シモン・ボリバル (Simón Bolívar [siˈmom boˈliβ べーた aɾ] ( 音声 おんせい ファイル ) )として知 し られるシモン・ホセ・アントニオ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ボリバル・パラシオス・ポンテ・イ・ブランコ [ 注釈 ちゅうしゃく 1] (Simón José Antonio de la Santísima Trinidad Bolívar Palacios Ponte y Blanco 、1783年 ねん 7月 がつ 24日 にち - 1830年 ねん 12月17日 にち )は、南米 なんべい 大陸 たいりく のアンデス 5ヵ国 かこく をスペイン から独立 どくりつ に導 みちび き、統一 とういつ したコロンビア共和 きょうわ 国 こく を打 う ちたてようとした革命 かくめい 家 か 、軍人 ぐんじん 、政治 せいじ 家 か 、思想家 しそうか である。
ベネズエラ のカラカス に南米 なんべい 大陸 たいりく 屈指 くっし の名家 めいか の男子 だんし として生 う まれたが、早 はや いうちに妻 つま を亡 な くしたことがきっかけとなって、その後 ご の生涯 しょうがい をラテンアメリカ の人々 ひとびと の解放 かいほう と統一 とういつ に捧 ささ げた。このため、ラテンアメリカでは「解放 かいほう 者 しゃ 」 (El Libertador ) とも呼 よ ばれる。
ボリバルは1783年 ねん 、現在 げんざい のベネズエラ 、カラカス のクリオーリョ の名家 めいか に生 う まれた。ボリバル家 か は、16世紀 せいき にビスカヤ からベネズエラに移住 いじゅう したバスク人 じん の家系 かけい である。幼 おさな くして両親 りょうしん を亡 な くした[ 注釈 ちゅうしゃく 2] が、アメリカ大陸 あめりかたいりく 有数 ゆうすう の資産 しさん 家 か ボリバル家 か の男子 だんし としてさまざまな家庭 かてい 教師 きょうし を付 つ けられた。このときの教師 きょうし の1人 ひとり シモン・ロドリゲスの考 かんが えがボリバルに大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えている[ 注釈 ちゅうしゃく 3] 。さらに教育 きょういく を受 う けるため、1799年 ねん にスペインで任官 にんかん していたおじを頼 たよ ってヨーロッパに渡 わた り、修学 しゅうがく のためヨーロッパを旅行 りょこう している。ドイツ人 じん の自然 しぜん 学者 がくしゃ アレクサンダー・フォン・フンボルト に南米 なんべい 独立 どくりつ にかける思 おも いを語 かた って一笑 いっしょう に付 ふ されるなどの屈辱 くつじょく 的 てき な経験 けいけん もあったが、遊学 ゆうがく 中 ちゅう にスペインでマリア (Maria Teresa Rodríguez del Toro y Alaysa) と知 し り合 あ うと、1802年 ねん に現地 げんち で結婚 けっこん し、彼女 かのじょ を連 つ れてベネスエラに帰国 きこく した。しかし翌 よく 1803年 ねん 、熱帯 ねったい の気候 きこう に耐 た えられなかったマリアは黄熱病 おうねつびょう でその生涯 しょうがい を閉 と じ、以降 いこう ボリバルは深 ふか い喪失 そうしつ 感 かん を抱 だ いて生涯 しょうがい 再婚 さいこん することはなかった。1804年 ねん に傷心 しょうしん のままヨーロッパに戻 もど り、しばらくはナポレオン に仕 つか えたが、このころの南 みなみ アメリカでのスペインからの独立 どくりつ の機運 きうん を機 き に、祖国 そこく ベネズエラの独立 どくりつ を志 こころざ すようになったといわれている。
1806年 ねん にベネズエラ出身 しゅっしん の元 もと スペイン軍人 ぐんじん フランシスコ・デ・ミランダ がベネズエラ解放 かいほう のための戦争 せんそう を始 はじ めると、ボリバルはこれに興味 きょうみ を抱 いだ き、1807年 ねん にベネズエラに帰国 きこく した。南 みなみ アメリカは1,400万 まん 人 にん の人口 じんこう を擁 よう し、ヨーロッパ人 じん と現地 げんち 人 じん の混血 こんけつ が進 すす んでいた[ 1] 。
その後 ご 、1808年 ねん にナポレオンがスペインに侵入 しんにゅう して兄 あに のジョゼフ・ボナパルト をスペイン王 おう ホセ1世 せい として擁立 ようりつ した際 さい 、ボリバルは反 はん 王政 おうせい 派 は (愛国 あいこく 連盟 れんめい )に加 くわ わった。1810年 ねん 4月 がつ 19日 にち 、カラカスは植民 しょくみん 地 ち の自治 じち を実行 じっこう するための議会 ぎかい を設置 せっち 。ボリバルはイギリス に革命 かくめい の支持 しじ を取 と り付 つ けるために派遣 はけん された。イギリスでの活動 かつどう 目的 もくてき は、スペイン植民 しょくみん 地 ち 独立 どくりつ 運動 うんどう の説明 せつめい と万 まん が一 いち の場合 ばあい の武器 ぶき などの支援 しえん を受 う けられるように働 はたら きかけることであった。資産 しさん 以外 いがい に何 なん の後 うし ろ盾 たて もなかったボリバルのイングランド 説得 せっとく は不 ふ 成功 せいこう に終 お わったが、ボリバルはイギリスの政治 せいじ 制度 せいど から多 おお くを学 まな び、後年 こうねん 世界 せかい で最 もっと も優 すぐ れた政治 せいじ 体制 たいせい は君主 くんしゅ 制 せい を除 のぞ いてイギリスのものだと語 かた っている。
ボリバルは1811年 ねん にベネズエラに帰国 きこく 、3月に開 ひら かれた制憲 せいけん 会議 かいぎ で演説 えんぜつ を行 おこな った。同年 どうねん 7月 がつ に、制憲 せいけん 会議 かいぎ がベネズエラの独立 どくりつ を宣言 せんげん 。ボリバルはベネズエラ国軍 こくぐん に入隊 にゅうたい した。ボリバルはプエルト・カベロの要塞 ようさい の守備 しゅび をしていたが、将校 しょうこう の裏切 うらぎ りにより要塞 ようさい がスペイン軍 ぐん の手 て に渡 わた ってしまった。さらに同年 どうねん 起 お こったカラカス地震 じしん による被害 ひがい は大 おお きく、1812年 ねん 7月 がつ 、カラカスは再 ふたた びスペイン軍 ぐん に占領 せんりょう されてしまう。これを重 おも く見 み たミランダはスペインと休戦 きゅうせん (事実 じじつ 上 じょう の降伏 ごうぶく )したが、ボリバルは徹底 てってい 抗戦 こうせん を誓 ちか って裏切 うらぎ り者 もの のミランダをスペイン軍 ぐん に引 ひ き渡 わた し、12月にはヌエバ・グラナダ連合 れんごう 州 しゅう (英語 えいご 版 ばん ) (1810年 ねん - 1816年 ねん )が支配 しはい していた現 げん コロンビア のカリブ海 かりぶかい 沿岸 えんがん の都市 とし カルタヘナ に向 むか った。
