルぐんとスペインのあいだで6ヵ月かげつ休戦きゅうせん条約じょうやくむすばれるが、休戦きゅうせん期間きかん終了しゅうりょうあいだもなく、ボリバルとスペインぐんあいだ戦闘せんとうこる。 ベネズエラに侵攻しんこうしたボリバルは1821ねん6月のカラボボのたたか英語えいごばん勝利しょうりし、故郷こきょうカラカスを奪還だっかんする。ボリバルは、1821ねん5がつ開催かいさいされただいコロンビアの憲法けんぽう起草きそうのためのククタ議会ぎかいスペインばん英語えいごばん招集しょうしゅうされ、初代しょだいコロンビア共和きょうわこく大統領だいとうりょうとして指名しめいけた。そして国内こくない一応いちおうかたまる様子ようすをみせると、内政ないせいはそれまで副官ふっかんつとめていたヌエバ・グラナダじんふく大統領だいとうりょうフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル以下いかまかせて、ボリバルはだいコロンビアりょう理論りろんてきにはふくまれるもののまだスペインの統治とうちにあるキト、そしておう党派とうは牙城がじょうペルー方面ほうめん解放かいほうかった。

ペルー解放かいほう独立どくりつ戦争せんそう終結しゅうけつ

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キト攻略こうりゃく

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1822ねん、ボリバルはエクアドル方面ほうめん攻略こうりゃく本格ほんかくさせる。ボリバルのひきいる部隊ぶたい山間さんかんからエクアドルに侵入しんにゅうし、ボリバルの部下ぶかであったベネズエラじんアントニオ・ホセ・デ・スクレ太平洋たいへいようがわからエクアドルにすすんだ。スクレの部隊ぶたいは 1822ねん5がつ24にちピチンチャのたたか英語えいごばん勝利しょうりおさめ、翌日よくじつにはキトに入城にゅうじょうたした。ボリバルもキトに合流ごうりゅうし、ここにエクアドルの解放かいほうたした。また、ここで「永遠えいえん愛人あいじん」となるマヌエラ・サエンス英語えいごばん出会であうことになった。

グアヤキル会談かいだん

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グアヤキルならつ、二人ふたり解放かいほうしゃとラテン・アメリカの解放かいほう統一とういつ記念きねん

このころ、アルゼンチンホセ・デ・サン・マルティン将軍しょうぐんは、チリの独立どくりつ指導しどうしゃベルナルド・オイヒンスや、スコットランドもとえい王立おうりつ海軍かいぐん軍人ぐんじんトマス・コクランらのちからりて、アルゼンチンのメンドーサからアンデス山脈あんですさんみゃく英語えいごばんをもってチリ解放かいほうし、そこから海路かいじペルーまですすみ、初代しょだいペルー護国ごこくかんとなってみなみから解放かいほう戦争せんそうすすめていた。しかし、このペルー共和きょうわこく支配しはいけん海岸かいがん限定げんていされ、アルト・ペルー(げんボリビア)に拠点きょてんくスペインぐんとペルーふくおうのラセルナは抵抗ていこうつづけてサン・マルティンを翻弄ほんろうし、ペルーだいいち共和きょうわこく崩壊ほうかいせまっていた。

このため、サン・マルティンはだいコロンビアぐん支援しえんもとめようとした。ボリバルはこのおもわぬもう一人ひとり解放かいほうしゃくわしたことをよろこび、解放かいほうされたグアヤキルで1822ねん7がつ26にちグアヤキル会談かいだんスペインばん英語えいごばんおこなった。会談かいだん内容ないよう資料しりょうのこっておらず詳細しょうさい不明ふめいであるが、グアヤキル地方ちほう帰属きぞく問題もんだいとペルーのスペインからの独立どくりつ仕方しかたであったといわれている。ボリバルが共和きょうわせいのぞんだのとは対照たいしょうてきに、サン・マルティンはヨーロッパからおう導入どうにゅうして立憲りっけん君主くんしゅせい導入どうにゅうすることをのぞんでいたが、ナポレオンの戴冠たいかんによりフランス革命かくめいだい失敗しっぱいしたとかんがえていたボリバルにとって、これは到底とうていれることのできない条件じょうけんだった。結局けっきょく、ボリバルぐんくわわりたいというサン・マルティンのもうもボリバルがことわると、サン・マルティンはアルゼンチンに帰国きこくしてしまった。この会談かいだんののち、サン・マルティンがぐんひきいることは二度にどとなく、1824ねんにはヨーロッパへと移住いじゅうしてしまった。このため、山岳さんがく勢力せいりょくるスペインぐんとの対決たいけつは、以後いごボリバルのにゆだねられることとなった。

