ひだりはじめ

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ひだりはじめ
ひだりはじめ

ひだり はじめ(さ そうとう、ツォ・ゾンタン、よしみけい17ねん10月7にち1812ねん11月10にち〉- ひかりいとぐち11ねん7がつ27にち1885ねん9月5にち〉)は、きよしあさ末期まっき著名ちょめい大臣だいじん太平たいへい天国てんごくらん鎮圧ちんあつ活躍かつやくし、ようつとむ官僚かんりょうとしても有名ゆうめい中国ちゅうごくでは「きよしだい最後さいご大黒柱だいこくばしら」と非常ひじょうたか評価ひょうかけている(文化ぶんかだい革命かくめい太平たいへい天国てんごくげられると、ぎゃく評価ひょうかがったこともある)[1]だか湖南こなんしょう湘陰けん出身しゅっしんろうあきらごうする。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

太平たいへい天国てんごく討伐とうばつ[編集へんしゅう]

大夫たいふ家系かけいで、曾祖父そうそふ祖父そふちち地元じもと教師きょうしだった。ひだりむね棠はみちこう12ねん1832ねん)に科挙かきょきょじん資格しかくたが、進士しんしには合格ごうかく出来できず3かい落第らくだいしたため、官僚かんりょうへのみちあきらめて湖南こなみいえじゅくとなり、歴史れきし地理ちり研究けんきゅう没頭ぼっとうしていた。友人ゆうじんえびすはやしつばさひだりむね棠の才能さいのうたかい、度々たびたび要人かなめひだりむね棠を推薦すいせんみちこう29ねん1849ねん)に湖南こなんおとずれたはやしのりじょひだりむね棠が会談かいだんすることもあったが、みずからを清末きよすえしょかずらあきら孔明こうめい)としょうしていたため、大抵たいてい人間にんげんからは変人へんじんあつかいされていた。

みちこう30ねん1850ねん)に太平たいへい天国てんごくらん勃発ぼっぱつすると、えびすはやしつばさ推挙すいきょ湖南こなんめぐなでちょうあきらもと駱秉あきら幕府ばくふはいり、すわえいさむ組織そしきして太平たいへい天国てんごくぐん攻撃こうげきからちょうすなまもった。そのしょしょう転戦てんせんして軍功ぐんこうて、こくはん推薦すいせん咸豊11ねん1861ねん)に浙江せっこうめぐなでとなると、浙江せっこううつ太平おうひら天国てんごくとの戦闘せんとう継続けいぞくイギリスフランス協力きょうりょくしてきむはな紹興しょうこうなどを奪回だっかいどう2ねん1863ねん)に閩浙総督そうとく昇進しょうしんした。どう3ねん1864ねん)には杭州こうしゅう奪回だっかい浙江せっこう平定へいていじょそうみきみず協力きょうりょくしてひがし南部なんぶ太平たいへい天国てんごく残党ざんとう掃討そうとうにあたり、けんひろし海洋かいよう残党ざんとう勢力せいりょく楊昌濬りゅうのりおういさおかんこくこうれんますあわびちょうしょうはる蔣益澧はやしぶん湘軍派遣はけんして任務にんむたした。太平たいへい天国てんごく鎮圧ちんあつこくはん鴻章こうしうらととも軍備ぐんび強化きょうかのためようつとむ運動うんどう推進すいしんし、ふくしゅうせん政局せいきょくなどを創設そうせつした[2]

北西ほくせい平定へいてい[編集へんしゅう]

どう5ねん1866ねん)には陝甘総督そうとく転任てんにんイスラム教徒きょうとドンガンじんかいぞく)の蜂起ほうきかいみん蜂起ほうき鎮圧ちんあつにんじられ遂行すいこううごいた。しかしこの最中さいちゅうねじぐんあばまわったため、かいみん後回あとまわしにしてねじぐん討伐とうばつ優先ゆうせんした。このころねじぐん鴻章こうしう活躍かつやく東西とうざい分裂ぶんれつ、かつてのいきおいはくなっていたため、ひだりはじめ棠はこうにょうおう袁保つねちんそうけいちょう秉鈞などをひきいて鴻章こうしうともねじぐん討伐とうばつ開始かいしちょうはじめひきいる西にしねじぐん平定へいてい専念せんねんし、どう6ねん1867ねん)にひがしねじぐん鴻章こうしう淮軍包囲ほういされ壊滅かいめつ西にしねじぐんよく7ねん1868ねん)6がつめられ平定へいていされた。