ヌエバ・グラナダのカルタヘナで、スペインへの徹底 てってい 抗戦 こうせん を誓 ちか うカルタヘナ宣言 せんげん を発表 はっぴょう 。これに共感 きょうかん したヌエバ・グラナダの市民 しみん はボリバルをベネズエラ解放 かいほう 遠征 えんせい 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん に任命 にんめい 。サンタフェ・デ・ボゴタ を中心 ちゅうしん とするクンディナマルカ共和 きょうわ 国 こく (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) (1810年 ねん - 1815年 ねん )の指導 しどう 者 しゃ アントニオ・ナリーニョ の支援 しえん を得 え て1813年 ねん 、ボリバルはベネズエラ進攻 しんこう を指揮 しき して5月 がつ 23日 にち にメリダに入 はい り、El Libertador (解放 かいほう 者 しゃ )と呼 よ ばれた。8月6日 にち にカラカスを奪回 だっかい し、ベネスエラ第 だい 二 に 共和 きょうわ 国 こく (英語 えいご 版 ばん ) (1813年 ねん - 1814年 ねん )の成立 せいりつ を宣言 せんげん した。
兵力 へいりょく 劣勢 れっせい な共和 きょうわ 派 は が成功 せいこう したのは、軽快 けいかい な機動 きどう 力 りょく と優 すぐ れた戦術 せんじゅつ によるものであった。だがカラカスに入 はい り込 こ むと、ボリバルの足 あし は縛 しば られた。強力 きょうりょく な王 おう 党派 とうは 軍 ぐん はたいして減 へ っておらず、白人 はくじん クリオーリョへの反感 はんかん を利用 りよう して地方 ちほう のメスティーソ やインディオ などの民衆 みんしゅう から兵 へい を集 あつ め、カラカスを締 し め上 あ げた。そのうえ、スペイン本国 ほんごく においても1814年 ねん にスペイン独立 どくりつ 戦争 せんそう が終結 しゅうけつ してフェルナンド7世 せい が復位 ふくい したため、植民 しょくみん 地 ち の独立 どくりつ 軍 ぐん を鎮圧 ちんあつ する体制 たいせい を整 ととの えられるようになった。カラカス市民 しみん は共和 きょうわ 派 は 支持 しじ を鮮明 せんめい にしており、その頃 ころ 荒 あ れ狂 くる っていた王 おう 党派 とうは の虐殺 ぎゃくさつ から逃 のが れてきた難民 なんみん でカラカスの人口 じんこう は膨 ふく れ上 あ がった。そのような情勢 じょうせい で軽々 かるがる しく市 し を放棄 ほうき すると、味方 みかた の市民 しみん が殺 ころ される恐 おそ れがあった。1814年 ねん に共和 きょうわ 派 は の軍 ぐん は防衛 ぼうえい 戦 せん で消耗 しょうもう したあげく、分 わ かれて脱出 だっしゅつ した。ボリバルが市民 しみん を引 ひ きつれて東 ひがし に脱出 だっしゅつ すると、スペイン軍 ぐん は再 ふたた びカラカスを占領 せんりょう した。
さらにその頃 ころ ヌエバ・グラナダでは、トゥンハ に首都 しゅと を置 お き連邦 れんぽう 制 せい を主張 しゅちょう するヌエバ・グラナダ連合 れんごう 州 しゅう とボゴタに拠点 きょてん を置 お き中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 体制 たいせい を目指 めざ すクンディナマルカ共和 きょうわ 国 こく が対立 たいりつ し、独立 どくりつ 勢力 せいりょく 同士 どうし で内戦 ないせん 状態 じょうたい となっていた。ボリバルはカルタヘナへと戻 もど ると、ヌエバ・グラナダ連合 れんごう 州 しゅう の軍 ぐん を率 ひき いて1814年 ねん にボゴタを攻略 こうりゃく し[ 2] 、両 りょう 勢力 せいりょく を統合 とうごう した。ヌエバ・グラナダ連合 れんごう 州 しゅう は首都 しゅと をボゴタに移 うつ し、さらにサンタ・マルタ のスペイン軍 ぐん を包囲 ほうい するが、根拠地 こんきょち だったカルタヘナで起 お きた王 おう 党派 とうは の蜂起 ほうき に敗 やぶ れたため、1815年 ねん にイギリス領 りょう ジャマイカ へと亡命 ぼうめい した。亡命 ぼうめい 後 ご 、スペイン軍 ぐん は兵力 へいりょく を増強 ぞうきょう して独立 どくりつ 軍 ぐん の拠点 きょてん を次々 つぎつぎ と陥落 かんらく させ、1815年 ねん にはカルタヘナも陥落 かんらく した。
ジャマイカに逃 のが れたボリバルは、南 みなみ アメリカ諸国 しょこく [ 3] をイギリスの立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい のような政治 せいじ システムで自由 じゆう を勝 か ち取 と る構想 こうそう を元 もと に、ジャマイカ書簡 しょかん と呼 よ ばれる著作 ちょさく を執筆 しっぴつ した。この書簡 しょかん を使 つか ってイギリスの援助 えんじょ を求 もと めたが、イギリスはこれを黙殺 もくさつ した。
1815年 ねん にボリバルはイスパニョーラ島 とう に渡 わた り、南西 なんせい 部 ぶ のハイチ共和 きょうわ 国 こく を支配 しはい していたアレクサンドル・ペション に軍事 ぐんじ 的 てき 援助 えんじょ を求 もと めた。解放 かいほう 戦争 せんそう 終了 しゅうりょう 後 ご 、黒人 こくじん 奴隷 どれい を解放 かいほう することを条件 じょうけん にペションはこれを認 みと め、物心 ぶっしん 共 ども に援助 えんじょ を与 あた えた。
ボヤカの戦 たたか い