ペルー解放かいほう

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アヤクーチョのたたか英語えいごばん

サン・マルティンが引退いんたいしたためペルーはボリバルのだいコロンビアに援軍えんぐん依頼いらいし、1823ねんにボリバルはまずスクレを先遣せんけんたいとして派遣はけんしたのち、1823ねん9月にはボリバル自身じしんがペルーへと移動いどうした。ボリバルぐんリマ進出しんしゅつし、リマの東山ひがしやま陣地じんちきずいていたスペインぐん対峙たいじした。ボリバルは1824ねん2がつ8にちにペルーのだい8だい大統領だいとうりょう選出せんしゅつされ、だいコロンビアとペルーの大統領だいとうりょう兼任けんにんすることとなった。ピチンチャのたたかいで活躍かつやくしたスクレをそう司令しれいかん実質じっしつてきには参謀さんぼうちょう)にえて、攻略こうりゃく開始かいしした。ボリバルはやまいたお戦線せんせん離脱りだつしたが、スクレが1824ねん12月9にちアヤクーチョのたたか英語えいごばん大勝たいしょうし、ペルーふくおうホセ・デ・ラ・セルナ英語えいごばん降伏ごうぶくさせた。

ペルー解放かいほうによってみなみアメリカの独立どくりつ戦争せんそう大勢おおぜいけっしたが、依然いぜんとしてアルト・ペルー高地たかちペルー)はスペインぐん支配しはいされていた。しかしペルーから進軍しんぐんしたスクレが1825ねん4がつ解放かいほうし、ラテン・アメリカ大陸あめりかたいりくでの解放かいほう戦争せんそうはここに終結しゅうけつした。こうして植民しょくみん時代じだいには同一どういつ行政ぎょうせい区画くかくだったペルー、アルゼンチンとの連合れんごうのぞまなかったアルト・ペルー支配しはいそうと、ボリバルらの思惑おもわく一致いっちしたためアルト・ペルー共和きょうわこく誕生たんじょうした。1825ねん8がつ6にち、アルト・ペルー共和きょうわこく議会ぎかい独立どくりつにおけるボリバルとスクレの功績こうせきたたえ、独立どくりつさいして国名こくめいボリビア首都しゅとめいスクレきゅうチャルカス)とさだめた。1825ねん8がつ12にち、ボリバルは新生しんせいボリビア共和きょうわこく初代しょだい大統領だいとうりょう選出せんしゅつされ、だいコロンビア・ペルー・ボリビアの3かこく元首げんしゅ兼任けんにんすることとなったが、ボリビアにおけるボリバルの大統領だいとうりょう名誉めいよしょくてきなものにすぎず、同年どうねんの12月29にちには大統領だいとうりょう辞任じにんして後任こうにんをスクレにまかせた。

