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奴婢ぬひ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

奴婢ぬひ(ぬひ, マ字まじ表記ひょうき: Nuhi)は、律令制りつりょうせいにおける身分みぶん制度せいど社会しゃかい階級かいきゅうひとつであり、良民りょうみん自由じゆうみん)と賤民せんみん自由じゆうみん)があるなか後者こうしゃ相当そうとうする。やつ(ぬ/やつこ, マ字まじ表記ひょうき: Nu / Yakko)は男性だんせい(ひ/みやつこ, マ字まじ表記ひょうき: Hi / Miyakko)は女性じょせい意味いみする。

中国ちゅうごく[編集へんしゅう]

奴婢ぬひ
各種かくしゅ表記ひょうき
簡体字かんたいじ 奴婢ぬひ
拼音 núbì
発音はつおん ヌビ
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中国ちゅうごくでは「奴婢ぬひ」は奴隷どれい通称つうしょうで、やつおとこ奴隷どれい、婢はおんな奴隷どれいをさすというのは前述ぜんじゅつとおりであるが、やつにはさらに僮・ぼく・隷の文字もじわせて、「僮奴」「僮僕」「奴僕どぼく」「奴僕どぼく」「僮隷」などとった。奴隷どれいもこういった表現ひょうげんひとつである。おんな奴隷どれいは婢以がいには「おんなやつ」ともった。私家しか所有しょゆうする奴隷どれいあらわときは、「いえ僮(いえわらわ)」「いえやつ」「いえ婢」とった。

また『漢書かんしょ』では奴隷どれいのことを「あおいあたまやつ」「あおいあたま奴婢ぬひ」とい、「あおいあたま」はもと兵士へいし意味いみだが、たんにこれだけでも奴隷どれい意味いみするようになった。とう時代じだいには同様どうように「あおころも」ともい「臧獲」という異称いしょうもあった。きむもと時代じだいには、)という使つかわれ「ひのと」「くち」などとった。

中国ちゅうごく奴婢ぬひ制度せいどは、律令制りつりょうせいによって正式せいしき国家こっか制度せいどまれるが、それ以前いぜんいんしゅうには多数たすう奴婢ぬひ社会しゃかい存在そんざいし、労働ろうどうりょく中核ちゅうかくしていた。春秋しゅんじゅう時代じだい戦国せんごく時代じだい時代じだいるとくに併呑へいどんによって戦争せんそうだい規模きぼしたために、耕作こうさく兵員へいいん根本こんぽんである平民へいみん価値かち向上こうじょうする。主人しゅじんいえぞくぜいおさめず徴兵ちょうへい対象たいしょうることから、戦国せんごく諸国しょこく奴婢ぬひ減少げんしょうさせる政策せいさくった。人民じんみん自由じゆうみんである良民りょうみんと、隷属れいぞくみんである賤民せんみんとに区別くべつされており、賤民せんみんはさまざまな制限せいげんけた。賤民せんみんおおきく奴婢ぬひとそのけられ、そのなかでもくに保有ほゆうするかん奴婢ぬひと、個人こじん所有しょゆうするわたし奴婢ぬひ存在そんざいした。はたかんだいにおいては、かん奴婢ぬひ戦争せんそう捕虜ほりょ重罪じゅうざいおかした氏族しぞく中核ちゅうかくめており、おも官営かんえい工場こうじょう労働ろうどう牧場ぼくじょうなどでのうまとりいぬなどの飼育しいくおこなっていた。一方いっぽうわたし奴婢ぬひは、破産はさんした農民のうみんなどの債務さいむ奴隷どれいめられ、だい地主じぬしのもとで農作業のうさぎょうやその雑務ざつむ従事じゅうじした。かんほうわたしよりもかくはややうえで、わたし奴婢ぬひほうかずうえでは圧倒的あっとうてきおおかった。