1816年 ねん にハイチの援助 えんじょ を得 え てボリバルはベネズエラに上陸 じょうりく し再 ふたた びスペインとの戦闘 せんとう を開始 かいし した。ここで奴隷 どれい 制 せい を廃止 はいし し、その解放 かいほう した奴隷 どれい たちを自軍 じぐん の兵士 へいし に組 く み込 こ み一進一退 いっしんいったい の戦 たたか いを続 つづ けたが、ジャネーロ (英語 えいご 版 ばん ) (Llanero )を説得 せっとく し、アンゴストゥーラを攻略 こうりゃく したところで劣勢 れっせい になり、再 ふたた びハイチに亡命 ぼうめい した。1817年 ねん 夏 なつ に再 ふたた びベネズエラに上陸 じょうりく し、アンゴストゥーラ(現在 げんざい のシウダ・ボリバル )を攻略 こうりゃく すると、今度 こんど はアンゴストゥーラをベネスエラ第 だい 三 さん 共和 きょうわ 国 こく (スペイン語 ご 版 ばん ) (1817年 ねん - 1819年 ねん )の臨時 りんじ 首都 しゅと と宣言 せんげん した。さらにジャネーロの頭目 とうもく (カウディーリョ )ホセ・アントニオ・パエス (英語 えいご 版 ばん ) の協力 きょうりょく を取 と り付 つ けることに成功 せいこう し、イギリスは独立 どくりつ 勢力 せいりょく を公然 こうぜん と援助 えんじょ することはなかったが、この頃 ころ イギリス・スペイン関係 かんけい は冷却 れいきゃく 化 か していたためイギリス人 じん やスコットランド人 じん やアイルランド人 じん の義勇 ぎゆう 兵 へい が軍 ぐん に加 くわ わってきた。
ベネズエラでの作戦 さくせん 中 ちゅう 、1816年 ねん にボゴタが陥落 かんらく し、ヌエバ・グラナダの独立 どくりつ 勢力 せいりょく は完全 かんぜん に崩壊 ほうかい した。1819年 ねん 、ボリバルは守 まも りの堅 かた いカラカスをやり過 す ごしてヌエバ・グラナダにとってかえす作戦 さくせん を立案 りつあん した。部隊 ぶたい を二 に 手 て に分 わ け、一 いち 隊 たい を平野 へいや 部 ぶ (ジャノ)に進撃 しんげき させ、ボリバル率 ひき いる本隊 ほんたい はアンデス山脈 あんですさんみゃく を越 こ えてヌエバ・グラナダへ進撃 しんげき するというものであった。ボリバル率 ひき いる本隊 ほんたい は、風雨 ふうう と寒気 さむけ にさらされて多数 たすう の死者 ししゃ を出 だ したが、スペイン軍 ぐん の裏 うら を見事 みごと に衝 つ いて、同年 どうねん 8月 がつ 7日 にち 、ボヤカの戦 たたか い で勝利 しょうり し[ 4] 、8月 がつ 10日 とおか ボゴタに再 さい 入城 にゅうじょう した。
1819年 ねん 12月、ボリバルはアンゴストゥーラ議会 ぎかい (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) でヌエバ・グラナダ共和 きょうわ 国 こく の大統領 だいとうりょう と軍 ぐん 指揮 しき 官 かん になった。ボリバルは議会 ぎかい にヌエバ・グラナダとベネズエラを合併 がっぺい した新 あたら しい国家 こっか の創設 そうせつ を要請 ようせい した。直 ただ ちに現在 げんざい のベネズエラ・コロンビア・パナマ ・エクアドル を合 あ わせた地域 ちいき がコロンビア共和 きょうわ 国 こく (後世 こうせい 呼 よ ばれる大 だい コロンビア )として宣言 せんげん された。しかし、ベネズエラとキト とグアヤキル は依然 いぜん としてスペインの支配 しはい 下 か であった。
1820年 ねん にボリバル軍 ぐん とスペインの間 あいだ で6ヵ月 かげつ の休戦 きゅうせん 条約 じょうやく が結 むす ばれるが、休戦 きゅうせん 期間 きかん 終了 しゅうりょう 後 ご 間 あいだ もなく、ボリバルとスペイン軍 ぐん の間 あいだ で戦闘 せんとう が起 お こる。 ベネズエラに侵攻 しんこう したボリバルは1821年 ねん 6月のカラボボの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) で勝利 しょうり し、故郷 こきょう カラカスを奪還 だっかん する。ボリバルは、1821年 ねん 5月 がつ に開催 かいさい された大 だい コロンビアの憲法 けんぽう 起草 きそう のためのククタ議会 ぎかい (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) に招集 しょうしゅう され、初代 しょだい コロンビア共和 きょうわ 国 こく の大統領 だいとうりょう として指名 しめい を受 う けた。そして国内 こくない が一応 いちおう 固 かた まる様子 ようす をみせると、内政 ないせい はそれまで副官 ふっかん を務 つと めていたヌエバ・グラナダ人 じん の副 ふく 大統領 だいとうりょう フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル 以下 いか に任 まか せて、ボリバルは大 だい コロンビア領 りょう に理論 りろん 的 てき には含 ふく まれるもののまだスペインの統治 とうち 下 か にあるキト、そして王 おう 党派 とうは の牙城 がじょう ペルー 方面 ほうめん の解放 かいほう に向 む かった。
ペルー解放 かいほう と独立 どくりつ 戦争 せんそう の終結 しゅうけつ [ 編集 へんしゅう ]
1822年 ねん 、ボリバルはエクアドル方面 ほうめん の攻略 こうりゃく を本格 ほんかく 化 か させる。ボリバルの率 ひき いる部隊 ぶたい が山間 さんかん 部 ぶ からエクアドルに侵入 しんにゅう し、ボリバルの部下 ぶか であったベネズエラ人 じん のアントニオ・ホセ・デ・スクレ が太平洋 たいへいよう 側 がわ からエクアドルに進 すす んだ。スクレの部隊 ぶたい は 1822年 ねん 5月 がつ 24日 にち にピチンチャの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) で勝利 しょうり を収 おさ め、翌日 よくじつ にはキトに入城 にゅうじょう を果 は たした。ボリバルもキトに合流 ごうりゅう し、ここにエクアドルの解放 かいほう を果 は たした。また、ここで「永遠 えいえん の愛人 あいじん 」となるマヌエラ・サエンス (英語 えいご 版 ばん ) と出会 であ うことになった。