独立どくりつ

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ラテンアメリカ諸国しょこく連合れんごう

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みなみアメリカ大陸あめりかたいりくのすべてのスペインりょう独立どくりつしたことで独立どくりつ戦争せんそう終結しゅうけつすると、ボリバルは1824ねんまつみなみアメリカ大陸あめりかたいりくしん独立どくりつ国家こっかぐん独立どくりつ保全ほぜんのための協議きょうぎおこなうよう提案ていあんした。1826ねんにこの会議かいぎ実現じつげんはこびとなり、南北なんぼくりょうアメリカ大陸あめりかたいりく結節けっせつてんとなるだいコロンビア共和きょうわこくパナマにおいて6がつ22にちから7がつ15にちまでパナマ議会ぎかいスペインばん英語えいごばん開催かいさいされた。会議かいぎ参加さんかこくだいコロンビア、ペルー、中央ちゅうおうアメリカ連邦れんぽうメキシコの4かこくだった。オブザーバーとしてイギリスオランダ参加さんかしたが、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくまねかれたものの会議かいぎわず結局けっきょく欠席けっせきとなった。みなみアメリカ南部なんぶのチリ、アルゼンチン、ブラジルはボリバルの影響えいきょうりょく拡大かくだい懸念けねんして参加さんかせず、孤立こりつしていたパラグアイにはそもそも招待しょうたいじょうおくられなかった。この会議かいぎにおいては参加さんか各国かっこく相互そうご防衛ぼうえい条約じょうやく締結ていけつされ、また市民しみんけん相互そうご承認しょうにん域内いきない戦争せんそう禁止きんし奴隷どれい貿易ぼうえき禁止きんしなどが可決かけつされた[5] が、この条約じょうやくだいコロンビアの議会ぎかいしか批准ひじゅんせず、ボリバルの構想こうそうした相互そうご防衛ぼうえい枠組わくぐみは成立せいりつしなかった。

内乱ないらん

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成立せいりつしただいコロンビアであったが、ペルーやボリビアの解放かいほう戦争せんそう戦費せんぴ負担ふたんなどで国内こくない経済けいざい疲弊ひへいしており、また国内こくないの3地域ちいき(ベネズエラ、ヌエバ・グラナダ、キト)の対立たいりつはげしく、とくにベネズエラとヌエバ・グラナダあいだ対立たいりつ先鋭せんえいするばかりだった。ベネズエラ地域ちいき実力じつりょくしゃであるホセ・アントニオ・パエスと議会ぎかいとの対立たいりつは1824ねん以降いこう先鋭せんえいし、これをおさめるためにボリバルがパエスに融和ゆうわてき態度たいどしめすと、ヌエバ・グラナダを基盤きばんとするサンタンデールが不満ふまんつのらせていった。ボリバルが独立どくりつ戦争せんそう経験けいけんなどから中央ちゅうおう集権しゅうけんもとめ、カトリック教会きょうかい重視じゅうしし、大統領だいとうりょうについては終身しゅうしんせいのぞましいとかんがえていたのにたいし、サンタンデルは地方ちほう分権ぶんけん連邦れんぽうせいもとめ、信教しんきょう自由じゆう保障ほしょうし、大統領だいとうりょう任期にんきせいうえ再任さいにん不可ふかのぞましいとしていたため、路線ろせん対立たいりつによって対立たいりつはさらにふかまった。ボリバルは「追従ついしょう」、サンタンデルは「自由じゆう」とばれるようになり、党派とうは対立たいりつふかまるばかりだった。1827ねんだいコロンビアのベネズエラとヌエバ・グラナダのあいだ内乱ないらんきると、鎮圧ちんあつのためボリバルは1827ねん1がつ28にちにペルー大統領だいとうりょう辞任じにんし、リマをった。ボリバルは、あくまでだいコロンビア、ラテンアメリカ連合れんごう維持いじ理想りそうとした。1828ねん4がつにはオカーニャにてだいコロンビア国民こくみん会議かいぎ憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎ)を招集しょうしゅうした。このときボリバルはである追従ついしょう多数たすう工作こうさくおこなっていたのだが、いざ会議かいぎはじまると自由じゆう多数たすうめるようになり、ボリバルのもくろみははずれてしまった。このためボリバルは8がつにサンタンデルを解任かいにんし、憲法けんぽう停止ていしして、独裁どくさいけん手中しゅちゅうおさめる。しかし、翌月よくげつには解任かいにんされたサンタンデルによってボリバル暗殺あんさつ計画けいかくてられ、ボリバルは大統領だいとうりょう宮殿きゅうでんから危機一髪ききいっぱつすこととなった。このためボリバルはサンタンデルを国外こくがい追放ついほう処分しょぶんとしたが、自身じしん健康けんこう状態じょうたい悪化あっかなどにより事態じたい流動的りゅうどうてきになりはじめた。