史記しき』には、一個人いっこじんぎないりょいえ僮1まんにん嫪毐でもいえ僮数せんにんゆうしていたという記述きじゅつがある。『漢書かんしょ』には、前漢ぜんかんすえ諸侯しょこう役人やくにん豪商ごうしょう広大こうだい土地とちすうせん奴婢ぬひ所有しょゆうするものがおおくいて、奴婢ぬひ百姓ひゃくしょう仕事しごとうばってしまう状態じょうたいであったという記述きじゅつがあり、あいみかど奴婢ぬひかず諸侯しょこうおうが2ひゃくめい列侯れっこう公主こうしゅひゃくめい関内かんないこう官民かんみんは30めいまでを上限じょうげんとしようとしたという。『ちゅうろん』によると、たかしじょみき[ちゅう 1]は、王侯おうこう官吏かんりだけでなく、しょう工業こうぎょう富民とみん奴婢ぬひすうひゃくにんものすくなくなく最低さいていでも10にんかかえてこれを酷使こくしするので、商人しょうにんなどが奴隷どれい所有しょゆうするのを禁止きんしせよと主張しゅちょうしたとされる。しかし『しょ』、『きたひとししょ』、『しゅうしょ』などにも、すうせんすうひゃく奴婢ぬひ所有しょゆうする人物じんぶついたところ散見さんけんされ、すすむ南北なんぼくあさ時代じだいつうじて奴婢ぬひ大量たいりょう所有しょゆうされたり、下賜かしされたり、売買ばいばいされていた。奴婢ぬひ奴隷どれい牛馬ぎゅうばのように売買ばいばいされ、『三国志さんごくししょひとしおうおさむ」(さんしょうみかど)には、70さいぎたり病気びょうき不具ふぐになったかん奴婢ぬひまでが、わたし奴婢ぬひとしてられていたという記述きじゅつがある。

きたたかしずいとうだいでは、律令制りつりょうせいまれ、わたし奴婢ぬひ主人しゅじん管理かんりにあり、その主人しゅじんうったえることができないなどとさだめられていた。

そうだい奴婢ぬひ身分みぶん世襲せしゅう無償むしょう労働ろうどう終身しゅうしん契約けいやく自由じゆう意志いしもとづかない契約けいやく禁止きんしされ、法的ほうてき身分みぶん良人りょうじんとなり雇用こようぬし-奴婢ぬひあいだあらそいも公的こうてき機関きかんほうにより裁判さいばんする対象たいしょうとなった。

奴隷どれいせい国家こっかモンゴルてたもとだいはいるとふたた最下さいかそう身分みぶんとしてあつかわれ、すすむ南北なんぼくあさ時代じだいわらない王家おうけ諸侯しょこう貴族きぞく多数たすう奴婢ぬひかかえる社会しゃかい体制たいせいわった。

あきらきよしだいにも奴婢ぬひのこっていたが、基本きほんてきわたし奴婢ぬひ中心ちゅうしん徐々じょじょすたれていき、せんみつる元年がんねん(1909ねん)、清朝せいちょう最後さいご皇帝こうていであるあいしんさとし溥儀ふぎによって法的ほうてき奴隷どれいせい廃止はいしされた[1]。しかしながら、わりに隷属れいぞくてき労働ろうどうしゃであるクーリー(苦力くーりーあらわれ、クーリーの輸出ゆしゅつ貿易ぼうえきはしばらくつづいたが、中華人民共和国ちゅうかじんみんきょうわこく成立せいりつ禁止きんしされ、非合法ひごうほうとなった。ハフィントンポストによるとだつきた女性じょせいや20まんにん失踪しっそうきている中国ちゅうごく子供こどもたちもいまなお人身じんしん売買ばいばい対象たいしょうとなっている[1]

日本にっぽん[編集へんしゅう]

律令制りつりょうせい[編集へんしゅう]

日本にっぽんにおける奴婢ぬひは、大宝たいほう律令りつりょうはじまり、前述ぜんじゅつずいとう律令制りつりょうせい日本にっぽんしき改良かいりょうして導入どうにゅうしたものであった。これは律令制りつりょうせい崩壊ほうかいとともに消滅しょうめつした。

奴隷どれい自体じたいは、三国志さんごくしこころざし倭人わじんでん卑弥呼ひみこくなったとき100にん以上いじょう奴婢ぬひ殉葬したと記述きじゅつや、なまくちばれる奴隷どれいたかし朝貢ちょうこうしたと記述きじゅつられるように、すくなくとも邪馬台国やまたいこく時代じだいにはすで存在そんざいしていた。仲哀ちゅうせつおさむには神功じんぐう皇后こうごうさんかん征伐せいばつでもしん捕虜ほりょ奴婢ぬひとしてったという記述きじゅつがある。また蘇我そが物部ものべあらそいのとき聖徳太子しょうとくたいし大連たいれんくびってその子孫しそん四天王寺してんのうじてら奴婢ぬひ[ちゅう 2]としたという記述きじゅつがある。これらの古代こだいから存在そんざいしていた奴隷どれいを、律令制りつりょうせいれるときに整理せいりしなおされたとされる。