グアヤキル に並 なら び立 た つ、二人 ふたり の解放 かいほう 者 しゃ とラテン・アメリカの解放 かいほう と統一 とういつ の記念 きねん 碑 ひ
このころ、アルゼンチン のホセ・デ・サン・マルティン 将軍 しょうぐん は、チリの独立 どくりつ 指導 しどう 者 しゃ ベルナルド・オイヒンス や、スコットランド の元 もと 英 えい 王立 おうりつ 海軍 かいぐん 軍人 ぐんじん トマス・コクラン らの力 ちから を借 か りて、アルゼンチンのメンドーサ からアンデス山脈 あんですさんみゃく 越 こ え(英語 えいご 版 ばん ) をもってチリ を解放 かいほう し、そこから海路 かいじ ペルーまで進 すす み、初代 しょだい ペルー護国 ごこく 官 かん となって南 みなみ から解放 かいほう 戦争 せんそう を進 すす めていた。しかし、このペルー共和 きょうわ 国 こく の支配 しはい 権 けん は海岸 かいがん 部 ぶ に限定 げんてい され、アルト・ペルー(現 げん ボリビア)に拠点 きょてん を置 お くスペイン軍 ぐん とペルー副 ふく 王 おう のラセルナは抵抗 ていこう を続 つづ けてサン・マルティンを翻弄 ほんろう し、ペルー第 だい 一 いち 共和 きょうわ 国 こく の崩壊 ほうかい が迫 せま っていた。
このため、サン・マルティンは大 だい コロンビア軍 ぐん に支援 しえん を求 もと めようとした。ボリバルはこの思 おも わぬもう一人 ひとり の解放 かいほう 者 しゃ に出 で くわしたことを喜 よろこ び、解放 かいほう されたグアヤキルで1822年 ねん 7月 がつ 26日 にち にグアヤキル会談 かいだん (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) を行 おこな った。会談 かいだん の内容 ないよう は資料 しりょう が残 のこ っておらず詳細 しょうさい は不明 ふめい であるが、グアヤキル地方 ちほう の帰属 きぞく 問題 もんだい とペルーのスペインからの独立 どくりつ の仕方 しかた であったといわれている。ボリバルが共和 きょうわ 制 せい を望 のぞ んだのとは対照 たいしょう 的 てき に、サン・マルティンはヨーロッパから王 おう を導入 どうにゅう して立憲 りっけん 君主 くんしゅ 制 せい を導入 どうにゅう することを望 のぞ んでいたが、ナポレオンの戴冠 たいかん によりフランス革命 かくめい が大 だい 失敗 しっぱい したと考 かんが えていたボリバルにとって、これは到底 とうてい 受 う け入 い れることのできない条件 じょうけん だった。結局 けっきょく 、ボリバル軍 ぐん に加 くわ わりたいというサン・マルティンの申 もう し出 で もボリバルが断 ことわ ると、サン・マルティンはアルゼンチンに帰国 きこく してしまった。この会談 かいだん ののち、サン・マルティンが軍 ぐん を率 ひき いることは二度 にど となく、1824年 ねん にはヨーロッパへと移住 いじゅう してしまった。このため、山岳 さんがく 部 ぶ に勢力 せいりょく を張 は るスペイン軍 ぐん との対決 たいけつ は、以後 いご ボリバルの手 て にゆだねられることとなった。
アヤクーチョの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん )
サン・マルティンが引退 いんたい したためペルーはボリバルの大 だい コロンビアに援軍 えんぐん を依頼 いらい し、1823年 ねん にボリバルはまずスクレを先遣 せんけん 隊 たい として派遣 はけん したのち、1823年 ねん 9月にはボリバル自身 じしん がペルーへと移動 いどう した。ボリバル軍 ぐん はリマ に進出 しんしゅつ し、リマの東山 ひがしやま 地 ち に陣地 じんち を築 きず いていたスペイン軍 ぐん と対峙 たいじ した。ボリバルは1824年 ねん 2月 がつ 8日 にち にペルーの第 だい 8代 だい 大統領 だいとうりょう に選出 せんしゅつ され、大 だい コロンビアとペルーの大統領 だいとうりょう を兼任 けんにん することとなった。ピチンチャの戦 たたか いで活躍 かつやく したスクレを総 そう 司令 しれい 官 かん (実質 じっしつ 的 てき には参謀 さんぼう 長 ちょう )に据 す えて、攻略 こうりゃく を開始 かいし した。ボリバルは病 やまい に倒 たお れ戦線 せんせん を離脱 りだつ したが、スクレが1824年 ねん 12月9日 にち 、アヤクーチョの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) で大勝 たいしょう し、ペルー副 ふく 王 おう のホセ・デ・ラ・セルナ (英語 えいご 版 ばん ) を降伏 ごうぶく させた。
ペルー解放 かいほう によって南 みなみ アメリカの独立 どくりつ 戦争 せんそう の大勢 おおぜい は決 けっ したが、依然 いぜん としてアルト・ペルー (高地 たかち ペルー)はスペイン軍 ぐん に支配 しはい されていた。しかしペルーから進軍 しんぐん したスクレが1825年 ねん 4月 がつ に解放 かいほう し、ラテン・アメリカ大陸 あめりかたいりく 部 ぶ での解放 かいほう 戦争 せんそう はここに終結 しゅうけつ した。こうして植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい には同一 どういつ の行政 ぎょうせい 区画 くかく だったペルー、アルゼンチンとの連合 れんごう を望 のぞ まなかったアルト・ペルー支配 しはい 層 そう と、ボリバルらの思惑 おもわく が一致 いっち したためアルト・ペルー共和 きょうわ 国 こく が誕生 たんじょう した。1825年 ねん 8月 がつ 6日 にち 、アルト・ペルー共和 きょうわ 国 こく 議会 ぎかい は独立 どくりつ におけるボリバルとスクレの功績 こうせき を讃 たた え、独立 どくりつ に際 さい して国名 こくめい をボリビア 、首都 しゅと 名 めい をスクレ (旧 きゅう チャルカス)と定 さだ めた。1825年 ねん 8月 がつ 12日 にち 、ボリバルは新生 しんせい ボリビア共和 きょうわ 国 こく の初代 しょだい 大統領 だいとうりょう に選出 せんしゅつ され、大 だい コロンビア・ペルー・ボリビアの3か国 こく の元首 げんしゅ を兼任 けんにん することとなったが、ボリビアにおけるボリバルの大統領 だいとうりょう 位 い は名誉 めいよ 職 しょく 的 てき なものにすぎず、同年 どうねん の12月29日 にち には大統領 だいとうりょう を辞任 じにん して後任 こうにん をスクレに任 まか せた。