そうして背後はいご安全あんぜん確保かくほすると、同年どうねん10がつあらためてかいみん蜂起ほうき鎮圧ちんあつ出動しゅつどう任地にんち陝西せんせいしょう甘粛かんせいしょう進軍しんぐん陝西せんせい西安しーあんはいった。まずは北西ほくせいただしこころざし塬に駐屯ちゅうとんするしろ彦虎かいみんぐん撃破げきは陝西せんせい平定へいていしたが、うまりゅう残存ざんそん勢力せいりょく甘粛かんせい東部とうぶきむつもる堡に籠城ろうじょうして抵抗ていこうひだりはじめ棠もどう8ねん1869ねん)から包囲ほうい開始かいしした。しかし抵抗ていこう長引ながびき、北京ぺきん政府せいふからは召還しょうかんこえがり、どう10ねん1871ねん)1がつには責任せきにんかんじた部将ぶしょうりゅう松山まつやま夜襲やしゅう仕掛しかけ、失敗しっぱいして戦死せんしする痛手いたでまでこうむった。しかしりゅう松山まつやまおいりゅうにしき雪辱せつじょくたすためきむつもる堡を急襲きゅうしゅう、ようやくきむつもる堡を陥落かんらくさせうまりゅう処刑しょけいしてから任務にんむ順調じゅんちょうすすみ、かいみんへの対応たいおうとして逃亡とうぼうみんもどし、定住ていじゅう土地とち開墾かいこんおよび食糧しょくりょう援助えんじょおこなったためかいみん抵抗ていこう徐々じょじょ下火したびになった。

同年どうねん11がつ臨夏占領せんりょうしていたかいみん首領しゅりょう1人ひとりうまうらない降伏ごうぶく甘粛かんせい中部ちゅうぶはいよく12ねん1873ねん)7がつあららぎしゅう進駐しんちゅうした。りゅうにしき棠も甘粛かんせい東部とうぶかいみん討伐とうばつ出向しゅっこう西にしやすしうまかつらはじめ東部とうぶ制圧せいあつした。のこる粛州(現在げんざいさけいずみ)にもるうまぶんろく一旦いったん帰順きじゅんしていたが、陝西せんせいから逃亡とうぼうしたしろ彦虎に呼応こおうして反旗はんきひるがえし、ひだりはじめ棠が派遣はけんしていたじょうらないあや楊世しゅん包囲ほういえていた経緯けいいがあるため、7がつひだりむね棠が包囲ほうい指揮しきり、9月に粛州をとしてうまぶんろく処刑しょけい陝西せんせい甘粛かんせいなどの河西かさい回廊かいろうふく中国ちゅうごく北西ほくせい平定へいていされた[3]

しん奪回だっかい[編集へんしゅう]

北西ほくせい状況じょうきょう安定あんていしたが、ひだりはじめ棠にはさら西にししん奪回だっかい任務にんむあたえられていた。きよし領土りょうどだったしん疆もイスラム教徒きょうと反乱はんらん頻発ひんぱつし、しん疆に隣接りんせつするコーカンド・ハンこく軍人ぐんじんヤクブ・ベク混乱こんらんじょうじてしん疆をり(ヤクブ・ベクのらん)、ロシア南下なんか政策せいさくしん疆北イリ地方ちほう占領せんりょうするという状態じょうたいだった。

ひだりはじめ棠はただちにしん遠征えんせい準備じゅんびかったが、かつての協力きょうりょく相手あいてだった鴻章こうしうがこれに反発はんぱつどう13ねん1874ねん)に海防かいぼうふさがぼう論争ろんそうこった。ひだりむね棠はロシアにたいする陸上りくじょうそなえの重要じゅうようせい主張しゅちょうするふさがぼう代表だいひょうかくであり、イギリスにたいするために海軍かいぐん重視じゅうしする海防かいぼう代表だいひょうかくである鴻章こうしうとは政治せいじてき対立たいりつ関係かんけいにあった。しん疆にかんしても、弱体じゃくたいした支配しはいてなおそうとするひだりむね棠と、海軍かいぐん集中しゅうちゅうするために防衛ぼうえいむずかしいしん疆をロシアに割譲かつじょうしようとする鴻章こうしうとのあいだでは意見いけん相違そういがあった。論争ろんそうよくひかりいとぐち元年がんねん1875ねん)までつづいたが、軍機ぐんき大臣だいじんぶんさち賛成さんせいしたため海防かいぼうふさがぼうどちらもおこな方針ほうしん決定けっていされ、欽差大臣だいじん任命にんめいされたひだりむね棠はヤクブ・ベクのらんによりきよし支配しはいりょく弱体じゃくたいしたしん疆の軍務ぐんむ担当たんとうし、副将ふくしょうきむじゅんりゅうにしき棠・ふみねんたん鍾麟らをしたがえ、しん疆東きよし数少かずすくない拠点きょてんハミ屯田とんでん持久じきゅうさくり、出兵しゅっぺいととのえていた。