ヤマト王権おうけんでは、もともと奴隷どれい身分みぶんであったものを「ヤツコ(よるいにしえ)」と[2]奴婢ぬひはその子孫しそんであるか、捕虜ほりょ、あるいは罪人ざいにん奴婢ぬひとされたものであった。律令りつりょうほうにおいては、法的ほうてき保護ほご対象たいしょうである良民りょうみん拉致らちして奴婢ぬひとすることはぞくぬすめりつきんじられていたが、ぎゃくえば誘拐ゆうかいして奴婢ぬひとする習慣しゅうかんがあったということである。貧困ひんこんにより奴婢ぬひ身分みぶんちるものもおり、債務さいむ返済へんさいではやくおりむくいばれる返済へんさい方法ほうほうみとめられていたので、多額たがく負債ふさい背負しょわされて奴婢ぬひとされて使役しえきされた。

奴婢ぬひはもともと売買ばいばい対象たいしょうであったが、律令りつりょう整備せいびされる過程かてい田畑たはたおなじようなあつかいをけるようになり、ひろじんしきによるともちすべ天皇てんのう4ねん690ねん)に、いったん奴婢ぬひ売買ばいばい禁止きんしされたが[3]よく691ねん2がつにはあらためてみことのりはっしてかんへの届出とどけで条件じょうけん売買ばいばい許可きょかされることになった[4]

律令制りつりょうせいにおける賤民せんみんは、五色ごしきしず(ごしきのせん)とばれ、5段階だんかいのランクにけられていたが、したの2段階だんかい奴婢ぬひであった。これらは、やとぬしによって、2種類しゅるい分類ぶんるいされた。

  • おおやけ奴婢ぬひ(くぬひ)またはかん奴婢ぬひ(かんぬひ)…朝廷ちょうてい所有しょゆうしたものみや内省ないせいかんやつ(かんぬし)の管理かんりけた。これらは66さいぎるとかん昇格しょうかくし、76さいえると良民りょうみんとして解放かいほうされた。職務しょくむ形態けいたいときとともに変遷へんせんかえしており、初期しょきしまみや奴婢ぬひといい、散在さんざいしていたかく皇族こうぞく豪族ごうぞく宮殿きゅうでんがそれぞれ支配しはいしていた。やがて、藤原ふじわらきょう平城京へいじょうきょう整備せいび上流じょうりゅう階級かいきゅうきょうないへのしゅうじゅうすすむと、奴婢ぬひもまたちかくのむら在住ざいじゅうし、その都度つど朝廷ちょうていされて職務しょくむたっていた(つね奴婢ぬひ)。さら時代じだいくだると、宮中きゅうちゅう一角いっかくしゅうじゅうし、皇室こうしつ日常にちじょう業務ぎょうむ内廷ないてい)に、幅広はばひろ専従せんじゅうするようになり、一部いちぶ豪族ごうぞく屋敷やしきへも、派遣はけんされるかたちでその家政かせいにあたるようになった(こん奴婢ぬひ[5]
  • わたし奴婢ぬひ(しぬひ)…民間みんかん所有しょゆうもの子孫しそん相続そうぞくされた。口分田くもでとして良民りょうみんの1/3が支給しきゅうされた。

奴婢ぬひは、りょう賤法のほかの3しゅちがすことがゆるされず、主家しゅか従属じゅうぞくして生活せいかつした。父母ちちははのどちらかが奴婢ぬひならば、その奴婢ぬひとされた。日本にっぽん律令制りつりょうせいにおける奴婢ぬひ割合わりあいは、ぜん人口じんこうの10~20%前後ぜんごだった[6]われ、五色ごしきの賤のなかではもっとおおかった。その職務しょくむとしては、おも耕作こうさく従事じゅうじしていた[7]