南 みなみ アメリカ大陸 あめりかたいりく のすべてのスペイン領 りょう が独立 どくりつ したことで独立 どくりつ 戦争 せんそう が終結 しゅうけつ すると、ボリバルは1824年 ねん 末 まつ 、南 みなみ アメリカ大陸 あめりかたいりく の新 しん 独立 どくりつ 国家 こっか 群 ぐん に独立 どくりつ 保全 ほぜん のための協議 きょうぎ を行 おこな うよう提案 ていあん した。1826年 ねん にこの会議 かいぎ は実現 じつげん の運 はこ びとなり、南北 なんぼく 両 りょう アメリカ大陸 あめりかたいりく の結節 けっせつ 点 てん となる大 だい コロンビア共和 きょうわ 国 こく のパナマ市 し において6月 がつ 22日 にち から7月 がつ 15日 にち までパナマ議会 ぎかい (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) が開催 かいさい された。会議 かいぎ の参加 さんか 国 こく は大 だい コロンビア、ペルー、中央 ちゅうおう アメリカ連邦 れんぽう 、メキシコ の4か国 こく だった。オブザーバーとしてイギリス とオランダ が参加 さんか したが、アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく は招 まね かれたものの会議 かいぎ に間 ま に合 あ わず結局 けっきょく 欠席 けっせき となった。南 みなみ アメリカ南部 なんぶ のチリ、アルゼンチン、ブラジル はボリバルの影響 えいきょう 力 りょく 拡大 かくだい を懸念 けねん して参加 さんか せず、孤立 こりつ していたパラグアイ にはそもそも招待 しょうたい 状 じょう が送 おく られなかった。この会議 かいぎ においては参加 さんか 各国 かっこく の相互 そうご 防衛 ぼうえい 条約 じょうやく が締結 ていけつ され、また市民 しみん 権 けん の相互 そうご 承認 しょうにん や域内 いきない 戦争 せんそう の禁止 きんし 、奴隷 どれい 貿易 ぼうえき の禁止 きんし などが可決 かけつ された[ 5] が、この条約 じょうやく は大 だい コロンビアの議会 ぎかい しか批准 ひじゅん せず、ボリバルの構想 こうそう した相互 そうご 防衛 ぼうえい の枠組 わくぐ みは成立 せいりつ しなかった。
成立 せいりつ した大 だい コロンビアであったが、ペルーやボリビアの解放 かいほう 戦争 せんそう の戦費 せんぴ 負担 ふたん などで国内 こくない 経済 けいざい は疲弊 ひへい しており、また国内 こくない の3地域 ちいき (ベネズエラ、ヌエバ・グラナダ、キト)の対立 たいりつ は激 はげ しく、特 とく にベネズエラとヌエバ・グラナダ間 あいだ の対立 たいりつ は先鋭 せんえい 化 か するばかりだった。ベネズエラ地域 ちいき の実力 じつりょく 者 しゃ であるホセ・アントニオ・パエスと議会 ぎかい との対立 たいりつ は1824年 ねん 以降 いこう 先鋭 せんえい 化 か し、これをおさめるためにボリバルがパエスに融和 ゆうわ 的 てき な態度 たいど を示 しめ すと、ヌエバ・グラナダを基盤 きばん とするサンタンデールが不満 ふまん を募 つの らせていった。ボリバルが独立 どくりつ 戦争 せんそう 時 じ の経験 けいけん などから中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん を求 もと め、カトリック教会 きょうかい を重視 じゅうし し、大統領 だいとうりょう については終身 しゅうしん 制 せい が望 のぞ ましいと考 かんが えていたのに対 たい し、サンタンデルは地方 ちほう 分権 ぶんけん の連邦 れんぽう 制 せい を求 もと め、信教 しんきょう の自由 じゆう を保障 ほしょう し、大統領 だいとうりょう は任期 にんき 制 せい の上 うえ 再任 さいにん 不可 ふか が望 のぞ ましいとしていたため、路線 ろせん 対立 たいりつ によって対立 たいりつ はさらに深 ふか まった。ボリバル派 は は「追従 ついしょう 派 は 」、サンタンデル派 は は「自由 じゆう 派 は 」と呼 よ ばれるようになり、党派 とうは 対立 たいりつ は深 ふか まるばかりだった。1827年 ねん 、大 だい コロンビアのベネズエラとヌエバ・グラナダの間 あいだ で内乱 ないらん が起 お きると、鎮圧 ちんあつ のためボリバルは1827年 ねん 1月 がつ 28日 にち にペルー大統領 だいとうりょう を辞任 じにん し、リマを去 さ った。ボリバルは、あくまで大 だい コロンビア、ラテンアメリカ連合 れんごう の維持 いじ を理想 りそう とした。1828年 ねん 4月 がつ にはオカーニャにて大 だい コロンビア国民 こくみん 会議 かいぎ (憲法 けんぽう 制定 せいてい 会議 かいぎ )を招集 しょうしゅう した。この時 とき ボリバルは自 じ 派 は である追従 ついしょう 派 は の多数 たすう 派 は 工作 こうさく を行 おこな っていたのだが、いざ会議 かいぎ が始 はじ まると自由 じゆう 派 は が多数 たすう を占 し めるようになり、ボリバルのもくろみは外 はず れてしまった。このためボリバルは8月 がつ にサンタンデルを解任 かいにん し、憲法 けんぽう を停止 ていし して、独裁 どくさい 権 けん を手中 しゅちゅう に収 おさ める。しかし、翌月 よくげつ には解任 かいにん されたサンタンデル派 は によってボリバル暗殺 あんさつ 計画 けいかく が立 た てられ、ボリバルは大統領 だいとうりょう 宮殿 きゅうでん から危機一髪 ききいっぱつ で逃 に げ出 だ すこととなった。このためボリバルはサンタンデルを国外 こくがい 追放 ついほう 処分 しょぶん としたが、自身 じしん の健康 けんこう 状態 じょうたい の悪化 あっか などにより事態 じたい は流動的 りゅうどうてき になり始 はじ めた。