1829ねんには、ペルー大統領だいとうりょうとなったアグスティン・ガマーラが現在げんざいのエクアドルにあたる地域ちいき領有りょうゆう要求ようきゅうし、ペルーぐんがグアヤキルに侵入しんにゅうした(グラン・コロンビア=ペルー戦争せんそう英語えいごばん)。これはスクレによって撃破げきはされたが、もはやボリバルの権威けんい低下ていかだれにもあきらかだった。さらにボリバル配下はいか将軍しょうぐんホセ・マリア・コルドバ反乱はんらんこす。これもまた鎮圧ちんあつされたが、1829ねんあきには、ベネズエラでホセ・アントニオ・パエスがだいコロンビアから分離ぶんり独立どくりつ宣言せんげんし、1830ねんはいるとまずベネズエラが正式せいしき完全かんぜん分離ぶんり独立どくりつ宣言せんげんつづいてキトとグアヤキルがエクアドルとして独立どくりつした。

最期さいご

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1830ねん1がつ、ボリバルは自身じしん政治せいじてき役割やくわり終焉しゅうえんさとり、すべての地位ちい放棄ほうきしてヨーロッパへとかうことを決意けついする。マグダレーナがわくだっている最中さいちゅうにボリバルの後継こうけいしゃされ、ボリバルの危機ききなんすくったスクレ陸軍りくぐん総監そうかんが、選出せんしゅつされたエクアドル大統領だいとうりょうにんさい移動いどうちゅう暗殺あんさつされたことをき、ふか喪失そうしつかんおそわれた。カリブ海かりぶかい港町みなとちょうサンタ・マルタまでたところでボリバルはきゅうちょうチフス悪化あっかし、ヨーロッパきをりやめた。サンタ・マルタのスペインじん邸宅ていたく療養りょうよう生活せいかつをしていたが、同年どうねん12がつ17にち死去しきょした。ボリバルの死後しご1831ねんラファエル・ウルダネータ将軍しょうぐん独裁どくさい崩壊ほうかいすると、残存ざんそんヌエバ・グラナダ共和きょうわこくがコロンビア共和きょうわこくから独立どくりつし、ボリバルのラテンアメリカ統合とうごうゆめ完全かんぜんやぶれた。

植民しょくみん時代じだいにはアメリカ大陸あめりかたいりくでも有数ゆうすうだい富豪ふごうだったボリバルも、シモンが革命かくめい理念りねんとハイチじんとの約束やくそくのためにみずからの奴隷どれい解放かいほうし、農園のうえん鉱山こうざん売却ばいきゃくし、私財しざいのほぼすべてをとうじて解放かいほう戦争せんそうつづけたために直前ちょくぜんには財産ざいさんはほとんどなにのこっておらず、シモンのによってボリバル完全かんぜん没落ぼつらくした。その一方いっぽうでベネスエラのパエスやエクアドルのフローレス英語えいごばん、ペルーのデ・ラ・マールスペインばん英語えいごばんのように、かつての部下ぶかだった将軍しょうぐんたちおおくはボリバルを裏切うらぎり、解放かいほう戦争せんそうによって権力けんりょく私財しざいたくわえ、各国かっこくの寡頭支配しはいそう形成けいせいした。後世こうせいへのいましめか、間際まぎわに「革命かくめい種子しゅしこうとするものは、大海たいかいたがや破目われめになる」という言葉ことばのこしている。

とくにヌエバ・グラナダにおいては、ボリバル中央ちゅうおう集権しゅうけん保守ほしゅ)とサンタンデル地方ちほう分権ぶんけん自由じゆう)の対立たいりつは、以後いご100ねん以上いじょうにわたる同国どうこく国内こくない対立たいりつ淵源えんげんをなすものだった。ボリバルの失脚しっきゃくともなってボリバルいきおいはおとろえ、1832ねんにサンタンデルが亡命ぼうめいさきから帰国きこくして大統領だいとうりょうとなるとその趨勢すうせいはさらに顕著けんちょなものとなった。サンタンデルは法治ほうち主義しゅぎほう自由じゆう主義しゅぎてき統治とうちおこなったが、一方いっぽうでボリバル人物じんぶつ政権せいけんから徹底的てっていてき排除はいじょし、これが現代げんだいまでコロンビアでつづ猟官りょうかんせい原因げんいんとなった[6]。やがて自由じゆうないにおいて穏健おんけん急進きゅうしん路線ろせん対立たいりつしょうじるようになる。穏健おんけん思想しそう保守ほしゅさせたうえでボリバル政治せいじ同盟どうめいむようになり、やがて両派りょうは合同ごうどうして保守党ほしゅとう結成けっせい自由じゆう後身こうしんである自由党じゆうとうはげしい政治せいじ闘争とうそうかえすようになる。この闘争とうそう1990年代ねんだいにいたるまで160ねん以上いじょうにもわたってつづき、幾度いくどものはげしい内戦ないせんとコロンビアの政治せいじてき不安定ふあんていさをまね主因しゅいんとなった。