とう律令りつりょう模倣もほうしたすめらぎあさりつれいによると、かん報告ほうこくすることなくつみおかした奴婢ぬひころした家長かちょう(=所有しょゆうしゃ)はつえざい70。つみなき奴婢ぬひ殴殺おうさつしたもの徒刑とけい3ねんおなじくつみなき奴婢ぬひ故殺こさつしたもの流刑りゅうけいとうさだめられていた。ほろびれいによると、逃亡とうぼうした公私こうし奴婢ぬひつかまえた場合ばあいぬし捕縛ほばくしゃ報奨ほうしょうすることがさだめられていた。逃亡とうぼう1ヵ月かげつなら奴婢ぬひ価値かちの1/20、1ねん以上いじょうならば1/10を支払しはらうものとされた。げた奴婢ぬひ病気びょうきや70さい以上いじょう高齢こうれい使役しえき利用りようできない場合ばあいはこれらのがく半減はんげん奴婢ぬひ以前いぜんぬしのもとにげてつかまえられた場合ばあい半減はんげんとされた。奴婢ぬひおさなくてぬし特定とくていできない場合ばあい立札たてふだ告知こくちされ、1ねん以内いない名乗なのなかった場合ばあいおおやけ奴婢ぬひれ、捕縛ほばく報酬ほうしゅうかんはらうことになった。

日本にっぽん公的こうてき身分みぶん制度せいどとしての奴婢ぬひ身分みぶん律令制りつりょうせい崩壊ほうかいとも瓦解がかいした。10世紀せいき初頭しょとうである平安へいあん時代じだい中期ちゅうき寛平かんぺいから延喜えんぎあいだに、かん奴婢ぬひ廃止はいしれいされたとされる。

律令制りつりょうせい崩壊ほうかい[編集へんしゅう]

律令制りつりょうせいでの身分みぶん制度せいどとして賤民せんみん奴婢ぬひ消滅しょうめつしたが、その奴隷どれい中世ちゅうせいつうじて存在そんざいしてひろ売買ばいばいされ、これらは用途ようとによって様々さまざま呼称こしょうがあるが、総称そうしょうとしては同様どうよう奴婢ぬひばれた。

鎌倉かまくら幕府ばくふよしみろく元年がんねん(1225ねん)に人身じんしん売買ばいばい禁止きんしれい[よう出典しゅってん]したが、南北なんぼくあさ騒乱そうらん統制とうせいゆる室町むろまち幕府ばくふ戦国せんごく時代じだいではらんさまたげなどによるひとりもしばしばられ、さかんに奴隷どれい取引とりひきされた。ポルトガルなど海外かいがいられたれいもある(ポルトガルの奴隷どれい貿易ぼうえき#アジアじん奴隷どれい)。

江戸えど幕府ばくふは、慶長けいちょう17ねん(1612ねん)、元和がんわ5ねん(1619ねん)、天和てんわ3ねん(1683ねん)と、度々たびたび禁令きんれいはっして人身じんしん売買ばいばい禁止きんししたが実効じっこうせいまったく、わらず身売みうりが日常にちじょうてき大量たいりょうおこなわれた。江戸えど時代じだい刑罰けいばつ身分みぶんけい)のひとつにやつ(やっこ)というものがあり、これは女性じょせいたいしてせられるもので、人別にんべつちょうからのぞ個人こじんわたいちしゅ奴婢ぬひ身分みぶんとし、おおくはしん吉原よしわらなどの娼婦しょうふとして使役しえきされたものであった。

朝鮮ちょうせん[編集へんしゅう]

奴婢ぬひ
各種かくしゅ表記ひょうき
ハングル 노비
漢字かんじ 奴婢ぬひ
発音はつおん ノビ
マ字まじ Nobi
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朝鮮ちょうせんにおいては、起源きげん発展はってん他国たこくことなる奴隷どれい制度せいどであり、こううらら時代じだい完成かんせいした制度せいどで、おなじく奴婢ぬひ漢字かんじくが、ノビ(朝鮮ちょうせんラテンこぼし: Nobi)とむ。

奴婢ぬひ主人しゅじん所有しょゆうぶつであり財産ざいさんであって、売買ばいばい略奪りゃくだつ相続そうぞく譲与じょうよ担保たんぽ賞与しょうよ対象たいしょうとなっていた。また、一般いっぱんてき職業しょくぎょう選択せんたく自由じゆう家族かぞく自由じゆう居住きょじゅう移転いてん自由じゆうなどが制限せいげんされており、一定いってい年齢ねんれいたっしたり、その条件じょうけん解放かいほうされる場合ばあいもあった。しかしながら、基本きほんてきには牛馬ぎゅうば家畜かちくおなあつかいであり、市場いちばなどで取引とりひき人身じんしん売買ばいばい)されていた。