1829年 ねん には、ペルー大統領 だいとうりょう となったアグスティン・ガマーラが現在 げんざい のエクアドルにあたる地域 ちいき の領有 りょうゆう を要求 ようきゅう し、ペルー軍 ぐん がグアヤキルに侵入 しんにゅう した(グラン・コロンビア=ペルー戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) )。これはスクレによって撃破 げきは されたが、もはやボリバルの権威 けんい の低下 ていか は誰 だれ の目 め にも明 あき らかだった。さらにボリバル配下 はいか の将軍 しょうぐん ホセ・マリア・コルドバ が反乱 はんらん を起 お こす。これもまた鎮圧 ちんあつ されたが、1829年 ねん の秋 あき には、ベネズエラでホセ・アントニオ・パエスが大 だい コロンビアから分離 ぶんり 独立 どくりつ を宣言 せんげん し、1830年 ねん に入 はい るとまずベネズエラが正式 せいしき に完全 かんぜん 分離 ぶんり 独立 どくりつ を宣言 せんげん 、続 つづ いてキトとグアヤキルがエクアドルとして独立 どくりつ した。
1830年 ねん 1月 がつ 、ボリバルは自身 じしん の政治 せいじ 的 てき な役割 やくわり の終焉 しゅうえん を悟 さと り、全 すべ ての地位 ちい を放棄 ほうき してヨーロッパへと向 む かうことを決意 けつい する。マグダレーナ川 がわ を下 くだ っている最中 さいちゅう にボリバルの後継 こうけい 者 しゃ と目 め され、ボリバルの危機 きき を何 なん 度 ど も救 すく ったスクレ陸軍 りくぐん 総監 そうかん が、選出 せんしゅつ されたエクアドル大統領 だいとうりょう の任 にん に就 つ く際 さい の移動 いどう 中 ちゅう に暗殺 あんさつ されたことを聞 き き、深 ふか い喪失 そうしつ 感 かん に襲 おそ われた。カリブ海 かりぶかい の港町 みなとちょう サンタ・マルタ まで来 き たところでボリバルは急 きゅう に腸 ちょう チフス が悪化 あっか し、ヨーロッパ行 い きを取 と りやめた。サンタ・マルタのスペイン人 じん の邸宅 ていたく で療養 りょうよう 生活 せいかつ をしていたが、同年 どうねん 12月 がつ 17日 にち に死去 しきょ した。ボリバルの死後 しご 、1831年 ねん にラファエル・ウルダネータ 将軍 しょうぐん の独裁 どくさい が崩壊 ほうかい すると、残存 ざんそん 部 ぶ のヌエバ・グラナダ共和 きょうわ 国 こく がコロンビア共和 きょうわ 国 こく から独立 どくりつ し、ボリバルのラテンアメリカ統合 とうごう の夢 ゆめ は完全 かんぜん に敗 やぶ れた。
植民 しょくみん 地 ち 時代 じだい にはアメリカ大陸 あめりかたいりく でも有数 ゆうすう の大 だい 富豪 ふごう だったボリバル家 か も、シモンが革命 かくめい の理念 りねん とハイチ人 じん との約束 やくそく のために自 みずか らの奴隷 どれい を解放 かいほう し、農園 のうえん や鉱山 こうざん を売却 ばいきゃく し、私財 しざい のほぼ全 すべ てを投 とう じて解放 かいほう 戦争 せんそう を続 つづ けたために死 し の直前 ちょくぜん には財産 ざいさん はほとんど何 なに も残 のこ っておらず、シモンの死 し によってボリバル家 か は完全 かんぜん に没落 ぼつらく した。その一方 いっぽう でベネスエラのパエスやエクアドルのフローレス (英語 えいご 版 ばん ) 、ペルーのデ・ラ・マール (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) のように、かつての部下 ぶか だった将軍 しょうぐん 達 たち の多 おお くはボリバルを裏切 うらぎ り、解放 かいほう 戦争 せんそう によって得 え た権力 けんりょく で私財 しざい を蓄 たくわ え、各国 かっこく の寡頭支配 しはい 層 そう を形成 けいせい した。後世 こうせい への戒 いまし めか、死 し の間際 まぎわ に「革命 かくめい の種子 しゅし を播 ま こうとする者 もの は、大海 たいかい を耕 たがや す破目 われめ になる」という言葉 ことば を残 のこ している。
とくにヌエバ・グラナダにおいては、ボリバル派 は (中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 派 は ・保守 ほしゅ 派 は )とサンタンデル派 は (地方 ちほう 分権 ぶんけん 派 は ・自由 じゆう 派 は )の対立 たいりつ は、以後 いご 100年 ねん 以上 いじょう にわたる同国 どうこく の国内 こくない 対立 たいりつ の淵源 えんげん をなすものだった。ボリバルの失脚 しっきゃく に伴 ともな ってボリバル派 は の勢 いきお いは衰 おとろ え、1832年 ねん にサンタンデルが亡命 ぼうめい 先 さき から帰国 きこく して大統領 だいとうりょう となるとその趨勢 すうせい はさらに顕著 けんちょ なものとなった。サンタンデルは法治 ほうち 主義 しゅぎ を奉 ほう じ自由 じゆう 主義 しゅぎ 的 てき な統治 とうち を行 おこな ったが、一方 いっぽう でボリバル派 は の人物 じんぶつ を政権 せいけん から徹底的 てっていてき に排除 はいじょ し、これが現代 げんだい までコロンビアで続 つづ く猟官 りょうかん 制 せい の原因 げんいん となった[ 6] 。やがて自由 じゆう 派 は 内 ない において穏健 おんけん 派 は と急進 きゅうしん 派 は の路線 ろせん 対立 たいりつ が生 しょう じるようになる。穏健 おんけん 派 は は思想 しそう を保守 ほしゅ 化 か させたうえでボリバル派 は と政治 せいじ 同盟 どうめい を組 く むようになり、やがて両派 りょうは は合同 ごうどう して保守党 ほしゅとう を結成 けっせい 。自由 じゆう 派 は の後身 こうしん である自由党 じゆうとう と激 はげ しい政治 せいじ 闘争 とうそう を繰 く り返 かえ すようになる。この闘争 とうそう は1990年代 ねんだい にいたるまで160年 ねん 以上 いじょう にもわたって続 つづ き、幾度 いくど もの激 はげ しい内戦 ないせん とコロンビアの政治 せいじ 的 てき な不安定 ふあんてい さを招 まね く主因 しゅいん となった。
シウダ・ボリバル の銅像 どうぞう