人物じんぶつぞう

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シウダ・ボリバル銅像どうぞう

おどりが上手うまく、非常ひじょう情熱じょうねつてきで、理想りそう主義しゅぎしゃであったといわれている。また文筆ぶんぴつ才能さいのうにもすぐれていた。とくわかころモンテスキュールソー思想しそうれ、ナポレオンの戴冠たいかんしき出席しゅっせきしたことが、後年こうねんおおきな影響えいきょうあたえたといわれる。生涯しょうがい共和きょうわ主義しゅぎしゃとしてごし、君主くんしゅせい導入どうにゅう断固だんことして拒否きょひしたのはナポレオンに失望しつぼうしたからであったようである。一方いっぽうで、共和きょうわ主義しゅぎしゃではあったが大統領だいとうりょうにはつよ権限けんげんあたえることがのぞましいとし、大統領だいとうりょう任期にんき終身しゅうしんせいのぞましいとした。また、政治せいじシステムとしては強力きょうりょく中央ちゅうおう集権しゅうけん体制たいせいのぞんだ。宗教しゅうきょうてきにはカトリック教会きょうかい特権とっけん保護ほごし、教会きょうかい協調きょうちょうするみちえらんだ。これらは独立どくりつ戦争せんそうちゅうかく地方ちほう反目はんもくによって幾度いくど苦杯くはいをなめさせられたことや、しん国家こっか脆弱ぜいじゃくせい認識にんしきしていたことからるもので、実際じっさいに1828ねんから1830ねんにかけての、だいコロンビア末期まっきのボリバルの統治とうちはまさしく独裁どくさいせいであった。しかしこの政治せいじスタイルはみなみアメリカの当時とうじ現状げんじょうにはまった沿っておらず、かく地方ちほう分離ぶんり独立どくりつ自由じゆう抵抗ていこうまねき、かれ建国けんこくしただいコロンビアはわずか12ねん崩壊ほうかいすることとなった。

記念きねん

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かれは、現在げんざいでもみなみアメリカ各地かくちおおきな影響えいきょうあたえている。すでにべたが、ボリビアの国名こくめい由来ゆらいにもなり、ベネズエラではボリバルが革命かくめい議会ぎかいひら拠点きょてんとしたアンゴストゥーラのまちが、ボリバルにちなんでシウダ・ボリバル改名かいめいされた。またカラカス最寄もよりのマイケティア国際こくさい空港くうこうはシモン・ボリバルのわせおおくの街角まちかどには解放かいほうしゃボリバルの銅像どうぞうならび、ベネズエラの地図ちず作成さくせい役所やくしょは「ベネズエラ地理ちりいんシモン・ボリバル」を正式せいしき名称めいしょうとする。カラカスのボリバル広場ひろばと、ボゴタのボリバル広場ひろばは、それぞれ首都しゅと中心ちゅうしん広場ひろばである。「アラブのはる」で象徴しょうちょうてきはたらきをしたカイロのタハリール広場ひろばとなりにも「シモン・ボリバル広場ひろば」がある。その各国かっこくしゅう都市としまち街路がいろ大学だいがくなど、ボリバルのかんするものはおびただしい。ボリバルのまれた7がつ24にちはボリバル生誕せいたん記念きねんとしてベネズエラの祝日しゅくじつとなっている[7]。ベネズエラの通貨つうか単位たんいはボリバルで、紙幣しへい肖像しょうぞうおおくはボリバルのものとなっている。1999ねんにベネズエラの大統領だいとうりょう就任しゅうにんしたウゴ・チャベスは、ボリバル革命かくめいとなえて国名こくめいに「ボリバル」を挿入そうにゅうし、ベネズエラの正式せいしき国名こくめいは「ベネズエラ・ボリバル共和きょうわこく」となった[8]中国ちゅうごく協力きょうりょくげたベネズエラはつ人工じんこう衛星えいせいヴェネサット-1もシモン・ボリバルとづけられており、ボリバル宇宙うちゅう活動かつどうちょう運用うんようしている。