奴婢ぬひとなったいきさつは、奴婢ぬひ捕虜ほりょ犯罪はんざいしゃ窃盗せっとうはん逆賊ぎゃくぞく妻子さいし賤民せんみんとされたもの借金しゃっきん抵当ていとうなどさまざまであった。しかし、もっとかずおおかったのは王朝おうちょう滅亡めつぼうしたときであり、百済くだら滅亡めつぼう百済くだらみんはいずれも奴婢ぬひとされた。

朝鮮ちょうせん奴婢ぬひ制度せいどは、朝鮮ちょうせん刑法けいほうはんきんはちじょうはじまったとわれる。そこでは他人たにんいえぬすはいったものはそのいえ奴隷どれいとする、おとこならやつおんななら婢、とさだめられていた[8]。この朝鮮ちょうせんはじまった奴婢ぬひ制度せいどは、朝鮮ちょうせんからうまかんがれた。そのすうひゃく年間ねんかん存続そんぞく廃止はいしかえすが、実質じっしつてきには維持いじされ、935ねん高麗こうらいによる朝鮮半島ちょうせんはんとう統一とういついたるまでの内戦ないせんにより、戦争せんそう捕虜ほりょ経済けいざいてき困窮こんきゅう奴婢ぬひとなったもの激増げきぞうした[9]

また、高麗こうらいおうやすしむね治世ちせいには、りょう賤交よめ想定そうていして身分みぶん制度せいど維持いじするために、1039ねんに婢女がんだ子供こども主人しゅじん賤民せんみん)の所有しょゆうぶつとされ、生母せいぼ[ちゅう 3]賤民せんみんならば子供こども奴婢ぬひとするという、「賤者ずいははほう奴婢ぬひずいははほう)」がさだめられた。官吏かんりは8世代せだいわたって家族かぞく奴婢ぬひがいないことが証明しょうめいできないと登用とうようされないとされ、この高麗こうらい完成かんせいされたずいはは主義しゅぎ原則げんそくがその朝鮮ちょうせんではがれた特徴とくちょうである。

1300ねんモンゴルから高麗こうらいせいひがしぎょうしょう派遣はけんされていた皇族こうぞく闊里きちおもえ英語えいごばんコルギスは、高麗こうらい国政こくせいへの介入かいにゅう一環いっかんとして高麗こうらいにおける奴婢ぬひ制度せいど廃止はいしもとめたが、ときの国王こくおうちゅうれつおうは「わが始祖しそは賤類とは種類しゅるいちがう」とって拒否きょひした[10]

朝鮮ちょうせん時代じだいでは、王族おうぞくさい上位じょういりょうはんつぎちゅうじん常民じょうみん良民りょうみん平民へいみん)、奴婢ぬひという制度せいど法律ほうりつされていた。

1410ねんだいには、奴婢ぬひ人口じんこう王族おうぞく貴族きぞく奴婢ぬひ保有ほゆうすう全盛期ぜんせいきむかえていた。それほどおおかったので、王族おうぞく貴族きぞくなどの高位こういでも奴婢ぬひを300にん以上いじょう所有しょゆうしてはいけないという法律ほうりつまであった。当時とうじ中央ちゅうおう高位こうい公職こうしょく身分みぶんなら、奴婢ぬひを100にん以上いじょう所有しょゆうしたほどだった。当時とうじおう韓国かんこくでは名君めいくんとされているむねは、奴婢ぬひせい拡大かくだい妓生こしょうせい拡散かくさん事大じだい主義しゅぎ強化きょうかおこなっている。りょうはん女性じょせい奴婢ぬひ結婚けっこんすると、ちち沿ってりょうはんという高位こうい身分みぶんになるようにした既存きそんほうさえ廃止はいしした。奴婢ぬひでない男性だんせい奴婢ぬひ女性じょせいあいだまれた奴婢ぬひ規定きていして、ちちだれであれすべての奴婢ぬひは、はは沿って奴婢ぬひになるという法律ほうりつ制定せいていされた。これはおおくの奴婢ぬひのぞ要望ようぼうがあったからだと分析ぶんせきされている[11][12]奴婢ぬひ交換こうかん価値かちは、奴婢ぬひ制度せいど法的ほうてき廃止はいしされたきのえうま農民のうみん戦争せんそう当時とうじで、美貌びぼうの婢いちにん以上いじょうふく奴婢ぬひにんうしいちとうであった[13]。ただし、朝鮮ちょうせん時代じだいには奴婢ぬひみつぎという賤民せんみん対象たいしょうとした税金ぜいきんがあり、奴婢ぬひ主人しゅじん使役しえきされながらも、おうたいしてもべつさだめられた枚数まいすう木綿こわたおさめぬのする義務ぎむがあった。