ひかりいとぐち2ねん1876ねん)5がつひだりはじめ棠の先鋒せんぽう部隊ぶたいはハミからきたバリクル進駐しんちゅう西にしすすウルムチ近郊きんこうでヤクブ・ベクぐん衝突しょうとつきむじゅんりゅうにしき棠はこれを退しりぞけウルムチをとし、その拠点きょてん奪回だっかいしん疆北れた。よくひかりいとぐち3ねん1877ねん)3がつにはりゅうにしき棠がウルムチとしん南部なんぶつないたる坂城さかき落城らくじょう部将ぶしょうちょう南部なんぶ西進せいしんしてりゅうにしき棠と合流ごうりゅうした。5月にトルファン降伏ごうぶく、ヤクブ・ベクが急死きゅうしして大勢おおぜいけっし、りゅうにしき棠は11月までにしん疆を西進せいしんして反乱はんらん地域ちいき平定へいてい、11月に西端せいたんカシュガルとしてしん疆を奪回だっかいした。同年どうねんひだりはじめ棠は守備しゅび強化きょうか目的もくてきはぶけ設置せっち中央ちゅうおう奏上そうじょうしん疆省設置せっちつながった。

一方いっぽう、イリ地方ちほう返還へんかん交渉こうしょうがなかなかすすまず、ひかりいとぐち4ねん1878ねん)にたかしあつし中央ちゅうおうからロシアへ派遣はけんされたが、よく5ねん1879ねん)にきよしとロシアのあいだ締結ていけつされたリヴァディア条約じょうやく英語えいごばん不平等ふびょうどう条約じょうやくだったため、ひだりはじめ棠ははげしくたかしあつ非難ひなんした。きよしあらためてさわ派遣はけんして交渉こうしょうたらせ、ひかりいとぐち7ねん1881ねん)にイリ条約じょうやく締結ていけつ、イリ地方ちほう返還へんかんたしきた領土りょうど問題もんだい解決かいけつされた。これに先立さきだひだりむね棠はぐんうごかしロシアを威嚇いかくしたが、和平わへいかたむ政府せいふ意向いこうひかりいとぐち6ねん1880ねん)7がつ中央ちゅうおうもどされた。わってりゅうにしき棠が司令しれいかんとなり、ひかりいとぐち10ねん1884ねん)にしん疆省が設置せっちされると初代しょだいじゅんなで就任しゅうにんきむじゅんイリ将軍しょうぐんとしてしん疆省の治安ちあん維持いじくした[4]

中央ちゅうおう召還しょうかんひだりむね棠はきよし重臣じゅうしんとして軍機ぐんき大臣だいじんりょうこう総督そうとくけん南洋なんよう大臣だいじんひがしかくだい学士がくし要職ようしょく歴任れきにんしんふつ戦争せんそうではひかりいとぐち10ねん8がつからよく11ねん(1885ねん)4がつまで欽差大臣だいじんとして福建ふっけんしょう沿岸えんがん防衛ぼうえい任命にんめいされた。同年どうねん9がつ、72さいふくしゅう病死びょうし著書ちょしょに『左文さぶんじょうおおやけ全集ぜんしゅう』がある。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 今谷いまたに、P173 - P174、P183 - P184。
  2. ^ りょう、P70、P75、P90 - P95、並木なみき、P165、今谷いまたに、P165 - P172、岡本おかもと、P50。
  3. ^ 今谷いまたに、P173 - P184、岡本おかもと、P129 - P132。
  4. ^ 並木なみき、P194 - P197、P213 - P214、今谷いまたに、P184 - P202、岡本おかもと、P132 - P135。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

先代せんだい
おうゆうよわい
浙江せっこうめぐなで
1861ねん - 1863ねん
次代じだい
こく
先代せんだい
耆齢
閩浙総督そうとく
1863ねん - 1866ねん
次代じだい
先代せんだい
楊岳あきら
陝甘総督そうとく
1866ねん - 1880ねん
次代じだい
楊昌濬
先代せんだい
彭玉麟
りょうこう総督そうとく
1881ねん - 1884ねん
次代じだい
ひろしろく(ユル)