踊 おど りが上手 うま く、非常 ひじょう に情熱 じょうねつ 的 てき で、理想 りそう 主義 しゅぎ 者 しゃ であったといわれている。また文筆 ぶんぴつ の才能 さいのう にも優 すぐ れていた。特 とく に若 わか い頃 ころ にモンテスキュー やルソー の思想 しそう に触 ふ れ、ナポレオンの戴冠 たいかん 式 しき に出席 しゅっせき したことが、後年 こうねん に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えたといわれる。生涯 しょうがい を共和 きょうわ 主義 しゅぎ 者 しゃ として過 す ごし、君主 くんしゅ 制 せい の導入 どうにゅう を断固 だんこ として拒否 きょひ したのはナポレオンに失望 しつぼう したからであったようである。一方 いっぽう で、共和 きょうわ 主義 しゅぎ 者 しゃ ではあったが大統領 だいとうりょう には強 つよ い権限 けんげん を与 あた えることが望 のぞ ましいとし、大統領 だいとうりょう の任期 にんき は終身 しゅうしん 制 せい が望 のぞ ましいとした。また、政治 せいじ システムとしては強力 きょうりょく な中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 体制 たいせい を望 のぞ んだ。宗教 しゅうきょう 的 てき にはカトリック教会 きょうかい の特権 とっけん を保護 ほご し、教会 きょうかい と協調 きょうちょう する道 みち を選 えら んだ。これらは独立 どくりつ 戦争 せんそう 中 ちゅう に各 かく 地方 ちほう の反目 はんもく によって幾度 いくど も苦杯 くはい をなめさせられたことや、新 しん 国家 こっか の脆弱 ぜいじゃく 性 せい を認識 にんしき していたことから来 く るもので、実際 じっさい に1828年 ねん から1830年 ねん にかけての、大 だい コロンビア末期 まっき のボリバルの統治 とうち はまさしく独裁 どくさい 制 せい であった。しかしこの政治 せいじ スタイルは南 みなみ アメリカの当時 とうじ の現状 げんじょう には全 まった く沿 そ っておらず、各 かく 地方 ちほう の分離 ぶんり 独立 どくりつ や自由 じゆう 派 は の抵抗 ていこう を招 まね き、彼 かれ の建国 けんこく した大 だい コロンビアはわずか12年 ねん で崩壊 ほうかい することとなった。
彼 かれ の名 な は、現在 げんざい でも南 みなみ アメリカ各地 かくち に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えている。すでに述 の べたが、ボリビアの国名 こくめい の由来 ゆらい にもなり、ベネズエラではボリバルが革命 かくめい 議会 ぎかい を開 ひら き拠点 きょてん としたアンゴストゥーラの街 まち が、ボリバルにちなんでシウダ・ボリバル と改名 かいめい された。またカラカス最寄 もよ りのマイケティア国際 こくさい 空港 くうこう はシモン・ボリバルの名 な を合 あ わせ持 も つ 。多 おお くの街角 まちかど には解放 かいほう 者 しゃ ボリバルの銅像 どうぞう が立 た ち並 なら び、ベネズエラの地図 ちず 作成 さくせい の役所 やくしょ は「ベネズエラ地理 ちり 院 いん シモン・ボリバル」を正式 せいしき 名称 めいしょう とする。カラカスのボリバル広場 ひろば と、ボゴタのボリバル広場 ひろば は、それぞれ首都 しゅと の中心 ちゅうしん 広場 ひろば である。「アラブの春 はる 」で象徴 しょうちょう 的 てき な働 はたら きをしたカイロのタハリール広場 ひろば の隣 となり にも「シモン・ボリバル広場 ひろば 」がある。その他 た 、各国 かっこく の州 しゅう ・都市 とし ・街 まち 区 く ・街路 がいろ ・大学 だいがく など、ボリバルの名 な を冠 かん するものは夥 おびただ しい。ボリバルの生 う まれた7月 がつ 24日 にち はボリバル生誕 せいたん 記念 きねん 日 び としてベネズエラの祝日 しゅくじつ となっている[ 7] 。ベネズエラの通貨 つうか 単位 たんい はボリバルで、紙幣 しへい の肖像 しょうぞう 画 が も多 おお くはボリバルのものとなっている。1999年 ねん にベネズエラの大統領 だいとうりょう に就任 しゅうにん したウゴ・チャベス は、ボリバル革命 かくめい を唱 とな えて国名 こくめい に「ボリバル」を挿入 そうにゅう し、ベネズエラの正式 せいしき 国名 こくめい は「ベネズエラ・ボリバル共和 きょうわ 国 こく 」となった[ 8] 。中国 ちゅうごく の協力 きょうりょく で打 う ち上 あ げたベネズエラ初 はつ の人工 じんこう 衛星 えいせい ヴェネサット-1 もシモン・ボリバルと名 な づけられており、ボリバル宇宙 うちゅう 活動 かつどう 庁 ちょう が運用 うんよう している。
なおラテンアメリカ文学 ぶんがく を代表 だいひょう する作家 さっか 、ガルシア・マルケス による歴史 れきし 小説 しょうせつ で、ボリバル最期 さいご の日々 ひび を描 えが いた『迷宮 めいきゅう の将軍 しょうぐん 』[ 9] がある。
「エネルギーのない所 ところ に功績 こうせき は光 ひか らない。強 つよ さのない所 ところ に徳 とく はなく、勇気 ゆうき のない所 ところ に栄光 えいこう はない。」
「最大 さいだい の背信 はいしん は、忘恩 ぼうおん である。」
「私 わたし は人民 じんみん に選 えら ばれた指導 しどう 者 しゃ よりも、指導 しどう 者 しゃ を選 えら んだ人民 じんみん の方 ほう に千 せん 倍 ばい もの信頼 しんらい を置 お いている。」
「私 わたし は困難 こんなん を恐 おそ れない。大 おお いなる事業 じぎょう への情熱 じょうねつ に燃 も えているからだ。」
「団結 だんけつ せよ!されば我 われ らは無敵 むてき となる!」
「私 わたし は自由 じゆう と栄光 えいこう のために闘 たたか ってきた。しかし、個人 こじん 的 てき 栄達 えいたつ のために闘 たたか ったことはなかった。」
「私 わたし は自由 じゆう と栄光 えいこう を求 もと めてきて、両方 りょうほう を手 て に入 い れた。だから、もうこれ以上 いじょう の望 のぞ みはない。」
「自由 じゆう と栄光 えいこう のために働 はたら く者 もの は、自由 じゆう と栄光 えいこう 以外 いがい のいかなる報酬 ほうしゅう も手 て にすべきではない。」
「政府 せいふ を形成 けいせい するのは原則 げんそく ではなく人間 にんげん である。」