なおラテンアメリカ文学ぶんがく代表だいひょうする作家さっかガルシア・マルケスによる歴史れきし小説しょうせつで、ボリバル最期さいご日々ひびえがいた『迷宮めいきゅう将軍しょうぐん[9] がある。

語録ごろく

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  • 「エネルギーのないところ功績こうせきひからない。つよさのないところとくはなく、勇気ゆうきのないところ栄光えいこうはない。」
  • 最大さいだい背信はいしんは、忘恩ぼうおんである。」
  • わたし人民じんみんえらばれた指導しどうしゃよりも、指導しどうしゃえらんだ人民じんみんほうせんばいもの信頼しんらいいている。」
  • わたし困難こんなんおそれない。おおいなる事業じぎょうへの情熱じょうねつえているからだ。」
  • 団結だんけつせよ!さればわれらは無敵むてきとなる!」
  • わたし自由じゆう栄光えいこうのためにたたかってきた。しかし、個人こじんてき栄達えいたつのためにたたかったことはなかった。」
  • わたし自由じゆう栄光えいこうもとめてきて、両方りょうほうれた。だから、もうこれ以上いじょうのぞみはない。」
  • 自由じゆう栄光えいこうのためにはたらものは、自由じゆう栄光えいこう以外いがいのいかなる報酬ほうしゅうにすべきではない。」
  • 政府せいふ形成けいせいするのは原則げんそくではなく人間にんげんである。」
  • わたしにとって、栄光えいこうとはいかによく奉仕ほうしするかということであり、命令めいれいすることにあるのではない。」
  • わたしけんわたししんつねにコロンビアのものであろう。そしてわたし最後さいごいきてんにコロンビアの幸福こうふくねがうことになろう。」
  • 危険きけん直面ちょくめんする勇気ゆうき、これを克服こくふくする知恵ちえ祖国そこくたいするあい専制せんせい政治せいじたいするにくしみである。」
  • わたしにとって、栄光えいこうとは(中略ちゅうりゃくてきやぶることであり、勝利しょうり栄光えいこうをすべてわたし同胞どうほうあたえることにある。」
  • 「すべてのもの団結だんけつというはかれない利益りえきのためにはたらくべきだ。」
  • アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく自由じゆうにおいてアメリカ大陸あめりかたいりく災難さいなんだらけにしようとしているようにおもえる。」 - パナマ議会ぎかいスペインばん英語えいごばんさいかんじた合衆国がっしゅうこくへの不信ふしんかんにより。
  • 「イスパノアメリカには独裁どくさい政府せいふ状態じょうたいしかないのではないだろうか。」 - わらない地域ちいき主義しゅぎ内戦ないせんおもって。
  • 歴史れきしじょう最大さいだい馬鹿者ばかものさんにんは、イエス・キリストドン・キホーテわたしだ。」
  • 一体いったいどうやったらこの迷宮めいきゅうからせるんだ!」- 臨終りんじゅうさいして。
  • 我々われわれ幸福こうふくになることは永遠えいえんにないだろう。」 - 晩年ばんねん、ラファエル・ウルダネータ将軍しょうぐんけて。
  • わたし最後さいごねがいは祖国そこく幸福こうふくにある。」 - の1週間しゅうかんまえのこした遺言ゆいごん
  • 「サンタンデルとのなかをとりなさなかったことが、我々われわれ堕落だらくさせた。」 - の1ヵ月かげつまえ知人ちじんてた手紙てがみで、サンタンデル将軍しょうぐんとの対立たいりつ後悔こうかいして。

関連かんれん作品さくひん

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映画えいが

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ここにしめしたのは日本語にほんご表記ひょうきいちれいである。スペイン日本語にほんご表記ひょうき参照さんしょう
  2. ^ 父親ちちおやは1786ねん3さいとき母親ははおやは10さいときくしている。
  3. ^ ルソーの思想しそうおしえられた。