奴婢ぬひには、かん奴婢ぬひおおやけ賤)とわたし奴婢ぬひわたし賤)が存在そんざいし、まいおよ結婚けっこん職業しょくぎょう選択せんたく自由じゆう制限せいげんけており、法的ほうてき市場いちばでの売買ばいばい可能かのうであった。かん奴婢ぬひは、奴婢ぬひよりもたか地位ちいにあり、良民りょうみん奴婢ぬひとの中間ちゅうかんのような立場たちばであった。かん奴婢ぬひ一部いちぶ徴税ちょうぜい代行だいこうしていたために、地方ちほう農民のうみんより裕福ゆうふくもの存在そんざいしていた。

かん奴婢ぬひには非常ひじょう沢山たくさん種類しゅるいがあり、役目やくめによって細目さいもくされていた。ドラマなどで有名ゆうめいになったおんなかん奴婢ぬひから選抜せんばつされたもので、後期こうきくすりぼう妓生こしょうばれた。妓生こしょうとは朝鮮ちょうせんにおいてしょ外国がいこくからの使者ししゃ高官こうかん歓待かんたい宮中きゅうちゅうない宴会えんかいなどでらくわざ披露ひろうするために準備じゅんびされた婢であった。かん婢には少年しょうねんふくまれ、わらわ便びんぐんは12さい未満みまん男児だんじであった。

朝廷ちょうてい功臣こうしん下賜かしされたかん奴婢ぬひのことはおかふみ[ちゅう 4]ばれた。朝鮮ちょうせんでは、良民りょうみんが60さい以上いじょうになった場合ばあいは、たてまつあし補欠ほけつ意味いみ)として2めい奴婢ぬひあたえられた。おなじく80さい以上いじょうになった場合ばあいは、さむらいひのととしてかん奴婢ぬひあたえられた。

文禄・慶長ぶんろくけいちょうえきさいには、奴婢ぬひ反乱はんらんこして役所やくしょはな戸籍こせきやしてしまい、それによって賤民せんみんだっしたものがいた。また、戦費せんぴ獲得かくとくするために一定いっていがく支払しはらった奴婢ぬひ良民りょうみんになれるようにさだめられたため、以後いご身分みぶん制度せいど混乱こんらんして、ある地方ちほうでは人口じんこうの37%奴婢ぬひが2%まで減少げんしょうし、わりに9%にぎなかったりょうはんが70%をめるという状況じょうきょうきた。

また、奴婢ぬひとはべつに「白丁はくちょう」とばれる賤民せんみん存在そんざいした。奴婢ぬひ主人しゅじん所有しょゆうぶつであったのにたいし、かれらはだれかの所有しょゆうぶつではなかったが、職業しょくぎょう特定とくていのものに限定げんていされ、規則きそくをやぶれば厳罰げんばつけ、ときにはリンチ殺害さつがいされた。白丁はくちょう人間にんげんではないとされていたため、殺害さつがいはんばちけなかった。

1894ねんきのえうま改革かいかくいたって、奴婢ぬひ制度せいど白丁はくちょう制度せいど法的ほうてき廃止はいしされたが、奴婢ぬひ白丁はくちょうといった賤民せんみん階層かいそうへの差別さべつつづき、実質じっしつてき存続そんぞくしていた。かぶとうま改革かいかく推進すいしんした金玉きんぎょくひとしは、朝鮮ちょうせん社会しゃかい封建ほうけんてき身分みぶん制度せいどこそ不平等ふびょうどう根源こんげんであり、ひいては国家こっか腐敗ふはい衰退すいたい主因しゅいん主張しゅちょうしている[14]