「私 わたし にとって、栄光 えいこう とはいかによく奉仕 ほうし するかということであり、命令 めいれい することにあるのではない。」
「私 わたし の剣 けん と私 わたし の心 しん は常 つね にコロンビアのものであろう。そして私 わたし の最後 さいご の息 いき は天 てん にコロンビアの幸福 こうふく を願 ねが うことになろう。」
「危険 きけん に直面 ちょくめん する勇気 ゆうき 、これを克服 こくふく する知恵 ちえ 、祖国 そこく に対 たい する愛 あい と専制 せんせい 政治 せいじ に対 たい する憎 にく しみである。」
「私 わたし にとって、栄光 えいこう とは(中略 ちゅうりゃく )敵 てき を打 う ち破 やぶ ることであり、勝利 しょうり の栄光 えいこう をすべて私 わたし の同胞 どうほう に与 あた えることにある。」
「すべての者 もの は団結 だんけつ という計 はか り知 し れない利益 りえき のために働 はたら くべきだ。」
「アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく は自由 じゆう の名 な においてアメリカ大陸 あめりかたいりく を災難 さいなん だらけにしようとしているように思 おも える。」 - パナマ議会 ぎかい (スペイン語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) の際 さい に感 かん じた合衆国 がっしゅうこく への不信 ふしん 感 かん により。
「イスパノアメリカには独裁 どくさい か無 む 政府 せいふ 状態 じょうたい しかないのではないだろうか。」 - 終 お わらない地域 ちいき 主義 しゅぎ と内戦 ないせん を思 おも って。
「歴史 れきし 上 じょう 最大 さいだい の馬鹿者 ばかもの 三 さん 人 にん は、イエス・キリスト とドン・キホーテ と私 わたし だ。」
「一体 いったい どうやったらこの迷宮 めいきゅう から抜 ぬ け出 だ せるんだ!」- 臨終 りんじゅう に際 さい して。
「我々 われわれ が幸福 こうふく になることは永遠 えいえん にないだろう。」 - 晩年 ばんねん 、ラファエル・ウルダネータ将軍 しょうぐん に向 む けて。
「私 わたし の最後 さいご の願 ねが いは祖国 そこく の幸福 こうふく にある。」 - 死 し の1週間 しゅうかん 前 まえ に残 のこ した遺言 ゆいごん 。
「サンタンデルとの仲 なか をとりなさなかったことが、我々 われわれ を堕落 だらく させた。」 - 死 し の1ヵ月 かげつ 前 まえ に知人 ちじん に宛 あ てた手紙 てがみ で、サンタンデル将軍 しょうぐん との対立 たいりつ を後悔 こうかい して。
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^ ここに示 しめ したのは日本語 にほんご 表記 ひょうき の一 いち 例 れい である。スペイン語 ご の日本語 にほんご 表記 ひょうき も参照 さんしょう 。
^ 父親 ちちおや は1786年 ねん 3歳 さい の時 とき 、母親 ははおや は10歳 さい の時 とき に無 な くしている。
^ ルソーの思想 しそう を教 おし えられた。
^ フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著 へんちょ 、樺山 かばやま 紘一 こういち 日本語 にほんご 版 ばん 監修 かんしゅう 『ラルース 図説 ずせつ 世界 せかい 史 し 人物 じんぶつ 百科 ひゃっか 』Ⅲ フランス革命 かくめい ー世界 せかい 大戦 たいせん 前夜 ぜんや 原 はら 書房 しょぼう 2005年 ねん 117ページ
^ 二村 にむら 久則 ひさのり 編集 へんしゅう 『コロンビアを知 し るための60章 しょう 』エリアスタディーズ90 82ページ 明石書店 あかししょてん 2011年 ねん 6月 がつ 30日 にち 初版 しょはん 第 だい 1刷 さつ
^ ベネズエラ、ヌエバ・グラナダを一 ひと つにしてコロンビア共和 きょうわ 国 こく を作 つく る。(フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編著 へんちょ 、樺山 かばやま 紘一 こういち 日本語 にほんご 版 ばん 監修 かんしゅう 『ラルース 図説 ずせつ 世界 せかい 史 し 人物 じんぶつ 百科 ひゃっか 』Ⅲ フランス革命 かくめい ー世界 せかい 大戦 たいせん 前夜 ぜんや 原 はら 書房 しょぼう 2005年 ねん 118ページ)
^ 二村 にむら 久則 ひさのり 編集 へんしゅう 『コロンビアを知 し るための60章 しょう 』エリアスタディーズ90 84ページ 明石書店 あかししょてん 2011年 ねん 6月 がつ 30日 にち 初版 しょはん 第 だい 1刷 さつ
^ 国本 くにもと 伊代 いよ ・小林 こばやし 志郎 しろう ・小沢 おざわ 卓也 たくや 『パナマを知 し るための55章 しょう 』p217 エリア・スタディーズ、明石書店 あかししょてん 2004年 ねん
^ 寺澤 てらさわ 辰 たつ 麿 まろ 『ビオレンシアの政治 せいじ 社会 しゃかい 史 し ―若 わか き国 こく コロンビアの“悪魔 あくま 払 ばら い”』p57 アジア経済 けいざい 研究所 けんきゅうじょ 、2011年 ねん 。ISBN 4258051136
^ 「世界 せかい の暦 こよみ 文化 ぶんか 事典 じてん 」p386 中 ちゅう 牧 まき 弘 ひろし 允 まこと 編 へん 丸善 まるぜん 出版 しゅっぱん 平成 へいせい 29年 ねん 11月25日 にち 発行 はっこう
^ 「ベネズエラ 溶解 ようかい する民主 みんしゅ 主義 しゅぎ 、破綻 はたん する経済 けいざい 」p16 坂口 さかぐち 安紀 あき 中公 ちゅうこう 選書 せんしょ 2021年 ねん 1月 がつ 10日 とおか 初版 しょはん 発行 はっこう
^ 「迷宮 めいきゅう の将軍 しょうぐん 」原著 げんちょ は1989年刊 ねんかん 、短期間 たんきかん で英訳 えいやく ほかが、世界 せかい 各国 かっこく で訳 やく された。日本 にっぽん 版 ばん は木村 きむら 栄一 えいいち 訳 わけ で新潮社 しんちょうしゃ 、1991年 ねん /新版 しんぱん 2007年 ねん
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