出典しゅってん

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  1. ^ フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著へんちょ樺山かばやま紘一こういち日本語にほんごばん監修かんしゅう『ラルース 図説ずせつ 世界せかい人物じんぶつ百科ひゃっか』Ⅲ フランス革命かくめい世界せかい大戦たいせん前夜ぜんや はら書房しょぼう 2005ねん 117ページ
  2. ^ 二村にむら久則ひさのり編集へんしゅう『コロンビアをるための60しょう』エリアスタディーズ90  82ページ 明石書店あかししょてん 2011ねん6がつ30にち初版しょはんだい1さつ 
  3. ^ ベネズエラ、ヌエバ・グラナダをひとつにしてコロンビア共和きょうわこくつくる。(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著へんちょ樺山かばやま紘一こういち日本語にほんごばん監修かんしゅう『ラルース 図説ずせつ 世界せかい人物じんぶつ百科ひゃっか』Ⅲ フランス革命かくめい世界せかい大戦たいせん前夜ぜんや はら書房しょぼう 2005ねん 118ページ)
  4. ^ 二村にむら久則ひさのり編集へんしゅう『コロンビアをるための60しょう』エリアスタディーズ90  84ページ 明石書店あかししょてん 2011ねん6がつ30にち初版しょはんだい1さつ 
  5. ^ 国本くにもと伊代いよ小林こばやし志郎しろう小沢おざわ卓也たくや『パナマをるための55しょう』p217 エリア・スタディーズ、明石書店あかししょてん 2004ねん
  6. ^ 寺澤てらさわたつ麿まろ『ビオレンシアの政治せいじ社会しゃかいわかこくコロンビアの“悪魔あくまばらい”』p57 アジア経済けいざい研究所けんきゅうじょ、2011ねんISBN 4258051136
  7. ^ 世界せかいこよみ文化ぶんか事典じてん」p386 ちゅうまきひろしまことへん 丸善まるぜん出版しゅっぱん 平成へいせい29ねん11月25にち発行はっこう
  8. ^ 「ベネズエラ 溶解ようかいする民主みんしゅ主義しゅぎ破綻はたんする経済けいざい」p16 坂口さかぐち安紀あき 中公ちゅうこう選書せんしょ 2021ねん1がつ10日とおか初版しょはん発行はっこう
  9. ^ 迷宮めいきゅう将軍しょうぐん原著げんちょは1989年刊ねんかん短期間たんきかん英訳えいやくほかが、世界せかい各国かっこくやくされた。日本にっぽんばん木村きむら栄一えいいちわけ新潮社しんちょうしゃ、1991ねん新版しんぱん2007ねん

参考さんこう文献ぶんけん

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  • ホセ・ルイス・サルセド=バスタルド『シモン・ボリーバル ラテンアメリカ解放かいほうしゃひと思想しそう』(1986ねん7がつ春秋しゅんじゅうしゃ、、監訳かんやく水野みずのはじめISBN 978-4393327050
  • 神代かみしろおさむ『シモン・ボリーバル-ラテンアメリカ独立どくりつちち』(2001ねん12月、行路こうろしゃISBN 978-4875343400

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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公職こうしょく
先代せんだい
-
ベネズエラだいさん共和きょうわこく英語えいごばん大統領だいとうりょう
1817ねん10がつ - 1819ねん12月17にち
次代じだい
ホセ・アントニオ・パエス英語えいごばん
初代しょだいベネズエラ大統領だいとうりょう
先代せんだい
-
だいコロンビア初代しょだい大統領だいとうりょう
1819ねん12月17にち - 1830ねん5月4にち
次代じだい
ドミンゴ・カイセド英語えいごばん
暫定ざんてい大統領だいとうりょう
先代せんだい
-
ボリビアの旗 ボリビア大統領だいとうりょう
初代しょだい:1825ねん8がつ12にち - どう12がつ29にち
次代じだい
アントニオ・ホセ・デ・スクレ
大統領だいとうりょう代理だいり
先代せんだい
ホセ・ベルナルド・デ・タグレ英語えいごばん
ペルーの旗 ペルー大統領だいとうりょう
だい8だい:1824ねん2がつ8にち - 1827ねん1がつ28にち
次代じだい
アンドレス・デ・サンタ・クルス