朝鮮半島ちょうせんはんとう実質じっしつてき奴隷どれい制度せいど廃止はいしされたのは、にちかん併合へいごう前年ぜんねん1909ねんである。このとし韓国かんこく統監とうかん戸籍こせき制度せいど導入どうにゅうすることで、人間にんげんとはなされていなかったせいたない賤民せんみん階層かいそうにもせい許可きょかした[15]。これにより、かれらの子供こどもたちは学校がっこうかよえるようになり、身分みぶん解放かいほう反発はんぱつするりょうはんはげしい抗議こうぎデモをひろげたが、身分みぶんにかかわらず教育きょういく機会きかいあたえるべきとかんがえる日本にっぽん政府せいふによって即座そくざ鎮圧ちんあつされた[15]

だが、1980ねんソウル発行はっこうされたほんには、「奴婢ぬひ制度せいど支配しはい階級かいきゅうのひどい虐待ぎゃくたいのもとで、ごく最近さいきんまでつづいた。1920ねんだいにおいても朝鮮ちょうせん家庭かていではほとんど例外れいがいなく、聴直・ゆかやつうえただし住込すみこ女中じょちゅうなどという奴婢ぬひいていた。」としるされている[13]

戦後せんご北朝鮮きたちょうせんでは「政治せいじはん強制きょうせい収容しゅうようしょ」が出現しゅつげんし、実質じっしつてき奴隷どれい制度せいど再現さいげんされている。また、ハフィントンポストによると、多数たすうだつきた女性じょせい中国ちゅうごく農村のうそん風俗ふうぞくてん人身じんしん売買ばいばいされている[1]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ けんやすななのひとり。
  2. ^ わたし奴婢ぬひひとつ。てらふうとともにてら維持いじするための財産ざいさんとされた。
  3. ^ 子供こども父親ちちおやにせれるため、母親ははおや良民りょうみんなどの場合ばあい回避かいひされた。
  4. ^ 구사おか」は服従ふくじゅうは召史の意味いみ[よう出典しゅってん]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c コラム アンニョンハシムニカ! 北東ほくとうアジアの奴隷どれい奴婢ぬひ大宅おおたく京平きょうへい”. ハフポスト (2016ねん8がつ25にち). 2019ねん3がつ22にち閲覧えつらん
  2. ^ 瀧川たきかわ 1944, p. 38
  3. ^ 布施ふせ弥平やへい家人かじん奴婢ぬひ地位ちい」『日本にっぽん死刑しけい成光なるみつかん書店しょてん、1939ねんhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268337/45 
  4. ^ 小島こじま 1926, pp. 422–425
  5. ^ 神野かみの, pp. 118–126.
  6. ^ 瀧川たきかわ 1944, p. 39
  7. ^ 藤岡ふじおか謙二郎けんじろう矢守やもり一彦かずひこ足利あしかがけんあきら歴史れきし空間くうかん構造こうぞう 歴史れきし地理ちりがく序説じょせつ大明だいめいどう、1976ねん、63ぺーじ 
  8. ^ 朝鮮ちょうせん古書こしょ刊行かんこうかい 1909, p. 38
  9. ^ アーソン・グレブスト『悲劇ひげき朝鮮ちょうせんしろみかどしゃ1989ねん[ようページ番号ばんごう]
  10. ^ 九州大学きゅうしゅうだいがく 法文学部ほうぶんがくぶ (2006). おもえふち だい143~144ごう. p. 121 
  11. ^ “이영훈 서울대 교수 역사 강의 ‘환상의 나라’ 시리즈 인기몰이” (朝鮮ちょうせん). http://www.mediawatch.kr/mobile/article.html?no=250551 2018ねん8がつ20日はつか閲覧えつらん 
  12. ^ みんあいしたおう?「きよしくんむね裏返うらがえ”. 東亜日報とうあにっぽう (2018ねん3がつ24にち). 2019ねん1がつ8にち閲覧えつらん
  13. ^ a b はやし鍾国『ソウル城下じょうか漢江かんこうながれる』平凡社へいぼんしゃ1987ねん[ようページ番号ばんごう]
  14. ^ 文雄ふみおなおれない韓国かんこく光文社こうぶんしゃ1998ねん[ようページ番号ばんごう]
  15. ^ a b さかえかおる しる永島ながしま広紀ひろき わけ大韓民国だいかんみんこく物語ものがたり文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2009ねん2がつ、95-96ぺーじISBN 4163703101 

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

中国ちゅうごく
日本にっぽん
朝鮮ちょうせん